モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
大学の同級生、雨宮君は卒業後司法試験に合格して検事に。その後、弁護士を開業した。現在のオフィスは西新橋の弁護士ビル。私が机を置かせてもらっているHCM社から歩いて5分ほどの距離だ。末っ子が早稲田大学の法学部へ入学、お祝いに家族でベトナム旅行へ行ってきたという。お土産があるというので弁護士ビルへ行くとベトナムコーヒーをくれた。ジャコウネコが食べたコーヒー豆を糞から取り出し、焙煎したものという。ありがたくいただく。弁護士ビル近くの「山本魚吉商店虎ノ門店」という日本酒の旨そうな店に入る。茨城県日立市の日本酒を頂く。雨宮君が西新橋1丁目の交差点まで送ってくれる。霞が関から千代田線で我孫子まで帰る。

4月某日
御徒町の台湾料理店「大興」で大谷さんと年友企画の石津さん、酒井さん、元年友企画の浜尾さん、村井さんと呑むことに。前日、京大理事の阿曽沼さんから京大の東京ブランチがある新丸ビル10階に5時に来てくれとのメール。神田の社保険ティラーレで「地方から考える社会保障フォーラム」の打ち合わせの後、新丸ビルへ。新丸ビル5階のバーへ。シャンパンとロゼ、ジントニックを頂く。京都へ帰る阿曽沼さんと東京駅で別れ御徒町へ。御徒町の「大興」には大谷さんと東京介護福祉士会の白井幸久さん、埼玉福祉専門学校の飯塚さん、石津さん、酒井さんが来ていて盛り上がっていた。金曜日の夜ということもあって、私の入る余地がない。大谷さんを誘って別行動をとることに。日比谷線の仲御徒町駅から入谷へ。5~6年前、兄嫁の弘子さんと作家の車谷長吉先生、奥さんで詩人の高橋順子さんと行った店を目指すが満員で入れず。入谷駅近くの2階に入りやすそうな居酒屋があったので入る。「さんたけ」という店で脱サラして店を始めた78歳のマスターと、秋田県能代出身のおばちゃん、30代くらいのお姉さんがやっている店だ。1人2000円でお釣りが来た。我孫子へ帰って駅前の「愛花」に寄る。常連の新井さんがいた。

4月某日
図書館で借りた「マルクス 資本論の哲学」(熊野純彦 岩波新書 2018年1月)を読む。一言でいえば「資本論でマルクスが言いたかったこと」について哲学的に読み解いたということになると思う。だが、本文は断片的には理解できたものの著者の論述を十二分に理解できたとは言い難い。理解できないのに魅力的な本であった。機会を改めて挑戦したいと思う。私がなんとなく理解しえたと思ったのは「まえがき」と「終章 交換と贈与」、「あとがきにかえて」である。「まえがき」には「世界革命と世界革命とのあいだで」というサブタイトルが付されている。一度目は、ほぼヨーロッパ全土を席巻した1848年であり、2回目は日本を含む先進諸国で同時多発的に発生した1968~69年の学生反乱である。I・ウォーラーステインのことばという。著者の問題意識は、「この世界が存続するためだけにも、大きな変化が必要とされる」ということであり、そのため「資本論」で展開されているマルクスの原理的な思考の深度と強度に焦点を当てたという。「終章」に「コミューン主義のゆくえ」という副題が付いている。コミューン主義とは我が国でコミュニズムの訳語として多く用いられている共産主義のことであるが、あえて共産主義という「手垢に汚れた」訳語を用いずコミューン主義という訳語を用いた著者の意図は理解できる。
 終章ではマルクスは資本主義体制に代わるどのような体制を思い描いていたのかが、マルクスとエンゲルスが残したいくつかの文献をもとにして述べられる。共産主義は私的所有の廃絶を目標とするというのは高校の世界史の教科書にもあるほどの常識なのだが、マルクスの思考はそんな単純なものではない。著者は「経済学・哲学草稿」からマルクスの考えを「手にすること、ひとりのものとし、使用し、また濫用すること、すなわち私的に所有することだけが『じぶんのものとする』ことではない。世界を見、その音を聞き、感じ、しかも他者とともにそうすること、他者とともに世界にはたらきかけて、世界を受苦においても能動的にも享受することもまた、世界をともに持つこと、わかち合うことである」と紹介している。著者、熊野純彦が言うように、このマルクスの所論は「ある種の豊かなイメージを喚起する」と言えよう。「あとがきにかえて」では、わが国の資本論研究の流れが紹介されているが、宇野弘藏や廣松渉、柄谷行人の著作と並んで大川正彦という人の「マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?」(NHK出版)が評価されている。読んでみようかな。

4月某日
1969年と言えば今から49年前である。私は20歳、早稲田の政経学部の2年であった。当時、政経学部の学生自治会(学友会)は社青同解放派(反帝学評)の拠点だったが、全学的には革共同革マル派が制圧していて、政経学部学友会の活動家だった私は学内に入ることができなかった。1969年の4月17日、前日から明治大学の学生会館に泊まり込んだ私たち(反戦連合を主体にした反革マル連合)はヘルメット、ゲバ棒で武装して大学本部に突入した。革マル派の本体は晴海での沖縄闘争に行っていて、留守部隊が大学本部を防衛していた。数分のゲバルトの後、革マル派は潰走、私たちは大学本部を封鎖した。学生運動での私の数少ない「成功体験」である。私の記憶によると私たちの隊列の先頭にいたのが高橋ハムさん(のちに自治労幹部、現在ふるさと回帰支援センター理事長)と鈴木基司さん(政経学部卒業後、群馬大学医学部へ進学、現在群馬で小児科医を開業)だった。ハムさんと昔話をしていたら、当時の仲間が集まろうということになり、市ヶ谷の勤寿司にハムさんや基司さんたち10数人が集まった。皆70歳前後のジジイであるが、当時のことを鮮明に覚えていた。早稲田の全共闘は「反革マル派」が原点。医学部の不当処分撤回闘争が始まりだった東大闘争、大学当局の不正経理に端を発した日大闘争とはそもそもの始まりが違う。違うけれども反セクト、自主・自立の気風だけは強かったし、それは現在の自分にも受け継がれていると思う。