モリちゃんの酒中日記 11月その1

11月某日
ふるさと回帰支援センター創立20周年記念レセプションがルポール麹町で開催される。午後1時スタートだが、寝坊して1時間ほど遅れる。前消費者庁長官の伊藤明子さんはじめ、旧建設省の住宅技官出身者が何人か来ていた。伊藤さんと元長岡市長の森民夫さんが挨拶していた。私は小川富吉さんや合田純一さん、長岡の財団法人の理事長をしている水流さんと歓談。元早大全共闘で群馬で小児科医をやっている鈴木基司さんに挨拶。イノシシの会で機関紙の編集をしているウメ(梅沢?)さんとも懇談。滋慶学園の常務をやっていた平田さんにも挨拶。私くらいの年代になると元○○というのが多くなるんだね。散会後、(社福)にんじんの会の石川理事長と元滋慶学園の大谷さんと帰る。四ツ谷駅の途中の食堂で軽く一杯、石川さんにご馳走になる。石川さんは私より一歳年上の筈だが至って元気、にんじんの会の経営も順調な様子だ。「借金で大変なんだよう」といっていたが大谷さんに「借金も信用のうちですよ」といわれてた。四ツ谷駅で石川さんと別れ、上野駅で大谷さんと別れる。柏駅で人身事故があったらしく上野で一時間ほど待たされる。

11月某日
「姫君を喰う話-宇野鴻一郎傑作短編集」(宇野鴻一郎 新潮文庫 令和3年8月)を読む。宇野鴻一郎は私の若い頃は、川上宗薫などと並んでポルノチックな作風で知られていたのだが、もともとは本作品集にも収録されている「鯨神」で芥川賞を受賞した純文学の出身なのだ。短編集には六つの短編が収められているが、私にはどの作品も面白かった。共通しているのは土俗的な香りともいうべきものだ。解説を作家の篠田節子が執筆している。宇能の初期の作品群について「純文学の檻(枠ではない)にはとうてい収まらない、ストーリー性とテーマ性、迫力のある描写を持った大きな作品群で、宇野鴻一郎は今、再評価されるべき作家なのではなかろうか。」と記している。同感である。

11月某日
歯医者は何年か前から近所の石戸歯科。先日、定期健診で2日ほど通って歯石除去などをやって貰った。石戸先生の息子さんが最近売り出しのノンフィクションライターの石戸諭である。待合室には石戸諭の著書が並んでいる。今回、石戸歯科に行ったら平松洋子の「いわしバターを自分で」(文春文庫 2022年3月)が並んでいた。手に取ってみると石戸諭が解説を書いているのだ。「なるほど」と、石戸歯科から徒歩2分の我孫子市民図書館へ行く。幸いにも文庫本のコーナーにあったので早速、借りることにする。週刊文春での連載エッセー「この味」から2019年12月12日号~2021年9月9日号をまとめたものだ。平松洋子は食にまつわるエッセーの名人。「立ち食いソバ」を巡るエッセーは忘れがたい。「いわしバターを自分で」は、共産党副委員長で参議院議員の山下芳生氏のツイッターを紹介しているのがとくに気に入っている。日本共産党というと真面目で融通が利かないイメージが私には強いが、平松さんが紹介する山下議員のツイッターによる「料理紹介」は、そんな私のイメージをいい意味で裏切ってくれた。

11月某日
「フィールダー」(古谷田奈月 集英社 2022年8月)を読む。古谷田奈月は1981年我孫子市生まれ。ウイキペディアによるとNHK学園高校から二松学舎大学国文科に進んで卒業している。古谷田の作品を読むのは初めて。本作は大手出版社の雑誌編集者の目を通して、雑誌執筆者である評論家のベドフィリア(小児性愛)疑惑を巡る出版社や社会の通念やその底にあるものを描く。これを物語の縦糸とすれば横糸はスマホ上で戦われるゲームである。私はゲームに対する知識がほとんどないので、横糸の方はあまり理解できなかった。それにしても古谷田という作家としての力量は十分に評価されていいだろうと思う。この本は再読してみたいと思った。

11月某日
「李朝残影-反戦小説集」(梶山李之 光文社文庫 2022年8月)を読む。梶山李之は1930年京城(現在のソウル)生まれ。敗戦に伴い広島に引き上げる。広島高等師範卒。62年には「黒の試走車」がベストセラーになり、以来、推理、官能、時代小説などでヒット作を連作、75年に取材先の香港で死去―文庫のカバー裏に記載された著者略歴をさらにかいつまんで記すとこのようになる。しかし流行作家になる前の梶山は日本の植民地だった朝鮮を舞台にした小説を書き残している。宇野鴻一郎もそうだけれど、流行作家になる前の作家は純文学を志していた場合が多い。「李朝残影」は「反戦小説集」となっているけれど、私にはむしろ「望郷小説集」と感じられた。失われた故郷、植民地朝鮮を想う小説である。「族譜」「李朝残影」など5編の短編が収録されているが、「闇船」を除いて主人公は植民地朝鮮に住む日本人青年である。植民地に住むことに違和感、罪悪感を抱いている日本青年である。この日本青年は作者、梶山の分身と考えてよい。私は梶山李之の流行作家としての存在しか知らない。豪放磊落な印象であったが、本書を読む限りではむしろ繊細、含羞の人といった印象が強い。