11月某日
「『山上徹也』とはなにものだったのか」(鈴木エイト 講談社+α新書 2023年7月)を読む。鈴木エイト氏は安倍元首相の銃撃事件以降、連日テレビに出演して旧統一教会とその被害について論評していた人だ。山上徹也は安倍元首相を銃撃、殺害した犯人、当日、現場で現行犯逮捕され殺人その他で起訴され、現在は拘置所で公判を待つ身だ。私は本書を読んで安倍元首相が巷で言われている以上に旧統一教会とつながりがあったことを知った。元首相の祖父である岸信介以来の関係である。元首相が宗教的に旧統一教会に近づいたというより、政治家として支持(票、労働力、金銭等)が欲しかったのだろう。銃撃後、自民党保守派はまさに「手のひらを返したように」旧統一教会との断絶を宣言している。まぁそんんなもんでしょう。鈴木エイト氏は事件前からカルト集団としての旧統一教会に注目、取材をしていた。事件後、マスコミへの露出も多くなってきた。でも彼のジャーナリストとしての自覚と自負は見上げたものである。山上徹也に対しても「罪を憎んで人を憎まぬ」姿勢は一貫している。
11月某日
「恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ」(川上弘美 講談社 2023年8月)を読む。文芸誌「群像」に2020年1月号から2023年5月号まで不定期で連作されたもの。著者、川上の分身と思われる小説家の日常が描かれる。単行本の帯によると「小説家のわたし、離婚と手術を経たアン、そして作詞家のカズ/カリフォルニアのアパートメントで子ども時代を過ごした友人たちは半世紀ほど後の東京で再会した」ということになる。川上は1958年生まれ、私の10歳下である。ということは今年65歳、昔で言えば立派な老人、確か夏目漱石は49歳で死んでいる。「2020年の暮れまでは落ち着いていたコロナの感染者数が、再び増えはじめていた」「2021年の5月末、91歳になったばかりの父がころんだという電話がきて、実家に急いだ」…。小説家の日常、それもコロナ禍の日常である。丁寧に描いているのか、雑に大雑把に描いているのか…。でもこれは確かに文学と言えると思う。
11月某日
「シェニール織とか、黄肉のメロンとか」(江國香織 角川春樹事務所 2023年9月)を読む。学生時代仲が良く周囲から「三人娘」と呼ばれていた三人の女性とその周辺の人たちの日常を描く。林真理子の小説ならば恋愛が、桐生夏生ならば事件が描かれるが、江國の今回の小説には恋愛も事件も登場しない。英国帰りの理枝の恋バナは登場するが、それも軽くである。三人の年齢は57,8歳。小説家となった民子は母と同居、専業主婦の早希は夫と息子2人と同居、独身の理枝は英国から帰国当初は民江の家に居候し、その後湘南に家を買う。これら3人はブルジョア階級とは言えないが中産階級であることは疑いない。「失われた30年間」にその存在が随分と希薄になった中産階級である。競艇場の場面が何回か登場するが、ウイキペディアで検索すると江國は競艇が趣味であるという。そこらへんは中産階級的ではない。
11月某日
社保研ティラーレの吉高さんから「忘れていませんよね。明日はフォーラムですよ。会場でお待ちしていますから」とメールが届く。フォーラムとは「地方から考える社会保障フォーラム」のこと。私も高齢になったし(今月、75歳の後期高齢者となる)、フォーラムへの出席も控えようと思っていたが、折角のお声がけなので出席することにする。ただこの日は11時に所用があり、午後からの出席となった。会場に着くと元防府市の高齢福祉課主幹の中村一朗氏の「リエイブルメント・サービスで地域を活性化する政策の推進を!」がすでに始まっていた。高齢者の活用で地域を活性化するという話だった。次いで厚労省の福祉人材確保対策室長の吉田昌司氏が「地域共生社会とそれを支える人材」という演題で講演を行った。後期高齢者となる私にとってはいずれも非常に参考になる話であった。会場は地下2階で地下道と直結、5分ほどで千代田線大手町駅。我孫子行きに乗車、終点まで座ることができた。我孫子駅で下車、駅前の「七輪」で軽く一杯。
11月某日
「増補 昭和天皇の戦争-『昭和天皇実録』に残されたこと・消されたこと」(山田朗 岩波現代文庫 2023年9月)を読む。私がテレビの画像などで昭和天皇の姿を見るようになったのは1958年か59年頃だと思う。その頃、我が家にもテレビが導入されたからだ。その当時の昭和天皇のイメージは猫背でチョビ髭を蓄えた丸い眼鏡の温和な老人だ。植物学者の一面も紹介されていたから平和を好む人なんだろうなーというイメージだ。しかし明治憲法では、大日本帝国は天皇が統治するとされているし、同時に天皇は大元帥として陸海軍のトップでもあった。「昭和天皇実録」とは、昭和天皇の公式伝記で宮内庁編纂の全60巻で14年3月からは東京書籍㈱から全19巻に再構成されて出版されている。本書は「実録」以外にも「高松宮日記」「木戸幸一日記」「大本営機密日誌」「杉山メモ」などの日記、メモ類その他膨大な資料に当たって確認した昭和天皇の「行動と思想」である。簡単にまとめてしまうと昭和天皇は極端な侵略主義者でも平和主義者でもなかった。アジア太平洋戦争の開戦時は積極的な開戦論はとらなかったが緒戦の陸海軍の勝利を見て、満足感を感じる。日本軍が敗勢に転ずると戦争指導部に失望し、苦言を呈するも激励もする。「解説」(古川隆久)によると、昭和天皇は「12歳で皇太子になってまもなく陸海軍少尉に任官し、以後陸海軍の軍人を教師役として軍事に関する学習を継続していく。昭和天皇は軍事には素人どころか、最高水準の軍事教育を受けていた…」そうである。軍事指導者としての昭和天皇を描いた本書を読むと、昭和天皇には「戦争責任あり」と思わざるを得ない。
11月某日
「戦争論」(高原到 講談社 2023年8月)を読む。文芸雑誌「群像」の今年1,3,5月号に掲載されたもの。今年10月に勃発したイスラエルとパレスチナの紛争については触れられていないが、それにしてもロシアのウクライナ侵攻、ミャンマーでの軍事政権による民主派の弾圧、北朝鮮の核の脅威など戦争、地域紛争の脅威が世界を覆う現在、本書の論稿には非常に参考となるものが多かった。「第1章2つの戦争のはざまで『同志少女よ、敵を撃て』とウクライナ戦争」では、中国やロシアといった権威主義国家の帝国的な拡大志向が21世紀の国際情勢にあって、「その危険な現状を『否認』したいという欲望が」「フィクションの戦争を代償的に享楽しつつリアルな戦争から眼をそむけるという倒錯を私たちに強いてきたのだろうか?」と問いかけつつ、さらに「ウクライナ戦争はそうした『否認』がもはや維持しえないことを私たちに突きつけているのだろうか?」と続ける。著者は独ソ戦にウクライナ戦争と同じ構造を見ている。「ロシアという特殊性を普遍性に位置づけるプーチンのファシズムと、外敵の侵略から自国の自由と独立を守るため、全国民に徹底抗戦を呼びかけるゼレンスキーのナショナリズムという構図だ」。ファシスト=ナチスドイツから祖国を防衛したソ連=ロシアが今やファシストとして隣国を侵攻しているという皮肉。
「第2章『半人間』たちの復讐 巨人たちは屍の街を進撃するか?」では、第2次世界大戦で米国から2発の原爆を投下された日本人に対して「では日本人は、自らを〈人間の顔をした猿〉と決めつけて絶滅兵器を放った敵に、どのような復讐を誓ったのか?〉と問う。著者は「進撃の巨人」や「鬼滅の刃」、さらに大田洋子や林京子の原爆文学、「はだしのゲン」「夕凪の街」などの原爆漫画を「人間であって人間でないという矛盾を強いられ、社会から追放され迫害される『半人間』たちの復讐を、対照的なかたちで描きだした」と評価する。つまりこれらの作品は、絶滅兵器を放った敵に例外的に復讐を果たしているのだ。著者は「三発目の原爆を落とされても憎悪や復讐心をもちえない国」として日本を半国家と呼ぶ。私はここで「?」と思う。では、著者は日本を自立した帝国主義国家にしたいのだろうか?
答えは「第3章 復讐戦のかなたへ 安倍元首相銃殺事件と戦後日本の陥穽」にある。ここで著者は安倍の出自をたどる。祖父の岸を「大日本帝国と戦後の連続性をグロテスクなかたちで体現したモンスター」と表現しA級戦犯として巣鴨プリズンに収容されていた岸は、東条らが処刑された翌日に釈放され政界に復帰し、60年安保改定を首相として実現する。岸から安倍は「官僚的な権威主義、アメリカへの従属、戦争責任の忘却、そして『卑劣』さ」のすべてを相続した。しかし安倍が相続した反共イデオロギーには旧統一教会という汚点がこびりついていた。そして米国は戦時に昭和天皇がふるった政治的、軍事的イニシアティブに眼をつぶり、東条英機らA級戦犯をスケープゴートにまつりあげた。さらに大東亜戦争を太平洋戦争と読み替えるなかでアジアの人びとの対日抵抗戦争も消去された。これらの歴史認識をもとにして著者は新たな「平和論」を構築しようとしている。私は高原到という思想家を知らなかったけれど、本書を読む限りではしっかりとしたまともな思想家である。