モリちゃんの酒中日記 12月その3

12月某日
「人間の経済」(宇沢弘文 新潮新書 2017年4月)を読む。宇沢弘文は2014年に死去しているが本書は「新潮新書」編集部が2009年、宇沢に「人間と経済」の刊行を依頼、翌年にかけて行ったインタビューや近年の講演等をもとに原稿をまとめた。インタビューや講演をもとにしているので、宇沢の思想と人間の全体像が非常にわかりやすく提示されている。宇沢は1945年4月、戦争直前に旧制一高に入学、東大理学部数学科に進学後、特別研究生として数学を学ぶ。河上肇の「貧乏物語」に触発されて経済学に転向する。56年に米スタンフォード大学、ケネス・アローの研究助手となり36歳で日本人初のシカゴ大学教授となる。68年に東大に復帰するが、自身の思想を深めるとともに環境問題に関わっていくことになる。本書は経済学と社会、環境とのかかわりについて述べたものがまとめられている。宇沢は一高東大時代にマルクス経済学に魅かれたり、スタンフォードやシカゴでは数理経済学の権威となるが思想的バックボーンはリベラリズム。「本来リベラリズムとは、人間が人間らしく生き、魂の自立を守り、市民的な権利を十分に享受できるような世界をもとめて学問的営為なり、社会的、政治的な運動に携わることを意味します。そのときいちばん大事なのが人間の心なのです」(教育とリベラリズム)。
私は本書を読んで宇沢が経済学者以外のさまざまな人から影響を受けたことがわかった。宇沢はリベラルアーツの重要性を強調し、日本でリベラルアーツを代表する人物として福沢諭吉を挙げる。哲学者、教育学者でプラグマティズムを代表する思想家、デューイ、戦前からの自由主義者でジャーナリストの石橋湛山も高く評価する。宇沢は空海も評価しているが、こちらは宗教家としてというよりもcivil engineeringとして。空海は唐に留学するが当時の留学僧は仏典だけでなく、唐の社会制度や工学的な知識も学んで帰国した。空海は学んだ土木工学の知識を生かして讃岐の満濃池をはじめとした灌漑工事を行った。宇沢は帰国後、水俣病や成田空港問題ともかかわるようになるが、そこでも水俣病の被害者たる漁民、空港反対同盟の農民と対等な関係を結び、ともに学ぶという姿勢を貫いたのではないか。ウイキペディアによると宇沢の健康法はジョギング、趣味は山登りでランニングと短パン姿は都内でも目撃されていたという。また自他認める酒好きであった。

12月某日
NHKBS1の「ビルマ 絶望の戦場 インパール後の大惨劇」を観る。インパール作戦はイギリス領のインド攻略を目的として1944年に戦われた作戦。指揮官の牟田口廉也中将の主導によって強行されたが、航空兵力や輸送力、軍備全般に優れる英軍に惨敗した。映像は惨敗後の日本軍を当時の映像や生き残った日本兵、当時のビルマの人々の証言からたどる。またイギリスに保管されている日本軍将兵への尋問資料からも明らかにされる。当時の日本軍の責任者は陸軍中将の木村兵太郎(後に大将)。英軍が首都のラングーンに迫りつつあるとき、多くの将兵や在留邦人を残したまま、飛行機でタイへ逃げる。牟田口といい木村といい情けない限りである。牟田口は戦後も生き残り自己を正当化する証言を残している。木村はA級戦犯として起訴され死刑を宣告され、東条らとともに絞首刑にされた。しかし何といっても最大の被害者はビルマ国民だ。大東亜共栄圏の現実とはこんなものなのだろうか。

12月某日
週2回通っているマッサージへ。15分マッサージ、15分電気。その後、我孫子市の農産物直売所アビコンへ。レストランの米舞亭でランチ「生姜焼き定食」1000円。「玉ねぎスープ」を購入。帰りにスーパーカスミでウイスキー「ティチャーズ」を購入。バスを利用しようと思ったらスイカが見当たらない。アビコンでスイカを使っているから引き返すと売店のお姉さんが保管してくれていた。バス停「我孫子高校前」からバスに乗車、「アビスタ前」で下車。乗車賃は障害者割引を使って半額。家にあった「ランチ酒」(原田ひ香 祥伝社文庫 令和4年6月)を読む。読みだしてすぐ以前読んだことを思い出す。発行が今年の6月だから、つい最近に読んだはず。バツ1で子供を元夫のもとに残してきた祥子が幼馴染の亀山の下で「見守りサービス」に従事するというストーリー。見守りサービスは基本的に夜から翌日の午前中まで。仕事を終えた祥子が食べるランチとちょい飲みする酒がもう一つのストーリー。テレビの「孤独のグルメ」の女性版。もっとも「孤独のグルメ」の主人公、松重豊が演じる井の頭五郎は下戸ですが。

12月某日
「力と交換様式」(柄谷行人 岩波書店 2022年10月)を読む。柄谷行人の本は難しい。読んでも理解できないことの方が多い。でも新刊が出ると読んでしまう。自分では買わない。図書館で借りるだけですが。本書は「マルクス主義の標準的な理論では…中略…生産様式が経済的なベース(土台)にあり、政治的・観念的な上部構造がそれによって規定されているということになっている」のに対して、柄谷は「そのベースは生産様式だけではなく交換様式にあると考えた」(序論)。交換様式には次の四つがある。
 A 互酬(贈与と返礼)
 B 服従と保護(略取と再分配)
 C 商品交換(貨幣と商品)
 D Aの高次元の回復
Aが原始社会、Bは王権が確立して以降の部族社会、日本史で言うと古代大和王権から中世を経て幕藩体制の確立まで。江戸時代になって商品経済、貨幣経済が発達してCに至る。Dは共産社会で「贈与と返礼」の高次元の回復がなされる。宇沢弘文との絡みで言うと「環境危機は、人間の社会における交換様式Cの浸透が、同時に人間と自然の関係を変えてしまったことから来る」「交換様式Cから生じた物神が、人間と人間の関係のみならず、人間と自然の関係をも致命的に歪めてしまったのである」ということになる。環境問題からしてもD(Aの高次元の回復)は必至ということになるのだ。

12月某日
「家裁調査官・庵原かのん」(乃南アサ 新潮社 2022年8月)を読む。家裁調査官、正式には家庭裁判所調査官。裁判所法によって家裁と高裁には家裁調査官を置くことが定められている。身分は国家公務員。未成年者が事件を起こした場合、家裁によって処分が決定されるが、その際、家裁調査官が少年の置かれた環境や事情を調査し家裁の裁判官に報告する。庵原かのんは福岡家裁北九州支部の調査官、動物園の飼育係の恋人を東京に残し、罪を犯した少年少女や親たちとの面会に追われる。殺人や強盗などの凶悪犯罪は家裁ではなく地裁に送られるはずだ。したがって家裁調査官が扱うのは窃盗や暴行傷害などの比較的軽微な犯罪に限られる。そこにドラマを見出すのが小説家、乃南アサの凄いところ。「思い通りにならない人生」「でもそこでけなげに生きてゆく庶民」を描く!

12月某日
今年最後の散髪に近所の「髪工房」へ。10分ほど待って散髪開始。ここの主人は私より3~4歳年長だからすでに後期高齢者。年とってから床屋さん替わるのやだからね、ご主人の長命を願う。帰りにスーパー京北で「サーモンパテ」を購入。家に帰って遅い昼食。図書館で借りていた「八日目の蝉」(角田光代 中公文庫 2011年1月)を読了。読売新聞の夕刊に2005年11月~2006年7月まで連載された。テレビで同名のドラマが放映されていて面白かったのがきっかけで読み始めた。今日の夜、BSNHKで放送される。読書の感想はドラマを観てから。

12月某日
「八日目の蝉」はテレビドラマと小説では微妙に違っている。ドラマでは岸谷五朗が演ずる
文次は小説では出てこない。だいたいドラマが最初に放映されたのが2010年だから10年以上前の作品。写真館の主人を演じた藤村俊二も2017年に死んでいるしね。映画にも2011年になっている。テレビでは壇れいが演じた主人公は永作博美らしい。不倫した上司との間の子を妊娠した女は中絶させられる。上司の家庭の一瞬の隙をついて女は生まれたばかり赤ん坊を盗み出す。薫と名付けられた赤ん坊は逃避行の末に小豆島にたどり着く。小豆島でのやすらぎに満ちた日々も長くは続かない。祭りの日に撮影された親子の写真が写真コンクールで佳作となり全国紙に掲載されてしまったのだ。親子は捜索の手から逃れようと港に向かうがそこには刑事たちが待っていた。逮捕される女、保護される薫。ここまでが1章。2章は大学生になった薫(本当の名前は秋山恵梨香)が主人公。逃避行していたときに会った千草と小豆島へ向かうのがラストシーン。小豆島へ向かうフェリーを見送るのが刑期を終えて岡山で働く犯人の女。こう書くとストーリーは犯罪小説のようだが、実は家族がテーマ。小豆島へ向かう恵梨香は実は不倫相手の子を妊娠している。「この子を産もう」という決意のもとの小豆島なのだ。

モリちゃんの酒中日記 12月その2

12月某日
「私の文学史-なぜ俺はこんな人間になったのか?」(町田康 NHK出版新書 2022年8月)を読む。町田康は「ギケイキ」を読んで以来、割と気に入っている作家だ。今回「私の文学史」を読んで尊敬の念を抱くようになった。「ギケイキ」自体、鎌倉だったか室町時代につくられた「義経記」を底本にしている。義経記は源義経の生涯をたどった古典で私は図書館で日本古典文学全集の義経記を借りて確かめたが、確かに「ギケイキ」は義経記を底本にしていた。ということは町田には古典の義経記を読みこなす力があるということだ。ウイキペディアによると町田は府立今宮高校卒である。高卒だから古典を読みこなす力はないと断言はできないし、大卒だから院卒だからできるとも断言できない。いずれにしても私は「ギケイキ」を読んで町田の古典の読解力の確かさと現代文による構成力に感心したものである。町田には「土俗・卑俗にこそ真実がある」という信念がある。そして「文章を書くことの衒いとか、自意識を失のうた人がプロの物書きなんです」ともいう。しかし「自分の文章的な自意識と、普通という、社会とか世間の自意識みたいなものを勝手に意識して、勝手に意味なく忖度して、そこにたどり着けない」のである。そして「なぜ古典に惹かれるのか」では「僕は、熱狂のさなかにあるあるというのは、人間として不幸なことやと思うんですね」とし「古典の得の一つ」として「現代の熱狂から遠くにある、流行りものの熱狂の嘘くささから遠くにあること」をあげている。うーん、深いお言葉。

12月某日
「この父ありて-娘たちの歳月」(梯久美子 文藝春秋 2022年10月)を読む。梯久美子は1961年、熊本市生まれのノンフィクション作家。北大文学部を卒業後、編集者を経て文筆業。本書には茨木のり子、田辺聖子、石牟礼道子ら9人の女性である。そして彼女らの共通点は「書く女性」だ。「『書く女』とその父 あとがきにかえて」で梯は「彼女たちが父について書いた文章には、『近い目』による具体的で魅力的なエピソードが数多くあるが、一方で、父の人生全体を一歩引いた地点から見渡す『遠い目』も存在する。そこから浮かび上がるのは、あるひとつの時代を生きた、一人の男性としての父親の姿である」と書く。「近い目」と「遠い目」はノンフィクション作家にとっても必須であろう。私は石牟礼道子の章に一番心が魅かれた。石牟礼道子の父、吉田亀太郎は石工で水俣の道路づくりの事業を手がけていた。「この世の土台をつくる仕事ぞ」「わしゃあ、まだ見ぬ未来を切り拓くつもりで石と語ろうとる」「石は天のしずくだ。天のしずくが石になるには、とても数えきれない年月がかかる」と幼い道子に語ったそうである。道子の作家としての感性はこの父を源とするに違いない。

12月某日
「宇沢弘文-新たなる資本主義の道を求めて」(佐々木実 講談社現代新書 2022年10月)を読む。宇沢弘文は早くから社会的共通資本の重要性を指摘した経済学者で、私は何年か前に佐々木実による宇沢の評伝を読んでいる。地球温暖化の危機がこの数年来叫ばれているが宇沢は半世紀以上前からそれを指摘していたわけだ。宇沢は1928年米子市生まれ、1931年3歳のとき一家で上京。府立一中、一高を経て東大理学部数学科入学。数学を学ぶかたわらマルクス経済学も独学、理学部物理学科に在籍していた上田健二郎(不破哲三)の主宰していたマルクス経済学の研究会にも参加していた。数学科を卒業した後。研究所や生命保険会社に勤めるが長続きせず、東大経済学部の近代経済学の研究会に参加、経済学研究の道に入る。米国スタンフォード大学のケネス・アローに論文を送ると高い評価を得て大学に招かれる。1956年宇沢が28歳のときである。スタンフォード大学では業績も上げ学生にも人気があったが、1964年にシカゴ大学の正教授に就任した。当時のシカゴ大学はフリードマン率いる市場原理主義者のシカゴ学派の牙城であったが、宇沢はフリードマンとは対局の見解をもち、議論を戦わせる仲だったという。当時はベトナム戦争のさ中で宇沢は反戦運動にも積極的だった。シカゴ大学の教え子の中からスティグリッツとアカロフが2001年にノーベル経済学賞を受賞している。
1968年4月、宇沢は東大経済学部に着任。シカゴ大の教授が東大の助教授に移籍したことは当時、話題となった。実際、給与と研究費の総額はシカゴ大時代の15分の1程度まで減った。宇沢が日本で取り組んだのは公害問題で、水俣病患者とも積極的に交流した。患者を支援していた原田正純医師は「胎児性水俣病との出会いのとき、先生は怒りを隠そうとされなかった…そして眼鏡の奥に涙が光る…」と記している。1974年、宇沢は「自動車の社会的費用」を出版しベストセラーとなる。この本により「新古典派理論を根源から批判し、同時に、新古典派理論の分析テクニックを駆使する」という、矛盾に満ちた境界領域を踏破してゆくことになる。同書を執筆した40代半ばから86歳で生涯を終えるまで、宇沢は社会的共通資本の経済学の構築に全精力を注いだ。社会的共通資本で宇沢が次に注目したのがコモンズである。日本の入会林野などが伝統的コモンズであり、パブリックとプライベートの中間的な所有形態とみなせる。コモンズの重要性については若手の思想家、斎藤浩平も指摘している(人新世の「資本論」)。産業革命以降、石炭や石油といった化石燃料が動力源となって燃やされ地球環境を悪化させてきた。これ以上の悪化を防ぐために宇沢の思想と経済学はもっと注目されてよい。

12月某日
「ひとり遊びぞ我はまされる」(川本三郎 平凡社 2022年9月)を読む。川本は1944年生まれ。麻布中学、麻布高校を経て東大法学部卒。朝日新聞社入社後、陸上自衛隊朝霞駐屯地での自衛官刺殺事件に関与して逮捕される。執行猶予付きの判決であったが朝日新聞社は懲戒免職となる。フリーライターから文筆業となる。私見ですが新聞社にそのままいても出世はしなかったと思う。懲戒免職はむしろ良かった。本書は雑誌「東京人」2018年8月号~2021年12月号掲載「東京つれづれ日誌」を単行本化したもの。川本の好きなものにこだわったエッセーである。荷風、街歩き、酒、ローカル線の旅そして台湾。川本はそれ以外にもクラシック音楽や絵画にもこだわりがある。本書で建築家の津端修一さん夫婦の穏やかな老後を描いたドキュメンタリ「人生フルーツ」が紹介されている。私は30年くらい前に津端さんに会ったことがある。おそらく津端さんは当時、日本住宅公団を退職したばかりで、住宅の周辺を緑化して環境を保つ「クラインガルテン」を普及させようとしていた。戦争中、台湾の少年工が日本の軍需工場に動員されたが、津端さんはその少年工とも交流があったという。

12月某日
「歴史探偵 忘れ残りの記」(半藤一利 文春新書 2021年2月)を読む。歴史探偵を名乗った半藤は文藝春秋の編集者出身で週刊文春や月刊文藝春秋の編集長を務めた(最終的には専務)。1930年生まれで2021年の1月に亡くなっている。死後、本書のゲラが自宅の机の上に置かれていた。半藤は軽快な筆致で日本の近代史と切り結んでいるが、その裏には該博な知識と深い教養があった。経歴からすると川本三郎と似ていなくもない。二人とも東京生まれの東京育ち、東京大学卒業後、新聞社と出版社へ入社。同じ東京生まれだが片や下町、片や山の手、東大も片や文学部、片や法学部という違いはあるが。永井荷風好きも共通している。「あとがき」に「わたくしは、ゴルフもやらず、車の運転もせず、旅行の楽しみもなく、釣りや山登りも、とにかく世の大概の方がやっている趣味は何一つやらない」と書いている。では何をやってきたか。「ただただ昭和史と太平洋戦争の〝事実″を探偵することに」のめりこんできた」のである。本書は「のめりこんできた」一方での彼の人生のエピソードを随筆というかたちで披露している。彼の出版社時代は高度経済成長の準備期、最盛期と時を同じくする。まさに「良き時代」である。

モリちゃんの酒中日記 12月その1

12月某日
「還りのことば-吉本隆明と親鸞という主題」(吉本隆明 芹沢俊介 菅瀬融爾 今津芳文 雲母書房 2006年5月)を読む。菅瀬と今津は浄土真宗本願寺派の僧侶である。親鸞に関する本を何冊か読んできたが、私には吉本隆明の言う親鸞の偉さがよく理解できなかった。私は仏教にしろキリスト教、イスラム教、オウム真理教にしろ教団と過激党派との類似性が気になった。イスラム原理主義者たちはいまだに世界各地でテロを繰り返しているし、中世の十字軍はキリスト教徒によるアラブ世界への侵略だったと言えなくもない。日本の中世でも仏教教団が僧兵という軍事組織を持っていたし、浄土真宗の門徒が各地で蜂起(一向一揆)している。半世紀近く前になるが日本の過激派もテルアビブ事件や連合赤軍事件、連続爆破テロ、凄惨な内ゲバ殺人を繰り返した。過激な党派は一種の教団と言えるのではないか。現代日本の宗教各派が平和的に宗教活動を行っているのは、各派が一応は「外に開かれている」からではないか。政治党派にしろ宗教教団にしろ「内にこもった集団」となると危険な暴力集団へ変身してしまう可能性がある。オウム真理教や連合赤軍がその例である。

12月某日
サッカーのW杯カタール大会で日本はドイツに続きスペインにも勝利、2大会連続で準決勝に進出。12月3日の朝刊ではこのように報じられていた。私は昨日、朝4時起きでスペイン戦をテレビ観戦した。予定をしていたわけではなくちょうど目が覚めてしまったのだ。もともとサッカーファンでもないし。でも試合を見ていると不思議に引き込まれてしまった。欧米や南米でサッカーが人気ナンバーワンのスポーツであることもなんとなく理解できたように思う。サッカーやラクビーのゲームを観ていると戦争映画の戦闘シーンを観ているような気がする(個人の感想です)。スポーツって戦闘の代替行為と言えなくもない。テレビ観戦を終え6時過ぎに再び就寝。11時に起床、朝食後マッサージへ。マッサージ師の青年との話題もサッカー。

12月某日
「世界は五反田から始まった」(星野博美 ゲンロン叢書 2022年7月)を読む。著者の星野博美は1966年生まれ、国際基督教大学卒。ノンフィクション作家だが写真家でもある。私は星野が自身のルーツを探った「コンニャク屋漂流記」を面白く読んだ記憶がある。星野のルーツは千葉県の房総なのだが、祖父の代から五反田に居を構え、住居にバルブなどを製造する工場(星野製作所)を併設した。星野製作所は父親の高齢化や取引先の事業終了にともない昨年、事業を終えている。で、本書は主として五反田における星野家三代の歩みと五反田という街の歴史をたどったものだ。五反田というと私にとっては取引先の全社連(全国社会保険協会連合会)があって、何回か通ったことがある。駅前に五反田有楽街という盛り場があって、かなり場末感の漂う街だったように思う。もっとも全社連はその後、品川に引っ越してしまい私が行くこともなくなった。星野製作所は五反田から東急池上線で2つ目の戸越銀座の近くにあった。銀座の名前が付く商店街は日本各地にあるようだが、東京では戸越銀座と江東区の砂町銀座の存在が知られる。祖父が始めた星野製作所は昭和一桁生まれの父が継承する。戦前の五反田界隈は町工場が密集する地域だった。今では町工場の跡地にはマンションが林立している。町工場が密集していたということはそこに働く労働者が多かったことを意味する。それで戦前はそれらの労働者をオルグするために日本共産党員も五反田あたりにはいたようで、かの小林多喜二の「党生活者」に出てくる倉田工業は実在の藤倉電線の五反田工場がモデルであった。戸越銀座の近くにある武蔵小杉の商店会から満洲へ移住した人が多かったエピソードや太平洋戦争末期の数次にわたる東京大空襲の被害の模様も綴られる。棄民とされた満洲移民に星野はもちろん同情を隠さない。しかし星野の視点は満洲移民によって土地を奪われた中国の民衆にも及んでいる。中国大陸や朝鮮半島、東南アジアへの日本軍国主義の侵略にも目を背けないという姿勢ですね。

12月某日
「小説家の一日」(井上荒野 文藝春秋 2022年10月)を読む。井上荒野は1961年うまれだから来年62歳になるんだね。父親は小説家だった井上光晴。出家する前の瀬戸内寂聴(晴美)と井上光晴との恋愛を描いた小説「あちらにいる鬼」は寺島しのぶと豊川悦司の主演で現在上映中。「小説家の一日」にも井上光晴と思われる父親が出てくる一編がある。「好好軒の犬」というタイトルの短編がそれで妻の「私」の目から見た小説家の夫、光一郎と娘の海里が描かれる。「小説家になる前、光一郎は革命家になろうとしていた。この世界を変えようとしていたのだ」「小説は光一郎にとって、革命の手段だった。けれども運動の矛盾点を批判する小説を書いたことで、党から除名された」と書かれているが、まぁ事実でしょう。「好好軒の犬」では「私」が夫の勧めで小説を書き、それが文芸誌に掲載されることも描かれているが、これもまぁ事実でしょう。表題作の「小説家の一日」は小説家となった海里とその夫で古本屋の敏夫の八ヶ岳の麓の別荘での日常が描かれる。

12月某日
今年亡くなった馬木さんを偲ぶ会を六本木のフレンチレストランで。私と友野君、渡辺さん、井上さんが千代田線乃木坂駅で待ち合わせ。フリーライターの友野君以外は年金生活者だ。
馬木さんと私たち4人は江古田の国際学寮という学生寮で一緒だった。国際学寮とは日本力行会という団体が経営する学生寮で都内の大学に通学する学生に宿舎と食事を提供していた。通学する学生といっても当時は大学闘争の真っ盛りで大学に通った記憶は余りない。井上さんは東京教育大学の出身で卒業後、電通に就職したので学業成績も優秀だったろうと思っていたのだが、聞いてみると「全然」ということだった。当時、教育大学は筑波への移転阻止闘争で学問どころではなかったのだろう。私も4年で卒業することはしたのだが、学業は「全然」であった。友野君は東京外語大学に在学中から学生運動に参加、結局7年かけて卒業したが、当然の如く成績は「全然」だし、卒業後学内立ち入りを禁止されたそうだ。渡辺君は卒業せずに中退して私と同じ「しば企画」に入社、印刷機を回していたが「プロミス」に転職、本社の総務部長も務めた。学生寮にいた頃から半世紀も経つが食事しながら話題は尽きなかった。