モリちゃんの酒中日記 11月その4

11月某日
「親鸞-主上臣下、法に背く」(末木文美士 ミネルバ書房 2016年3月)を読む。サブタイトルの「主上臣下、法に背く」は、親鸞が主著の「教行信証」で仏法に背いて念仏教団(後の浄土真宗)を弾圧した朝廷を厳しく糾弾した文章の一部である。著者の末木文美士(すえき・ふみひこ)は1949年山梨県生まれ、1978年東大大学院博士課程単位取得退学。現在、東大名誉教授。親鸞はいうまでもなく浄土真宗の開祖である。私の世代では吉本隆明が「最後の親鸞」などでその思想を高く評価したことで知られる。私は「最後の親鸞」も数十年前に読んだ覚えはあるが中身はよく覚えていない。しかし親鸞の言葉を弟子の唯円が残したとされる歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おいておや」という親鸞の言葉は覚えている。親鸞は私にとって「気にかかる人」であったことは確かだ。仏教についての基礎知識が乏しい当方にとって本書を読み進むことはかなりしんどいことではあった。だが著者の示す親鸞像の一端は理解できたかもしれない。著者は終章で、従来の親鸞像は、「中世という暗黒時代に、突如宇宙人が舞い降りるように出現した宇宙人」のように描かれてきたが、そうではなく、「中世という時代の中で、その時代を最も真摯に生き抜いた思想家として親鸞を読み直そう」と書いている。
著者は親鸞についての史料をA親鸞自身が書き残したものB弟子等による伝聞を残したものC親鸞死後の伝聞や伝説に分類している。Aは教行信証をはじめとした親鸞の著作でありBの代表的なものが歎異抄である。著者は近代以降、歎異抄がきわめて重視され教行信証以上に評価されてきたことは「きわめておかしなことであり、今日、根本的に改められなければならない」としている。著者の立場としては歎異抄の価値を否定することではなく、記録した唯円の主体的な立場という観点から読み取り、評価すべきと主張する。唯円の主体的立場とは「親鸞の教えを東国において真摯に受け止めた」唯円の立場ということである。中世の東国は中心地の京都からすれば辺境であったろう。親鸞は越後での流人生活のあと京都には帰らず東国へ向かう。東国での拠点は常陸国笠間郡稲田郷の稲田草庵であった。越後から笠間まで当然、徒歩による移動である。親鸞は90歳まで生きたとされる。当時としては相当な長寿である。本書で私が学んだことの一つは史料批判の大切さである。それと伝記の類は情緒的に読まないほうがよろしいのでは、ということである。

11月某日
テレビでクリントイーストウッドが監督と主演した映画「グラントリノ」を見る。フォードの工場を定年で退職し妻にも先立たれた孤独な老人ウォルトをクリントイーストウッドが好演。自分の住む町に引っ越してきたモン族の少年タオとの交流が始まる。モン族はベトナムやラオスに分布する山岳民族だが、ベトナム戦争で米軍に協力したことから共産政権の成立に伴いアメリカに亡命したらしい。タオを付き合っていたモン族の不良グループと訣別、ウォルトの紹介で手に職をつけ始める。ウォルトは肺がんで余命が幾ばくも無いことを知る。不良グループは報復にタオの姉を強姦する。不良グループに面談するウォルト、ピストルをちらつかせる不良グループ。ポケットに手を入れたウォルトは短銃を取り出そうとしたと誤解した不良グループに射殺され、不良グループは収監される。もちろんすべてはウォルトが仕組んだことで葬儀のときに自宅は教会へ、愛車のグラントリノはタオに遺贈されると発表される。クリントイーストウッドは1930年5月生まれ。高倉健は1931年2月生まれ、同じ学年である。クリントイーストウッドは西部劇から高倉健は仁侠映画からスタートして演技派俳優に変身した。どちらも好きなんだよね、私。

11月某日
「韓国併合-大韓帝国の成立から崩壊まで」(森万佑子 中公新書 2022年8月)を読む。私は韓国の歴史についてはほとんど無知であったことをこの本を読んで知らされた。朝鮮半島には古くから朝鮮民族による国家が成立していた。日本列島に国家が成立した以前から朝鮮半島には国家が成立していたと考えられる。その差は中国に対する距離的な遠近が影響したと思われる。朝鮮半島に成立した国は中国と朝貢関係を結んだが、日本列島に成立した国は相対的に独立していた。もっとも福岡県で出土した金印に「漢委奴国王」と記されていたように中国に冊封されたケースもあるし、豊臣秀吉のように朝鮮半島、中国大陸への侵略を企てた者もいる。大韓帝国の源は1392年に建国された朝鮮王朝で中国大陸は女真族の清王朝が支配していた。朝鮮王朝は清から冊封を受けたが、清に倒された明王朝に親近感を持っていたとされる。明王朝は漢民族であり朝鮮は明から儒教、科挙、衣冠制度などを受け継ぐ。中華文明は清ではなく朝鮮が受け継いでいるというプライドがあった。明治維新以降朝鮮半島はロシアと日本、清からの干渉にさらされる。日清戦争を経て朝鮮は清からの支配を脱し、清との冊封関係を絶って大韓帝国が成立する。しかし日本からの間接的な侵略、直接的な干渉は続く。大韓帝国は日本の保護国となり、1910年に併合される。日本にとって朝鮮は江戸時代まで文化の先進地域であった。仏教も文字も朝鮮半島を経由して日本にもたらされた。明治維新までは日本人は朝鮮とその背後の中国王朝には尊敬の念を抱いていた。明治以降、欧米列強と同じように帝国主義的な進出を意図し、ついには植民地支配や侵略に繋がっていくわけである。

11月某日
学生時代、同じサークル(早大ロシア語研究会)だった長田君と同じく学生時代、同じ寮(江古田の国際学寮)だった友野君と千代田線乃木坂駅の青山霊園側改札で待ち合わせ。亡くなった尾崎(森)絹江さんの娘さんが夫とやっているフランス料理に行く。政策研究大学院大学の脇を通ってお寺もある静かな通りにその店はあった。店には私たちしかいなく結局、13時から16時過ぎまで店にお邪魔していたことになる。尾崎さんの夫でやはりロシア語研究会にいた森君とも電話で話すことができた。乃木坂で長田君と友野君と別れ、私は国会議事堂前で南北線に乗り換え市ヶ谷へ。市ヶ谷ルーテルホールへ。荻島良太さんのサキソフォンリサイタルに行く。川邉さん、吉武さん、大谷さんと一緒。荻島さんのリサイタルは久しぶり。素人の私が言うのもなんですが、難曲と思われる現代音楽風の曲を体も使いながらこなしていた。コロナ禍ということもあって客の入りはいまいちだったが、生意気を言わせてもらえば若い人の成長する姿を見るのはいいものだ。

11月某日
「悪と往生-親鸞を裏切る『歎異抄』」(山折哲雄 中公文庫 2017年1月)を読む。末木文美士の「親鸞」に続いての親鸞本である。末木は唯円が親鸞からの聞き書きを記録した歎異抄を主著の教行信証以上に評価されているのは如何なものかという立場であったが、本書はもっぱら歎異抄から親鸞と聞き手の唯円の思想を探ろうというものだ。山折は唯円に対して聞き手としてだけではなく、歎異抄の編集者としての立場を認めている。親鸞の思想をどのようにインタビュー記事としての歎異抄のなかで表現していくか、そこに編集者としての唯円の立場がある。山折はそうした唯円の立場を「唯円の二重性」と表現する。「師の言葉をひとしずくももらすまいと耳を澄ましている唯円」と「親鸞の言葉を背にして『異端』の道にふみ迷う弟子たちに立ち向かっていく、戦闘的な唯円」である。前者がインタビュアー、後者が編集者としての唯円である。本書には巻末に「『歎異抄』の参考テキスト」が収録されている。初めて通読したが、十分に理解したとは言い難し!

モリちゃんの酒中日記 11月その3

11月某日
「日本仏教の社会倫理-正法を生きる」(島薗進 岩波現代文庫 2022年9月)を読む。私の宗教への関心は、ひとつはオウム真理教や旧統一教会などのいわゆるカルト集団への関心につながる。もうひとつは吉本隆明が親鸞を思想者として高く評価していることだ。私どもの世代にとって吉本の存在は別格で、吉本に心酔する若者たちを評して「吉本教」信者と揶揄されたりしたものだ。それはともかくヨーロッパにおけるキリスト教、中東からアジアに及ぶイスラム教、東南アジアから中国大陸、日本列島に及ぶ仏教-これらは世界の三大宗教と呼ばれる-の存在は、人間の存在や人間社会の存在について、それぞれ根源的な思惟を迫った(らしい)。本書のタイトルは「日本仏教の…」となっているが、著述は当然のように原始仏教から始まる。第1章は「在家と出家」で、乞食という生き方が仏教僧団の在り方を絶対的に決定するという。在家と出家の関係は私には前衛党員(職業革命家)とシンパの関係を連想させる。出家は生産活動に従事しない。職業革命家も革命が仕事なので労働はしない。出家は乞食によって生き、職業革命家はカンパによって生きる。オウム真理教も信者の寄進によって教団は運営され、旧統一教会も基本は同じであろう。
本書のサブタイトルは「正法を生きる」となっているが、島薗は日本仏教における正法の概念を重視する。正法は末法思想の末法に対立するもので正しい思想、考え方で政治や社会が運営される世の中とでもいえばいいであろうか。昭和戦前期において北一輝や青年将校に影響を与えたのが日蓮宗であり、その影響は宮沢賢治や満州事変を企てた石原莞爾にも及んでいる。彼らの「革命思想」を支えたのは末法=正法思想だったのかもしれない。社会倫理という観点から宗教を見直すといろいろなことが見えてくる。宮沢賢治の童話も社会倫理の観点から読み直しても面白そうだ。島薗は戦前の日蓮主義が昭和維新と呼ばれる革命的な政治運動に寄与する一方で、文化的な側面として宮沢賢治の物語作品をあげている。「賢治は仏教本来の教えを、現代人の生き方、感じ方に即して分かりやすく伝えるものとして童話を構想した」のだとしている。終章の「東日本大震災と仏教の力」で島薗は「正法を広めることの中には、困っている人に寄り添い、癒しの場を提供することが含まれている」としている。被災地支援に「正法を具現する人々」を見たのであろう。

11月某日
マッサージのあと我孫子の農産物直売所「アビコン」によってレタスとたまねぎスープを購入。図書館で借りていた「神聖天皇のゆくえ―近代日本社会の基軸」(島薗進 筑摩書房 2019年4月)を読み進む。明治以降の日本の政治体制は天皇制のもとにあったのは確かだろう。そのなかで天皇制の廃止も視野に入れた無政府主義者や共産主義者の運動があり、それにたいする苛烈な弾圧もあったし、自由民権運動や大正デモクラシー、民本主義など、民主主義的な動きもあった。戦前をすべて民主主義が圧殺された暗黒時代だったとみるのもまた一面的なのであろう。中島京子の小説で映画化された「小さいお家」を読んでもそのことはうかがい知れる。日本人は天皇制をどのように受容してきたかという観点から本書を読むと面白い。古代、天皇親政が行われていたのはほぼ間違いないところであろう。もっともその頃は天皇という呼称はまだなく大王(おおきみ)と呼ばれていたらしい。平安時代には天皇は直接的に政治の表舞台に立つことは少なくなり、藤原氏や平氏が権力を握り、こうした体制は明治維新まで続く。江戸時代の庶民にとって天皇は遠い存在であり、身近な権利者は領主である殿様であったろう。本書は幕末の尊王思想の高まりから天皇崇拝が国家の柱となった明治時代、天皇崇敬による全体主義的動員の時代を経て敗戦に至る日本の近代を概観しながら最後に象徴天皇制を評価する。天皇が憲法で定める日本国の象徴であることには日本国民の多くが同意している。前の天皇や現在の天皇の人柄もあって、多くの日本国民は天皇及び天皇家を敬愛している。しかし私の理解では天皇は、天照大神の子孫として神道の祭主でもある。この立場をどう評価すべきか。秋篠宮は大嘗祭への公費支出について「内廷会計」で行うべきだと発言した。著者は「象徴天皇制の理念が、自ずから指し示す方向」と評価する。同感です。

11月某日
3年前に亡くなった福田博道さんを偲ぶ会を御徒町の吉池食堂で。13時30分からなので10分前に予約していた席に着く。定刻には松下、高橋、伊藤、岡田、友野、香川、林そして私の8名が揃う。献杯してそれぞれ福田さんの思い出を語る。福田さんは1950年生まれ、福井県武生市出身、早稲田大学文学部文芸学科卒業。家具関係の業界紙の記者をしていて私とはその頃知り合ったと思う。その後ライターとして独立、年友企画でいろいろな仕事を助けてもらった。娘さんと息子さんがいてそれぞれ立派に成人して、娘さんはピアニストで東欧のチェコかハンガリーに留学していた。息子さんは大手の運送会社に勤めてシンガポール支店勤務という話をしていた。福田さんは自分のことを「売れっ子」ならぬ「売れん子ライター」といっていたが娘さんの留学先や息子さんの赴任先に遊びに行っていた。家族、友人に恵まれたということか。お酒を呑まない香川さんと岡田さんは1次会でさよなら。残りの6人で2次会へ。

11月某日
11時30分から予約していたマッサージの絆へ。いつもの通り15分の電気療法と15分のマッサージ。本日は歩いて7~8分の床屋さん「髪工房」へ。途中で乾物屋さんの「手賀の屋」でレトルトカレー、干しエビなどを購入。髪工房では待ち時間ゼロ。「お客さんがいないなんて珍しいですね」というと「こんなもんですよ」と親方。親方は今年、78歳になったそうだ。「夜にテレビを観ていると寝ちゃうんですよ」。まぁ私も似たようなものです。「髪工房」は65歳以上は料金2000円が1800円に割引されるうえ、スタンプが5個たまるとさらに300円引かれる。ありがたいがお客の高齢者割合が上昇しているので経営は大丈夫かと心配になる。帰りにスーパー「カスミ」によってスコッチのティチャーズを安売り(1078円=税込み)してたので購入する。

モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
「乱れる海よ」(小手鞠るい 平凡社 2022年10月)を読む。小手鞠るいという作家には今まで関心がなかった。図書館で新刊コーナーに並んでいたこの本を手に取るまでは。本文が始まる前に次の文章が掲げられていた。献辞のように。
 まだ何もしていない
 何もせずに 生きるために
 多くの代償を支払った
 思想的な健全さのために
 別な健全さを浪費しつつあるのだ
 時間との競争にきわどい差をつけつつ

 天よ 我に仕事を与えよ
                 ―奥平剛士
奥平剛士って今じゃぁ知らない人の方が多いと思うけれど、1972年5月30日に起きたイスラエルの「テルアビブ空港乱射事件」の3人の犯人の一人で主犯格だった。奥平は事件の最中に銃弾を浴びて死亡、他の一人は手榴弾で自爆した。残った一人が岡本公三でイスラエルの法廷で終身刑を宣告された。本書の末尾に注意書きのように「本書は、実際の事件に着想を得て書かれたフィクションです。歴史的事実を盛り込んでありますが、登場人物はすべて、著者によって創作されています」と記載されている。ではあるけれど主人公の渡良瀬千尋が奥平剛士を、生き残った岡部洋三が岡本公三をモデルとしたことは明らかだ。千尋は京大文学部に進学、セツルメント活動で貧しい子供たちの面倒を見る一方、自分を追い込むように肉体労働に勤しんでいた。魅力的な人物として描かれているが、当時の活動家連中のなかにはそういった人間が確かにいたね。「あとがき」で著者の小手鞠は事件のときに高校生で、校長が「我が校出身の奥平さんが仲間ふたりと共にイスラエルで自動小銃を乱射し、罪のない人々を大勢、殺してしまった…奥平さんの為した行為は間違っていたが、平等な社会、差別のない社会を作ろうとしていた彼の理想は間違っていなかった」と話したそうである。なかなかの校長である。ちなみにこの高校は岡山県立岡山朝日高校、私の記憶に間違いがなければ岡山きっての進学校である。

11月某日
「私にとってオウムとは何だったのか」(早川紀代秀 川村邦光 ポプラ社 2005年3月)を読む。川村邦光という人の本は先月、荒畑寒村の評伝を読んだけど本業は宗教学者のようだね。早川紀代秀は1949年生まれ、神戸大学農学部、大阪府立大学大学院修士課程修了。86年にオウム神仙の会(後にオウム真理教に改称)に入会。95年に逮捕、死刑判決確定、2018年死刑執行。川村が旧知の弁護士から早川の裁判での証言を求められたことから二人の交流は始まった。すでに早川は麻原彰晃からのマインドコントロールは解けており、自分が犯した罪を激しく後悔している。早川は麻原からの指示に〝自らが認める権威が示す正義”に従うという習性は、決して特殊なことではなく、人間誰しもが持っている特性、と書いている。これは確かに旧統一教会にも当てはまるし、イスラム教徒によるテロにもそういった側面があると思う。宗教ではなくとも日本の新左翼による内ゲバにも「権威が示す正義に従ってしまった」結果があるのではないか。連合赤軍によるリンチ殺人事件もそうだ。オウム真理教の信徒たちはグル麻原の指示に盲目的に従った。私にはそれがスターリンによる反対派の粛清、連合赤軍によるリンチ殺人を連想させるのだ。

11月某日
オウム真理教は仏教をベースにしながらも、ハルマゲドンなどキリスト教の概念を盛り込んだりした麻原彰晃が考え出した新興宗教の一つと考えられる。仏教といっても幅広いが、激しい修行による個人の解脱を重視した小乗仏教に近いとも考えられる。こうした考え方に真っ向から対立すると思われるのが親鸞であろう。ということから図書館の宗教コーナーの仏教の棚を眺めていたら「吉本隆明が語る親鸞」(糸井重里事務所 2012年1月)という本が目についたので早速借りることにする。2011年の東日本大震災を経て、糸井重里は親鸞は「どんな立場でどんな言葉を民衆に投げかけていたのか」という問題意識から、吉本と対談する。冒頭が吉本と糸井の対談で、以下に過去の吉本の親鸞に関する講演が収録されている。吉本には「最後の親鸞」という著作もあり、以前から親鸞の思想に注目していた。この本は私も読んだが、よく理解できなかった記憶がある。今回は講演録ということもあり、何となくわかったような気がする。
吉本にとって親鸞が生きた戦乱と天変地異の中世は「ある意味で現在と同じ」で「目に見えない戦いや、人を支配していたり支配していなかったりというような問題が、目に見えないかたちで重なっています」と語る。私はロシアのウクライナ侵攻や旧統一教会問題を思い起こしてしまう。吉本はまた「肉体を痛みつけたり、精神を痛みつけたりする修行の果てに、浄土を思い浮かべたり、仏様の姿が眼の前に思い浮かぶようになったりすることには本当はなんの意味もないんだ、ということが、親鸞のなかに重要な考え方としてあった」と思うとする。それはまた「人間が自力でできることに見切りをつけたということ」でもある。修行によって浄土へ行くことはできない、「ただ本当に阿弥陀如来を心の底から信ずる、そして名前を称える、そうしたら浄土へゆけます。それ以外のことをやったら駄目ですよ」というのが親鸞の信念だった、と吉本は言い切る。60年安保のときに吉本は既存の日本共産党や社会党、総評などの「擬制の終焉」を唱え、「自立の思想的拠点」を築けと叫んだ。その頃と変わっていないね。

モリちゃんの酒中日記 11月その1

11月某日
ふるさと回帰支援センター創立20周年記念レセプションがルポール麹町で開催される。午後1時スタートだが、寝坊して1時間ほど遅れる。前消費者庁長官の伊藤明子さんはじめ、旧建設省の住宅技官出身者が何人か来ていた。伊藤さんと元長岡市長の森民夫さんが挨拶していた。私は小川富吉さんや合田純一さん、長岡の財団法人の理事長をしている水流さんと歓談。元早大全共闘で群馬で小児科医をやっている鈴木基司さんに挨拶。イノシシの会で機関紙の編集をしているウメ(梅沢?)さんとも懇談。滋慶学園の常務をやっていた平田さんにも挨拶。私くらいの年代になると元○○というのが多くなるんだね。散会後、(社福)にんじんの会の石川理事長と元滋慶学園の大谷さんと帰る。四ツ谷駅の途中の食堂で軽く一杯、石川さんにご馳走になる。石川さんは私より一歳年上の筈だが至って元気、にんじんの会の経営も順調な様子だ。「借金で大変なんだよう」といっていたが大谷さんに「借金も信用のうちですよ」といわれてた。四ツ谷駅で石川さんと別れ、上野駅で大谷さんと別れる。柏駅で人身事故があったらしく上野で一時間ほど待たされる。

11月某日
「姫君を喰う話-宇野鴻一郎傑作短編集」(宇野鴻一郎 新潮文庫 令和3年8月)を読む。宇野鴻一郎は私の若い頃は、川上宗薫などと並んでポルノチックな作風で知られていたのだが、もともとは本作品集にも収録されている「鯨神」で芥川賞を受賞した純文学の出身なのだ。短編集には六つの短編が収められているが、私にはどの作品も面白かった。共通しているのは土俗的な香りともいうべきものだ。解説を作家の篠田節子が執筆している。宇能の初期の作品群について「純文学の檻(枠ではない)にはとうてい収まらない、ストーリー性とテーマ性、迫力のある描写を持った大きな作品群で、宇野鴻一郎は今、再評価されるべき作家なのではなかろうか。」と記している。同感である。

11月某日
歯医者は何年か前から近所の石戸歯科。先日、定期健診で2日ほど通って歯石除去などをやって貰った。石戸先生の息子さんが最近売り出しのノンフィクションライターの石戸諭である。待合室には石戸諭の著書が並んでいる。今回、石戸歯科に行ったら平松洋子の「いわしバターを自分で」(文春文庫 2022年3月)が並んでいた。手に取ってみると石戸諭が解説を書いているのだ。「なるほど」と、石戸歯科から徒歩2分の我孫子市民図書館へ行く。幸いにも文庫本のコーナーにあったので早速、借りることにする。週刊文春での連載エッセー「この味」から2019年12月12日号~2021年9月9日号をまとめたものだ。平松洋子は食にまつわるエッセーの名人。「立ち食いソバ」を巡るエッセーは忘れがたい。「いわしバターを自分で」は、共産党副委員長で参議院議員の山下芳生氏のツイッターを紹介しているのがとくに気に入っている。日本共産党というと真面目で融通が利かないイメージが私には強いが、平松さんが紹介する山下議員のツイッターによる「料理紹介」は、そんな私のイメージをいい意味で裏切ってくれた。

11月某日
「フィールダー」(古谷田奈月 集英社 2022年8月)を読む。古谷田奈月は1981年我孫子市生まれ。ウイキペディアによるとNHK学園高校から二松学舎大学国文科に進んで卒業している。古谷田の作品を読むのは初めて。本作は大手出版社の雑誌編集者の目を通して、雑誌執筆者である評論家のベドフィリア(小児性愛)疑惑を巡る出版社や社会の通念やその底にあるものを描く。これを物語の縦糸とすれば横糸はスマホ上で戦われるゲームである。私はゲームに対する知識がほとんどないので、横糸の方はあまり理解できなかった。それにしても古谷田という作家としての力量は十分に評価されていいだろうと思う。この本は再読してみたいと思った。

11月某日
「李朝残影-反戦小説集」(梶山李之 光文社文庫 2022年8月)を読む。梶山李之は1930年京城(現在のソウル)生まれ。敗戦に伴い広島に引き上げる。広島高等師範卒。62年には「黒の試走車」がベストセラーになり、以来、推理、官能、時代小説などでヒット作を連作、75年に取材先の香港で死去―文庫のカバー裏に記載された著者略歴をさらにかいつまんで記すとこのようになる。しかし流行作家になる前の梶山は日本の植民地だった朝鮮を舞台にした小説を書き残している。宇野鴻一郎もそうだけれど、流行作家になる前の作家は純文学を志していた場合が多い。「李朝残影」は「反戦小説集」となっているけれど、私にはむしろ「望郷小説集」と感じられた。失われた故郷、植民地朝鮮を想う小説である。「族譜」「李朝残影」など5編の短編が収録されているが、「闇船」を除いて主人公は植民地朝鮮に住む日本人青年である。植民地に住むことに違和感、罪悪感を抱いている日本青年である。この日本青年は作者、梶山の分身と考えてよい。私は梶山李之の流行作家としての存在しか知らない。豪放磊落な印象であったが、本書を読む限りではむしろ繊細、含羞の人といった印象が強い。

モリちゃんの酒中日記 10月その4

10月某日
「おいしいものと恋のはなし」(田辺聖子 文春文庫 2018年6月)を読む。すでに文庫本に収録されている作品の中から「食べ物と恋愛」というテーマに沿ったものが集められている。とは言っても田辺先生の短編小説は恋愛をテーマないしはサブテーマにしたものがほとんどである。そのなかで編者が気に入っているものを集めたのであろうか。ちなみに編者が明らかにされていないのも如何なものか。単行本は2015年7月に世界文化社から刊行されているので世界文化社の編集者が編者なのかもしれない。それにしても田辺先生の小説を読むのは久しぶりである。であるがほとんど読んだことのある小説であった。でも私にとって田辺先生の小説は何度読んでも楽しいのである。ちょいと哀切なのが「ちさという女」。主人公の「私」が勤める会社の同僚が「秋本ちさ」。独身で30代後半、しまり屋で自分が住むマンションのほかにもいくつかの賃貸物件を所有している。私は会社の同僚、工藤静夫と恋愛関係にある。ちさは私に「あんた、工藤さんとあやしいの?」と聞いてくる。以下原文。
「さあ。どうかな」
と私はいい、ちさをからかいたくなった。
「でも、工藤サンは、秋本さんが好きやって。尊敬するっていってたわよ」
「阿呆なこと、いいなさなんな」
とちさは狼狽して、常になく、まぶしそうな顔をした。
ちさは工藤の誕生日に直径30センチくらいの大きなバースデイケーキを贈ってくる。この短編小説は以下の私の独白で終わっている。
 静夫と結婚して、三歳の男の子がある今になっても、私は、ちさのバースデイケーキを思い出すと胸いたむ。ちさにしみじみとした思いを持つようになった。
最後の一行が効いています。

10月某日
マッサージの日。近所のマッサージ店絆へ週2回通っている。予約の5分ほど前にお店の前に着く。施術を終わったおばあさんが出て来て、玄関の引き戸を閉める。私に気がついて玄関を開けてくれる。この頃、おばあさんに親切にされる。先日もマッサージに行くとき、おばさんに「どこへ行くの?」と聞かれ「すぐそこまで」と答えると「近くまでついていってやろうか?」といわれた。丁重に断ったが、俺ってそんなに弱々しく見えるのかなぁ。
「星間商事株式会社社史編纂室」(三浦しをん ちくま文庫 2014年3月)を読む。タイトルのとおり、星間商事という会社の社史編纂室の日常のドタバタを描くのだが、三浦しをんの作品としては私にはつまらなかった。話の軸のひとつが戦後、星間商事が太平洋上のサリメニという島に経済進出するというもの。日本帝国主義の復活の一局面だと思うのだが、著者の三浦にはその意識は薄いようだ。

10月某日
「天使に見捨てられた夜」(桐野夏生 講談社文庫 2017年7月)を読む。単行本は94年6月の発行である。主人公は新宿に住む私立探偵、村野ミロ。小説の時代背景は90年前後か、小説中に携帯電話を使う場面が出てこないからね。フェミニスト系の出版社の女社長に人探しを依頼されたミロ。探すのはアダルトビデオの出演者の若い女性だ。人探しを縦糸とすると横糸はミロのマンションの隣人トモさん、ビデオ制作会社の代表矢代との性愛だ。トモさんには恋愛感情を持っているミロだが、トモさんは女には欲情しない同性愛者である。一方、矢代には恋愛感情は持っていないが、二度ほど体を重ねてしまう。人探しのストーリーももちろん読ませるのだが、私はミロの性愛に興味が行ってしまう。ミロのトモさんへの感情。「しかし彼を好きになれば、私は底に穴の空いた壺で水を汲むようなものなのだ。壺から水がこぼれる時の音まで聞こえるような気がする。こぼれた水は私の足を濡らすだろう」。これってハードボイルドな文章だと思う。90年前後は私のいた会社でもビデオ制作を受注していた。もちろん実際の制作はビデオ制作会社に外注する。その制作会社で裏ビデオを見せてもらったことがある。そのことを思い出してしまった。

10月某日
「荒畑寒村-反逆の文字とこしえに」(川村邦光 ミネルヴァ書房 2022年8月)を読む。「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズの一冊。寒村は1886(明治20)年8月に横浜で生まれ昭和56(1981)年3月に95歳で亡くなっている。私が学生の頃にはまだ現役の運動家だったようで巻末の略年譜によると昭和43(1968)年11月に革共同中核派の政治集会で講演、昭和45(1970)年には全国反戦青年委員会集会で講演している。荒畑寒村は青年期には菅野スガ(大逆事件で死刑)と婚姻関係にあり、菅野の死後に竹内玉と結婚している。玉は11歳年上だが献身的に寒村を支えたという。寒村が54歳のとき玉は66歳で死去、寒村60歳のとき森川初枝と再婚するが、寒村88歳のとき初枝は享年76歳で亡くなる。寒村の運動家としての出発は無政府主義者、アナーキストであった。現在では考えられないことだが当時、社会主義者と無政府主義者の勢力は拮抗していたようだ。むしろ1917年にロシアで社会主義革命が成功するまでは無政府主義が社会主義を圧倒していたのではないだろうか。著者の川村邦光という人は1950年福島県生まれ。1984年東北大学大学院博士課程単位取得満期退学。大阪大学文学部教授を経て現在、同大学名誉教授という経歴である。ウイキペディアによると学生運動経験者とある。