モリちゃんの酒中日記 11月その2

11月某日
柄谷行人の「遊動論-柳田国男と山人」(文春新書 2014年1月)、「帝国の構造-中心・周辺・亜周辺」(岩波現代文庫 2023年11月)、「世界史の実験」(岩波新書 2019年2月)を読む。柄谷行人は文芸評論からマルクスの思想や文化人類学をもとにした「交換」論など幅広く、また奥深い思考を続けている。私にとって柄谷の論は難しいのだが、つい読んでしまう。もっともこのところ柄谷の書籍に限らず、本は本屋では買わず図書館で借りることにしているので懐は痛まないのだが。「世界史の実験」で柄谷は自身の思想の歩みを語っている。1960年に大学に入り、学部では経済学を専攻、大学院の英文科に進む。69年に夏目漱石論で群像新人文学賞(評論部門)を受賞。73年ごろから文学以外の評論を試みるようになり、その一つが「マルクスその可能性の中心」で、もう一つは「柳田国男試論」である。現在の柄谷の思想の根底にはマルクスと柳田国男があるように思う。しかし柄谷はそれ以降、柳田についてほとんど書いていない。柳田について再考し始めたのは、2011年、東北大震災のあと、大勢の死者が出たことに震撼させられ、柳田が第二次世界大戦末期に書いた「先祖の話し」を読み返す。
「遊動論」では柳田国男に関連して、経済学者の宇沢弘文の「社会的共通資本」に着目している。宇沢は社会的共通財(コモンズ)としての農村は「林業、水産業、牧畜などを含む生産だけではなく、それらの加工、販売、研究開発を統合的に、計画的に実行する一つの社会組織である。それは数十戸ないし百戸前後からなる」と定義する。柄谷によれば「宇沢が提唱することは、柳田がかつて提唱したことと同じである」。宇沢は確か東大の数学科に学んだあと経済学に転じ、アメリカの大学で学んだあと、シカゴ学派の重鎮となった。壮年期以降、報酬が激減するにもかかわらず東大に復帰、公害反対運動や三里塚闘争に関わった。柄谷も社会運動や国際的な反戦運動に連帯を示しているから、共感するところがあるのかもしれない。「帝国の構造」はそのサブタイトルにあるように帝国の「中心・周辺・亜周辺」について論じたもの。人類は最初「流動的狩猟採集民」としてスタートするが、やがて農業を知り定住するようになる。農業は大規模な灌漑などの工事が必要なことから組織が必要とされ、やがて国家が生まれ、その国家のなかから帝国が誕生する。柄谷の交換様式の四つの形態「A互酬(贈与と返礼)」「B再分配(略取と再分配)(強制と安堵)」「C商品交換(貨幣と商品)」「D」からすると帝国はBに当たる。ちなみにDは「交換様式Aが交換様式B、Cによって解体されたのちに、それを高次元で回復するもの」とされている。

11月某日
「八日目の蝉」(角田光代 中公文庫 2011年1月)を読む。単行本は07年7月、初出は読売新聞夕刊05年11月~06年7月掲載。実はNHKテレビでドラマ化されていて、それを観ていた。不倫相手の乳児を誘拐した女は、乳児を実の子どもとして育てる。逃亡生活は浮世の庶民たちに支えられて続く。二人の絆は実の親子よりも固いと思われたが…。今回、小説を読んでテレビドラマ以上の面白さ、物語の奥行きの深さを感じた。「八日目の蝉」には蝉は土の中で何年か過ごして地上に出てきても7日しか生きられないこと、そして7日を生き残った8日目の蝉は幸福なのか不幸なのか、という問いを含んでいる。誘拐された乳児、もとの両親のもとに帰った少女は「八日目の蝉」なのだ。

11月某日
「歪んだ正義-「普通の人」がなぜ過激化するのか」(大治朋子 毎日新聞出版 2020年8月)を読む。大治は毎日新聞の記者でイスラエル特派員やイスラエルの大学にも留学経験がある。本書はイスラエルやパレスチナ問題を扱った図書ということなのだが、私は副題の「「普通の人」がなぜ過激化するのか」に興味を抱いた。50数年前の私の大学生時代は、学生運動が盛んな時代でちょうどそれが退潮に向かう時期でもあった。それまではゲバ棒と投石だった機動隊との衝突も鉄パイプと火炎瓶へと過激化し、共産同赤軍派は資金稼ぎに銀行強盗を繰り返し、毛沢東主義の京浜安保共闘は真岡の猟銃店に押し入り猟銃と実弾を奪った。のちに両派は統合して連合赤軍を名乗る。あさま山荘での銃撃戦の後、凄惨なリンチ殺人が明るみに出る。連合赤軍に加わった人は皆、悪人だったのだろうか。私には普通の人が過激化したようにしか見えないのだ。テルアビブ空港で銃を乱射したのちに自爆したアラブ赤軍の奥平剛士などは、心優しい京大生と描いている小説もある。三菱重工ビル爆破事件を引き起こした東アジア反日武装戦線のメンバーはどうか? 逮捕時に青酸カリを飲んで自殺した斎藤和は、私の高校の1年先輩だが、勉強のできる秀才であった。本書に「過激化の過程にある人は、自分や自分の内集団を認めない者(外集団)を人間とは見なさなくなっていく(非人間化)が、そうすることで実は「他者への恐れ」から解放される。また、彼らを殺害すると決意し自分の死も覚悟すると今度は自分の死を恐れる感情からも解放されるのだという」という記述があるが、日本の内ゲバ殺人にも当てはまると思う。

11月某日
吉武民樹さんの呼びかけで元厚労省の堤修三さん、田中耕太郎さんと丸ビルの筑紫楼で会食。厚生省入省は堤さんが46年、吉武さんは47年、田中さんは49年。田中さんは割と早く厚生省を辞めて故郷の山口県で県立大学の教授になった。後に次官になった阿曽沼さんと同期、堤さんも次官になった辻さんと同期、吉武さんは大泉博子さんや亡くなった小島さんと同期だ。私は早稲田大学の劣等生でもちろん厚生省に勤めたこともないのだけれど、なぜか厚生省のOBとは仲良くさせてもらっている。筑紫楼は中華料理、それもフカヒレ料理をメインとする店で、大変おいしく食べさせてもらった。値段は高かったけど、料理には大満足だったので納得である。当日の採譜(メニュー)。「ふかひれのお刺身」「ふかひれと蟹卵入りスープ」「大海老と季節野菜の炒め」「北京ダック」「ふかひれ入り土鍋そば」「アンニン豆腐」。二度と行けないと思うので記念に書いておきます。

モリちゃんの酒中日記 11月その1

11月某日
「キャベツ炒めに捧ぐ リターンズ」(井上荒野 角川春樹事務所 2025年10月)を読む。リターンズとあるのは2011年に「キャベツ炒めに捧ぐ」が刊行されているから。リターンズでは最年長の郁子が67歳、最年少の麻津子が65歳、江子が真ん中の66歳という設定。3人は共同で総菜屋「ここ家」を運営している。その日々を描いているわけだが、各章のタイトルが食べ物に因んでいる。「キャベツ炒め再び」「菜の花のペペロンチーノ」「ズッキーニのソテー」というふうに。井上荒野には「リストランテ アモーレ」など料理にからむ小説が多いように思うけれど、たぶん本人も料理好きなんであろう。フランス語やイタリア語(と思われる)料理や材料の言葉が出てくるが私にはチンプンカンプン。でも面白かった。最終章「キズの唐揚げ」から。
「制服、って言ったの! 見えない制服。あたしも、姫薇々ちゃんも、進君も、みんなずーっと、そういうの着てたんだなあって」
「なんじゃそれ」
麻津子は言ったが、
「わかるわあー」
と郁子は言った。……
「制服脱いで、路頭に迷わなければいいけどね」
麻津子は言った。

「路頭に迷うほうが制服よりマシよ!」
私はこの考えに全面的に賛成する。「路頭に迷うほうが制服よりマシ」-こういう考えは井上荒野の父親、井上光晴、光春の恋人だった瀬戸内寂聴の考えに共通するものだと思う。

11月某日
床屋さんに行く。以前、行っていた床屋さんが3500円から4000円に値上げされた。床屋に限らず物価高騰を実感する。今度の床屋さんは我孫子駅の北口の「髪風船」。大人調髪料が2200円、60歳以上は2000円。前の半額!入店して待つこと5分ほどで髭剃りと散髪。トクした気分で南口の中華料理店「海華」で上海焼きそば。我孫子市民図書館に寄って帰宅。

11月某日
「イスラエル人の世界観」(大治朋子 毎日新聞出版 2025年6月)を読む。2023年10月7日、パレスチナの軍事組織ハマスの戦闘員がイスラエル側に入り、多数のユダヤ人を殺害したうえ人質として住民を連行した。現在は停戦中で戦闘行為は中止され双方による捕虜の交換も進んでいる。パレスチナ問題に関連して何冊かの本を読んだが、本書は問題の本質を捉えている点で、最も優れた著書である。著者の大治は毎日新聞編集委員、1989年に入社、ワシントンやイスラエルの特派員を務め、テルアビブ大学院で「危機・トラウマ学」を修了。著者の立ち位置は次の文章にあらわれている。「いかなる社会も、大きな事件や事故、災害に見舞われれば、複雑な思考をめぐらす余裕を失うだろう。…危機に見舞われた時こそメディアはさまざまな角度から情報や思考を提供しなければならない。だが現実にはむしろその単純思考をあおるような役割を果たしてしまいがちになる。日本の戦時中、メディアが犯した罪の本質もここにある」。そのうえで著者はユダヤ人の歴史を振り返り、さらに現実のパレスチナ双方の庶民、兵士、指導者たちにインタビューを行う。専門的な裏付けのある優れたジャーナリズムの書である。

11月某日
「アイヌの歴史-海と宝のノマド」(瀬川拓郎 講談社選書メチエ 2007年11月)を読む。私は北海道生まれで18歳まで彼の地で暮らしていた。北海道の先住民としてのアイヌにはほとんど関心がなかった。しかし小学校の同じクラスにはアイヌの女の子が一人いたし、2学年上の兄の友人にもアイヌの男の子がいた。特に差別はしなかったと思うが、製鉄所の社員や国鉄職員の子弟が児童の多くを占めるその小学校では、アイヌの人たちは相対的に貧しかったように思う。今回「アイヌの歴史」を読んで、アイヌ民族は日本人(和人)と交流をしながらも独自の文化・文明を築いてきたことを知った。日本人が単一民族ということも「神話」に過ぎない。私が大学生のころ新左翼の一部が東日本反日武装戦線を結成し爆弾闘争を展開したことがあった。彼らの中に北海道出身者がいてアイヌ解放も叫んでいたように記憶する。本書を読んで我々がしなければならないことは、単純に解放を叫ぶことではなく先住民族としてのアイヌの歴史を学ぶことだと思った。アイヌ・エコシステムには地球温暖化の今、学ぶことが多いような気がする。

11月某日
週1回のマッサージの日。勤めが休みの長男に車でマッサージ店に送って貰う。途中でウエルシアによりジンを購入。電気15分、マッサージ15分。長男が迎えに来てくれる。私の銀行カードが我孫子警察署に届いているというので再び車で我孫子警察署へ。銀行カードを貰う。図書館で拾われたらしい。10分ほどで自宅。

モリちゃんの酒中日記 10月その3

10月某日
「宰相鈴木貫太郎の決断-「聖断」と戦後日本」(波多野澄雄 岩波現代選書 2015年7月)を読む。波多野は近代日本政治史専攻で筑波大学名誉教授。最近、この人の著作をよく読む。この本は太平洋戦争末期の昭和20年4月に首相となり、ポツダム宣言を受諾した鈴木貫太郎の言わばドキュメントだ。鈴木は戦争の現状を敗北は明らかと認識していた。この認識は近衛文麿や外相を務めた東郷茂徳とも一致していた。しかし内閣や軍部をどのように敗戦に導くかは、鈴木にとって極めて厳しい難問であった。当時、主要な艦船を失っていた海軍に比べると陸軍の本土決戦論は当時の日本の支配者層、一般国民に支持を得ていた。鈴木はときに本土決戦を主張しながら、注意深く敗戦の道を探っていく。鈴木を後押ししたのは昭和天皇の終戦への思いであった。6月22日の御前懇談会で天皇から「…戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げ、その実現に努力することを望む」との「御言葉」があった。さらにポツダム宣言についても「連合国側の回答の中に「自由に表明されたる国民の意志」とあるのを問題にして居るのであると思うが、それは問題にする必要はない。若し国民の気持ちが皇室から離れて了って居るのなら、たとえ連合国側から認められても皇室は安泰ということにはならない。…」(木戸陳述録)と述べている。終戦に至る昭和天皇の言動は実に興味深い。自身は明治憲法に謳われている立憲君主であろうとするのだが、戦争末期に至って終戦のイニシアチブをどの勢力もとることができず、結局は天皇の「聖断」という非立憲的な手法に頼らざるを得なかったのだ。

10月某日
市ヶ谷のルーテルセンターの「荻島良太サキソフォンリサイタル」に行く。18時30分の開場に合わせて行くと川邉さんがすでに来ていた。荻島良太さん川邉さんと厚生省入省同期の荻島國男さんの長男。荻島國男さんとの同期は川邉さん以外にも厚労省の次官を務めた大塚さんや内閣府と厚労省の次官を務めた江利川さん、宮城県知事になった浅野さんら個性的な人が多い。年金局の資金課長に江利川さんの次になったのが川邉さんだ。資金課というのは年金の積立金を管理するのが主な仕事で年金福祉事業団(当時)も監督していた。私は年金住宅融資を貸し付けていた年金住宅福祉協会や社会保険福祉協会から仕事をもらっていたから年金局資金課とも付き合いがあった。私が年友企画の前に勤めていたのが日本プレハブ新聞社で、社名通りプレハブ住宅業界の専門紙であった。今から半世紀近く前の話しである。当時は今と違って資金不足の時代で、銀行は産業金融に力を入れる一方、個人金融、住宅金融には目を向けていなかった。そうしたなか住宅金融はもっぱら、政府系金融機関の住宅金融公庫が担っていた。厚生年金の積立金を原資にした年金住宅融資も存在してのだが、事業主を通して借りる事業主転貸だったため利用者は少なかった。事業主に代わって被保険者に融資したのが年住協などの転貸民法法人だ。そこから厚生省との長い付き合い始まったわけで、荻島國男さんにも大変、お世話になった。良太さんのリサイタルにも顔を出さないわけにはいかないのである。

10月某日
「決定版 大東亜戦争(上)(下)」(波多野澄雄等 新潮新書 2023年7月)を読む。1945年8月、日本は米国を中心とする連合国に敗れた。この戦争をどう呼ぶか、論争があったようだ。これについては第13章「戦争呼称に関する問題-「先の大戦」を何と呼ぶべきか」(庄司潤一郎)が詳しい。真珠湾攻撃後の1941(昭和16)年12月12日、閣議で支那事変を含めて大東亜戦争と呼ぶことが正式に決定された。終戦後、GHQから「八紘一宇」などとともに「大東亜戦争」の呼称は禁止され、「太平洋戦争」という呼び方が定着していく。しかし太平洋戦争という地理的に限定された言い方では中国大陸や東南アジアでの戦いや、ソ連軍との戦闘を表現しきれないという問題があった。昭和6年の満州事変から同20年の終戦まで時間的にとらえた「15年戦争」、中国大陸、東南アジア、太平洋と戦争を空間的にとらえた「アジア・太平洋戦争」という呼称もある。本章の最後で庄司は「結局のところ、戦争肯定という意味合いではなく、相対的に最も適切な呼称は、原点に戻って、「大東亜戦争」に落ち着くのではないだろうか」としている。本書を読んで感じることは、開戦への意志決定が当時の首相であった東条英機の強いリーダーシップとは言えず、まして昭和天皇の意向を汲んだものとも言えない。当時、ドイツの猛攻にさらされていた英国が敗れ、ソ連は日ソ中立条約によって参戦しない、という楽観論に支えられていたと言うしかない。言葉を替えるとそうした「空気」に流されてしまったとも言える。近現代の戦争は軍事力だけでなく経済など国の総力を挙げた総力戦として戦われる。米国を中心とした連合国に日本は敵うべくもなかったわけである。

10月某日
「縄文-革命とナショナリズム」(中島岳志 太田出版 2025年6月)を読む。戦後の日本社会に縄文という時代が、どのように影響を及ぼしたかを考察している。取り上げられているのは岡本太郎や民芸運動、吉本隆明と島尾敏雄、太田竜に上山春平と梅原猛。縄文時代に日本の原点があるという発想である。そして縄文文化が色濃く残っている文化としてアイヌと琉球の文化に着目し、アイヌ文化、琉球文化ではそれぞれ太田竜、吉本隆明と島尾敏雄に言及される。太田竜って現在はほとんど顧みられることはないが、私の学生時代(今から50年以上前の話し)は過激派の理論的指導者のひとりとして新左翼系の雑誌に論文を寄稿していた。平岡正明と竹中労と3人で「世界革命浪人」を名乗っていた。プチブル化した先進国の労働者は革命の主体となりえず、釜ヶ崎や山谷の日雇い労働者、沖縄人やアイヌ、被差別部落民、在日朝鮮人などが革命の主体となるべきと訴えた。縄文時代に日本列島はもちろん存在したが、日本という国はなかった。米作りもまだ日本列島には到来せず、基本的には狩猟採取の生活だった。北海道のアイヌの人たちも狩猟採取を主とした生活であった。太田竜は確か「辺境最深部へ退却せよ」という著作などによって、彼の考える日本革命の主体となるべき人に訴えた。当時、過激な爆弾闘争を展開した反日武装戦線などにも彼の思想が影響したとされる。それはさておき、日本文化の古層に縄文があるという発想は大変興味深いものがある。

10月某日
「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史」(瀬川拓郎 ちくま新書 2016年2月)を読む。中島岳志の「縄文」が面白かったので図書館で瀬川の著作を2冊借りた。私は北海道室蘭市で18歳まで育ったが、北海道の歴史についてはほとんど無知。この本を読んで少しは無知が解消されたように思う。近年、北海道でも縄文時代の巨大な土木遺跡が発掘されている。たとえば、苫小牧市の静川遺跡は区画の長さ140ⅿ、環濠の幅3ⅿ、面積は1500㎡にもなり、千歳市のキウス周堤墓群は全体を土塁で囲った共同墓地が群集しているが、土塁の直径は最大のもので75m、深さは5m以上だ。最大の周庭墓の土塁の土量は3400㎥、10tダンプで600台以上に相当する。瀬川は「おそらく数十人ほどのひとびとがこの工事にほとんど専従、つまり食糧の調達にわずらわされることなく工事に従事していた可能性が高い」とし「縄文社会は、そのような余剰の蓄積と「扶養」も可能な、高い生産力のポテンシャルをもつ社会だったのであり、その意味ではたしかに「豊かな社会」といえる」と述べる。本書では津軽海峡以南の日本列島は縄文文化から弥生文化に移行したとされるが、北海道では縄文文化が継続し、それを担ったのがアイヌとしている。「大陸からの渡来人と縄文人が混血して本土日本人が形成され、周縁の琉球と北海道には渡来人の影響が少ない人びとが残った」(人類学者の埴原和郎の二重構造モデル)という。アイヌは早くから和人と交易し、畑作もやっていた。アイヌは狩猟採取を主として行い、農耕には従事していなかったというのは私の先入観にすぎなかったようだ。

10月某日
「アイヌと縄文」に続いて同じ瀬川拓郎の「縄文の思想」(講談社現代新書 2017年11月)を読む。私は北海道出身と言っても18歳のときに上京しているから、北海道と縁が遠くなってから60年になる。本書を読んで北海道やアイヌ、縄文人のことが少し知ることができた。本書によると、縄文人は北海道から沖縄にかけて日本列島のほぼ全域に住んでいた。この縄文人と朝鮮半島から渡来人が混血し、現代の本土人の直接的な先祖である弥生人になった。北海道の縄文人は肉食主体で植物食を多く取り入れていた本州の縄文人と異なり、北海道の縄文人には虫歯が少ないそうだ。遺跡からはヒラメやメカジキの骨も出土して、彼らの食生活も想像させる。ヒラメやメカジキは沖合の水深200メートルほどの海域に生息することから、彼らの造船、操船の技術の高さがうかがえる。本書では海民、アイヌ、南島の伝説と古事記などを比較している。私の故郷にもアイヌの伝説をもとにした地名があった。小学校の近くにイタンキ浜という海浜があった。昔、アイヌがイタンキ浜の近くにあった岩を鯨と見誤り、焚火をしながら鯨が流れてくるのを待った。最後にはお椀(アイヌ語でイタンキ)さえも燃してしまったが鯨は来ずに、アイヌは餓死してしまったという説話だ。瀬川という人は考古学や歴史学の文献だけでなく、柄谷行人や網野善彦、宮本常一、渡辺京一らの本も参照にしている。大杉栄とともに虐殺された伊藤野枝のことにも触れている。考えてみると縄文の社会は共産主義、無政府主義の社会とも近いのかもしれない。