モリちゃんの酒中日記 6月その3

6月某日
「ゆうべの食卓」(角田光代 オレンジページ 2023年3月)を読む。オレンジページというのは「料理雑誌オレンジページなどを出版する出版社」(ウイキペディア)ということ。「本書は『オレンジページ』2020年7月2日号~2023年2月17日号に掲載された「ゆうべの食卓」に、新たな原稿を加え、再構成したものです」と巻末に載せられている。ひとりの、二人の、家族の食卓の風景…。なんかいいなぁ。表紙と本文中のイラストが洒落ている。

6月某日
11時30分からマッサージ。マッサージ店のすぐ前のバス停「若松」から「我孫子駅前」に乗車。八坂神社前から床屋さんまで徒歩5分。床屋さんで髪を短くしてもらって、公園坂を下って手賀沼のほとりまで歩く。平日のお昼時だが家族連れが何組かいた。家へ帰って遅い昼食。
「Nの廻廊-ある友をめぐるきれぎれの回想」(保阪正康 講談社 2023年2月)を読む。Nとは5年前に自裁した思想家の西部邁のこと。著者の保阪は西部の1歳下(保阪は1939年生まれ、西部は38年生まれ)で同じ中学へ列車と電車で通う仲だった。保阪は札幌東高校から同志社大学へ、西部は札幌南高校から東大へと進学し、二人の交流はいったん途切れる。しかし西部が東大教授を辞め、保阪が昭和史のドキュメントを発表するころから二人の関係は復活する。読んでいて保阪の西部に対する親愛の情と尊敬の念がひしひしと感じられた。西部には一度、講演をお願いしたことがある。年金住宅福祉協会が帝国ホテルで月1回の朝食会兼の勉強会があり、その講師を頼みに行ったのだ。当時、年住協の企画部長をしていたのが竹下隆夫さんで、竹下さんは前職が冬樹社という文芸出版社の編集長で西部とも面識があったのだ。朝食会なので朝が早く、西部には部屋を用意したのだが現れなかった。しかしさすがプロというべきか、時間通りにちゃんと現れて講演もそつなくこなしていた。そんなことも思い出した。

6月某日
「Nの回廊」を読んで西部邁のことをもう少し知りたくなった。我孫子市民図書館のHPで西部を検索する。出版年月日が現在に近い順から表示されるのだが、最初に表示されたのが「達人、かく語りき」(沢木耕太郎 岩波書店 2020年3月)だったので早速借りることにする。吉本隆明、吉行淳之介、田辺聖子ら10名との対談集である。西部とは5番目に「1960年代を中心に」というタイトルで収録されている。この対談での西部は皮肉屋の側面を見せずに自分の60年代を淡々と振り返っている。日米安保の空前の反対闘争が闘われた1960年は日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎が、演説中に日比谷公会堂で山口二矢に刺殺された年でもある。西部が保阪と通学した中学は札幌の柏中学だったが、山口二矢は柏中学で4年後輩だったと対談の中で明らかにされている。何といってもこの対談集の圧巻は巻頭におさめられた吉本隆明との対談であろう。沢木はこう記している。「実際に寿司屋の二階でお会いすると、吉本さんは対談のためのノートを作ってきており、それをもとに話を進めてくださった。話す中で、吉本さんが私の作品の多くを読んでくれていることを知った」。沢木の吉本に対する敬意の念が伝わってくる文章である。

6月某日
立川に本部のある社会福祉法人にんじんの会の評議員会に出席。我孫子から新松戸、新松戸から西国分寺、西国分寺から立川へ。立川駅から本部まで歩いていると「モリタさん」と声を掛けられる。理事長の石川はるえさんである。本部に行くと評議員で厚労省OBの中村秀一さんや吉武民樹さんも顔を出す。決算報告を受けるがコロナ禍にもかかわらず収入も利益も増加している。経営陣の努力もあるが職員が自分事として業務の改善に取り組んでいることを評価したい。評議員会後、近くの美登里寿司で食事。

6月某日
監事をしている一般社団法人の総会が東京駅八重洲口の会議室で開催されるので東京駅へ。会議が1時30分からなので八重洲口界隈でランチ。再開発から取り残されたような居酒屋で天丼定食をいただく。700円は安い。総会は無事終了。17時30分から有楽町で堤修三さんとの会食があるので有楽町まで歩く。予約してある「呑み処五島」は東京交通会館の地下1階にある。地下1階にはピアノが置かれていて街角ピアノとなっている。ベンチに座って聴いていると堤さんが来る。堤さんは「外では酒を呑まないようにしている」とかで、生ビールの後はウーロン茶。私はビールの後は水割り。有楽町で私は上野へ、堤さんは恵比寿へ。

モリちゃんの酒中日記 6月その2

6月某日
「マルクスに凭れて60年-自嘲生涯記 増補改訂新版」(岡崎次郎 航思社 2023年2月)を読む。本書はもともと1983年に青土社から出版されたものを増補したものだ。だが、著者の岡崎次郎を知る人は今や少ないだろう。私も呉智英や佐藤優が岡崎のことや本書のことについて語っているのを知って、本書に出会った。岡崎は明治37(1904)年生まれ、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学及び哲学史学科を卒業、次いで昭和4(1929)年に同大学経済学部経済学科卒業。年譜には昭和8年まで断続的に著述業となっている。空前の不景気だったうえに経済学科でマルクス経済を専攻したのが影響したと思われる。昭和8年に東亜経済調査局に入局。ここのトップは大川周明だった。昭和12年に第一次人民戦線に連座して検挙、2年間の拘留の後、起訴猶予となり釈放される。要するに岡崎は高校生の頃からマルクスの思想に魅かれ、マルクスの書籍を翻訳するようになったのである。東亜経済調査局の満鉄復帰に伴い、満鉄調査部員となる。ろくに仕事をせずに碁を打ってばかりいたという。高校時代に覚えた麻雀も強かったようである。終戦により帰国、翻訳業・雑文業により生計を維持する。昭和25年、九州大学教養部教授に就任、昭和30年に法政大学経済学部教授、昭和43年に当時中核派が主導していた法大の学生運動に嫌気がさして教授を辞任、以後著述業に専念する。
書名の「マルクスに凭れて…」はマルクスの翻訳で翻訳料や印税を受け取ってそれで生活費その他を賄ってきたことを指している。本文中にももちろん出てくるが、解説で市田良彦が「いったい岡崎は時価総額2億円を下るまい収入(給与を除く)を、自宅も建てずに何に使ったのか」と書いている。市田はさらに「彼は文字通りマルクスに『凭れて』生きたのだ。九州大学と法政大学で使う教科書以外の著書はなく、論文と呼べる仕事もない。…画家でも作家でもなく「研究者」でもなく、労働者や資本家でもない「知的生産者」が、マルクスのおかげで存在しえたのだ。今でいう富裕層として」と書く。それでもなおかつ本書で描かれる岡崎の自画像は憎めない。私たちは学者というと、とかく堅物と思いがちだが、本書の岡崎は「飲む打つ買う」の三拍子そろった遊び人の一面を持つ。打つは碁と麻雀、買うは買春である。買春について本書に具体的な記述はないが、体調を崩して入院したとき「わかったのは、骨髄液まで採取して調べてみても梅毒の気がまったくないということだけだった」と記されている。買春行為があったことをほのめかしていると思える。
本書でマルクスの思想について真面目に論じている箇所も少ないがある。第Ⅻ章「マルクスから学んだもの」である。そこで著者は「資本主義から社会主義への移行の諸条件-プロレタリートによる世界解放の歴史的諸条件-もまた国によって地域によって大いに異なることがありうる…現在および将来の体制変革の有り様は、場合によっては数百年にわたる長い目で見ないかぎり、けっして一様ではない」としている。これには私ももろ手をあげて賛成である。しかし続けて「第二点はプロレタリアートによる国家権力の掌握、すなわち「プロレタリアートの独裁」の確立である」として「これを認めなければ、たとえ資本主義を否認するとしても、結局は改良主義か無政府主義のどちらかに堕することになる」と断じている。この考えには同調できない。私は今、プロレタリア独裁こそが諸悪の根源だと思っている。著者のいう「改良主義か無政府主義」の立場こそ私に近い。プロ独=レーニン主義ではなかろうか。レーニン主義には賛成できません。

6月某日
東京交通会館の地下1階のギャラリーで開催されている宮島百合子さんの水彩画展を観に行く。会場で17時に社保研ティラーレの佐藤社長と待ち合わせ。少し早く着いたのでピアノ演奏のスペースで読書。佐藤社長と会場へ。フランスとその周辺の風景画がテーマ。教会などの宗教施設が巧みに描かれている。カトリック文化の伝統を味わう。佐藤社長と別れて私は千代田線の日比谷から我孫子へ。我孫子では北口の庄屋で一杯。

6月某日
「永遠と横道世之介」(上下)(吉田修一 毎日新聞出版 2023年5月)を読む。横道世の介シリーズは本作を含めて3冊が刊行されている。1冊目が09年に出版された「横道世之介」、2冊目が19年の「おかえり横道世之介」。1冊目の世之介は長崎から大学入学のために上京した18歳だったが、本作では39歳のカメラマンで「ドーミー吉祥寺の南」という下宿のオーナー、あけみさんと「ドーミー吉祥寺の南」で同棲している。本作は「ドーミー吉祥寺の南」の住民たちの日常を描くのだが、あけみさんの祖母が「ドーミー吉祥寺の南」が建つ土地を取得した経緯や世之介が惚れていて早世した二千花の思い出、さらに長崎での世之介の両親の出会いと世之介の誕生などが描かれる。誕生繋がりで世之介のアシスタント、エバ(江原)くんの結婚と子どもの誕生も。そう盛り沢山のエピソードが目まぐるしく展開するのである。これらの日常は子どもの難産、二千花の余命の短さなどの困難を抱えつつも克服されていく。誰かの超人的な努力によるのではなく、世之介というキャラクターの持つ雰囲気が困難を克服していくのである。「雰囲気が困難を克服するだと!そんなわけないだろう!」と怒られそうだが私にはそう読めたのである。

6月某日
11時30分から週2回通っているマッサージへ。マッサージを終えてたまに外でランチをとることにする。マッサージ店の隣がインドカレーの店、向かいがラーメン屋とフランス料理屋、インドカレーの先が日本蕎麦屋とあるが、私はその先へ。いつも行列ができているラーメン「桂」を過ぎイタリア料理屋と天ぷら「程々」も過ぎ、我孫子農産物を売っているアビコンに到着。舞米亭というレストランに入り舞米カレーを注文、800円。我孫子産の野菜を使っているのが特徴。ここは基本はセルフサービスなのだが、私が行くと「いいですよ」と言っておばちゃんが配膳と片付けをやってくれる。申し訳なし。

モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
「近代日本の『知』を考える。-西と東との往来」(宇野重規 ミネルヴァ書房 2022年1月)を読む。近代日本の文化人、29人の短い評伝。瀬戸内寂聴の項では瀬戸内が「ぜひ、今も読んでもらいたい本を」と聞かれ「美は乱調にあり」と、その続編である「諧調は偽りなり」をあげたというエピソードが紹介されていた。伊藤野枝と大杉栄を主人公にした小説である。私はさらに、関東大震災直後に皇太子(後の昭和天皇)暗殺を企てたとして死刑判決を受け、後に栃木刑務所で縊死した金子文子の生涯を描いた「余白の春」も加えておきたい。瀬戸内寂聴は私にとって田辺聖子、林真理子と並ぶ文豪です。

6月某日
「真理の語り手-アーレントとウクライナ戦争」(重田園江 白水社 2022年12月)を読む。重田園江は1968年生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業。藤原保信ゼミ出身。1年間だけ日本開発銀行に勤めた後、東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政経学部教授。本書は「2022年2月24日、ロシアが突如としてウクライナに侵攻し、第2次世界大戦後では最も大規模な地上戦へと発展」したのを契機に、ハンナ・アーレントの思想を手がかりにウクライナ戦争と現代世界の不条理を読み解いたものである。園田はロシアのウクライナ侵攻を、特異な国家「おそロシア」の所業と見てはいけないとして、日本の満洲侵略やベトナム戦争を例に挙げる。「戦争において、侵略者の側はたくさんの嘘をつく。そして、その嘘に、自分たちも騙されるようになる」なんていうのも戦前日本に当てはまる。というか「平時においても、権力者の側はたくさんの噓をつく…」とも言い換えられる。安倍元首相のモリカケ疑惑のことである。ロシアの「秘密警察的なもの」に警鐘を鳴らした映画作品を手がけたロシアの映画監督ロズニツァにも多くのページが割かれている。重田は相当な映画好きと見られる。「あとがき」で本書を書くきっかけとしてロズニツァの「粛清裁判」「国葬」を鑑賞したことをあげ、「『早稲田松竹』の長時間の2本立ては容赦のないもので、学生時代を思い出し、うれしいような厳しいような5時間だった」と書いている。重田の思想を支えているのは正義感と優しさだと思う。それは終章に収められた次の文章からも感じられる。「お茶の水橋でビッグ・イシュー誌を売っているおじさんも、おそらく駅員の『お目こぼし』で日本の駅には珍しく地べたに座って『物乞い』をする池袋駅の老人も、通り過ぎる人たちはまるで彼らがいないかのように扱っている」。

6月某日
監事をしている団体の理事会に出席後、会場の八重洲から神保町の東京堂書店まで歩く。東京堂書店で「マルクスに凭れて60年」を購入。同書は資本論の訳者、岡崎次郎の著作で呉智英が絶賛していた。お茶の水の日高屋で冷麺を食べる。本格的な(と私には思える)韓国冷麺で美味しかった。お茶の水から御徒町へ。御徒町の吉池食堂で大谷源一さんと食事。私は生ビール、日本酒、ウイスキーの水割りをいただく。御徒町から上野経由で帰宅。

6月某日
「旅する練習」(乗代雄介 講談社 2021年1月)を読む。サッカー少女の亜美と叔父の小説家が、亜美の私立中学校合格祝いに常磐線の我孫子駅から鹿島アントラーズの本拠地である鹿島を目指して徒歩の旅に出る。「互いに家は県都境の川を挟んだところにあって」という記述があるので松戸と金町付近に住んでいると推定される。2人は常磐線で我孫子駅に降り立ち手賀沼公園から手賀沼沿いに歩き、利根川に至る。途中、就職が内定した女子大生と合流、旅を続ける。「旅する練習」というタイトルはサッカー少女の亜美がボールを蹴りながら旅することから。あまり期待しないで読み始めたが、旅をしながらの亜美の成長が描かれ楽しく読むことが出来た。

6月某日
マッサージ後、近くの天ぷら屋「程々」で天丼定食をいただく。確か以前食べたときには950円だったと思うが、1090円に値上がりしていた。値上げの季節!年金生活者には痛い。食事後、我孫子高校前から我孫子駅へ。成田線で湖北へ向かう。「旅する練習」を読んでちょいと刺激されたのだ。湖北には公団の湖北団地があり駅前もそれなりに栄えていたはずだが閑散としていてシャッターを閉めた店が多い印象。駅前を散策した後、湖北駅前から湖北団地を経て天王台経由我孫子駅行きのバスに乗る。いつもバスに乗っているアビスタ前で下車、バス代は300円くらいだったが障害者手帳を見せて半額で済んだ。

6月某日
「悪口と幸せ」(姫野カオルコ 光文社 2023年3月)を読む。姫野カオルコは「昭和の犬」(直木賞受賞作)、「彼女は頭が悪いから」(柴田錬三郎賞受賞作)を読んで面白かった。今回も面白かったのだが、私には登場人物の整理がつきかねる。「この本は、次の人が予約してまっています。」という黄色い紙が貼られているので、とりあえず図書館に返して半年ほどしたらまた借りることにしよう。

6月某日
「敗者としての東京-巨大都市の隠れた地層を読む」(吉見俊哉 筑摩書房 2023年2月)を読む。東京は外からの勢力に3度占領されたというのが著者、吉見の見解。最初は戦国時代の末期に徳川家康によって。二番目は戊辰戦争のときに薩長の官軍によって、三番目がアジア太平洋戦争の敗北により米軍によってである。本書の構成によると最初が「第Ⅰ部 多島海としての江戸-遠景」、二番目が「第Ⅱ部 薩長の占領と敗者たち-中景」、三番目が「第Ⅲ部 最後の占領とファミリーヒストリー-近景」で、それに総括として「終章 敗者としての東京-ポストコロニアル的思考」である。中南米を侵略したスペインによって、先住民の文明は粉々に破壊されつくされ、侵略者は「その瓦礫の大地にキリスト教会を立ててき」た。しかし東京はそうはならず、「これまでの三度の占領で、ゼロから新たに都市が立ち上がったのではなく、以前の都市に改変が加えられ、新しい要素が付け加えられ歴史的な地層が積み重なってきた」ということだ。本書を読んだ私の歴史の常識がいくつか変更を迫られた。私は縄文から弥生への移行は連続的に行われたと思っていたが、本書では弥生時代の稲作などの技術や生活様式は渡来人を通して中国大陸や朝鮮半島から入ってきたとし、それを担ったのは渡来人だったとしている。これって騎馬民族征服史観に近いんじゃないか。
第Ⅱ部では清水次郎長の実像ですね。戊辰戦争で幕府海軍の咸臨丸が駿河湾に漂着し、新政府軍から攻撃を受け、30名ほどの幕兵が惨殺され遺体は海に投棄された。新政府軍の報復を恐れて駿河藩も漁民も遺体を放置した。遺体を収容し葬ったのが次郎長である。このことは天田愚庵の「東海遊侠傳」に記されているそうで、このエピソードは神田伯山の講談や2代目広沢虎造の浪曲に採り入れられている。次郎長人気は戦後も続き、鶴田浩二主演「次郎長三国志」シリーズが撮られ、最近では中井貴一主演で「次郎長三国志」が08年に公開されている。吉見俊哉は映画やヤクザにも詳しいようだ。それもそのはず(?)で吉見の母は安藤昇の従妹だったことが第Ⅲ部で明らかにされる。まさにファミリーヒストリーである。この本は今年上半期(1-6月)に読んだ本の中でベスト5に残る面白さであった。

モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
「マルクス 資本論の哲学」(熊野純彦 岩波新書 2018年1月)を読む。「まえがき」で著者の熊野は「『資本論』は…この世界の枠組みを規定している資本制をめぐり…もっとも行き届いた分析を提供し、私たちが現在もなお、どのような世界のなかで生を紡いでいるのかを、その深部から歴史的に理解させてくれる、古典的なひとつである」と述べている。しかし一読して全体を理解することはかなわなかった。これはもちろん熊野の責任ではなく、私の浅学非才にある。だが終章の「交換と贈与-コミューン主義のゆくえ」は何とか理解できたように思う。コミューン主義とは熊野による共産主義の言い換えである。したがってマルクス/エンゲルスによる共産党宣言も「コミュニスト党宣言」であり、「宣言」がその綱領として起草された共産主義者同盟もコミューン主義者同盟とされる。私は共産主義という名辞の持つ古臭くて権威的なイメージが気に入らなかったのでコミューン主義への言い換えには賛成である。そういえば日曜日午前のバラエティー番組「サンデージャポン」に哲学者で東大でマルクスやヘーゲルを(多分)教えている斎藤幸平が出演していた。ウォーラーステインは、世界革命は過去二度起こっている。一度目は1948年、二度目は1968年と言っているそうだが、三度目は近いのかも?

5月某日
我孫子駅前の県民プラザで開かれている関口小夜子さんの「切り布絵展」を見に行く。関口さんは私より5歳上の1943年生まれ。何年か前まで日本共産党の市会議員を務めていた。ウチの奥さんがアビスタで開かれているダンベル体操に参加、そこで知り合ったそうだ。関口さんは岐阜県出身で切り絵はそこで育った幼い頃の日常を描いている。学校帰りにあまりに暑いので川で泳いでいたら男子に冷やかされた光景を描いた絵もあった。「パンツをはいているのが私。恥ずかしい」というキャプション。関口さんに挨拶する。元共産党と聞いていたが本人は上品でおしゃれなおばさんであった。

5月某日
「世界共和国へ-資本=ネーション=国家を超えて」(柄谷行人 岩波新書 2006年6月)を読む。「マルクス 資本論の哲学」で熊野純彦がこの本を「現在この国でもっとも創造的なマルクス読解のひとつをふくんでいると考えます」と評価していた。本書はタイトルの通り(地球に住む我々とその子孫は)「資本・ネーション・国家を超えて(カントのいう)世界共和国へ」(到達できるのだろうか?)という問い、そしてこれらを解決できなければ「われわれはこのまま、破局への道をたどるほかありません」という危機感によって書かれている。熊野は共産主義をコミューン主義と言い換えていたが柄谷はアソシエ―ショニズムと言い換える。これは「人々が知っている社会主義は、おおむね国家社会主義」という認識のもと、(アソシエ―ショニズムは)「カント的にいえば、『他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う』ような社会を実現することです」。本文の最後に老哲学者にして60年安保ブンドの活動家であった柄谷は、世界共和国について「もちろん、その実現は容易ではないが、けっして絶望的ではありません。少なくとも、その道筋だけははっきりしているからです」と断言する。

5月某日
年友企画から連絡。「カメラマンの和田さんが亡くなったと岡田さんから電話がありました。岡田さんに電話してください」。岡田さんに電話すると大腸がんを患って昨日、亡くなったということだった。和田さんも岡田さんも日大芸術学部写真学科の出身。と言っても二人ともに私と一歳違い、日大闘争の真っ只中に在学していたわけでともに闘争に参加、全共闘派の多くの学生がそうしたように卒業することなく学園を去った。和田さんは年住協創立10周年事業で写真集「アメリカンハウス」「ヨーロピアンハウス」の撮影を担当、「アメリカンハウス」では木村伊兵衛を受賞した。和田さんに最後に会ったのは今から5年ほど前、HCM社の平田高康会長を偲ぶ会でだった。

5月某日
久しぶりに虎ノ門のフェアネス法律事務所を訪問。次いで有楽町のふるさと回帰支援センターに高橋ハム理事長に大谷源一さんとともに面談。ハムさんは見城美枝子さんと加藤登紀子のコンサートに行くということだった。大谷さんと御徒町の活鮮市場へ。ブリのカマを肴に生ビール、日本酒、焼酎のお湯割りをいただく。上野駅まで歩き大谷さんと別れ、私は常磐線で我孫子へ。コビアンでライスコロッケのハーフと生ビール。

5月某日
「シリーズ□世界の思想 マルクス 資本論」(佐々木隆治 KADOKAWA 平成30年7月)を読む。著者は立教大学経済学部准教授で1974年生まれ。「はじめに」で「本書では、マルクスの主著である『資本論』第一巻をマルクス自身のテキストとして読んでいきます」とあるように、『資本論』第一巻を「第一篇 商品と貨幣」から「第七篇 資本の蓄積過程」まで『資本論』の本文(抜粋)に解説を加えている。正直、難解であった。しかし「マルクス主義的」な読解ではなく、「マルクス自身のテキスト」として『資本論』を読むことの重要性は理解できた。日本は戦後、福祉国家としての道を歩んできたように思う。経済路線としては修正資本主義路線である。ソ連や中国などの「社会主義国」に対抗する意味もあったと思う。ソ連が崩壊しロシアがウクライナに侵攻する現在、そして貧富の差が拡大し、地球環境的な危機が迫ろうとしている現在、マルクスの思想を真剣に学ぼうと思う。