モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
小川町の蕎麦屋「創」でフィスメックの小出社長、社会保険出版社の高本社長と会食。ここは料理もおいしいが日本酒の品揃えが多いのが特色。日本酒に目を奪われて料理のことをあまり覚えていないのが難点だ。小出社長にすっかりご馳走になる。帰りは新御茶ノ水から千代田線で我孫子まで1本。途中で家に電話して我孫子駅まで迎えに来てもらう。

1月某日
「全斗煥-数字はラッキー7だ」(木村幹 ミネルヴァ書房 2024年9月)を読む。韓国では現職のユン大統領が訴追され、職を追われる危機にあるという。その一方で直近の世論調査では野党に水を開けられていた与党の支持率が野党を逆転したという。韓国の政治状況に比べると日本はぬるま湯と思うのは私だけだろうか。韓国では大統領を辞めた後に訴追されるケースが極めて多い。訴追されていないのはユン大統領の前の文大統領など僅かといってよい。全斗煥は朴大統領が暗殺された後の大統領で朴と同様、陸軍の出身である。彼が在任した1981~87年は朴に引き続き、韓国の高度成長期であり、退任した翌年にはソウル五輪が開催されている。しかしその開会式に全が出席することはなかった。在任中に起きた光州事件への関与などが影響したと思われる。結局、全は95年に収監され96年に無期懲役が確定するが、翌年には特赦で放免されている。21年11月、90歳で死去している。なぜ韓国は権力を失った前大統領に厳しいのだろうか。私は韓国が保守と革新の厳しい対立、されも僅差の対立によることが大きいと思う。対して日本の場合は天皇の存在が大きいのではないか。天皇は権力は持たないが、それ故、国民の統合の象徴としての機能を果たしているように思う。

1月某日
「加耶/任那-古代朝鮮に倭の拠点はあったか」(仁藤敦 中公新書 2024年11月)を読む。私が日本史を学んだのはもう60年も前の高校生のとき。そのとき朝鮮半島の南部には任那日本府というのがあって日本が領有していたと学んだものだった。しかしそれは現在ではかなり否定されている学説だということを本書で初めて知った。任那日本府の存在は日本書紀に記述されているのを根拠とし、また好太王の碑にも倭が百残(百済の蔑称)を従えたということが記されている。著者の仁藤はきちんとした史料批判により歴史的事実を明らかにして行く。任那は日本書紀ではそのように表記されているが、古代朝鮮では加耶と呼ばれた地域である。では任那日本府はあったのか。「あとがき」から引用する。「本書を手に取る方が、一番関心あると思われるのは『任那日本府』の解釈だろう。これは、倭から派遣された使者、土着した二世の旧倭臣、在地系加耶人という三つから構成された集団である」。科学としての歴史学が定着するまで、権力者に都合の良い歴史が作られたのだ。

1月某日
フジテレビの社長会見に反発、フジへのCM放送を差し止める企業が相次いでいると報じられている。朝日新聞によると「現時点ではACジャパンのCMが流れても、広告料金はテレビ局に支払われるという。フジ関係者によると深刻な影響が出るのは、4月以降の番組だ」という。もともとタレントの中井某と女性の間で発生したトラブルに端を発した問題。インターネットの発達などによって新聞やテレビなどの既存メディアの影響力は急速に低下しているという。今回の問題はそれに拍車をかけることになるだろう。
兵庫県議会の百条委員会の委員を務めていた前県議が死亡(自殺とみられる)した。NHK党の立花孝志氏らによるネットでの誹謗中傷が原因という。立花氏は「前県議は兵庫県警の任意取り調べを受けていた」「明日逮捕される予定」などの事実とは異なる情報をネットで流していた。ネットなど情報の進化に比べて、それとどう向き合うかという態度、慣習、リテラシーの整備が追いついていないのだろう。

1月某日
トランプ大統領の就任式。トランプ支持層の熱狂と反トランプ層の沈黙。私の観るところ熱狂的なトランプ支持層というのは白人の労働者階級が多いのではないか。アメリカの製造業の多くが国際競争力を失い、多くの労働者が工場を去った。職とともに誇りを失った労働者も多かったのではないか。そんな彼らに訴えたのがトランプの「メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン」だ。そこにファシズムの兆しはないのか。私は第一次世界大戦の敗北により自信喪失したドイツ国民に、アーリア民族の栄光を訴えたヒットラーを思い浮かべてしまうのだが。

1月某日
「西郷従道-維新革命を追求した最強の「弟」」(小川原正道 中公新書 2024年8月)を読む。西郷従道(1843~1902)は西郷隆盛の実弟であるが、父を幼くして亡くした従道にとって、15歳離れた隆盛は父代わりの存在であった。従道は戊辰戦争に従軍、明治新政府でも主として軍事畑で能力を発揮する。兄隆盛は西南戦争で賊軍の将として自裁するが、従道は軍隊でも政府でも要職を歴任する。何度か「総理大臣」の声があったが従道が受けることはなかった。従道は当初は陸軍に属し、陸軍として台湾出兵も経験しているが、初の入閣は第1次伊藤内閣の海軍大臣であった。当時彼は陸軍中将であった。従道は権力欲が薄く、したがって敵も少なかったと思える。総理大臣を受けなかったのも「分をわきまえる」ためだったのかもしれない。