3月某日
「琉球処分-『沖縄問題』の原点」(塩出裕之 中公新書 2025年6月)を読む。明治維新まで琉球は中国(清)と日本(島津藩と江戸幕府)の両方に属していた。琉球国王(尚氏)が代替わりするたびに使節を両方に送っていた。明治維新になって日本政府は琉球に両属の解消と国王の東京への移住を求めた。琉球の人びとと国王は受け入れる気持ちはなかったが、日本の武力を背景にした要求に受け入れざるを得なかった。日本への帰属が決定し中央から知事や軍隊が派遣されてからも清国への帰属を願って清へ渡る人がいたという。「あとがき」で著者は「沖縄における米軍基地の問題が論じられる際に、しばしば琉球処分が想起されるのは理由のあることだ」とし、「それは、琉球処分を通じて確立した主権国家としての日本のありよう、そして琉球処分によって形成された大和人(ヤマトンチュー)と沖縄人(ウチナンチュ)との関係が、いまの日本と沖縄をも条件づけているからだ」としている。日本にある米軍基地の大半を沖縄に押し付けている現状は、現代の「琉球処分」と言えるのである。
3月某日
「歴史は"強者ファースト“か?-日本社会にはびこる歴史否定を世界的に考える」(板垣竜太 加藤圭木 岡本友佳編 岩波ブックレット 2026年1月)を読む。「はじめに」によると「歴史否定論は、負の歴史を歪曲・否定する言説や運動のことを指すもの」とある。南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦は本人の意志-の類いである。最近ではテレビの討論番組でもそのような主張をする人がいるし、そのようなスローガンを掲げて国政選挙で当選する人もいる。私は戦前、日本軍及び日本人が朝鮮半島や中国大陸で、現地の人々を差別し、暴力的に抑圧してきたのは事実であると思っているし、日本人の一人として謝罪したいと思っている。「いつまで謝罪し続けなければならないのか?」という人もいるが、私は被害者及びその子孫が納得するまで続ければいいと思う。「殴ったほうは忘れても殴られたほうは忘れない」のだから。
3月某日
「江戸町奉行所 与力・同心の世界」(岩波新書 滝口正哉 2026年2月)を読む。与力、同心というのは町奉行所の役職で現代の警察で言うならば、それぞれ警視と警部、あるいは警部と巡査部長といったところか。時代小説では重要な登場人物となることも多いが、歴史の教科書や歴史書では決して主役にはなれない、江戸時代を通じて脇役でしかなかった。著者も「おわりに」で「大岡忠相や遠山影元といった町奉行や、町奉行所全体について紹介した書籍は少ない。だが、与力・同心を本格的に取り上げたものは本書がはじめてであろう」としている。与力・同心は旗本身分ではなく一部を除いて、一代に限って雇用される不安定な身分であったが、事実上、世襲の状態にあった。給料は与力は200石を基本とする知行取であり、同心は30俵2人扶ちを基本とする蔵米取であった。与えられた組屋敷の広さは与力が一人当たり300坪前後、同心が80~90坪だった。旗本が現代のキャリアなら御家人の与力・同心はノンキャリア、与力はノンキャリの部長、同心は課長というところか。最終章で幕末、最後の与力となった原胤昭が紹介されている。胤昭は14歳で与力の職につき16歳で明治維新を迎える。東京府発足とともに記録方・書記となるも失職、英語やキリスト教文化を学び、キリスト教の洗礼を受ける。「最後の浮世絵師」小林清親と出会い、彼の図案による外国人向けのクリスマスカードやカレンダーなどを出版する。明治16年、自由民権運動に関連した福島事件を題材にした錦絵を出版、新聞紙条例違反で」軽禁固3カ月、罰金30円に処せられ投獄される。元与力は自由民権の思想に「深く共感していたことがわかる」。胤昭は昭和17(1942)年、90歳で亡くなる。墓所は手賀城跡でここは我が家からすると手賀沼の対岸に当たる。
3月某日
金曜日は週一回のマッサージの日。近所のマッサージ店、絆へ。ついでにほぼ月一回の床屋へ。我孫子駅北口の髪風船へ。本日は評議員をしている社会福祉法人の評議員会があるので、そのまま我孫子駅から上野へ。上野で満開の桜を見ながら徒歩で御徒町へ。御徒町駅前のスーパー吉池の吉池食堂で北海丼と生ビール、ハイボール。御徒町から東京駅で中央線に乗り換え、立川へ。立川で社会福祉法人の評議員会に出席。評議員会後の懇親会にも参加、ご馳走になる。
3月某日
15時に我孫子駅の改札を出たところで、大谷さん、吉武さん、神山さんと待ち合わせ。吉武さんの車で手賀沼公園の水の館から湖北方面をまわって対岸の柏市(旧沼南町)へ。今井堤の桜を鑑賞。近くの将門神社に参拝。我孫子に戻って吉武さんが予約していてくれたレストラン「コビアン」で食事、プラスビールとハイボール。私は我孫子に住んで50年以上になるが、今井堤の桜や将門神社は初めてである。車を出してくれた吉武さんに感謝、そして日暮里の羽二重団子と宮城の日本酒をくれた神山さんにも感謝。
3月某日
「韓国併合-大韓帝国の成立から崩壊まで」(森万佑子 中公新書 2022年8月)を読む。日清戦争の日本の勝利、清の敗北は東アジア諸国の力関係を大きく変えた。清の影響力の減衰を受けて朝鮮王朝はそれまで中華帝国の属国の地位から脱却した。中華帝国皇帝から朝鮮半島の統治を委任されていた関係、すなわち中華帝国皇帝に対して朝鮮王という関係から、対等な大韓帝国の皇帝という関係になった。当然、日本に対しても対等な関係を大韓帝国の皇帝及び臣民は願ったが、日本帝国主義はそれを許さず保護国化を進め、やがて併合、植民地化に至った。1910年8月22日、韓国併合条約公布、即日施行、同日、明治天皇が大韓帝国皇帝を刷封(高宗は徳寿宮李大王、純宗は昌徳宮李王)。日本帝国主義の支配は敗戦の1945年8月15日まで続くことになる。36年間の日帝支配である。
