モリちゃんの酒中日記 12月その3

12月某日
「ウクライナ動乱-ソ連解体から露ウ戦争まで」(松里公孝 ちくま新書 2023年7月)を読む。松里公孝氏は東大大学院法学政治学研究科教授でロシア・ウクライナ関係史の専門家。本書では書名の通りソ連解体から今も継続するウクライナ戦争まで概説する。概説と言っても新書で500ページもあって読み通すのに3日かかってしまった。ウクライナという独立国家が生まれたのはロシア革命以降、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国(RSR)が最初。独立国家と言ってもRSRはソ連を構成する連邦国家の一つだった。日本は島国で第2児世界大戦に敗北してから、その領土は基本的に本州、四国、九州と北海道及び南方諸島と離島に固定化されてきた。日本にも北方領土や尖閣諸島問題があるものの、ウクライナやパレスチナの問題と比べると軍事的な衝突もなくほぼ平穏と言ってよい。ウクライナ(RSR)とソ連のロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国との境界線は目まぐるしく変わった。今回のウクライナ動乱においてもクリミア半島やドンバス地区の帰属が争われたが、本書によるとこれらの地区ではもともとロシア語を話す人も多く、親ロシア感情を持つ人も多かったようだ。住民投票の結果、親ロシア国家が誕生したのもうなずけない話ではない。だからといって軍事力による現状変更は認められないが…。
本書を要約するのは難しいので、結論部分を引用しよう。「こんにちのウクライナは、民族解放闘争の結果生まれたのではなく、ソ連の解体の結果生まれた。…しかし、ソ連の自壊の結果、たなぼた式で生まれた広大なウクライナは、先祖伝来ウクライナ語ではない言語で話し、書き、考えて来た住民、ウクライナ民族史観で英雄とされる人物たちに祖先が迫害された住民も抱え込んでしまった」「そうした場合には…民族国家ではなく、市民的な国家を作ることが妥当な戦略であったろう」「残念ながら、独立後30年間のウクライナは、この反対の方向に向かって進んできた」。独立後30年間ということはソ連解体後30年間ということでもあるが、共産主義イデオロギーに支えられた「ソヴェト・ピープル」(中国の中華民族に該当)に代替しうる市民的なリベラリズムが未成熟であったということであろうか。私は露ウ戦争の過程でウクライナでも市民的なリベラリズムが確立しつつあると信じたい。しかしロシア革命、第1次世界大戦以降、目まぐるしく国境線を変えて来たウクライナやパレスチナの現実に、私の想像力は追いつけそうにもない。

12月某日
「福田村事件-関東大震災・知られざる悲劇」(辻野弥生 五月書房 2023年7月)を読む。福田村事件とは、震災発生から5日後の9月6日、利根川と鬼怒川が合流する千葉県東葛郡福田村大字三ツ堀(現在の野田市三ツ堀)で香川県から薬の行商に来ていた一行15名が地元民に襲われ、9人が命を落とした事件である。加害者側の地元民は、讃岐弁を話す一行に対し「お前らの言葉はどうも変だ。朝鮮人ではないか」と、いいがかりをつけ、行商人の鑑札を持っていたにもかかわらず、暴行、殺害に及んだ(はじめに-増補改訂版刊行にあたって)。本書は2013年に崙書房から出版より刊行され、その後版元の廃業により絶版になっていたものを大幅に増補改訂して復刊したもの。関東大震災の直後、多くの朝鮮人や社会主義者、無政府主義者が庶民や警察、憲兵らに虐殺されたことは知られている。大杉栄と内縁の妻、伊藤野枝。大杉の甥が甘粕正彦憲兵大尉に殺された事件は、多くの小説や映画の題材になっている。
福田村事件はこの本を読んで初めてその詳細を知ることができた。さらに本書によって、私の住む我孫子でも3名の朝鮮人が撲殺されていたことを知った。当時の東京日日新聞の記事を要約すると、不逞鮮人暴行の流言蜚語が盛んで、我孫子町では自警団を組織し警戒していたが、3日午後3時頃、根戸消防組員が朝鮮人3名を取り押さえ、八坂神社境内に連行した。群衆は3人をさんざん殴打し負傷させたが、警官の制止で殺すまでには至らなかった。ところが同夜9時頃、2名がすきを見て逃亡、大騒ぎとなり残っていた1名を殺害、さらに4日に逃亡した2名を取り押さえ惨殺した、というものである。犯人は起訴された。八坂神社って我が家から歩いて10分くらいのところにあるのだけれど、あそこでそんな惨劇があったなんて俄かには信じられないが、事実なんだろう。映画「福田村事件」を制作した森達也が特別寄稿を寄せている。そこでの印象的なことば。「映画を撮りながら、自分がもしその場にいたらと何度も想像した。殺される側ではない。殺す側にいる時分だ」「何度でも書く。凶悪で残虐な人たちが善良な人たちを殺すのではない。普通の人が普通の人を殺すのだ。世界はそんな歴史に溢れている」「シオニズムの延長としてホロコーストの被害者遺族たちが建国したイスラエルが、なぜこれほど無慈悲にパレスチナの民を加害し続けるのか」。福田村事件は確実に現在に通じているのだ。

12月某日
13時に元滋慶学園の大谷源一さんと上野駅不忍口で待ち合わせ。今日は昼飲みの約束で店はまだ決めていない。上野駅からアメ横商店街を歩く。年末で人が多い。なんか中国系のお店が増えた感じ。御徒町駅近くの中華料理店、大興へ行く。お客が並んでいたが、10分ほどで店内へ。ここはおいしくて値段がリーズナブルなので人気店なのだ。1時間半ほど中華料理とビールにハイボールで過ごす。東京方面へ向かう大谷さんと御徒町駅で別れ、私は御徒町から山手線1駅の上野へ。上野から常磐線で我孫子へ。駅前のバス停からバスで若松へ。絆というマッサージ店で4時からの予約なのだ。ジャスト4時に絆へ。15分のマッサージと15分の電気をかけてもらう。マッサージの後、近くのウエルシアへ寄る。ウエルシアで38度の壱岐焼酎を購入。家へ帰って一休みの後、17時から7チャンネルの「孤独のグルメ」を見る。

12月某日
今年最後のマッサージを受けに近所の「絆」へ。帰りにウエルシアへ寄ってスコッチ「GRANTS」を購入。昼飯に自分のためにチャーハンを作る。具材は卵、ニンジン、タマネギ、
キムチ、レタス。油を熱し、ニンジン、タマネギを投入、次いで予め溶いた卵とご飯、キムチ、マヨネーズを混ぜ合わせたものを投入、しばらく炒めた後にレタスを投入して1分ほど炒めて完成。キムチが意外に健闘、美味しくいただく。今日が今年最終日となる我孫子市民図書館に行く。リクエストしていた本を2冊受け取る。「永山則夫 小説集成2」と「帝国の構造」(柄谷行人)の2冊である。

12月某日
「満州事変から日中戦争へ-シリーズ日本近代史⑤」(加藤陽子 岩波新書 2007年)を読む。「はじめに」で近衛首相のブレインであった昭和研究会などの知識人の執筆と推定される「戦闘の性質-領土侵略、政治、経済的権益を目標とするものに非ず、日中国交回復を阻害しつつある残存勢力の排除を目的とする一種の討匪戦なり」という文章が紹介されている。プーチンのウクライナ侵攻の理屈「ウクライナのネオナチの排除」とほぼ同じ理屈のように私には思える。日本は維新後、長く欧米列強との不平等条約に苦しんだが、大韓帝国や清国には不平等条約を強要した。私は明治以来、日本が欧米列強に対等となろうと努力してきたことは認める。だが、それは結局、朝鮮半島や中国大陸への侵略、さらにはアジア太平洋戦争へとつながっていったのではなかったか、と思わざるを得ない。著者の加藤陽子先生の思いもそこにあるような気がする。

12月某日
「永山則夫小説集成2 捨て子ごっこ」を読む。永山則夫は1949(昭和24年)6月に北海道網走市呼人番外地に生まれる。父親は家に寄り付かず極貧のうちに育つ。5歳(1954年)の10月に母親が次姉、妹、姪を連れて故郷の青森県北津軽郡板柳町に帰る。本書の「捨て子ごっこ」は網走の母親に捨てられたころのN(主人公をNと表現する。則夫のNであろう)が描かれる。「残雪」は、板柳町の中学3年生、就職を控えたころを描く。「なぜか、海」は東京で就職した渋谷の西村フルーツパーラーでの暮らしが描かれる。Nははじめは同期のなかでも優秀な店員であったが、次第に周囲から浮いてきてしまい、9月に職場の同僚と口論、そのまま出奔する。横浜港から外国船で密出国するまでを描く。「陸の眼」でNは外国船で発見され、香港で取り調べを受け、横浜まで送還される。Nはしばらく長兄のいる栃木県小山市に寄留、板金工場に勤めるがまもなく離職、ヒッチハイクで横浜を目指すまでが描かれる。「異水」ではNは横浜からさらに大阪までヒッチハイクを続け、米屋に勤めることになる。この米屋は作中では南野米穀店となっているが、守口市の駅前にある米福屋米穀店で実在する。米福屋のHPのプロフィールの項に永山則夫と異水のことに触れている。米福屋で永山は熱心に働くが社長に戸籍謄本の提示を求められる。当時、高倉健主演の網走番外地シリーズが人気で永山は番外地出身が露見することを恐れ、離職する。
永山は西村フルーツパーラーでも米福屋でも仕事熱心で同僚や上司に評価される。外国船での密航でも発見されてから中国人のコックに親切にされる。可愛い顔立ちで女性にも持てたことが作中で描かれている。米福屋での永山の写真が巻頭と解題に掲載されている。17歳の屈託のない笑顔である。私は世間が拳銃による連続射殺事件に湧いていた1968年12月、中学と高校が一緒だった川崎君(故人。当時、明大文学部の2年生、私は早大政経学部の1年生)とその友人たちと新宿で呑み、電車が終わっていたのでタクシーを止めた。そのとき運転手が「若者一人なら絶対に乗せなかったよ」と言われたのを覚えている。そして69年の9月、早大第2学生会館の攻防戦で逮捕起訴された私は9月末から12月頃まで当時、池袋にあった東京拘置所に収監されていた。恐らく永山も収監されていたと思う。同じ「臭い飯」を喰った仲である。ただし東京拘置所の食事は貧乏学生にとっては「悪くなかった」。