モリちゃんの酒中日記 1月その2

1月某日
「帝国軍人-公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる」(戸高一成×大木毅 角川新書 2020年7月)を読む。大木毅は以前、「独ソ戦」(岩波新書)を読んだ。この本は後に「新書大賞」を受賞している。第2次大戦のヨーロッパ戦線の専門家と思っていたが、本書を読むと戦前の帝国陸海軍、さらに草創期の自衛隊にも詳しいことがわかる。戸高一成は呉市海軍歴史科学館(大和ミュージアム)館長。本書には普通の歴史書には書かれていないことも語られていて面白かった。例えば「陸海空の自衛隊の中で『我々は旧軍の後継者である』といっているのは海自だけです」(大木)「堂々と言ってましたね…旧海軍の歴史を正しく継承する組織だという認識がある」(戸高)。さらに「情報を得る能力はもちろん必要ですが、それを判断する能力のほうがさらに重要です。日本は陸海軍とも、願望に沿った情報を重視するという、はなはだ情けないことをしています」(戸高)の発言には現代に通じるものがある。

1月某日
11時30分に予約していたマッサージ店へ行く。15分のマッサージ+15分の電気治療。今日は最高気温が9度で寒い。その上風が冷たく強い。寒さに耐えながら帰宅。お昼は奥さんの作ってくれたチャーハンを頂く。午後、昨日から読み進んでいた「日本の新宗教」(島田裕巳 角川選書 平成29年9月)を読む。島田は1953年生まれの宗教学者。今は安倍元首相の銃撃事件を受けて旧統一教会が問題になっているが、30年前は地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教が大きな問題だった。だからといって新宗教のすべてに問題があるというわけでもない。むしろ旧宗教(日本の場合は神道、仏教、キリスト教)を革新させる過程で新宗教が生まれたケースは少なくない。キリスト教も誕生した当初はユダヤ教の革新派としての新宗教の側面があった。本書で面白いと感じたのは明治以降の国家神道を新宗教と断定していることだ。明治維新の復古派は神道の国教化を目論んだがそれはかなわなかった。新宗教として生き残りを図ったということだろう。創価学会の2代目会長の戸田城聖は大変ビジネス感覚に優れた人であったなど興味深いエピソードも。ただ天理教、立正佼成会、PL教団など多くの新宗教が信者の数を減らしていることも明らかにされている。創価学会も信者の高齢化が言われている。

1月某日
「祝宴」(温又柔 新潮社 2022年11月)を読む。温又柔は台湾生まれ、日本育ち。ウィキペディアによると都立飛鳥高、法政大学国際文化学部、同大学国際文化専攻修士課程修了。学部では川村湊、大学院ではリービ英雄のゼミに所属となっている。以前、「魯肉飯のさえずり」を面白く読んだ記憶がある。本書を読んで台湾という国の複雑な来歴、台湾人の微妙な帰属意識を感じることができた。台北に本社のあるIT関連会社の社長の明虎(ミンフー)とその家族(妻、2人の娘)と親族の物語。明虎は妻と幼い長女と3人で来日、後に次女が生まれる。現在は台北に本社のあるIT企業の社長で東京、台北、上海などを飛び歩いている。長女と次女は日本語を母語のように話すが、明虎と妻は日本語は話せるものの母語はあくまでも台湾語である。おまけに明虎の父は大陸から来た外省人のため明虎は北京語も話せる。本書のテーマの一つは言語とコミュニケーションだ。印象に残ったシーンとして台北の超一流ホテルが、日本統治時代に伊勢神宮をモデルにつくった台湾神社の跡地に建てられたことに対して長女が「日本の神社なのに、台湾神社、だなんてね」とつぶやくシーンだ(正確には娘がつぶやくのを明虎が思い出すシーン)。これは長女が自分のアイデンティティに不安を感じる表象でもあるわけだ。中国に留学した長女の想い。-上海に留学してはっきり気づいたの。わたしはどこに行っても、ヨソモノでしかないんだって。これは台湾で生まれ日本で育って、中国に留学した長女の想いでもあるし、中国本土から逃れてきた外省人の想いでもある。それは恐らく現在、世界各地に逃れているウクライナの人の想いでもあるだろう。

1月某日
「げんきな日本論」(橋爪大三郎×大澤真幸 講談社現代新書 2016年10月)を読む。日本の歴史を縄文時代から幕末、明治維新までを二人の社会学者が語り合う。社会学者が語り合ったって歴史が変わるわけではないが、何でそうなったのか?というか歴史の解釈の仕方がかなり独特で私には面白かった。日本の天皇制は仮に5世紀くらいに成立したとすると1500~1600年くらい続いていることになる。これは現存する王制としては世界に例のない古さである。天皇制の根拠は神話である。天照大神の子孫が日本を統治するように高天原から降臨したわけだ。中国の王朝は天が命じる。革命という言葉は天命が革まるという意味である。天皇家には姓がない。中国の皇帝には姓がある。清王朝は満州族の愛新覚羅、漢王朝は漢民族の劉という具合だ。というか王家に姓があるのが普通でロシアのロマノフ、フランスのルイなどといった姓がある。日本の社会や政治制度、文化は中国大陸や朝鮮半島の影響を受けつつも非常に独特な形で発展してきたことがよくわかる本である。

1月某日
「近所の犬」(姫野カオルコ 幻冬舎文庫 平成29年12月)を読む。姫野カオルコは1958年滋賀県甲賀市生まれ、県立八日市高校を経て青山学院大学文学部日本文学科卒業。「昭和の犬」で直木賞受賞。「はじめに」によると「前作『昭和の犬』は自伝的要素の強い小説、『近所の犬』は私小説である」。どこがちがうか。「私小説のほうが、事実度が大きく」、カメラ(視点)の位置も語り手の目に固定されているそうである。「私」が「近所の犬」及びその飼い主との出会いについて綴るまさにタイトル通りの私小説である。爺さんに連れられたラニ(ゴールデン・レドリバー)に出会う章を読んでいたとき、「あっこの話は読んだことがある」と気づく。爺さんは昭和元年生まれでぎりぎり召集されなかった。大学は明治で卒業後、進駐軍関係のアルバイトをした後、小さな出版社を起業してエロ本を出版、そこそこもうけて家を建てた。このストーリーは覚えている。ところが、これ以外はまったく覚えていない。どういうこと?

モリちゃんの酒中日記 1月その1

1月某日
「明治維新を考える」(三谷博 有志舎 2006年8月)を読む。三谷博は1950年生まれ、72年に東大国史学科卒、78年に同大学院博士課程単位取得退学。東京大学教授を2015年に定年退職。ウイキペディアに「共産党から離脱した反共産主義・保守派の伊藤隆と佐藤誠三郎に師事する」と記載されている。しかし菅義偉首相に日本学術会議会員への選任を拒否された加藤陽子東大教授も伊藤隆夫門下であることからすると、門下生が師匠と同じ思想傾向をとるとは限らない。事実、本書を読んで私は三谷博にリベラルの風を感じた。著者の日中戦争観は、8年という長期間、主要な中国領の主要部で戦われ、軍隊だけでなく、庶民も当事者となり、戦火と徴発、しばしば殺戮とレイプが行われたという、私からすると至極、真っ当な歴史観である。そしてまた私の保有していた歴史観に修正を迫るものであった。例えば日本の朱子学受容に関して私は江戸時代、朱子学は幕府公認とされ官学の大道を歩んでいたと理解していた。しかし朱子学を徹底的に受け入れた朝鮮と違って、その受容に最も抵抗したのが日本という。そして日本の朱子学受容は、明治天皇による教育勅語の発布と、高等文官試験の実施(プロイセンの官僚制を媒介にした科挙の受容)ということになる。日本が朝鮮や清国と違って、一応の近代化を果たせたのは「近隣2国と同じく閉鎖的な体制をとりながら、エリートが外部にある西洋や世界に対して注意を向け続け、外部環境が変化した場合に鋭敏な対応ができるようになっていた」からという。勝海舟や坂本龍馬、福沢諭吉などが代表的な例だろう。これからは私の想像だが松下村塾や福沢の学んだ適塾、さらに竜馬が通った北辰一刀流の道場など、私塾や剣道場(いずれも官立ではない)が幕末に幕臣や重臣層の子弟だけでなく、下級武士や浪人にも開かれていたことも大きいのではないか。つまり勉学における機会均等である。
ネットで検索していたら伊藤隆のインタビューがあった。先生は新聞は産経新聞1紙を購読するのみでテレビは「YOUは何しにニッポンへ」「私が日本に住む理由」「ポツンと一軒家」を好んで観るそうである。ちなみにこの3つの番組は私も好きで観ている。先生、88歳、意外といい人かもしれない。

1月某日
「夢も見ずに眠った。」(絲山秋子 河出文庫 2022年11月)を読む。かつて絲山秋子が双極性障害(躁うつ病)を患っていたことはよく知られているし、彼女の小説にもうつ病患者が登場するケースがある。本書はエリート銀行員の沙和子と沙和子の夫で双極性障害の高之の物語であり。話の途中でふたりは離婚し沙和子も銀行を辞めるのだが、ストーリーは淡々と続く。「淡々と」というのが絲山文学の魅力の一つと私は思っている。しかし「淡々と」した日常の中でふたりの感情は微妙に行違う。離婚したふたりは最終章で山陰へ旅をする。「なにもかもが愛しい。そう思うことは一瞬でも、重みは永遠に等しいのだった。同じ場所にいることは、かけがえのないことなのだった」という文章は、ふたりの愛の復活を示していないだろうか。

1月某日
「私の1960年代」(山本義隆 金曜日 2015年10月)を読む。山本義隆は東大全共闘の元代表、東大闘争のときは東大物理学の大学院博士課程に在学中だった。闘争終息後も大学には戻らず駿台予備校で講師を務めるなどした。山本は1941年大阪生まれ。60年に大阪の大手前高校を卒業し東大に入学。64年に東大物理学科を卒業。物理学科に進学したころ大管法闘争に参加している。この闘争は「当時の東大自治会中央委員会の議長をしていた医学部の今井潔君、そして理学部の豊浦清君が指導した」(4 62年の大学管理法反対闘争)と記載されている。豊浦さんは晩年、社会保険研究所の関連会社の役員をやっていて私も親しくさせてもらった。第2次ブンドやML同盟の政治局員を務めた「偉い人」なのだが、偉ぶることのまったくない人だった。豊浦さんを偲ぶ会に私も出席したが、そういえば山本義隆も来ていたように思う。東大全共闘を担ったのは山本義隆のような大学院生や助手だった。それが東大闘争の幅と厚みを支えたのかも知れない。69年の3月に始まった早大闘争は学部の1年と2年が主体だったからね。とにかく「革マル粉砕!」が最優先、大学解体や安保粉砕も叫んでいたが中身はなかった。

1月某日
11時30分にマッサージを予約しているので近所のマッサージ店へ。ここは健康保険が適用されるので1回の料金は450円。マッサージを終えて帰宅、簡単な昼食をとって市立図書館へ行き「私の1960年代」を返却。新着の黒川創の小説を借りる。図書館2階の学習コーナーで読書。図書館から10数分歩いて駅前の関野酒店でバーボンウイスキーを購入、駅前からバスに乗って帰宅。

1月某日
「耳の叔母」(村田喜代子 書肆侃侃房 2022年10月)を読む。村田喜代子は1945年北九州市生まれ。中学校を卒業後、鉄工所に就職。結婚後、2児を育てながら小説を書き始める。戦後生まれで中卒作家というのは珍しい。私の知るところ昨年亡くなった西村賢太くらいか。村田は日本芸術院会員にも選ばれているし確か勲章も受賞している。勲章も芸術院の会員も文学的な価値とは関係ないと思うが、それと同じように学歴も関係ないと私は思う。村田の中編や長編小説は面白く読んだ記憶があるが、短編は初めてじゃないかな。長編でもそうだが、村田が描くのはもっぱら庶民。それも九州あたりの土着庶民だ。私は中学生の「わたし」と転校生の「トモエ」の交情を描いた「雷蔵の闇」と「わたし」の出産経験をもとにした「花影助産院」がお気に入り。図書館で借りたこの本は人気があるらしく「読み終わったらなるべく早くお返しください」の黄色い紙が貼られている。これから返してきます。

モリちゃんの酒中日記 12月その4

12月某日
大学時代、サークルで一緒だった森幹夫君と東京駅丸の内中央口で5時に待ち合わせ。千代田線の大手町から乃木坂へ。乃木坂のフレンチレストラン「シャルトル―ス」へ。このレストランは森君の娘さんの夫がオーナーシェフで、娘さんが営業と給仕役を担っている。今日はクリスマスイブの土曜日で満員の盛況。私たちが所属していたサークルは「ロシヤ語研究会」で大隈講堂の裏にプレハブの部室だった。森君は理工学部、私は政経学部だったが、二人ともロシヤ語の勉強は全然しなかった。ロシヤ語以外の学業にもまったく熱が入らなかった。授業に出はなくともサークルの部室で駄弁ったり、麻雀の面子を捜していた。森君はブンド、共産主義者同盟の活動家で大学を中退後も続けていた。森君と結婚したのが尾崎絹江さんで確か私たちが4年生のとき、法学部へ入学、ロシヤ語研究会にも入部してきた。絹江さんもブンドの活動家になった後、フリーライターとして活躍した。本も何冊か出していた。残念なことに数年前に乳がんで亡くなった。
森君の実家は大阪のタバコ屋で、森君は現在は実家で暮らしている。関西電力への反原発の抗議行動など現在も活動中だ。レストランはクリスマスイブということもあってカップルが多かったが、私たちの話題はもっぱら前世紀のサークルや学生運動についてだった。私が入学した政経学部の学友会の執行部は社青同解放派が握っていたから、私もさして考えることもなく同派の青ヘルメットを被ってデモに行っていた。68年の12月に革マル派によって早稲田を追われた解放派は東大駒場の教育会館に立て籠り、革マル派とお互いに全国動員で対峙した。翌年の4月17日、解放派と中核派、反戦連合などの部隊が、革マル派の戒厳令を突破、本部封鎖に成功する。4.28の沖縄デーでブントの森君は逮捕され、北千住署に留置される。同じ警察署に留置されていたのが勝っちゃんこと水野勝吉さんで、水野さんは警官と口論、公務執行妨害で逮捕されていた。留置所内で水野さんは警官から暴行を受けるが、水野さんは警官を告訴、森君は裁判で証言することになる。その縁で私たちは水野さんのもとで土方のアルバイトをすることになる。レストランで常連客らしき人から焼き菓子をもらう。東京から浦和へ向かう森君と霞が関で別れ、私は真っ直ぐ我孫子へ。

12月某日
「昭和史講義」【戦後篇】(上)(筒井清忠編 ちくま新書 2020年10月)を読む。岸田政権は現在、防衛費を増額しその財源を増税で賄おうとしている。私からすると立法府たる国会での議論がなされないままに決められようとしていることに納得が行かない。本書は戦後改革、東京裁判、吉田茂内閣、再軍備から自衛隊創設まで、サンフランシスコ講和条約・日米安保条約、砂川闘争・基地問題、戦後賠償問題など20のテーマで戦後史を概観する。私は占領軍によって与えられた民主主義を、日本国民がとまどいながらも我がものとしていく姿を垣間見た思いがした。岸田政権の現在の姿はその思いを踏みにじるものではないだろうか。私たちは先の大戦で膨大な人命、財産を失った。その犠牲のもとに現在の繫栄があることを忘れてはならないと思う。本来の自民党は「軽武装、経済発展重視」という思想だったはず。岸田首相の属する宏池会にはとくにその伝統が色濃かった。防衛は軍事だけではなされない。外交や経済、文化の交流などと併せて考えるべきものと思う。「軍事費増強に舵を切った政権」と歴史に刻まれてもいいんですか?岸田さん。

12月某日
我孫子から上野-東京ラインで東京駅へ。東京駅から歩いて東京サンケイビルの24階にある北洋銀行東京支店で送金手続きをする。親切な銀行マンが手伝ってくれる。東京サンケイビルから内神田の社保研ティラーレへ、吉高会長と懇談。社保研ティラーレを出ると15時を過ぎていた。昼食をとるのを忘れていたが神田駅から上野経由で我孫子へ。駅前の「しちりん」に寄る。「豚耳」「国産ニンニクオイル焼き」「五目ひじき煮」を注文。これが今日のランチ。

12月某日
「秘密の花園」(三浦しをん 新潮文庫 平成19年3月)を読む。横浜の中高一貫のカトリック系女子高校に通う3人の少女、那由多、淑子、翠。この3人が語る日常がストーリーである。ウイキペディアによると三浦は横浜雙葉中学校・高等学校を卒業後、早稲田大学第一文学部へ入学している。とすると3人の女子高生の日常は三浦の体験とそこから来る想像力によって描かれていると思う。三浦にとっては初期の作品。私にとって三浦はユーモアを絡ませた作風が特徴なのだが、本作はそれが薄い。もちろんにじみ出てくるユーモアはあるのだが。病院院長の娘で鎌倉の邸宅に住む淑子、サラリーマンの娘で横浜線沿線のマンションに住む那由多、東横線沿線の商店街の本屋の娘である翠。3人の性格分けが面白い。

12月某日
「敗者の想像力」(加藤典洋 集英社新書 2017年5月)を読む。加藤典洋の本は私にとって難解、でも好きで読んでしまう。加藤は1948年生まれだから私と同年だが、確か早生まれなので学年は1年上。残念ながら2019年5月に亡くなっている。本書もそうだが、加藤は日本の敗戦にこだわった思想家である。「敗戦後論」という著作もある。「敗者の想像力」とは、「自分が敗者というような経験と自覚をもっていないと、なかなか手に入らないものの見方、感じ方、考え方、視力のようなもの」(はじめに)である。このことを加藤は安岡章太郎や多田道太郎、吉本隆明や鶴見俊輔などの著作から読み解いて行く。面白いのは、その論が映画「ゴジラ」やアニメ「千と千尋の神隠し」にまで及んでいることである。「ゴジラ」は何度か映像化されているが、加藤が論じるのは主として第一作である。1954年11月に封切られたこの映画は私もリアルタイムで観ている。加藤はこのゴジラ映画を「戦没兵士の霊と怨念と希求の念とを体現している」とする。ゴジラは「やってくるのではない。帰ってくる」のだ。これは卓越したゴジラ論と私には思える。ディズニーを目指した手塚治虫に対してまったく独自の道を歩んだ宮崎駿を評価しているのも加藤らしい。「大江健三郎の晩年」では、敗戦間際の沖縄の集団自決事件を巡る裁判での大江を強く擁護し、全体としての大江作品を高く評価している。

12月某日
週刊文春の新年特大号に高齢者は健康(骨)のために1日4400歩こうという記事が載っていた。それで昨日は自宅から我孫子の農産物を売っている「アビコン」まで歩きレタスを買ってきた。自宅からバス停「我孫子高校前」を経てアビコンへ、アビコンから我孫子高校前で5000歩を超えた。我孫子高校前からはバスで停留所2つ目の「アビスタ前」で降車。本日は手賀沼公園を横切って新しい道を通って成田街道へ。成田街道を左折して「八坂神社前」を右折、我孫子駅の構内を通って我孫子駅北口へ。北口から5分ほど歩いてショッピングモール、イトーヨーカドーへ。3階の本屋で絲山秋子の文庫本「夢も見ずに眠った」を購入。イトーヨーカドーを出て我孫子駅に着いたら空は暗くなってきた。そのまま旧道を経由して自宅へ。万歩計は辛うじて4400歩を超えていた。

12月某日
「せんせい。」(重松清 新潮文庫 平成23年7月)を読む。重松清は「文庫版のためのあとがき」で教師を主人公や重要な脇役とする小説をたくさん書いてきたとし、「本書は、その中でも特に、いわば教師濃度の高い作品集である」としている。私は小学校、中学校、高校と勉強の方はまずまずだったが、教師に対しては割と反抗的であった。性格的に合う先生はいたが、尊敬できる先生はいなかった。大学は重松と同じ早稲田だが、私は団塊の世代で学園紛争の世代でもあるから、バリケード封鎖で授業に出た記憶はあまりない。バリケードが解除された後も、当時、早稲田を牛耳っていた革マル派に敵対していたから授業に出られなかった。学期末試験を受けに登校したら「お前らは来ちゃぁいけねぇんだよ」と革マル派にすごまれたこともある。実際はそれをいいことに授業をサボっていただけだけれど。重松清の描く先生はとても共感できる。生徒にとって教師は「尊敬できる」存在でなくともいいから「共感できる」存在でありたい。