モリちゃんの酒中日記 7月その2

7月某日
虎ノ門の日土地ビルにフェアネス法律事務所を社保研ティラーレの佐藤社長と訪問。佐藤社長には元衆議院議員の樋高さんが同行。渡邊弁護士からアドバイスを貰う。虎ノ門から銀座線、南北線を乗り継いで駒込へ。駒込駅で社会保険研究所や年友企画で校正をやっていた渡邊さん(通称ナベさん)と待ち合わせ。ナベさんは私が業界紙(日本木工新聞社)に勤めていた頃の同僚。同じく同僚だった高橋君(通称チャーリー)は亡くなったということだ。私とナベさんは同じ1948年生まれだが、チャーリーは1、2歳年下の筈。駒込駅に隣接するホテルメッツのレストランで私は遅いランチ、ナベさんはアイスコーヒー。17時近くなったので駅の反対側の居酒屋へ。ナベさんはほとんど飲まない。私はハイボールを2杯程。今度はナベさんの家の近くの朝霞台あたりで呑むことにしよう。我孫子へ帰って、呑み足りないので「七輪」で一杯。

7月某日
「会いにゆく旅」(森まゆみ 産業編集センター 2020年1月)を読む。著者の森まゆみは1954年生まれ、早稲田大学政経学部卒で確か藤原保信門下。84年に地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(通称・谷根千)を創刊、09年の終刊まで編集人を務めた。私は雑誌「年金と住宅」の連載「古地図を歩く」で谷中の大円寺を訪ねたとき、「谷根千」を販売していたスタッフに会っている。「古地図を歩く」の筆者、中村さんが販売スタッフを「少女のような」と驚いたことを覚えている。確かに化粧っけもなく髪も短くしていた販売スタッフは若く見えたことは事実だが「少女のような」は言い過ぎであった。今から思うとその人は編集同人のひとり、山崎範子さんであったと思う。「会いにゆく旅」は森まゆみが酒や温泉を求めて「会いにゆく旅」を綴ったもの。酒好き温泉好きの私にはたまりません。

7月某日
「父のビスコ」(平松洋子 小学館 2021年10月)を読む。平松洋子は1958年、岡山県倉敷市生まれ、東京女子大学文理学部卒。私とは10歳違いだし向うは女子大卒だし、共通点はないのだが、何となく価値観を共有している思いがある(まぁ個人の感想ですけれど)。7月になって猛暑が続く。「洲崎パラダイス」(芝木好子 ちくま文庫)を読む。1955年に講談社から刊行された。洲崎は現在の江東区東陽町1丁目で明治期に根津から移設された遊郭があった。戦後、洲崎パラダイスという名称を掲げたゲートが設けられ「特飲街」と称した。ゲートの前の一杯飲み屋に勤める女と遊郭を訪れる客の姿を描く。芝木は1914-91年。私の両親より9歳年長である。図書館で同じ芝木好子の「新しい日々」(書肆汽水域 2021年8月)を借りて読む。著者の死後編まれたアンソロジー。良質なテレビドラマを観る思いで読んだ。

7月某日
厚生労働省の医系技官だった高原亮治さんは、厚労省退職後、上智大学教授などを務めその後、高知県で地域医療を担う診療所の医師となった。しかしほどなく急死したという知らせがあった。心臓に持病があったようだ。高原さんは岡山大学医学部卒。東京都を経て厚生省に入省した。高原さんは岡山大学医学部全共闘の闘士で、死後に会った岡大の同級生が「高原が東大闘争から帰った後、火の出るようなアジ演説をしていた」と語っていた。もっとも私の知っている高原さんは本好きで話の面白いおっさんだった。高原さんと同じ日に厚労省を退職したのが堤修三さん。それから高原さん、堤さん、私の3人で良く呑みに行った。この日は高原さんの10年目の命日、堤さんと四谷の上智大学の隣にある聖イグナチオ教会の納骨堂にお参り。その後で四谷新道通りで堤さんと一杯。

モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
「卑弥呼とヤマト王権」(寺沢薫 中公選書 2023年3月)を読む。本書の袖に「本書では纏向遺跡から出土した数々の遺構と遺物を詳細に紹介し、この遺跡がヤマト王権の最初の大王都だったことを明らかにする」と紹介されている。1971年12月、同志社大学考古学研究室(森浩一教授)の3回生だった著者は纏向遺跡の発掘調査に関わることになる。著者は纏向遺跡が、卑弥呼を初代大王とするヤマト王権の都であったと主張する。もちろん古墳から発掘された勾玉や剣などから推測していくのだが、最近の考古学では古墳の内部の土壌や植物の種を採取、分析したりするらしい。著者はさらに中国の歴史書、魏志倭人伝も参照しヤマト王権と中国の王朝との交流を詳らかにする。ヤマト王権は弥生時代の末期から古墳時代(飛鳥時代)に該当するが、稲作の開始とも時期を同じくする。「農業生産力は開発力(水田面積)と生産性(単位当たり収量)の両輪で決まる。前者にかかわるのは土木技術力と労働の総量、後者にかかわるのは栽培技術力と労働の集約力である」と著者は語る。戦前の天皇制神話についても「それが人民支配のために時の国家権力が生んだフィクショナルな共同幻想であったとしても、その古層には、前方後円墳祭祀から引き継がれた『神霊の不変性』に対する信仰があった」と(私にとっては)公平な評価を下す。

7月某日
週2回、月曜日と木曜日がマッサージの日。歩いても15分程度なのだが、本日は同居している長男が休みなので車で送って貰う。予約は11時からで最初の15分がマッサージ、残りの15分で電気をかける。マッサージのときはマッサージのお兄さんと世間話。マッサージの店を出ると長男が車で待っていてくれた。家へ帰って昼食。昼食後、家から歩いて5分の我孫子市民図書館へ。クーラーが効いている図書館で読書。アビスタ前からバスで我孫子駅前へ。北口にあるイトーヨーカドーの我孫子ショッピングモールへ。3階の書店で桐野夏生の最新作を購入。我孫子駅前からバスで帰宅。

7月某日
昨日買った「もっと悪い妻」(桐野夏生 文藝春秋 2023年6月)を読む。2015年から23年に発表された6つの短編がおさめられている。6つの短編の読後感は爽快とはいかない。むしろ不穏な読後感か。桐野の小説には短編にしろ長編にしろこの不穏な読後感が付きまとうことが多いように私には感じられる。21世紀の日本が行き着いた気分が「不穏」なのだ。家庭内離婚や離婚、配偶者の死などが描かれるが、どれも安定とはほど遠い。現代を描く小説の宿命かもしれない。

7月某日
神田の古書店で100円で購入した「義経伝説-歴史の虚実」(高橋富雄 中公新書 1966年10月)を読む。今から57年前、私が18歳の頃に刊行された本である。当時定価200円であった。判官贔屓という言葉が残っているように源義経は今も人気の高い平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将である。平家追討では中心的な役割を果たしながら、兄である頼朝に疎まれ、ついには奥州平泉で悲劇的な生涯を終える。頼朝との不仲の淵源を著者は、義経は「素朴に兄の片腕になるつもりで馳せ参じた」が、兄頼朝は「従者としての服従を求めるようになった」ことにあるとする。「義経は都で育ち、畿内で展開する」。伊豆で育ち伊豆で挙兵する頼朝とは、育ちが違うのである。私が思うに頼朝は義経の持つ都会的で洗練されたセンスを嫌ったのではないか。「平家海軍国際派」という言葉があって、洗練はされていても、泥臭くて実力が上回る源氏や陸軍には勝てないことを言う。義経は源氏の中にあって平家的つまりは都会的なセンスを身に付けていた。それが頼朝には許せなかったし梶原景時との諍いにも通じることになる。「義経記」は「『義経が追討する物語』ではなしに『追討される物語である』」ともしている。一種の貴種流離譚でもある。義経主従には反東国意識が一貫している。「鎌倉幕府の成立は、西と東の抗争史において、はじめて東の優位、西野没落をもたらしたできごと」であり、「義経固有の勢力は、広い意味で西がたの力である」。なるほどねぇ。頼朝と義経の「関係をもし倫理的にいうならば、体制主義者の頼朝が正統倫理を代表し、義経は体制倫理以前の人間世界を生きようとする」とも述べている。頼朝は革マルや民青であり、義経は全共闘であったともいえるのではないか。

モリちゃんの酒中日記 6月その4

6月某日
「保守の遺言-JAP.COM衰滅の状況」(西部邁 平凡社新書 2018年2月)を読む。先週読んだ保阪正康の西部との交流を綴った「Nの廻廊」に触発されて西部の本を読むことにした。西部は18年の1月に自裁しているから本書は最期の著作である。西部は60年安保の指導者から後に東大教授、東大教授辞任後は保守派の論客として知られる。しかし本書を読む限り、私は西部を穏健なナショナリストと呼びたい。核武装論者としての西部は「日本領土が核攻撃された場合にのみ報復核として相手国に打ち込むことが許される」と極めて限定的な核武装論者である。私は日本国憲法の平和主義を支持しているが、論理的に分析的に支持しているわけではなく感情的にセンチメンタルに支持しているに過ぎない。そうした意味でも西部の論は再評価されるべきと思う。本書の終了間際に「ごく最近、僕の旧友の未亡人唐牛真喜子さんが71歳で身罷った」の一文がある。私は生前の真喜子さんと親交があり何度か食事をした。西部の自殺を知ったとき真喜子さんが気落ちしているだろうと電話したら、知らない女の人から「唐牛は死にました」と知らされた。癌を患っていたそうだが、誰にも知らせなかったという。西部も真喜子さんもそれぞれの死を死んだというべきか。

6月某日
小中高校が同じだった佐藤正輝君。札幌でコンピュータソフトの会社を起業した。正輝君が上京するというので、山本君が音頭をとって高校の同期が集まることに。5時50分に神田駅北口集合ということで定刻に行ったら誰も来ていない。山本君の携帯に電話しても出ないので予約していた中華料理屋に行っても誰も来ない。7時まで待っても誰も来ないので、お店の人に「行き違いがあったようです」と言って店を出る。神田から上野に行って駅構内の釜めしや「シラス釜めし」とビールを頼む。ビールを呑んでいたら山本君から携帯に着電。
約束は明日であったことが判明。

6月某日
神田駅北口に5時50分に集合。9人ということだったが1学年下の井出君が少し遅れるということなので8人で出発。上海台所という中華料理店に向かう。少し道に迷っていたら井出君が先についていた。女子2名、男子7名で乾杯。私と山本君と佐藤正輝君は室蘭市の外れの水元町出身だが、本日はそれに上野君が加わる。上野君は青学の英文科出身で卒業後はJALに就職した。本日は飲み放題食べ放題で3800円だったが、一律3000円で残りは正輝君が負担してくれた。「さすが社長!」。帰りは私と山本君は千代田線で新お茶の水から帰り、それ以外は神田から帰った。

6月某日
「労働の思想史-哲学者は働くことをどう考えてきたか」(中山元 平凡社 2023年2月)を読む。著者の中山元は1949年2月生まれ、東大教養学部教養学科中退とある。私と同じ学年で東大中退ということは東大全共闘だったかもしれない。本書は働くことの意味を古代から現代まで、思想家たちはどのように考えてきたか概観している。中山はマルクスやカント、ルソー、ヘーゲル、ウェーバーの訳者でもある。人類の誕生は数百万年前、類人猿が二足歩行を始めたのが発端と言われている。前足を「物をつかむための道具として」利用できるようになり、同時に「頭蓋が発達して大きな脳髄を収容することができるようになった」。そして「口と舌と喉が、言語を発する器官として発達していく」。言語の獲得、これこそが人間を他の動物と区別する最大のものだろう。旧石器時代を経て新石器時代になると人々は定住と農耕を始める。やがて都市が形成され、余剰生産物が蓄積される。穀物の量を記録するために文字が発明され、文字を操る官僚組織が誕生した。官僚や神官を統御し、対外戦争を指揮する王権も生まれた。「労働は苦痛」という労働観が広がり、労働を修行ととらえたのが修道院である。
「労働するということは、今そこにある欲望を抑制し、消失を延期させることだ」としたのはヘーゲルである。ヘーゲルにおいて「労働はたんなる労苦ではなく人間らしさを形成するものとして」きわめて肯定的に描かれた。資本制社会における分業の重要性を指摘したのはアダム・スミスである。スミスとヘーゲルの思想を受け継いだマルクスとエンゲルスは「労働の疎外を廃絶するためには、現在の所有の形式に依拠し」ている国家を「革命によって廃絶しなければならない」と考え、分業が廃止される協同社会(ゲマインシャフト)、すなわち共産主義社会の実現を主張した。20世紀はフォーディズムやテーラーシステムによる大量生産大量消費の時代であった。20世紀後半に登場したロボットとAIは生産性を大幅に向上させる。マルクスが描いた分業が廃止された共産主義社会「私は今日はこれをし、明日はあれをするということができるようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批判をすることができるようになる」(ドイツ・イデオロギー)が可能になるのだ。