モリちゃんの酒中日記 4月その4

4月某日
「決定版 日中戦争」(新潮選書 波多野澄男 戸部良一 松元崇 庄司潤一郎 川島誠 2018年11月)を読む。ロシアのウクライナ侵攻が進む現在、戦前の日本帝国主義の満洲を含む中国大陸の侵略はどうだったか、興味を抱いたためである。ロシアがクリミア半島を自国領土としてウクライナから奪い、東部に親ロシアの共和国政権を樹立したまでは、日本の満洲国建国までと非常に似通っていると思う。満洲国建国以降、日本は中国大陸で蒋介石軍(中華民国軍)と紅軍(中国共産党軍)との戦闘を続けることになる。私の見るところ現在のウクライナ情勢は満洲国建国当時の状況に似通っていると思う。日本は国際的に孤立し、国際連盟を脱退する。ロシアも国際的な孤立を深めてはいるが、中国はロシアに手を差し伸べようとしているし、インドも米欧などの対ロシア制裁に同調しようとはしていない。冷戦構造が崩れてから初めての世界戦争の危機とも言える。バイデン大統領は早々と軍事力の行使はしないと表明している。プーチンの思う壺ではないかとも思えるのだが。

4月某日
第26回の「地方から考える社会保障フォーラム」。会場は従来と同じ日本生命丸の内ガーデンタワー。今回は山本麻里(厚労省社会・援護局長)さんの「コロナ禍の経験を踏まえた地域共生社会の実現、鳥井陽一(会計課長)さんの「22年度の厚労省予算」、川又竹男(大臣官房審議官)さんの「子ども家庭政策の現状と課題」。終ってから同じビルの2階のタイレストラン「メナムのほとり」で有志と会食する。

4月某日
社保研ティラーレで「社会保障フォーラム」の反省と次回の打ち合わせを佐藤社長、吉高会長と。社保研ティラーレは今週、引っ越しとのこと。神田駅で小学生以来の友人の佐藤正輝、山本良則プラス高校時代の友人、中田(旧姓)志賀子、大郷、小川と待ち合わせ。予約してあった「上海台所」へ向かう。正輝は札幌でITの会社を経営しており、元NECの大郷はその会社を手伝っている。今回は東京にも拠点を設けるために出張したとのこと。コロナ禍で東京出張は2年半ぶりだそうだ。北海道土産に「わかさいも」とチョコレートを頂く。

4月某日
「老人支配国家 日本の危機」(エマニュエル・トッド 文春新書 2021年11月)を読む。エマニュエル・トッドはフランスの歴史人口学者、家族・人類学者である。巻末の歴史家の磯田道史や本郷和人の対談によると日本の歴史人口学者の速水融(1929~2019)の影響を受けたという。独自の歴史観に立脚して注目すべき提案をしている。
・新型コロナの被害が大きかった先進国がすぐに取り組むべきは、将来の安全のために、産業基盤を再構築すべく国家主導で投資を行うこと
・日本にとっての少子化対策は安全保障政策以上の最優先課題
・米国は信頼できる安定勢力ではなくなりつつあり、日本も核保有を検討してもいいのではないか等々である。
ただ現在のウクライナ危機からすると首をかしげざるを得ない提言もある。曰くロシアの対外政策は拡張的ではなく理性的。軍事大国ロシアの存在は、世界の安定に寄与している…など。ロシアのプーチン大統領の言動はとても理性的とは思えないし、ロシアのウクライナ侵攻は世界の安定に脅威を与えていると言わざるを得ないからだ。

4月某日
「日本人の宿題-歴史探偵、平和を謳う」(半藤一利 保阪正康(解説) NHK出版新書 2022年1月)を読む。昨年1月に90歳で亡くなった半藤さんがNHKラジオの「ラジオ深夜便」と「マイあさラジオ」に出演した「語り」をもとに再構成したものに盟友だった保阪が解説を加えている。半藤さんがインタビューに答えて半生を振り返るという体裁なのだが、いやぁー迫力がありますね。戦争末期に母親の実家があった茨城県で米軍機の機銃掃射を受けたこと、母親と妹を茨城県に残して帰った向島で体験した1945年3月10日の東京大空襲、半藤さんの著作でも紹介されている話だが「語り」だけに著作とは違った迫力がある。米軍の空襲からロシア軍のウクライナ侵攻を連想してしまう。国際連盟の非難決議に対して国際連盟を脱退した日本に、安全保障理事会で拒否権を発動したロシアを重ね合わせてしまう。人類は歴史から学ぼうとしないのか、同じ過ちを繰り返しているのではないか。

モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
「1968【下】」を読み進む。第16章「連合赤軍」と第17章「リブと『私』」を4日かけて読む。1969年1月の東大安田講堂の攻防戦、同年4月28日の沖縄デーを経て革マル派を除く新左翼各派はヘルメットと投石、火炎瓶の武装では機動隊に勝てないと思い知る。ひとつの方向は非暴力のデモンストレーションと脱走米兵の援助という非合法活動を含む活動を持続させたべ平連の活動だろう。もうひとつが「銃による革命、武装蜂起」を主張した共産主義者同盟赤軍派と日本共産党革命左派(大衆組織は京浜安保共闘、中京安保共闘)であり、のちに両派が合同した連合赤軍である。連合赤軍は山岳アジトを追われた彼らの一部があさま山荘に立て籠り、数日間に及ぶ銃撃戦の後に全員逮捕される。連合赤軍の委員長だった森恒夫と副委員長だった永田洋子は逃亡の途中で逮捕される。のちに山岳アジトでの凄惨なリンチ殺人事件が明らかとなる。著者の小熊英二は「連合赤軍事件は、追い詰められた非合法集団のリーダーが下部メンバーに疑惑をかけて処分していたという点では、偶然ではなく普遍的な現象である。森も永田も、赤軍派や革命左派に加入する以前は「人格者」「いい人」という定評があった。(中略)人間として致命的な欠陥があったわけではない。あのような状況と立場に置かれれば、その人間の持っている特徴が醜悪な形態で露呈してしまうということだったと思われる」とまとめる。「それはそうなんだけれど…」というのが私の感想。
第17章の「リブと『私』」は前章の「連合赤軍」を読み終わった後だけに面白かった。だいたい私はリブにはほとんど関心がなく、日本のリブの代表的な活動家である田中美津も名前を知っているぐらいで著作も読んだことはない。1943年生まれの生まれの田中は、高卒後OLとなるも上司との不倫が原因で職場を辞める。在日ベトナム青年に出会ったことからベトナム戦災孤児救援活動を始め、そこからベトナム反戦運動に転じ「反戦あかんべ」という市民グループを結成する。同時に家が本郷通りにあったので、東大闘争に関心を抱き神田カルチェラタン闘争にも参加する。反戦運動の活動家と言えないこともないが、一方で彼女は「自分の心にあいた穴しか見えなくて、どうしてもその穴を埋めたかった」と当時を回想する。空虚感を埋めるために闘争に参加したという点では全共闘メンバーが抱えていた「現代的不幸」を彼女も抱えていた。リブを始めた当初の彼女をそれまでの婦人運動と分かつものはそのカッコ良さであろう。田中たちの女性解放運動は「カッコイイことを主張していた」。集会に黒づくめの恰好や高いハイヒールであらわれたり、白いミニスカートでビラ配りする様は確かに目立ったであろう。田中はその後、武装闘争論を展開したりするが、メキシコへ移住、帰国後は鍼灸師の資格を取得している。「1968」はここまで読んだところで共感できるのは田中美津の思想、べ平連と全共闘の組織論である。

4月某日
「1968【下】」の「結論」まで読み進む。結局、あの時代は何だったのか?ということだ。ひとつは当時が高度経済成長の真っただ中だったということ。本文中にもある反戦青年委員会のメンバーの、逮捕されて解雇されても職はいくらでもあるという発言が紹介されていたが、不況期や恐慌期に運動が盛り上がるのではなく、好況期だからこそ盛り上がったのである。さらに当時の学生運動なかんずく全共闘運動には「解放」のイメージが強くあった。バリケード封鎖は、右翼・秩序派、国家権力からのストライキ派の防衛という側面があったにしろ、全共闘派にとっては「解放区」のイメージが強かった。そして日頃、権威を振りかざしていた教授陣に対する大衆団交による追及。民衆蜂起で相手への辱めの行為を「シャリバリ」と呼ぶそうだが、大衆団交で教授に対して「テメー、それでも教師か!」といった罵詈雑言が発せられたのもそういうことであった。団塊の世代が大学生になったとき、大学進学率もアップした。母数が増えたうえに率も増大した。大学側はマスプロ教育で対応せざるを得ないが、学生側には旧来の真理の探究と言った旧来の大学イメージが残っていたから不満は高まらざるを得なかった。
そうした学生側の不満を底流に各党派や無党派の全共闘はストライキを提起し、多数の学生の支持を受け学園を封鎖する。「一種の祝祭状態ともいえる蜂起の興奮状態は長く続かない」と小熊は書く。小熊によると祝祭的な盛りあがりは「数週間から一ヵ月ていど」だったとされる。私の不確かな記憶によっても早稲田の場合は、69年の4月17日に革マルの戒厳令を突破して本部を封鎖し、その後5月の学生大会で各学部がストライキに入る。6月には学生大会でスト解除が議決され、バリケードを撤去した記憶がある。その後、学生大会で再度ストライキが決議され再封鎖となった。そのまま夏休みに入り9月3日に機動隊が導入され封鎖は解除される。私たちの親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などのわかりやすい「近代的不幸」に対して私たち団塊の世代は、言語化しにくい「『現代的不幸』に集団的に直面した初の世代であった」と小熊は分析するが、おおむね納得である。当時の学生叛乱に対して「甘ったれたラジカリズム」という批判があったことは知っている。というか、新聞、テレビの論調はおおむねそうだった。今となってはそうした批判も甘受せざるを得ないと私は考える。小熊は内田元亨の1968年の論文から当時の日本の資本主義は「軍隊の組織」にも似た「ピラミッド構造」となっており、これは若者たちが嫌った「管理社会」にも重なるが、同時に共産党やセクトなどの組織形態とも類似しているという。内田は「ピラミッド構造」に対して各ユニットが独立しつ関係しあう「マトリックス構造」を提示している。私はそこにべ平連や全共闘運動の可能性を見るし、さらに言えば無政府主義の可能性も見たいと思っている。

4月某日
久しぶりに東京神田の社保研ティラーレを訪問。吉高会長と佐藤社長と懇談。その後、神田界隈を散策、16時に15時から店を開けている神田駅前の「魚魚や」(ととや)へ。この店は元年住協の林さんと何度か来たことがある。最初は会社をリタイヤしたとみられるジーサンたちのグループが多かったが、17時を過ぎた頃から現役と見られる青年、中年グループに置き換わり始めた。女性もチラホラ。私が会社員生活を始めた50年前には、そもそも女性が会社に少なかったし、忘年会や新年会以外で女性を交えて呑むこともなかった。「呑む」ということに限れば男女平等に近づいているのかも。

モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
「ミス・サンシャイン」(吉田修一 文藝春秋 2022年1月)を読む。大学院生の岡田一心は指導教官に往年の大スター、和楽京子の家の整理をアルバイトでやってみないかと言われる。和楽京子の豪華なマンションを訪ねると、80代の女性とは思えないほど艶めかしい女性があらわれる。和楽京子、本名は石田鈴の登場である。一心と鈴さんはなぜか気が合い、心を通わせるようになる。二人とも生まれが長崎だった。鈴さんは被爆者であり親友の林佳乃子を白血病で亡くしていることが明らかとなる。物語の横糸が鈴さんと佳乃子の友情物語、というか幼馴染がともに原爆の爆風で投げ飛ばされ、一人は映画スターの道を歩み、一人は故郷の長崎で闘病生活を送る、それでも二人の友情はゆるぎない。縦糸は和楽京子の肉体派としてのスタートからハリウッド進出、文芸映画での成功、テレビや舞台での活躍といった女優としての成功譚である。肉体派としての彼女の成功は「洲崎の闘牛」に主演してからである。戦後の赤線・青線でたくましく生きる女を描いた映画というから、これは「肉体の門」をモデルにしているのではないか。鈴さんは次に巨匠、千家監督の声掛けで「竹取物語」の主演に抜擢される。これは黒澤明監督、京マチ子主演の「羅生門」であろう。というようなことを考えながらこの小説を読むのも一興である。そして鈴さんが幼馴染の佳乃子と死別したように一心も小学校5年生のときに9歳の妹を病気で失っている。少年期、青年期の親しいものとの別離も隠れたテーマであろう。なおタイトルの「ミス・サンシャイン」はハリウッドに進出した和楽京子につけられたアメリカでのニックネームである。

4月某日
大学の同級生だった清夫妻(眞人君と百合子さん)が上京してくるというので西新橋の弁護士ビルにある雨宮弁護士の事務所へ。同じ同級生の岡超一君はすでに来ていて日本酒を呑んでいる。私も日本酒をいただく。18時に清夫妻も来たので弁護士ビルにある日本料理店に向かう。清君はノンアルコールビールを呑んでいたようだ。私と雨宮先生、岡君はもっぱら日本酒。岡君は早めに帰る。私は日本酒をしっかり呑んで千代田線の霞ヶ関駅から帰る。清夫妻は上野のホテルに宿泊ということで銀座線の虎ノ門駅に向かった。皆、雨宮先生の指示に従う。

4月某日
「日独伊三国同盟-『根拠なき確信』と『無責任』の果てに」(大木毅 角川新書 2021年 11月)を読む。独伊とくにドイツと同盟を結ぶことは当時の日本の陸軍指導部では強い願いであった。しかしこの願望にさしたる根拠はなかった。当時の流行語「バスに乗り遅れるな」に表されるようにドイツ軍の西部戦線と東部戦線の破竹の進撃に陸軍指導部と、日本外交を仕切っていた松岡外相が乗せられたのである。私はこの本を読んで安倍晋三元首相の対ロシア外交を思い出した。プーチン大統領と何度も会談し北方領土返還に糸口を付けたかのように安倍首相は語っていたが、北方領土は帰ってくる兆しも見えない。むしろロシアのウクライナ侵攻により北方領土の返還は絶望的になったのではないか?「根拠なき確信」と「無責任」は21世紀の今も日本の政治を覆っているのだ。

4月某日
「五つ数えれば三日月が」(李琴峰 文藝春秋 2019年)を読む。李琴峰は1989年台湾生まれの台湾育ち。国立台湾大学卒業後、2013年に早稲田大学大学院修士課程入学。本名は非公開でレズビアンである。「彼岸花が咲く花」と「ポラリスが降り注ぐ夜」を読んだが、「彼岸花」は沖縄と台湾の間にある離島を舞台にした作品で「ポラリス」は確か新宿2丁目のレズビアンバー「ポラリス」が舞台。「彼岸花」を読んだときはずいぶんと土俗的な作家だなと思ったものだが、「ポラリス」は一転して都会的な印象だった。私はこの小説を読むまでポラリスが北極星の意味であることを知らず、もっぱらアメリカが開発したミサイルとしか認識していなかった。で「ポラリスが降り注ぐ夜」も第三次世界大戦でミサイルが東京に降り注ぐ話かと思ってしまった。恥ずかしい。「五つ数えれば三日月が」は日本で働く台湾人女性と台湾人と結婚した日本人女性の物語である。二人で食べに行く池袋の台湾料理屋のシーンが楽しいし、台湾人女性が作る漢詩も二つほど紹介されている。江戸時代おそらくは明治時代までは漢詩や論語などの漢文は、日本人にとっての基礎的な教養だった。現代では詩吟を唱える人は少数いるにしても漢詩を作る人はほとんどいないのでは。李琴峰が卒業した台湾大学は日本でいえば東大。日本語で小説を書くほどだから日本語はペラペラ、おそらく英語も堪能であろう。さらに漢詩まで。李琴峰恐るべし。

4月某日
小熊英二の「1968【下】-反乱の終焉とその遺産」(新曜社 2009年7月)を読み進む。本文に注、索引、年表を入れると1000ページを超す大著である。当時のビラや新聞記事、雑誌の記事や論文、さらには個人の回想記を丹念に調べた労作である。この本の執筆時でも半世紀前のことを主として文献だけに頼って再現する―こういうことを思いつき実行した小熊英二を誉めたいね。1968年は早稲田大学に入学した年で、私が学生運動を始めた年でもあるから、私は当事者の一人でもある。表紙はヘルメット姿の学生が両手をヘルメットの上に乗せて機動隊に投降している写真である。学生はややうつむきながらも毅然としている(ように私には見える)。おそらく東大の安田講堂が機動隊の手によって封鎖解除されたときの写真であろう。60年年の安保闘争で盛り上がった学生運動はその後沈静化、65年、66年の日韓、早大闘争で一時的な盛り上がりを見せるが、一気に火が付いたのはベトナム反戦運動からで、具体的には67年の10月8日の三派全学連による第一次羽田闘争からである。【上】では時代的背景や個別の大学闘争、東大、日大闘争が描かれているが【下】では高校闘争や新宿事件、新左翼の「戦後民主主義批判」そしてべ平連、連合赤軍が描かれる。私は各章とも面白かったのだが、ここでは第15章「べ平連」を取り上げる。私は浪人中だった67年の10.8に衝撃を受けて「大学に行ったら学生運動をやろう!」と秘かに決意していた。しかし最初から過激な三派のデモに行く自信がなく、当時、清水谷公園が集合場所だったべ平連のデモに行くことにした。月一回のデモの四月と五月に参加した記憶がある。六月からは政経学部の自治会が属していた社青同解放派のデモに参加することになる。
小熊の見解では1968年の後半から東大、日大闘争にも翳りが見え始めセクトの動員数も頭打ちになっていたという。69年の佐藤訪米阻止闘争で反乱側は機動隊の「軍事力」に完敗する。ここで学生側には二つの選択肢があったと思う。一つは火炎瓶とゲバ棒だった反乱側の武力を銃と爆弾までに飛躍的に高め、学生部隊も「軍団化」するという方向である。これは後に連合赤軍となる赤軍派と京浜安保共闘の路線でもあるが、当時の革マル派を除く新左翼は多かれ少なかれ軍事化の方向を向いていたと思う。革マル派も対権力ではなく内ゲバ向けに武装を強化し軍団化していたのではないか。もう一つは非暴力で多くの大衆の支持を得てゆく方向である。これはべ平連の方向でもあった。ベトナム戦争の激化に対応して米軍の戦闘機の訓練中の事故やジェット燃料運搬中の事故が派生し、ベトナム反戦運動は社共や総評を中心に一定程度の盛り上がりを見せた。これに対し小田実や後にべ平連事務局長となる吉川勇一は、日本人は米軍の被害者だけでなくベトナム人民に対しては加害者となっているのではないか、という議論を展開し、これがのちのべ平連に繋がってゆく。べ平連は普通の市民のパートタイムの運動であり、メンバーシップをもたない、だれでも入れる組織であった。これは軍団化したセクトの職業革命家、職業軍人として24時間、活動を強いられる組織とは真逆の組織である。70年代の新左翼にこうした方向はなかったのであろうか? ないのだろうなやはり。

モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
「1968【上】-若者たちの叛乱とその背景」(小熊英二 新曜社 2009年7月)を読んでいる。注を含めると1000ページを超えるし定価6800円+税と極めて高価。もちろん我孫子市民図書館から借りてます。1968年は私が早稲田大学に入学した年で、前年の1967年10月8日に佐藤首相の南ベトナム訪問に反対して三派全学連が羽田空港周辺で激しいデモを行い、学生がひとり死亡した。私は当時、浪人生で予備校に通っていたが秘かに大学に受かったら学生運動をやることを決意したものだ。親は国公立大学に行くことを望んだのだが、私は受験に合格した早稲田の政経学部に入学することを希望し、結果的に私の我儘が通った。「1968【上】」では時代的・世代的背景と当時、闘争をけん引した反代々木系各セクトの歴史的経緯と活動家の心理、闘争スタイルに触れた後、個別の学園闘争について叙述している。
【上】を読み終えるだけで一週間はかかりそうなので、中間報告として第4章「セクト(下)-活動家の心情と各派の『スタイル』」と第8章「「激動の七ヵ月」-羽田・佐世保・三里塚・王子」に触れてみよう。第4章で冒頭に出てくるのが「ベストセラーになった活動家の手記」で、これは横浜市立大学の学生で中核派に属していた奥浩平の手記「青春の墓標」のことである。奥は学生運動に行き詰まると共に早稲田大学で革マル派に傾斜して行く恋人との別離を悲観して自殺する。私は早稲田に入学して入ったサークルの先輩の家で読んだ。先輩は商学部の四年で革マルシンパ、卒業して製薬メーカーに入った。私は入学した当時、日本共産党系以外ならどこのセクトでもいいと思っていた。政経学部学友会は社青同解放派が握っていて、私は学友会の幹部と政経学部の革マル派の両方からオルグを受けていた。何となく解放派の青ヘルメットを被ってデモに行くこととなり、68年の暮れには革マル派から早稲田を追い出されることになる。とは言えそれまではキャンパスは比較的平穏で、私のサークルの部室でも革マル派と解放派、社学同が平和に共存していた。
67年10月8日の佐藤南ベトナム訪問反対デモにも11月12日の佐藤訪米反対でも参加していないし、佐世保のエンタープライズ寄港反対でも行っていない。真面目な予備校生だったからね、当たり前と言えば当たり前。だが4月の王子野戦病院反対には参加した。まだ入学前だったと思う。だから野次馬としての参加。本書でも王子における戦闘的な野次馬について述べられているが、私はまだ初心者、遠くから眺めるしかなかった。だが、このときの機動隊から逃げる経験はその後の学生運動でプラスになったようである。機動隊との戦いにも二種類ある。野戦と攻城戦である。野戦はデモンストレーションで多くは街路で闘われる。攻城戦は安田講堂や学生会館に立て籠って戦うものだ。関ヶ原の合戦が野戦で大坂冬の陣が攻城戦である。攻城戦の場合は逃げようがないが、野戦の場合はなるべく先頭近くにいることが肝心である。戦局が見渡せいち早く逃げることができるからである。だがこれも69年後半くらいから通用しなくなる。運動が過激となりデモの武装も鉄パイプとときには火炎瓶にエスカレートして行くからである。

4月某日
厚生労働省のキャリア官僚だった間杉純さんの告別式が「おおのやホール小平」で行われた。間杉さんが亡くなったことは阿曽沼さんからの電話で知ったが、葬儀の日程は樽見さんからメールで教えてもらった。大谷さんと小平駅で合流、会場へ向かう。焼香の前に娘さんからお礼の言葉があった。娘さんは立命館大学の学生劇団のあとプロの劇団新感線で事務方を担当していた。劇団新感線の東京公演のときは当時、吉武さんが館長をしていた表参道の「こどもの城」で上演、私も観に行った。間杉さんは豪放磊落に見える半面、非常に繊細なところのある人だった。そんな間杉さんの一面を的確に表していた娘さんの挨拶だった。帰りは大谷さんと小平から池袋に出て日暮里へ出る。日暮里で大谷さんの知っている台湾料理屋に行く。大変おいしかった。

4月某日
「1968【上】」を読み進む。後半の第9章「日大闘争」と第10章「東大闘争(上)」と第11章「東大闘争(下)」である。日大闘争は1968年5月に東京国税局により多額の使途不明金があることが公表されたことに始まる。神田三崎町の経済学部から始まった不正経理糾弾の闘いはそれこそ燎原の火のように全学に広がった。ただこの頃は学生運動の各セクトは日大闘争にそれほど関心を抱いていなかった。私および早稲田の社青同解放派(反帝学評)も日大へ支援に赴くこともなかったと思う。しかし今にして思うと日大の古田総長はロシアのプーチンだね。さしずめ日大全共闘はウクライナで秋田明大全共闘議長はゼレンスキー大統領だ。東大闘争は日大と同じ頃、68年5月の医学部の不当処分撤回闘争に始まる。ただ日大と同じく東大闘争も学内闘争の域を出るものではなかった。日大全共闘は全学部封鎖の方針で機動隊と果敢に戦ったが、それでも各セクトの支援の動きは鈍かった。日大では当局の弾圧体制もあって、学生運動がほとんどなくセクトの活動家もほとんどいなかったためであろう。私の記憶では日大全共闘の存在を強く感じたのは68年11月22日、東大闘争安田講堂前で開催された「東大日大闘争勝利全国学生総決起集会」のときである。日大全共闘は機動隊の規制にあって到着が遅れていたが、各セクトの歓声と拍手のなか、会場に到着する。前日から東大に泊まり込んでいた学生部隊も多く、私も早稲田の反帝学評の部隊として泊まり込んだ。11月末だからね、とても寒かった。新聞紙をかぶって寝た記憶がある。泊まり込んだ教室では解放派の創始者だった滝口弘人が「スペイン革命以来のスターリニストとの抗争に決着をつける」という演説を記憶している。
そうなんです。東大闘争が学内闘争に止まらなくなったのは全共闘と日共民青の対立が互いに外人部隊を導入したことからである。反帝学評とくに早稲田の反帝学評の場合は革マルとの抗争を抱えていたから、この時期大変だったろうと思う。私は一年生だったからその深刻さはわからなかったけれど。この後、解放派と革マル派の内ゲバが激しくなる。12月に入って私ともう一人の一年生が早稲田の三号館地下の学友会室にいると突然、革マル派が乱入、当時の指導者だった浜口さんを殴り始めた。浜口さんが激しくなぐられ、メガネが飛んだことを覚えている。私たち一年生は「チンピラは出ていけ」と言われ、理工学部の反帝学評の拠点まで逃げた。理工の反帝学評とタクシーに分乗して東大の駒場へ。駒場の教育会館に立て籠る。東大駒場寮の革マルの拠点を襲うが返り討ちに会う。私は2,3日教育会館にいたのだが、内ゲバの緊張感に耐えられず「服を着替えてくる」と言ってアパートへ帰る。この冬は帰郷したんだろうか?まったく記憶にない。冬休みに下宿でぼんやりと内ゲバから逃げ出したという罪悪感に浸っていた。同じクラスの小林君が「森田、東大を見に行こう」と誘ってくれた。東大の本郷に機動隊の導入が迫っていたのだ。私も小林君もジーパンにジャンパーという恰好、年齢も私が二十歳で小林君が十八歳。怪しまれることもなく安田講堂の中にも入ったと思う。私は一浪だが小林君は現役、しかも1950年の3月生まれだから私よりも一年半も若い。でも早熟で当時はジャンジュネやロートレアモンを読んでいた。小林君はセクトとは距離を置いていたが、後にブントの戦旗派(荒派)に行くことになる。荒派が消えてしまって彼の消息も行方不明だ。

モリちゃんの酒中日記 3月その4

3月某日
バイデン米大統領が訪問先のポーランドでロシアのプーチン大統領について「この男が権力にとどまってはいけない」と演説したことが報じられている。私はこの演説を支持する。しかし1960年代に米国はケネディ、ジョンソン、ニクソン大統領のもと、南ベトナムを侵略し北ベトナムへの空爆を行った。このとき北ベトナムを支持したのは旧ソ連、今のロシアと中国だった。1930年代に日本は中国大陸への侵略を開始した。このとき中国国民党軍や共産党軍を支援したのは米英と旧ソ連だった。アメリカはベトナム戦争当時、南ベトナム政府を民主主義陣営として位置づけ、東南アジア全体の共産化を防ぐために南ベトナム政府を支援した。米国および米国民はこのことを忘れてはならない。どうように日本および日本国民は中国大陸への侵略や朝鮮半島支配の現実を忘れてはならないと思う。

3月某日
「戦争は女の顔をしていない」(岩波現代文庫 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 三浦みどり訳 2016年2月)を読む。巻末の澤地久枝による解説によると、作者は1948年生まれで私と同年である。母の故郷ウクライナで生まれ、育ったのは父の故郷ベラルーシ。本書は第二次世界大戦中に対ドイツ戦に従軍した女性兵士たちへの聞き書きである。男女平等の観点からだと思うが、アメリカでも日本でも女性の兵士や士官が誕生してきている。しかし第二次世界大戦で女性兵士が活躍したのはソ連くらいだろう。社会主義体制のソ連には男女平等の観点ももちろんあったと思うが、最大の要因はソ連の兵力不足だったろう。緒戦においてソ連はドイツ軍の奇襲を許し敗走を余儀なくされた。兵士や兵器の損耗率も高く軍医や看護兵だけでなく女性の戦闘員も必要だったのである。と同時に本書を読んでわかったのは志願した女性たちの祖国防衛意識の高さである。作者はこうした意識の高さを描くだけでなく戦争の残酷さ、理不尽さも女性兵士たちに語らせる。復員した多くの女性兵士たちは戦争中の自分について語ろうとしない。彼女たちは世間からむしろ白眼視されたという。作者は2015年にノーベル文学賞を授与されているが、作者を日本に紹介した訳者の三浦は2012年にガンで死去している。このエピソードも壮絶である。

3月某日
「思いがけずに利他」(中島岳志 ミシマ社 2021年10月)を読む。中島岳志には私には保守的な思想家のイメージがあった。本書でも西部邁に大きな影響を受けたことを明らかにして「二十歳以降の私は、保守思想家の西部邁先生に多大な影響を受けました。三十代以降は直接、お話をお伺いする機会ができ、多くのことを学びました」と書いている。文体からも西部のことを敬愛していることがうかがえる。今、なぜ利他なのか? 「はじめに」で中島は「自己責任論が蔓延し、人間を生産性によって価値づける社会を打破する契機が、『利他』には含まれていることも確かです。コロナ危機の中で私たちの間に湧き起こった『利他』の中にも、新しい予兆があるのではないでしょうか」と述べている。本書で中島は落語の「文七元結」を手掛かりに利他の問題を解明しよう試みる。「文七元結」は明治中期に三遊亭圓朝が創作したもので、腕のいい左官職人の長兵衛が娘を吉原から身請けしようと用意した五十両を、店の金五十両を紛失したために身投げしようとしていた番頭、文七に差し出すという話だ。まさに利他である。三遊亭志ん朝は文七への共感から長兵衛が五十両を差し出すという解釈、立川談志の解釈は長兵衛の「江戸っ子気質」というものだ。中島は談志の解釈に共感を示すのだが…。中島の語り口は易しいが、相当高度なことを言ってるね。