7月某日
「卑弥呼とヤマト王権」(寺沢薫 中公選書 2023年3月)を読む。本書の袖に「本書では纏向遺跡から出土した数々の遺構と遺物を詳細に紹介し、この遺跡がヤマト王権の最初の大王都だったことを明らかにする」と紹介されている。1971年12月、同志社大学考古学研究室(森浩一教授)の3回生だった著者は纏向遺跡の発掘調査に関わることになる。著者は纏向遺跡が、卑弥呼を初代大王とするヤマト王権の都であったと主張する。もちろん古墳から発掘された勾玉や剣などから推測していくのだが、最近の考古学では古墳の内部の土壌や植物の種を採取、分析したりするらしい。著者はさらに中国の歴史書、魏志倭人伝も参照しヤマト王権と中国の王朝との交流を詳らかにする。ヤマト王権は弥生時代の末期から古墳時代(飛鳥時代)に該当するが、稲作の開始とも時期を同じくする。「農業生産力は開発力(水田面積)と生産性(単位当たり収量)の両輪で決まる。前者にかかわるのは土木技術力と労働の総量、後者にかかわるのは栽培技術力と労働の集約力である」と著者は語る。戦前の天皇制神話についても「それが人民支配のために時の国家権力が生んだフィクショナルな共同幻想であったとしても、その古層には、前方後円墳祭祀から引き継がれた『神霊の不変性』に対する信仰があった」と(私にとっては)公平な評価を下す。
7月某日
週2回、月曜日と木曜日がマッサージの日。歩いても15分程度なのだが、本日は同居している長男が休みなので車で送って貰う。予約は11時からで最初の15分がマッサージ、残りの15分で電気をかける。マッサージのときはマッサージのお兄さんと世間話。マッサージの店を出ると長男が車で待っていてくれた。家へ帰って昼食。昼食後、家から歩いて5分の我孫子市民図書館へ。クーラーが効いている図書館で読書。アビスタ前からバスで我孫子駅前へ。北口にあるイトーヨーカドーの我孫子ショッピングモールへ。3階の書店で桐野夏生の最新作を購入。我孫子駅前からバスで帰宅。
7月某日
昨日買った「もっと悪い妻」(桐野夏生 文藝春秋 2023年6月)を読む。2015年から23年に発表された6つの短編がおさめられている。6つの短編の読後感は爽快とはいかない。むしろ不穏な読後感か。桐野の小説には短編にしろ長編にしろこの不穏な読後感が付きまとうことが多いように私には感じられる。21世紀の日本が行き着いた気分が「不穏」なのだ。家庭内離婚や離婚、配偶者の死などが描かれるが、どれも安定とはほど遠い。現代を描く小説の宿命かもしれない。
7月某日
神田の古書店で100円で購入した「義経伝説-歴史の虚実」(高橋富雄 中公新書 1966年10月)を読む。今から57年前、私が18歳の頃に刊行された本である。当時定価200円であった。判官贔屓という言葉が残っているように源義経は今も人気の高い平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将である。平家追討では中心的な役割を果たしながら、兄である頼朝に疎まれ、ついには奥州平泉で悲劇的な生涯を終える。頼朝との不仲の淵源を著者は、義経は「素朴に兄の片腕になるつもりで馳せ参じた」が、兄頼朝は「従者としての服従を求めるようになった」ことにあるとする。「義経は都で育ち、畿内で展開する」。伊豆で育ち伊豆で挙兵する頼朝とは、育ちが違うのである。私が思うに頼朝は義経の持つ都会的で洗練されたセンスを嫌ったのではないか。「平家海軍国際派」という言葉があって、洗練はされていても、泥臭くて実力が上回る源氏や陸軍には勝てないことを言う。義経は源氏の中にあって平家的つまりは都会的なセンスを身に付けていた。それが頼朝には許せなかったし梶原景時との諍いにも通じることになる。「義経記」は「『義経が追討する物語』ではなしに『追討される物語である』」ともしている。一種の貴種流離譚でもある。義経主従には反東国意識が一貫している。「鎌倉幕府の成立は、西と東の抗争史において、はじめて東の優位、西野没落をもたらしたできごと」であり、「義経固有の勢力は、広い意味で西がたの力である」。なるほどねぇ。頼朝と義経の「関係をもし倫理的にいうならば、体制主義者の頼朝が正統倫理を代表し、義経は体制倫理以前の人間世界を生きようとする」とも述べている。頼朝は革マルや民青であり、義経は全共闘であったともいえるのではないか。