モリちゃんの酒中日記 9月その3

9月某日
「敗者としての東京」(吉見俊哉 筑摩選書 2023年2月)を読む。「東京は三度、占領されている」という著者の説をもとに「敗者としての東京」を論じている。最初の占領は、1590年に徳川家康によって。家康は豊臣秀吉に命じられて三河から江戸に移った。当時、東国の中心と言えば鎌倉幕府の置かれた鎌倉であり、戦国時代になってからは北条氏の根拠地であった小田原であったという。江戸はひなびた寒村でしかなかった。家康から秀忠、家光の三代(1590~1640年)で江戸に大きな都市改造が加えられ、現在の東京の原型を形づくった。二度目の占領は、1868年の明治維新である。薩摩軍と長州軍を中核とする官軍は、江戸城を無血開城させ、最後まで抵抗した彰義隊を上野でせん滅する。三度目の占領は、言うまでもなく1945年のアジア太平洋戦争の敗北によって、米軍を中心とした連合軍による占領である。吉見は史料を丹念にたどりながら江戸・東京の三度の占領と、変容する社会を描く。都市の下層民や女性労働者(女工)の状況も描かれる。1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した女子バレーボールについては、次のように説明されている。1930年代の前半まで女子バレーは圧倒的に高等女学校(高女)のチームが強かったが、30年代後半から紡績工場のチームが次々と高女のチームを打ち負かすようになり、ついにオリンピックで世界制覇に至る。高女に進学できるのは中産階級以上の階層の子女であり、女工となるのは中産階級以下の階層の子女であり、吉見はそこに文化的な階級闘争を読み取って行く。
 私が本書でもっとも興味を魅かれたのが「第Ⅲ部 最後の占領とファミリーヒストリー」である。そこでは吉見の母方のファミリーヒストリーが描かれる。特攻隊帰りの不良大学生で、後に安藤組の創始者となり、組解散後は東映の実録やくざ者の映画スターとなった安藤昇は母方の祖母が姉妹だったという。吉見の母の「おばあちゃんは『チエちゃんのところはいいわよね。ノボルさんに何でも買ってもらえて』って言うんだけど、何言ってんのよ…。」という発言が紹介されているが、ノボルさんとは安藤昇のことである。私は自分自身が学生運動の敗者であり、そのこともあってか敗者の歴史に興味を持ってきた。維新の敗者である彰義隊、白虎隊、五稜郭の戦いなどである。それはさらに第二明治維新の西南戦争の敗者たる薩軍と西郷隆盛、秩父事件の敗者たち、昭和維新を唱えた2.26事件の敗者としての青年将校らに引き継がれる。敗者の歴史(ヒストリー)のなかにこそ物語(ストーリー)は埋まっている。

9月某日
「敗者の想像力」(加藤典洋 集英社新書 2017年5月)を読む。加藤典洋は1948年生まれだから私と同世代の批評家である。私の記憶では48年の4月1日生まれなので早生まれ扱いとなり、学年では私の1年上である。確か現役で東大に合格し、東大闘争もあって2年留年し、卒業は私と同じ72年の筈である。大学院の入試に失敗し国会図書館に勤務する。国会図書館からカナダの図書館への出向を命じられ、多田道太郎の知遇を得る。日本に帰ってから批評家としてデビュー、明治学院大学や早稲田大学の教授を務める。19年5月に死去。私は彼の「敗戦後論」や「戦後入門」などを読んだが、私にとってはやや難解であった。にもかかわらず彼の著作を読むのは、難解ながら何か惹きつけるものがあるからだろう。彼の父親が警察官で戦前は特高ということから来る屈折のようなものに魅かれるのかもしれない。1945年8月、日本は米軍を主体とする連合軍に敗北し占領される。この敗北が日本、及び日本人の精神にどのような影響を与えたか、を考察したのが本書である。1954年に公開された映画「ゴジラ」は、04年の「ゴジラ FINAL WARS」まで、50年間に28作を数えるシリーズとなった。なぜ、この怪獣映画は、日本人の心を捉えたのだろうか。加藤は「ゴジラが『戦争の死者たち』を体現する存在だからではないか」と考える。今年亡くなった大江健三郎については、大江が沖縄の集団自決を巡る裁判で被告とされた件では全面的に大江を擁護している。詳細は省くが私も大江を擁護する。私と同世代の批評家がアジア太平洋戦争の敗者や死者にこだわってきたことに驚く。同時にそれは正しいことのように思えてくる。

9月某日
「カモナ マイハウス」(重松清 中央公論新社 2023年7月)を読む。婦人公論に「うつせみ八景」というタイトルで連載されたものを、書籍化にあたり改題、加筆修正を行ったものだ。四六判400ページを超える小説だが、丸1日と2時間ほどで読了した。重松の小説は読みやすいからね。還暦間近の夫婦が主人公。両親の介護を終え看取った妻は、両親の実家を相続し兄から実家を解体し更地にして売り出すことを告げられる。これに夫婦の息子で売れない劇団を主宰している青年や、古びた洋館で茶会を主催する老婆が絡んでくる。還暦間近ということは我が家の15年前である。ちょいと感慨深いものがある。それにしても空き家問題は深刻だ。少子高齢化のもう一つの向かい合わなければならない現実だ。

9月某日
虎ノ門にある一般財団法人の会議に参加。この財団法人が行っているセミナー開催や調査研究事業への補助事業活動などの報告を受ける。私以外は小規模多機能を運営したり、訪問介護事業を手がけたりと現実に福祉事業を担っている人が委員をやっている。私が委員であることに違和感があるが、「福祉の受け手」という立場から発言することにする。任期いっぱいは務めるつもりだ。虎ノ門までは我孫子から上野東京ラインで新橋、新橋からは銀座線で虎ノ門へ。帰りは地下鉄千代田線の霞が関から我孫子まで一本。

モリちゃんの酒中日記 9月その2

9月某日
「はたちの時代-60年代と私」(重信房子 太田出版 2023年6月)を読む。重信房子ねぇ。重信は1945年生まれだから私とほぼ同世代。本書によると都立の商業高校を卒業後、キッコーマン醬油に入社。その後、キッコーマンに勤めながら明治大学文学部のⅡ部に入学、持ち前の正義感からブント(共産主義者同盟)が主導する明大の学生運動に参画する。1969年にブントが路線を巡って分裂したときは赤軍派に所属。 国際根拠地論に従って京大生の奥平剛士と偽装結婚、パレスチナに渡る。奥平はその後、リッダ空港銃撃戦で死亡する。本書には私が知らなかったブント分裂や赤軍派誕生の状況、連合赤軍の実態が描かれていてそれはそれで面白い。しかし私は当時好景気の絶頂にあった日本で、革命を現実として捉えていた彼らの感覚こそが面白い。私なども革命を夢想した学生の一人だが、赤軍派に加入するほど度胸は持ち合わせていなかった。重信が連合赤軍の指導者だった森恒夫とも親しかったことも明かされるが、同じ明治のブントの仲間だった遠山美枝子の死の報にパレスチナで接する衝撃にも驚かされる。
毛沢東主義の京浜安保共闘とブント赤軍派が連合したのが連合赤軍だが、毛沢東主義とブンドの違いについて重信は次のように主張する。「ブントと毛沢東派の問題の立て方は、根本的に違います。ブントは、路線問題など政治主義的に、その見解の一致を行動の一致、組織活動の基本としています…革命家の自覚を持って、恥じない範囲で自由に過ごそうということでしょう。教条主義ではないのです。プチブル的な自由主義であり、寛容とも言えるし、だらしない組織性で知られます」「ところが毛沢東派は、一般的にも当時は特に『四人組』の時代でもあり、日常生活の在り方一つ一つの中で、利己主義は無いか、走資派の芽は無いかという批判活動と、その追及を受けた自己批判など、告発し追求するスタイルの文化大革命・思想革命を重視していました。こうした毛沢東派的な見方でみれば、ブントの指導部含めて、みな失格の烙印を押されそうです」。この見方は当たっているように思う。ただ毛沢東派といってもいろいろあって、ブントのML派や日中友好協会(正統)に軸足を置く一派などがいた。ML派はゲバルトに強かったという印象が強いけれど…。

9月某日
「暗い時代の人々」(森まゆみ 朝日文庫 2023年9月)を読む。書店の文庫本の新刊コーナーに平積みされていたので迷いなく買う。図書館ばかりでなくたまには書店に行くべきだと思う。戦前、同調圧力に屈することなく自由の精神を貫いた真の〝リベラリスト″たちを描く小伝集。森まゆみ自身がリベラリストである。早稲田大学政経学部で藤原保信のゼミで学んだ影響があるのかもしれない。戦争中の帝国議会で反軍演説を行った斎藤隆夫の項で早大出身の斎藤に触れて「わたしも1970年代にこの大学に学び、興味深い授業は斎藤保信先生の授業とゼミぐらいだったが、何かというと『都の西北』を歌ったことを覚えている」と記している。森はリベラリストだが、時代が右傾化するなかで左派色が強まっているように私には思える。「文庫版あとがき」でも「単行本刊行後も、新型コロナの猖獗、無観客で行われた東京オリンピック、安倍元首相の銃撃事件、台湾有事や北朝鮮のミサイル攻撃の喧伝、そしてロシアとウクライナの戦争が起こった。それらを口実に米国から武器を買い、軍備を増強し、自由な言論の外堀は埋められ続けている(中略)『新しい戦前』という言葉も現実味を帯びてきた」と日本の現状を憂いている。深く同感。

9月某日
北朝鮮の金正恩委員長がロシアのウラジオストクを訪問、プーチンと会談したり夜はオペラを鑑賞したりしたことが報じられている。戦前は日本、ドイツ、イタリアの3国が軍事同盟を結びファシズム陣営を形成していた。現在はロシアと北朝鮮に中国を加え、権威主義の3国同盟を形成しているように私には思える。これも「新しい戦前」の現実化のひとつであろうか。アメリカやイギリス、日本、韓国、その他先進資本主義国家の現状は、貧富の格差が拡大しつつあるが、それでも前記のロシア、中国、北朝鮮の権威主義国家の現状よりは遥かに〝マシ″と考える。日本の民主主義の現状に満足してはいないが、若い世代に期待するしかないね。

モリちゃんの酒中日記 9月その1

9月某日
「B-29の昭和史-爆撃機と空襲をめぐる日本の近現代」(若林宣 ちくま新書 2023年6月)を読む。太平洋戦争末期、日本の主要都市が米空軍機による空襲にさらされ、その空爆の主役を演じたのがB29であるということくらいは私も知っていた。広島、長崎に対する原爆投下もB29によってなされたことも。しかしB29そのものや、B29開発に動いた米軍首脳の考え方について興味を持つことはなかった。B29による本土爆撃はそのほとんどが対象を軍基地や施設に限定しない無差別爆撃であった。しかし無差別爆撃はB29が初めてというわけではなく、日本軍の重慶爆撃やスペイン内戦におけるナチスドイツ空軍による無差別爆撃(これはピカソのゲルニカで描かれている)が知られている。本書によると朝鮮戦争でもB29による無差別爆撃が行われたし、ベトナム戦争ではB29の後継機、B52が無差別爆撃を行った。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも爆撃機が飛び立ったのは日本本土や沖縄の米軍基地からだった。現在進行中のウクライナ戦争でもロシアは爆撃機やミサイル、ドローンなどで無差別爆撃を行っている。産業革命以降、科学技術は飛躍的に発展し、それが軍需に転用された。核融合の理論と技術は原子爆弾を生み、それは原発として民需に転用されている。現代は科学技術の発展=人類の発展と喜んではいられない時代なのであろう。なお本書にはB29が撃墜された際、撃墜機から脱出した米兵が捕らえられ、終戦時に捕虜虐待の証拠隠滅のため処刑された例が紹介されている。戦時中、鬼畜米英と唱えられたが鬼畜はどちらであったのか?

9月某日
「戦後日本政治史-占領期から『ネオ55年体制』まで」(境屋史郎 中公新書 2023年5月)を読む。新書ながら戦後80年に及ぶ政治史を簡潔にまとめている好著。私が政治らしきものに目覚めたのが60年安保の年の6月16日、朝起きると母親が緊張した表情で「昨日、女子学生が死んだんだよ」と教えてくれた。1960年の6月15日、日米安保条約の改定に反対する学生、労働者、市民が国会を取り囲み、混乱の中で東大の女子大生が亡くなった。私が学生運動に参加したのも1967年10月8日、当時の佐藤首相の訪ベトナムに反対して反日共系の学生が中心となって激しいデモを行い、その渦中で京大生が亡くなった。私は当時、浪人生だったが大学へ入ったら学生運動をやろうと心に決めたものだ。しかし、戦後の政治史のなかで学生運動が中心的に扱われたことはない(当たり前だけど)。本書でも第2章の「55年体制Ⅱ-高度成長期の政治」のなかで「新左翼の興亡」として1節が割かれているに過ぎない。改めて考えると60年代後半から70年代初めの学生運動の高揚期は高度経済成長期と重なる。人手不足は深刻で就職戦線は売り手市場、学生は選り好みさえしなければどこかには就職できた。「戦後日本政治史」に話を戻すと、戦後は官邸に権力が集中する過程だったんだなと思う。それは立法・行政・司法の3件の中で行政府(つまり官邸)が立法府に対して優位を確立する過程だったとも思う。それは大袈裟に言うとファシズムの予兆でもあるような気がする。タモリが「新しい戦前」と言ったのはこれらのことを指しているのではないか?

9月某日
「日韓関係史」(木宮正史 岩波新書 2021年7月)を読む。日本と韓国との関係は政府と政府の関係、経済を通じた関係、市民相互の関係などがある。本書は主として政府間の交渉を通して日韓関係を概観したものである。日本列島と朝鮮半島は日本海を挟んで隣り合っている。有史以来、日本は朝鮮半島の影響を受けて来たし、朝鮮半島もまた日本の影響を受けて来た。大和朝廷は朝鮮南部に日本府を設けた。朝鮮への進出を意図したが白村江の戦で敗退した。鎌倉時代、二度にわたって蒙古軍の侵略を受けたが、蒙古軍には多くの高麗の人々が含まれていたらしい。豊臣秀吉は日本を平定した後、中国大陸を征服する野望を抱き、手始めに朝鮮半島を侵略した。徳川政権は鎖国政策を続けたが、オランダ、中国(明、清)、朝鮮との交流は続けた。朝鮮の王朝は徳川政権に何度か使節を送っている。明治時代に日本は日清、日露の対外戦争を戦い勝利したが、戦争の原因の一つは朝鮮半島への影響力を巡ってのものだった。1910年に大韓帝国は日本に併合され、日本の支配は1945年の日本の敗戦まで続く。私の考えでは明治維新まで日本は朝鮮を先進国と見て来たのではないだろうか。事実、漢字や仏教、そして稲作や製鉄の技術などは朝鮮半島を経由して日本列島にもたらされた。
しかし明治維新後、日本は朝鮮を国として遅れた国と見做すようになり、1910年には日本に併合される。1945年の日本の敗北により朝鮮は独立するのだが、南北に分断されて状態が続いている。分断国家となった原因を作ったのは日本の韓国併合であったのは間違いのないところであろう。韓国独立後も韓国では政治的には独裁政権が続き、経済的にも日本の高度成長を後追いするしかなかった。この状態を著者は日韓の非対称性と呼ぶ。しかし1990年前後から韓国では民主化と経済成長が著しく進む。韓国と対照的に北朝鮮は庶民の生活を犠牲に軍事独裁体制を確立した。一人あたりのGDPを南北で比較すると1970年に北が386ドル、南が287ドルだったものが2018年には北688ドル、南33,622ドルと大差がついている。一人あたりGDPでは韓国は日本に並び、経済力では対称性が実現している。おそらく去年か今年には韓国は日本を追い抜くと思われる。しかし韓国も日本以上に少子化が進んでいるらしい。少子化という危機を共有し、かつ自由で民主的な社会という価値観を共有している二つの国家が、共栄、共存してゆくことを願うのみである。

9月某日
四川料理隨苑淡路町店で「山歩き同好会」の同窓会。この同好会は私が年友企画に在籍していた当時、私と社員の岩佐、村井さん、社会保険研究所の谷野さん、それに厚労省の酒井英行さんで近郊の山に日帰りで行っていたことから何となく緩くスタートした。酒井さんが勲章をもらったときに富国クラブを会場に同好会で祝う会をやったことを記憶しているが、その後はコロナもあってやっていない。今回は岩佐さんが音頭をとってくれて久しぶりの開催となった。酒井さんはお酒を辞めているということだったが、みんなで和気あいあいのときを過ごした。酒井さんから皆にお菓子が配られた。お勘定は谷野さんが払ってくれた。恐縮。

モリちゃんの酒中日記 8月その3

8月某日
「朝鮮王公族-帝国日本の準皇族」(新城道彦 中公新書 2015年3月)を読む。つい先だってアメリカのキャンプデービッドで日米韓の首脳会談が行われた。この3か国は特別な関係にあると思う。日米は1941年11月8日から1945年8月15日まで太平洋戦争を戦った。日本は韓国を1910年に併合し、敗戦まで支配下においた。朝鮮半島は日本の敗戦によって南は米軍の、北はソ連軍の支配下におかれた。南は大韓民国、北は朝鮮人民民主主義共和国として分断統治されている。日本の韓国併合まで韓国は大韓帝国として皇帝の支配する国だった。併合にともなって韓国の皇族は朝鮮王公族として、日本の皇族に準ずる地位と待遇を得ることになる。「異民族ながら『準皇族』扱いにされた彼らの思いは複雑であった。」「本書は、帝国日本に翻弄された26人の王公族の全貌を明らかにする」(本書の袖のコーピーより)。ということなのだが、戦争が終わってから80年近く経過し、日韓併合からは100年以上が経過している。正直あまりピンと来ない。そこで韓国皇帝の正統な後継者、王世子李垠(イウン)に嫁いだ梨本宮方子の母、梨本宮伊都子の目を通して、この結婚と当時の宮中社会を描いた小説「李王家の縁談」(林真理子 文藝春秋 2021年11月)を読む。

8月某日
「李王家の縁談」を読む。「李王家の縁談」について作者の林真理子が週刊文春の連載エッセー「夜ふけのなわとび」(9月7日号)で次のように書いていた。「もともと皇族や華族が大好きで、本も一冊書いている。文藝春秋から出した『李王家の縁談』は、朝鮮の皇太子に嫁いだ『梨本宮伊都子妃の日記』を元にしている。これが面白いの何のって。昔の皇族の妃が、いわゆる〝書き魔″で、克明な日記を書いているのだ」。林はさらに伊都子妃について「戦後は民主主義についていけなかった。テレビで見る正田美智子さんに憤慨したりしている」と書いている。明治維新によって士農工商といった身分制度は撤廃されたはずだが、皇族に加えて華族が新しい身分制度となった。華族は旧大名家や公家、維新の功労者などが列せられた。伊都子は鍋島侯爵家の出身で父親がイタリア公使としてローマに赴任していたときに産まれたことから伊都子と名付けられたという。戦後、朝鮮半島は日本帝国主義の支配から脱して南は韓国、北は朝鮮民主主義人民共和国として独立した。李王家の末裔はどうしたんだろう? 浅田次郎の小説に陸軍高官だった王世子の弟が、広島の原爆で爆死し、お付きの士官が拳銃自殺する小説があったと思う。これも泣かせるんだよね。

8月某日
「フェミニズム 『女であること』を基点にする」(加藤陽子 鴻巣友希子 上間陽子 上野千鶴子 NHK出版 2023年7月)を読む。別冊NHK100分de名著シリーズの一冊。私は加藤陽子の「伊藤野枝集」が面白かった。伊藤野枝は100年前の関東大震災の直後に当時、実質的に夫婦関係にあった大杉栄と一緒にいた甥と3人ともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺害される。伊藤野枝の生涯は瀬戸内寂聴の「美は乱調にあり」や村山由佳の「風よあらしよ」などで描かれている。加藤陽子がとりあげた「伊藤野枝集」は岩波文庫で森まゆみが編集して2019年9月に出版されている。加藤は伊藤野枝が「百年以上前の日本で、仕事と子育てを両立することができたのでしょうか」という問いを発する。加藤は没落したとはいえ、それなりの教育を受けることのできた伊藤野枝の育ちと、仮設と断りながら「野枝は子育てに大きな喜びを感じていた」ことをあげている。なるほどねぇ。私は団塊の世代の多くの男性がそうであるように子育てに積極的に関わってこなかった。我が家において子育て、教育は母親つまりは妻の役割であった。母親と子供の関係はそれなりの緊張感もはらみながらも親密であった。私と子供の関係はと言えば、母親に比べれば疎遠、それは現在にも至る。

8月某日
「のろのろ歩け」(中島京子 文春文庫 1015年3月)を読む。解説の酒井充子によると「三者三様の女性たちがアジアの街にやってきた。文房具メーカーに勤める大学卒業二年目の美雨は台湾に、ファッション雑誌の編集経験十年、バリバリの編集者、夏美は北京へ。そして派遣スタッフだった亜矢子は、仕事を辞めて夫の駐在地である上海へ。三人が、それぞれの旅先あるいは滞在先で出会う人たち、小さな出来事によって、ほんの少しだけ返信する」と要約される。中島京子の小説に登場する女性たちはそれぞれに魅力的である。私には彼女たちが声高に女性の自立を叫ぶのではなく、それぞれの生き方が人間としての自立に基礎をおいていることから魅力的に感じるのではないかと思う。