モリちゃんの酒中日記 1月その2

1月某日
厚労省1階のロビーで社保研ティラーレ社長の佐藤聖子さんと待ち合わせ。時間より10分ほど早く到着したらすでに佐藤社長は来ていた。早速、社会・援護局の山本麻里局長を訪問、4月の「地方から考える社会保障フォーラム」への参加をお願いする。演題は「コロナ禍の経験を踏まえた地位K時共生社会の実現」に決まった。

1月某日
珍しく雪が降り、今朝起きてみると雪が残っていた。雪を避けて歩いていたらぎっくり腰になってしまった。マッサージの先生に話すと「広い意味で雪害ですね」。今週は毎日、マッサージに通うことになった。

1月某日
「彼岸花が咲く島」(李琴峰 文藝春秋 2021年6月)を読む。今年の芥川賞受賞作だ。李は1989年台湾生まれ、2013年に来日というから24歳の頃。台湾にいるころから日本語を習得していたというが、それにしても日本語で小説を書いてしまうなんてすごいことだと思う。大海原にポツンと浮かぶ島が小説の舞台でタイトルともなった「彼岸花が咲く島」だ。島に流れ着いた少女と、その少女を助けた島の少女が主人公だ。「本作はフィクションで、作中に登場する島は架空の島です」と注意書きが付けられているが、沖縄列島の先の方、台湾に近い島であろう。この島では〈ニホン語〉と〈女語〉(ジョゴ)と二つの言語が話されているが〈ニホン語〉は島固有の方言であり〈女語〉は現代日本語に近い。二人の少女はノロ(巫女)を目指し、試験に合格してノロとなる。ノロの長老、大ノロから島の歴史が語られる。私はこの小説を読んで、日本という国の成り立ちについて考えることになった。単一の言語を話す単一民族の国と思われがちだが、北方には独自の文化と言葉を持つアイヌ民族がいるし、沖縄にも独特な方言と文化がある。万世一系の天皇の支配した大和朝廷だけが日本ではないのだ。

1月某日
BSプレミアムでアメリカ映画「悲しみは空の彼方に」を観る。アメリカでも日本でも1959年に公開されている。ストーリーは夫を早くに亡くしながらも舞台女優を目指すローラは、娘のスージーとニューヨーク郊外の海水浴場へ遊びに来ていたが娘とはぐれてしまう。娘は黒人女性アーニーの娘サラジェーンと遊びに興じていた。失業中のアーニー親子をローラは家に招く。アーニーは料理の腕を活かしてローラの家に住み込みで働くことになる。アーニー親子は母親は外見上も黒人だが、娘のサラジェーンは父親が白人だったことから見た目は白人と変わらない。ローラは舞台女優として成功し映画界にも進出し、富と名声を得る。これだったらハッピーエンドだが、この映画はここで暗転する。ローラ綾子もアーニーも人間は人種によって差別されてはならないという考えを持っているが、サラジェーンは白人として生きてゆこうとする。家出したサラジェーンは踊子として生きてゆく。人種差別を禁止した公民権法案は1964年である。この映画が法案の成立の後押しをした可能性がある。アーニーは死んで黒人霊歌が歌われ荘厳な葬儀が営まれる。葬列が進む中、喪服のサラジェーンが葬列に近付き母の棺に泣いて謝罪する。アメリカ開拓期の黒人奴隷の存在はアメリカの恥である。南北戦争後も続いた黒人差別も同様である。日本人も偉そうなことは言えない。今も続いている部落差別、明治以降の中国人や朝鮮人差別、沖縄やアイヌへの差別、これらに真剣に向き合うことなくして日本の民主主義はありえないと思う。

1月某日
「乃南アサ短編傑作篇 岬にて」(新潮文庫 平成28年3月)を読む。著者が新潮社から出版した短編集の中から「傑作」を集めたということらしい。読んだ記憶のあるものが何篇かあるのもそのためだろう。乃南アサって長編もうまいが短編も巧みですね。終り方も人情味あふれるものがあり、ホラー的な終わり方があり、破滅的な終わり方もある。作者の人物造形の巧みさによるところが大きいのだろうが、今回、気が付いたのは地方もの(高知、宇和島、知床)、伝統芸能もの(能面づくり、陶芸)などで、風景描写や伝統芸の周辺描写も巧みさに驚いた。取材も並大抵ではないと思う。