モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
「達人、かく語りき」(沢木耕太郎セッションズ1 岩波書店 2020年3月)を読む。沢木耕太郎は1947年生まれ、横浜国大経済学部卒業後、富士銀行に入社するも1日で退社、指導教官だった長洲一二(のちに神奈川県知事)の勧めでノンフィクションライターの道に進む。本書には吉本隆明、磯崎新、西部邁、井上陽水ら10人との対話が納められている。沢木耕太郎は風貌もそうなのだが、性格が「爽やか」なんだよ。同世代の私から見てもそうだ。吉本との対談で、山口二矢を描いた「テロルの決算」を巡って「…ぼくがなにかを書こうとして対象と向かい合う時、否定的に対応することがないんですね。…ひとりの人間がここにいて、生身の存在がいたとしたら、その存在を否定することはできないように思えるんです。よいうより、凄いじゃないかというのがまずある」と語っている。ルポルタージュの対象に対してまず肯定的に捉えるということであろう。そういう取材姿勢もあって、沢木耕太郎は「愛される」のである。

8月某日
「空港時光」(温優柔 河出書房新社 2018年6月)を読む。略歴によると、著者は「1980年、台北市生まれ。三歳の時に家族と東京に移り、台湾語まじりの中国語を話す両親のもとで育つ」という。台湾という島そのものが、もともと中国の領土であったが、日清戦争の結果、日本領となり1945年の敗戦により中国に返還される。共産党軍と国民党軍の内戦の結果、国民党軍は敗れ、台湾に逃れる。長く国民党の独裁下にあったが、近年の民主化により、同性婚も認められるなど世界でもトップクラスの民主社会を築いている。戦前に日本語で教育を受けた世代は日本語を話すし、国民党軍とともに台湾に来た世代は北京語を話す。台湾にもともと土着の人は台湾語を話す。帯に「台湾系ニホン語人作家・温優柔の飛翔作」とあるが、まさにその通り!

8月某日
「御松茸騒動」(朝井まかて 徳間文庫 2017年8月)を読む。徳川御三家のひとつ、尾張藩の榊原小四郎は、御松茸同心を命ぜられる。松茸を養生し、藩命により江戸の将軍家や京の天皇家や宮家などに贈る係である。朝井まかては直木賞作家。巻末に「キノコの教え」「江戸藩邸物語」「日本の樹木」など参考文献が記載されているが、著者の学習ぶりがよくわかる。

8月某日
「日韓関係史」(木宮正史 岩波新書 2021年7月)を読む。韓国は最も近い隣国だが、どのような関係を築いてきたのか、私はよく承知してこなかった。この本を読んで少しは啓蒙された気がする。1910年の韓国併合により朝鮮半島は日本の領土とされた。日清戦争、日露戦争は朝鮮半島の支配権を巡る戦争という側面もあった。日本の敗戦により南は米軍に占領され大韓民国(韓国)となり、北はソ連軍に進駐され朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)となった。韓国では李承晩の独裁政権後、1960年の学生革命により李は政権を追われハワイに亡命する。朴正煕等の軍部独裁政権が続いたが1987年、盧泰愚が「民主化宣言」を発する。韓国は日本に似ていると思う日本人は多い(私もその一人だった)。しかしこの本を読んで、「全く違う国」という認識が大切ではないかと思う。

8月某日
上野の国立西洋美術館で開催中の「スウェーデン国立美術館 素描コレクション展 ルネサンスからバロックまで」を観に行く。イタリア、フランス、ドイツ、ネーデルランドのルネサンスからバロックまでのデッサン画が展示されている。印象派などの油絵に比較するとデッサン画は地味で小ぶり。「それがよい」という人もいるのだろう、平日なのに観客は結構混んでいた。私は障害者手帳を示して入場無料、鑑賞しに来たというより涼みに来たという感じである。早々と退散し大谷さんと待ち合わせの町屋の居酒屋「ときわ」に向かう。待ち合わせ時間の16時より30分前に着いたら入口に「16時30分から開店」の表示が。近所の「日高屋にいます」と大谷さんにメールを送りビールを呑む。大谷さんが到着。私が2杯、大谷さんが1杯、生ビールを呑んだところでそろそろ16時30分に。「ときわ」に席を移して呑む。大谷さんからドイツワインをいただく。

モリちゃんの酒中日記 8月その1

8月某日
「日本経済の死角-収奪的システムを解き明かす」(河野龍太郎 ちくま新書 2025年2月)を読む。著者の河野は1964年生まれ。87年、横浜国立大経済学部卒、住友銀行入行。以降、第一生命経済研究所などでエコノミスト。この人の本を読むのは初めてだが、きわめてまとも。この四半世紀で、日本人の時間当たり生産性は3割上昇したが、時間当たり賃金は横ばい(はじめに)というのが、この人の問題意識。国内の売上が増えないのは、3割も生産性が上がっている企業部門が実質賃金を低く抑え込み、個人消費が低迷しているためという。企業が内部留保を溜めこみ、労働者への還元が十分になされていないということだろう。ただ著者は正規従業員へは定期昇給などで還元はされており、問題は非正規労働者への還元がまったく不十分という。既存の労働組合も非正規労働者に対しては冷淡のように思う。今、日本経済に求められているのは収奪的システムではなく包摂的なシステムであろう。

8月某日
「未来地図」(小手鞠るい 原書房 2023年10月)を読む。主人公の私、赤木久児は「ひさこ」と読む、女性である。教員採用試験を目指して花屋と塾講師のバイトで自活している。花屋の客だった銀次からプロポーズされ結婚する。銀次にはつき合っている女がいることが判明、離婚する。ここまでがはなしの前半。離婚後、教員採用試験に合格した私は奈良市の中学校の国語教師となる。小さなサークルで知り合った男性から求婚されるが、男性はアメリカへの赴任が決まっている。ラスト近くに「あれがマンハッタン。あれが愛しい人の暮らす街。私はあなたに会いに行く。胸に未来を抱きしめて」という文章があるから、ハッピーエンドと考えて間違いないと思う。小手鞠るいという作家は優しい人だね。

8月某日    
「私たちが轢かなかった鹿」(井上荒野 U-NEXT  2025年8月)を読む。出版社のU-NEXTって何?ネットで調べると通信系の会社らしいけれど、私は完全に時代に遅れているね。惹句に曰く「開けたら最後、劇薬小説集」。同じく「同じ出来事を二人の当事者の視点から描く、騙し絵のように読者を惑わす短編集」とある。井上荒野、なかなかやるね。いま、もっとも面白い(と私が思う)作家の一人だ。そういえば昨日、最終回が放映されたBSNHKの「照子と瑠衣」の原作も井上荒野だ。最終回は九州へ旅立った照子と瑠衣の物語だが、主役は高校3年生の女の子。彼女は第一志望の東京の大学に進学するが、恋人は地元の長崎の大学へ。最後はそれぞれのバカヤロー! 照子と瑠衣もバカヤロー!いいと思います。

8月某日
「一橋桐子(76)の犯罪日記」(原田ひ香 徳間文庫 2022年8月)を読む。2年ほど前かな、BSNHKのテレビドラマを観て面白かった。主演の桐子を演じるのは松坂慶子。桐子の親友で晩年、一緒に住んでいた知子は由紀さおりが演じていた。両親の介護で会社を退社せざるを得なかった桐子は、独身で低年金。76歳の今もビルの掃除の仕事で細々と食べている。桐子は先行きを考えると、住まいと食事が保障されている刑務所暮らしを夢想している。そんな桐子の日常とちょっとした事件を綴る。原田ひ香の小説はテレビドラマ向きと思う。

モリちゃんの酒中日記 7月その4

7月某日
「テルアビブの犬」(小手鞠るい 文藝春秋 2015年9月)を読む。小手鞠るいは、漫画家のやなせたかしを敬愛していて、本の帯に「本作は、45年あまり師と仰いできたやなせたかし先生に『いつか必ず書きます』と約束していた作品です」とある。現在放映中のNHKの朝ドラ「あんぱん」もやなせたかしとその奥さんがモデルという。で本作「テルアビブの犬」だが、名作「フランダースの犬」を下敷きにしている。戦後直ぐの地方都市が舞台。貧しい祖父との二人暮らしを続けるツヨシが主人公。ソラと名付けた犬と暮らし始める。なぜテルアビブか。ツヨシは長じてテルアビブの空港でイスラエルの乗客に対して銃を乱射し、自身も死亡する。日本赤軍の元京大生、奥平剛士がモデルである。著者には同じく奥平剛士をモデルとした「乱れる海よ」がある。

7月某日
「この国のかたちを見つめ直す」(加藤陽子 毎日文庫 2025年1月)を読む。著者は日本近代史が専門の東京大学文学部教授。日本学術会議の委員に推薦されたにも関わらず、菅首相(当時)に拒否された。私は半藤一利や保阪正康、そして加藤陽子の著作によって日本近代史の多くを学んだ。本書で加藤先生が言いたかったのは、歴史を学ぶだけでなく、歴史を学んだうえで現代社会の出来事に対して批判的な目を持つことではないか、と思う。

7月某日
「陽だまりの昭和」(川本三郎 白水社 2025年2月)を読む。奥付によると今年2月に初刷、5月に第5刷となっている。ベストセラー作家みたいじゃないか。川本は1944年7月生まれで今年81歳、1968年に東大法学部卒、1年間の就職浪人を経て70年に朝日新聞社に就職。朝霞の自衛官刺殺事件に関連して証拠隠滅の罪に問われ、同社を懲戒解雇される。麻布中学、高校から東大法学部、朝日新聞と絵に描いたようなエリートコースを歩むが突然の転落劇。そしてそこからエッセイストとして活躍。私見だが、川本は転落劇があったからこそエッセイストとしての活躍があったのだと思う。小さい者、弱い者への共感が彼のエッセーの根底にあるように思えるのだ。本書にも何度か登場する成瀬巳喜男が監督した映画のように。

7月某日
「東学農民戦争と日本-もう一つの日清戦争」(中塚明 井上勝生 パクメンス 高文研 2024年4月新版第1刷)を読む。井上勝生の「明治日本の植民地支配-北海道から朝鮮へ」(岩波現代選書)を読んだのがきっかけ。本書でも紹介されているが、井上はもともと幕末維新史が専門の北大教授だったが、大学の施設で「東学党首魁」と墨書された頭蓋骨が見つかったことから東学党の戦いに興味を抱くようになる。私も高校生の日本史の教科書で「東学党の乱」を見かけたような気がするが、ほとんど覚えていない。しかし日清戦争のとき、戦争の当事者ではない朝鮮人民に対して、明確に国際法違反のジェノサイドを仕掛けたのが日本軍であった。日清戦争から10年後の日露戦争では、捕虜となったロシア兵に対して日本人が手厚く保護したエピソードは聞いたことがある。日本人は欧米白色人種に対して劣等感を抱く一方で、アジアやアフリカの有色の人びとに対していわれのない優越感を抱く傾向がある。私も、朝鮮や東アジア、東南アジアの歴史を学びたいと思う。

7月某日
「恋恋往時」(温又柔 集英社 2025年5月)を読む。温又柔は1980年台北生まれ、両親は台湾人。幼少期から日本で暮らす。台湾はもともと台湾で暮らす本省人、国共内戦に敗れて中国本土から台湾に渡ってきた外省人がいる。さらに戦前は日本語を話す日本人だった。国際化、グローバリズムは進む一方に思える。しかし反面でナショナリズムや愛国主義の台頭も見逃せない。参議院選挙で躍進した参政党とかね。日本人は単一民族との誤解がある。アイヌは日本語とは違う言語を使っていたし、明治の琉球処分前の沖縄は、薩摩藩と清に朝貢外交をしながらも、独自の王朝を築いていた。温又柔の小説はあからさまに台湾ナショナリズムを主張することはないが、台湾と台湾人が置かれている微妙な位置を表現しているように思う。