モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
我孫子駅で上野行きの快速電車を待っていたら品川行が来た。乗車して東京駅で下車、ふるさと回帰支援センターの高橋ハム理事長に電話する。「来いよー」ということなので有楽町の交通会館へ。呑み会の打ち合わせ。大谷源一さんに連絡して御徒町駅北口で待ち合わせ。大谷さんの馴染みの居酒屋へ。

4月某日
「大きな字で書くこと 僕の一〇〇〇と一つの夜」(加藤典洋 岩波現代文庫 2023年3月)を読む。加藤典洋は1947年生まれで私と同年。しかし4月1日生まれなので学年は1年上。確か山形東高を卒業して現役で東大に入学、東大で全共闘運動に参加し、大学は6年かけて卒業した。大学院の入試にも落ち、就職試験にもすべて落ちて国立国会図書館に就職する。全共闘運動への参加と就職試験にすべて落ち、というところに私は勝手に親近感を抱いている。加藤は明治学院大学と早稲田大学で教え定年退職した後、2019年に71歳で死んでいる。加藤の本との出会いは数年前の我孫子の青空市、数冊の古本が出展されていたなかに加藤の「戦後入門」(ちくま新書)があった。それ以来、図書館で加藤の本を見つけては読んでいる。私にとって加藤の文章は魅力的だが難解。しかし死後に編集された本書は短い文章を集めたこともあって、非常にわかりやすい。私には戦前に山形県の特高警察に勤め、戦後は警察署長にもなった実父のことを書いたエッセーが気に入っている。私も含めて学生運動に参加した学生は大なり小なり親との葛藤を抱えていた。その中で最大のものは親が警察官だ。加藤も加藤の父親もそのことから逃げることはなかった。

4月某日
週2回のマッサージの日。「モリタさん、ずいぶん凝ってますね」と言われる。思い当たることはある。テレビの観すぎ。昨日の夕方、「孤独のグルメ」「YOUは何しに日本へ」「鶴瓶の家族に乾杯」「呑み鉄本線日本旅」と4時間半ほどテレビを観続けた。長時間テレビを見た後はストレッチしましょう! マッサージのあと床屋。いつも通っていた近所の床屋が今年に入ってから閉店してしまい、1月から成田街道沿いの床屋にしている。近所の床屋さんは私より年長だったが、今度の床屋さんはかなり若そう。3500円。床屋さんのあと「コビアン」で食事。Aランチ770円(税込み)。
「BAD KIDS」(村山由佳 集英社文庫 2022年10月)を読む。初出は「小説スバル」
1994年2、5~7月号で単行本は94年7月に集英社から刊行されている。村山由佳は64年7月うまれだから、この小説を構想、執筆したのは20代最後の頃ではないだろうか。主人公及び主人公の友人たちは高校3年生。ラグビー部の隆之、プロの写真家を目指す都が主人公とくれば、青春小説となるが、この小説は単純に青春小説という枠には収まり切れない。隆之はラグビー部の親友に恋心を抱き、都の従兄で著名なピアニストの篠原光輝はゲイを公言している。最近、性的マイノリティに対する市民的権利への配慮などが言われ始めているが本書が構想、執筆されたのは30年前である。村山由佳は当時から「進んでいた」と言わざるを得ない。

4月某日
「ミス・サンシャイン」(吉田修一 文藝春秋 2022年1月)を読む。図書館で借りて、家で改めて本書を手に取ると「あっこの本読んだことがある」と気がつく。奥付からすると一年くらい前に読んだことになるが内容はほとんど覚えていない。以前は自分の記憶力の減退にショックを受けたものだが、現在は少し違う。中身を覚えていないということは新しい本を読むと同じこと、新鮮な気持ちで読めると思うことにした。本書の主人公は大学院で映画、演劇史を学ぶ岡田一心。指導教官から紹介されて往年の大女優、和楽京子の荷物を整理するアルバイトをすることになる。アルバイト中に和楽京子(親しい人からは鈴さんと呼ばれている)から彼女の生い立ちや長崎での被爆体験が明かされる。女優となった京子はハリウッドにも招かれアカデミー賞の候補ともなり、女優として絶頂期を迎える。しかしこのとき彼女は、同じく被爆した親友の佳乃子を原爆症で失う。一心も喫茶店のウエイトレスと恋に落ちるがやがて相手は去っていく。一心には小学校5年生のとき9歳の妹を失った過去がある。本書は死、別離と再生の物語である。帯に「鈴さんの哀しみが深く伝わってきました」という大女優、吉永小百合の言葉が紹介されている。深く納得!

4月某日
「82年生まれ、キム・ジヨン」(チョ・ナムジュ 筑摩書房 2018年12月)を読む。発行当時かなり話題になった本だが、遅ればせながら図書館で借りた。一読して大変面白いと感じた。主人公はタイトルの通り1982年生まれの韓国女性のキム・ジヨン。父親は公務員で母親は専業主婦だが、この母親の描かれ方にこの小説のテーマが潜んでいる。父親は早期退職し、退職金を元手に商売を始めるのだが、商売の主導権は完全に母親が握る。父親が公務員時代の仲間と呑んで家に帰ってから、仲間の中でオレが一番の成功者だったと自慢するが、母親に「おかゆ屋も私がやろうって言ったんだし、このマンションだって私が買ったんだ。(中略)私と子供たちに感謝してよね。酒臭いから今日はリビングで寝てちょうだい」といなされる。韓国社会で女性が困難さの中で自立を果たして行く物語と一言で言うとそうなるのだが、韓国社会に残る差別的・封建的な遺制とか、それと密接につながると思われる少子化の問題など、日本にとっても他人事とは思えない問題を、深刻にかつユーモアを交えて描いている。

モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
大学のときの同級生で今、西新橋の弁護士ビルで事務所を開いている雨宮弁護士を訪問。少し遅れて同じ同級生の内海君が来る。3人で弁護士ビルの1階にある割烹「舞」に行く。ビールで乾杯した後、日本酒をいただく。内海君は飲めないのでウーロン茶。お刺身の盛り合わせや鴨鍋などをいただく。私たちは1968年の入学で1972年に卒業した。確か1年28組でクラスには50人以上が在籍していた。学生運動が盛んな時期で私たちのクラスも民青系と反民青系に分かれていた。クラス委員の選挙では私がいつも民青系の清君に大差で負けていた。秩序派が民青と手を結んだためである。しかし雨宮、内海、そして岡、島崎、小林、吉原君、女子では今は清君の奥さんになっている近藤さん、私の奥さんの小原さんは私を支持していてくれた。あれから50年以上経っているけど、元気なうちは一緒に酒を呑みたいね。

4月某日
「無人島のふたり-120日以上生きなくちゃ日記」(山本文緒 新潮社 2022年10月)を読む。著者は1962年生まれ、2001年「プラナリア」で直木賞、「自転しながら公転する」で中央公論文藝賞を2021年に受賞する。2021年4月、著者はステージ4bの末期の膵臓がんと診断される。本書はその年の5月から亡くなる10月までの日記である。私も何人かの友人をがんで亡くしている。会社の同僚だった大前さんや本田さん、年住協の部長から結核予防会の専務になった竹下さんがそうである。今回、本書を読んで末期がん患者の心理の一端を知ることができた。末期がんの患者を見舞うのは辛いことである。そのため私は見舞いを控えた記憶がある。しかし辛いのは何よりも患者本人であることが本書を読んでよく分かった。

4月某日
「結婚は人生の墓場か?」(姫野カオルコ 集英社文庫 2010年4月)を読む。主人公は小早川正人、大手出版社に勤務し、年収は1000万円以上。普通は人も羨む境遇である。だが小早川の実情は違う。ローンに追われ、仕事に追われ、趣味の散歩すらままならない日常。姫野カオルコは「結婚は人生の墓場である」と言いたかったのか?まぁそれもあるかも知れないが私としては、人生の幸福は収入や勤め先にあるのではなく、家族や友人たちに恵まれることではないか、と思ってしまう。姫野さん、違いますかね?

4月某日
家にあった村田沙耶香の小説を2冊続けて読む。「地球星人」(令和3年4月 新潮文庫)と「消滅世界」(2018年8月 河出文庫)。「地球星人」は家族と馴染めない少女、奈月が主人公。毎年夏におばあちゃんのいる長野へ家族旅行する。そこで会ういとこの由宇と結婚の約束をしている。奈月は塾の講師から性的いたずらを連続して受け、講師を殺害するが事件は迷宮入りに。10数年後、長野の家に由宇が移住しそこを奈月が訪れる…。「消滅世界」は近未来の東京が舞台。夫婦のセックスは近親相姦として禁止され、妊娠は性交によらず人工授精が原則。主人公の雨音によると「家族というシステムは、生きていく上で便利なら利用するし、必要なければしない。私たちにとってそれだけの制度になりつつあった」ということだ。性や家族が村田沙耶香のテーマなのだ。「消滅世界」を読んでいて私は全体主義国家の社会を連想してしまった。出産さえも、そしてセックスさえも国家にコントロールされる社会だ。少子化に歯止めがかからない日本では出産一時金の増額などが実施されるようだが、私にはちょいと「いやな感じ」。

4月某日
「女たちのジハード」(篠田節子 集英社文庫 2000年1月)を読む。単行本は1997年1月に発行され、本作で同年の直木賞を受賞している。中堅損保会社に勤めるOLたちの暮らし、恋、夢を描く連作が13編。本作が出版された97年は今から26年前、当時のOLの暮らしはほぼ30年ほど前のものと考えていいだろう。小説中に携帯電話は登場しないのが、現在の暮らしと違うくらいで、それ以外はまったく古びていない。当時とは格段に女性の社会進出が進んでいるが、社会の意識はそれに追いついていないように思う。解説は田辺聖子先生。田辺先生が解説を書いたのは70歳くらいのときか。田辺先生が大阪の働く女たちを活き活きと描写した小説を執筆したのは半世紀ほど前のことだろうか、携帯電話などもちろんなく、女たちは親と同居か四畳半の風呂無しアパートに住んでいた。でも田辺先生の小説は未だに香気を失っていない。「女たちのジハード」も同様である。

4月某日
「ミライの源氏物語」(山崎ナオコーラ 淡交社 2023年3月)を読む。著者の山崎ナオコーラはフェミニズム系の小説家と思っていた。それはそれで大きく間違ってはいないと思うのだが、本書は山崎の視点からの現代的な源氏物語論。ルッキズム、ロリコン、マザコン、ホモソーシャル、貧困問題など14の視点からの源氏物語論だ。山崎は國學院大學日本文学科卒で卒業論文は「『源氏物語』浮舟論」。私などと違って真面目に授業を受けていたようで本書でも各章に源氏物語の原文とそれにたいするナオコーラ訳が添付されている。源氏物語は私の浅薄な理解では光源氏という地位も財産もある持て男が、多くの女性と恋愛をしまくる話だが、山崎はその源氏物語をジェンダーの観点から読み解いて行く。源氏物語の冒頭は「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらいたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありける」という有名な文章から始まる。桐壺帝に寵愛された桐壺更衣の紹介である。桐壺帝と桐壺更衣の間に生まれたのが光源氏。桐壺更衣は早世し、光源氏によって理想化され、山崎によれば「ゆがめられていく」のだが、山崎の見立てではそこにこそ真実がある。「どの性別であろうと、誰だって、世間の中でゆがめられています。世間の中でしか自分の形を作れません。…みんな他者の視点によって、自分の姿を形作られています」。

モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
「孤塁-双葉郡消防士たちの3.11」(吉田千亜 岩波現代文庫 2023年1月)を読む。双葉郡とは福島県浜通りの郡の名で南をいわき市、北を南相馬市に接する。双葉消防本部は、広野町、楢葉町、富岡町、川内村、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村の6町、2村からなる双葉地方広域市町村圏組合の、組合事業の一つとして消防業務を行っている。本書は2011年3月11日に発生した東日本大震災と福島第1原発の事故に不眠不休で対応した消防士たちのドキュメントである。私はこの本を読むまで福島県南部の沿岸部で、震災時に多くの消防士たちの死を覚悟した救援活動があったことを知らなかった。あらためて医師や看護師、警察官や自衛官と並んで消防士その他のエッセンシャルワーカーに敬意を表したい。私は震災2カ月後に取材でライター、カメラマン、編集者と一緒に石巻に入った。仙台を早朝にカメラマンの運転するレンタカーで立ち、石巻の被災地や避難所を取材した。その後も気仙沼や山田町、そして本書に出てくる双葉郡を訪れたのだが、消防士たちの活躍を知ることはなかった。これはたぶん私だけの問題ではないと思う。戦災を含む災害の取材には情報の制約が付きまとう。取材者は限られた情報の中から一部を取り出して市民に情報を届けざるを得ない。その意味では著者の吉田が、災害後、数年たってからこの取材を始めたことは、災害の記憶をより深く留めることになったと思う。

4月某日
4月になって最初の日曜日。「天気晴朗なれども花粉多し」である。外出を控えてテレビと読書に専念する。BS1で六角精児の「呑み鉄本線日本旅」を観る。今回は新潟県に次いで造り酒屋が多い長野県を旅する。長野といえば蕎麦も有名、六角さんは蕎麦屋も訪れ、蕎麦とともに日本酒を堪能する。日曜日2時からはフジテレビでドキュメンタリー番組を観るのが恒例。今日は18歳で栃木から浅草のフレンチレストランに務めることになった女性の2年間を追った。結局、彼女はレストランを辞めてしまうのだが、私の20歳の頃を想うと「しかたないよ。またがんばりな!」と声を掛けたくなってしまう。
「花粉症と人類」(小塩海平 岩波新書 2021年2月)を読む。今年の花粉の飛散量は去年の10倍とか言われている。イングランドの牧草花粉症、アメリカのブタクサ花粉症と日本のスギ花粉症はあわせて世界の三大花粉症といわれているらしい。米英をはじめとした先進国の花粉症研究の紹介が手際よくなされている。そのうえで「ヴィクトリア朝後期はイギリスの上下水道が整備された時期であり、環境衛生が向上して感染症や寄生虫が減ったこと、また富裕層における牛肉や羊肉、ミルクやチーズの摂取量が増え、免疫に関するタンパク質量が増加したことなども、花粉症患者増大の引き金となったはずである」と述べている。要するに文明化が花粉症患者増大の一因という考え方だ。私は深く共感する。私の考えではコロナも武漢郊外の森の深くに潜んでいたウィルスが、開発を要因として人類と接触したのが地球規模の大流行の始まりではないか。自然との共存、人類以外の生きものとの共存が今こそ求められている。

4月某日
「日本神話はいかに描かれてきたか-近代国家が求めたイメージ」(及川智早 新潮社 2017年10月)を読む。明治維新により政権は徳川幕府から新政権へ移行した。新政権の頂点には幼い明治天皇が就いたが、政権としては支配の正当性を明らかにする必要があった。教育現場でも江戸期には顧みられることのなかった「古事記」「日本書紀」の神話が天皇の国土統治の由来を説くものとしてとりあげられることとなった。その際、多くの国民にイメージを提供したのが画像である。著者は主として戦前期の教科書や商品パンフレットに残された画像を収集、分析して解析を加えている。イナバのシロウサギ伝説は記紀に由来するが、この物語でシロウサギに騙されるワニとは何を指すのか。2説があって日本には生息しない熱帯由来の鰐なのか、あるいは鮫や鱶の類いなのか。著者は「ワニという概念は、鰐であり、鮫であり、海蛇であり、龍であったといえよう。つまり、それらすべてを含む、水に棲む威力のある想像上の存在を指示する語としてあったとするべきである」と断言する。ワニが現実の生物である鰐か鮫であるかを議論するのは「近代的合理主義」というのである。私は著者の見解に賛成である。

4月某日
「無限の玄/風下の朱」(古谷田奈月 ちくま文庫 2022年9月)を読む。古谷田奈月は我孫子出身。というわけで最新作の「フィールダー」も読んだけれどあまりよく理解できず。「無限の玄」は文庫の裏表紙のコピーによると「ブルーグラスバンド『百弦』のリーダーにして一家の長である宮嶋玄は、家でひとりで死んだにもかかわらず、なぜか毎日蘇っては死に続ける。その不条理な繰り返しに息子たちは蝕まれていく」、「風下の朱」は同じく「魂の健康を求めて野球部を作ろうとする侑希美さんの下に集まった私たちは、しかし理想と現実の間で葛藤する」となっている。「無限の玄」の登場人物は男性だけ、「母の不在」もテーマか。一方、「風下の朱」は女子大が舞台だけに女性だけが登場する。こちらは「男性性の不在」がテーマか。というかむしろ「女性性」とは何かに迫っているような気もする。しかし著者の野球の知識は半端ではない。

4月某日
「丸の内線療法少女ミラクリーナ」(村田沙耶香 角川書店 2020年1月)を読む。表題作を含め4編の中編小説が掲載されている。表題作は小学校3年生から魔法少女ミラクリーナに変身できるようになった30代の女性会社員茅ヶ崎リナが主人公。もちろん実際に変身することなど不可能なのだが、リナは変身を装うことにより難関を回避してきた実績がある。たとえば急な残業を頼まれたときも、秘かにミラクリーナに変身し笑顔で残業を引き受ける。小学校以来の変身仲間のレイコの同棲相手も変身ゲームに加わることになるのだが。村田沙耶香は性の問題に取り組んできた小説家と思うが、この表題作に限りセックスの話は後景に退く。一種のよくできたドタバタ劇として私は読んだのだが、それはそれで快適な読後感であった。他の3つの中編、「秘密の花園」「無性教室」「変容」は著者が年来のテーマとする性が主題。表題作を含め「クレイジー沙耶香」の面目躍如ということか。古谷田奈月は我孫子市出身だが、村田沙耶香は我孫子市の東北に位置する印西市の出身である。

4月某日
「マルクス-生を呑み込む資本主義」(白井聡 講談社現代新書 2023年2月)を読む。白井聡は1977年生まれの政治学者なんだけど、本書を読むと白井のフィールドは政治学に止まらずもっと広い。本書ではマルクスの思想を「経済学哲学草稿」「共産党宣言」「経済学批判」「資本論」などの著作から拾い上げ、現在の日本や世界の動向を考えながら解説している。「はじめに」で「資本主義は近代文明社会を築き上げたが、その資本主義のメカニズムによって文明に終止符が打たれようとしている」とし「このメカニズムを最初に見抜き、徹底的に解明したのがマルクスだった」としている。マルクスの思想の淵源はヘーゲルにある。マルクスはヘーゲル左派のフォイエルバッハを批判することによって宗教一般の批判、さらに資本主義批判を行う。「資本主義社会では労働力が商品化され、労働過程とその生産物が利潤追求の道具となるために、働く者は自らの労働の主人公でなくなってしまう」のだ。マルクスは、「人間による人間の支配がある限り、それは本来の意味での人間社会ではない」「その支配がなくなったときはじめて、人間の本当の意味での歴史が始まる」とし、「共産主義社会とは、そのような支配なき社会を指すものだ」とする。共産主義を目指す政党や組織はそこのところを本当に理解しているのだろうか。

モリちゃんの酒中日記 3月その4

3月某日
「思想史の相貌-近代日本の思想家たち」(西部邁 世界文化社 1991年6月)を読む。先週読んだ「日本の保守とリベラル」(宇野重規)では福沢諭吉や福田恒存について多く論じられていた。福沢諭吉はリベラリストとして福田恒存は保守派として論じられていた。そういえば西部に福沢や福田を論じた本があったなと本棚の奥から探してきたのが本書である。本書が書かれたのは今から30年以上前だが、一読してまったく古さを感じなかった。60年安保ブントを率いた西部は、現在も革共同全国委員会の議長を務める清水丈夫と確か東大経済学部の同期で親しかった筈。それはさておき本書では保守の水脈の先端に福田恒存がいるのに対し、その起点には福沢諭吉がいる、としている。諭吉といえば、幕臣から明治新政権の高位に着いた勝海舟と榎本武揚を批判した「瘦我慢の記」があるが、本書では勝や榎本が「荷物をば担わずして休息する者」の代表者とみえたからである、としている。福田恒存については私は彼の著作を読んだことがないので論評はできない。しかし「あとがき」で「何を隠そう、私の思想の師は福田恒存その人なのであり、本書を携えて氏にお会いさせてもらうべく大磯に出かける楽しみが私を待ってくれているわけなのである」と記しているのを読むと、西部の福田への傾倒ぶりがうかがえるというものだ。

3月某日
「僕の女を探しているんだ」(井上荒野 新潮社 2023年2月)を読む。帯に「大ヒットドラマ『愛の不時着』に心奪われた著者による熱いオマージュの物語」とある。「愛の不時着」は観ていないのですが、仄聞するに「北朝鮮に不時着した韓国の令嬢と北朝鮮将校の恋物語」らしい。本書は9編の恋物語の連作。共通するのは「イ…」と名乗る長身、イケメンが恋物語の主人公を助けてくれること。彼は異国出身で日本に来てから日が浅い。韓国出身とは明示されていないが、「イ…」と名乗ることから韓国から来たことが示される。彼は愛する人を探しに日本に来た。タイトルがそれを示している。瑞々しい恋の物語に私はすっかり感動してしまった。今年75歳になるんですが、まっいいか。

3月某日
「この世界の問い方-普遍的な正義と資本主義の行方」(大澤真幸 朝日新聞出版 2022年11月)を読む。本書は朝日新聞出版の月刊PR誌「一冊の本」の連載を再編集し、加筆したものという。内容は「ロシアのウクライナ侵攻」「中国と権威主義的資本主義」「アメリカの変質」「日本国憲法の特質」の4章建て。東大社会学の見田宗介ゼミの出身。本書を読む限りについては大澤の主張には反対すべきものはなかった。ロシアにとってウクライナは「ほとんどわれわれ」だったが、そのウクライナが親西欧の大統領を選択しEUやNATOへの加盟を準備しているという―これをロシア、プーチンは許容できなかったのだ。その根底にあるのは「プーチンの、(さらに一般化すれば)ロシア人の、ヨーロッパ(西側)に対する劣等感とルサンチマンだ」としている。この劣等感を解消させるのは「自らがヨーロッパ以上のヨーロッパたりうることを示し」、自国政府つまりプーチンとその政府を「打倒し、戦争を終結させることである」と宣言する。私が思うにロシアのウクライナ侵攻は日本帝国の韓国併合、中国大陸侵略、満洲国建国を思い浮かべさせる。さらに大澤は日本人および日本の政治家に対し、ウクライナの側に立つにあたって、「それが国益にかなっているかだけを考えている」「何がグローバルで普遍的な正義に貢献できるのか、という観点を持っていない」と批判する。ウクライナを訪問した岸田首相のお土産が必勝と書かれた広島のシャモジだったという。「グローバルで普遍的な正義」のカケラも見られないではないか。
中国の現状を権威主義的資本主義とする大澤は、資本主義が発展すると「ある段階で、十分な生産力の発展を阻害するものになる。このとき、(資本主義的な)生産関係を変える革命が起き、社会主義が到来する」というマルクス主義の法則をあげ、中国ではまったく逆のことが起きているとする。中国では「社会主義的な生産関係が、生産力の発展に桎梏となっていた」ために、「改革開放」によって「生産関係を、資本主義的なものへ転換した」のである。大澤が危惧するのは権威主義的資本主義は中国だけでなく資本主義の本家たる米国にも及ぼうとしていることだ。GAFAMに代表されるIT企業は「サイバースペース上の私的所有権を活用して利益を得ている」。この私的所有権は国家権力によって保障されている。これは「権威主義的資本主義ではないか」というのが大澤の危惧である。大澤は「資本主義の行き着く先が、権威的資本主義であるとすれば、結局、求める社会は、資本主義そのものの超克を含意していることになる」と主張する。どうするニッポン、日本資本主義。

モリちゃんの酒中日記 3月その3

3月某日
監事をしている一般社団法人の理事会が東京駅近くの貸会議室であったので出席する。会議の冒頭、弁護士でもある会長さんが再審の期待される袴田事件に触れた挨拶をした。弁護士だけに正義感が強いのだろう。理事会終了後、上野の東京博物館へ。特別展で京都の東福寺の寺宝が展示されていた。仁王像など鎌倉期の彫刻に圧倒される。谷中を通って根津へ。千代田線で我孫子へ、我孫子駅北口の「やまじゅう」で一杯。

3月某日
「裏表忠臣蔵」(小林信彦 新潮文庫 平成4年11月)を読む。忠臣蔵、子どもの頃、正月に映画で何回か観た記憶がある。確か浅野内匠頭が中村錦之助、大石内蔵助が片岡千恵蔵だったような。NHKの大河ドラマでもやったかなぁ。大石内蔵助が長谷川一夫ね。ただ私たちの知る忠臣蔵は歌舞伎の忠臣蔵をもとにした映画やテレビドラマのイメージで史実とは異なっている。本書は事件当時の関係者の日記や記録をもとにして批判的な考証が加えられているのが特徴。赤穂の浅野家では士分以上の者が二百十余騎あったが、五万石の家中の標準が七十騎だから通常の3倍の軍備を持っていたことになる。過剰な軍備を支えるために領民に過酷な負担を強いた。内匠頭が切腹したとの報を耳にした多くの領民は快哉を挙げたという。ちなみに著者の小林は今年90歳になる。長命ですね。

3月某日
「物価とは何か」(渡辺努 講談社選書メチエ 2022年1月)を読む。10年前、財務省出身の黒田東彦氏が日銀総裁に就任し、2%の物価上昇を2年で達成すると公約した。昨年まで物価上昇率は0%近辺で上下して公約は果たされることはなかった。ところが今年1月の消費者物価指数(CPI)は104.3で前年同月比4.7%上昇した。円安で輸入物価が上昇したことに加えてロシアのウクライナ侵攻による原油高が影響しているようだ。日銀が苦労しても実現できなかった2%の物価上昇をウクライナでの戦争が実現させてしまった。本書が執筆されたのは2021年であり、物価の上昇が起きる前だ。しかし東大経済学部卒業後、日銀に勤務しその後、東大大学院経済学研究科教授を務める著者は、物価のメカニズムについて丁寧に説明してくれる。とは言え経済学の素人の当方としては著者の言説を理解できたとは言えない。私が理解できたのは「インフレもデフレも気分次第」ということと、それを裏付けるベン・バーナンキFed議長の「中央銀行の行う金融政策は98%がトークで、アクションは残りの2%に過ぎない」という発言くらいである。

3月某日
「日本の保守とリベラル-思考の座標軸を立て直す」(宇野重規 中央公論新社 2023年1月)を読む。昔と言うか20年くらいまでは「保守とリベラル」という言い方はしてこなかった。保守vs革新という図式で保守は自民党が代表し、革新は社会党、次いで共産党が代表していた。東京都や大阪府、京都府、大阪市や横浜市に社共共闘をベースに革新系の知事や市長が誕生したのは半世紀も前である。リベラルという言葉が頻繁に使われ出したのは社会党がほぼ消滅し民主党が政権をとった頃かも知れない。著者の宇野は思想としてのリベラルに注目し、福沢諭吉や石橋湛山、丸山眞男や丸山の師、南原繁をリベラルの系譜に登場させている。それ以外でも鶴見俊輔、清沢冽があげられている。一方の保守では代表的知識人として福田恒存を挙げている一方で、伊藤博文を「明治憲法を前提に、その漸進的な発展を目指したという点では、伊藤は近代日本における『保守主義』を担ったといえる」と評価している。宇野の分析で興味深いのは「保守リベラル」という視点である。戦後、短期間ではあったが政権を担当した石橋湛山をはじめ、池田勇人を淵源とする宏池会の面々が「保守リベラル」に相当する。大平正芳、宮澤喜一、加藤紘一などであり、現首相の岸田文雄もそれに連なる。宏池会は岸信介から安倍元首相に至る清話会が軍備の増強をはじめタカ派路線をとるのに対して軽武装と経済重視の路線を掲げた。岸田首相がどれほど宏池会の路線を継承しているか、疑問の残るところではある。しかし昨日来、報じられている「ウクライナへの電撃訪問」の記事を読むと、多少の期待は残るのである。宇野が福沢諭吉と福田恒存を評価しているのを読んで、西部邁もこの2人を評価していることを思い出した(「思想史の相貌-近代日本の思想家たち」 1991年6月 世界文化社)である。

3月某日
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の決勝戦が日米で戦われた。朝7時からのTV中継を観ていたら歯医者の予約時間が来てしまった。家から歩いて7~8分の石戸歯科クリニックを訪問。診察台に着席すると歯科衛生士のお姉さんが「森田さん、野球観てましたか?」と聞くので「大谷が内野安打で一塁に行ったところまで」と答える。「帰ったらゆっくり観てください」と言われる。歯医者から帰るとすでに決着は着いていて3対2で日本の勝利であった。降圧剤がなくなったので15時過ぎに中山クリニックへ。「どうですか?」「はぁ花粉症が…」「花粉症の薬を出しておきましょう」。中山クリニックから大手薬局チェーンのウエルシアへ。家に帰って外出の準備。本日は18時に根津で友人の石津さんと待ち合わせ。18時ちょうどに石津さん登場。初めて行く中華「安暖亭」へ。割と安くて美味しい店だった。