モリちゃんの酒中日記 7月その1

7月某日
「桐野夏生 対論集 発火点」(文藝春秋 2009年9月)を読む。小説では読み取ることのできない作家の「想い」が伝わりなかなか面白かった。読もうかなと思ったのは「松本清張の遺言」を書いた原武史との対談が収録されていたため。原は今までの天皇論が「お堀の外側」の天皇しか見ていないのではとしたうえで、「お堀の内側」、具体的には宮中祭祀に焦点を当てないと、戦前と戦後を一貫する天皇像をとらえ損なうとする。そして桐野の「女神記」(角川書店)を「天皇制の深層に迫っているのではないか」と強い感銘を受けたと語る。「憲法や政治史からいったん離れて、神話を通して天皇制に迫っていく」と評価するのだ。これに対して桐野は「古事記」「日本書紀」のイザナミとイザナギの物語の持つ「女性にとってのむごさ」に触発されて「女神記」を書いたと語り、「原さんがおっしゃった天皇制の根源に突き当たるとは全く思わずに書いたのです」と答える。作者の想いと学者の想いが交差する面白さがある。他にも松浦理英子、皆川博子、林真理子、小池真理子、柳美里、坂東眞砂子という女流作家との対談も面白かった。

7月某日
図書館で借りた社会学者の橋爪大三郎と経済学者の小林慶一郎の対談集「ジャパン・クライシス―ハイパーインフレがこの国を亡ぼす」(筑摩書房 2014年10月)を読む。遅々として財政再建が進まず赤字国債の発行額が一向に減らない日本財政に危機感を抱く橋爪が小林に財政危機の原因とその処方箋を聞くという体裁。本来は赤字国債の発行は禁じられている。それにも関わらず特例法によって発行が認められそれが何年も続いている。麻薬で当面の痛みを回避しているようなものである。このままいけば誰も国債を買わなくなり、金利は高騰し、大不況に突入。そうならないように日銀が国債を買い支えればハイパーインフレが待っている。そうならないためには消費税を35%に上げるしかないと小林はいう。きわめてまともだと私は思う。この本が発行された2014年に国債等の国の借金は1000兆円を超えたが、2015年度末では1091兆円。これは日本のGDPのほぼ2倍である。にもかかわらず消費税は8%。10年後、20年後には危機が顕在化する可能性が強い。与野党それにこのような財政政策を許した国民の責任は重い。将来世代に申し開きができない。

7月某日
「私は河原乞食・考」(小沢昭一 岩波現代文庫 2003年9月)をたまたま図書館で見かけ読むことにする。巻末に「本書は1969年9月三一書房より単行本として、1976年9月文藝春秋より文春文庫として、それぞれ刊行された」とある。小沢昭一は1924年生まれ(没年は2012年)だから著者が40代の作品である。文庫本で400ページ余り、なかなか読みでがあり面白く、かつまた私もヒマであるので2日で読了した。著者の目線の低さと志の高さに魅了されたというか。目線の低さということでは本書にはストリッパーや香具師、ゲイバーのママ、ホモセクシュアルの“権威”等が登場するのだが、著者の彼ら(彼女ら)に対する目線が常に対等ということである。むしろ世間で蔑みられがちな彼ら(彼女ら)にこそ真実がある、と著者は考えているのである。偉ぶらず、肩肘張らず、それでいて本音を語らせる。目線の低さはまた志の高さにも表れていると思う。日本の芸能の原点を探りたいという志の高さである。その志は中世期の「賤民」が我が国の芸能に果たした功績を忘れまいとする著者の姿勢にも表れている。なんて小難しい理屈を並べてしまったけれど、リクツ抜きに面白かったというのが本音である。
「私は河原乞食・考」の巻末に「付録 落語と私」が収録されている。麻布中学から海軍兵学校を経て早稲田大学に進学、そこでの折々の落語、落語家との付き合いが綴られている。それに触発されて、図書館の「古典芸能」のコーナーに行くと落語の本がたくさんあった。そのなかで「この世は落語」(中野翠 筑摩書房 2013年3月)を借りることにした。「明烏」「崇徳院」「湯屋番」「柳田格之進」「中村仲蔵」「居残り佐平治」「粗忽長屋」「芝浜」「酢豆腐」といった落語の概略を紹介しつつ落語の魅力を語る。魅力を語るついでに中野の辛口の現代批評が顔を出す。「三方一両損」では「とにかく! カネ、カネ、カネの世の中。ポイントカードだの割引サービスだの小銭に目の色変える平成のオリコウ者たち。落語の世界にだけでも、その逆を行ってイイ気になっている馬鹿野郎がいてくれるのは、ありがたいことじゃないですか?」とバッサリ。