モリちゃんの酒中日記 9月その2

9月某日
「資本主義を語る」(岩井克人 ちくま学芸文庫 1997年2月)を読む。岩井のインタビューや対談をまとめたものだが、単行本は94年4月、収録されたインタビューや対談の初出は86年から93年、ということは今から30年ほど前だ。30年前は今ほどパソコンも普及していないし、インターネットも登場していなかったころだが、岩井の思想は全くと言っていいほど色褪せていないと私は感じた。私の読書歴からすると、最初に岩井と出会ったのは彼の「法人資本主義論」、当時私は零細出版社の社長をしていて「会社はだれのものか」に興味があったからだ。次いで異なる共同体間の交易を巡る差異と贈与、貨幣を巡る問題に行き着いた。本書で一番面白かったのは網野善彦との対談「『百姓』の経済学」、よく理解できなかったが興味深かった対談は柄谷行人との「貨幣・言語・数」だ。網野とは歴史と経済について2人が楽しそうに語り合っているのが行間からも感じられる。一方、柄谷との対談は真剣に「切り結んでいる」感じがする。内容を論評するのはおこがましいので今回は形式のみ。

9月某日
佐藤雅美の「物書同心居眠り紋蔵」シリーズの「わけあり師匠 事の顛末」(講談社文庫 2017年5月 単行本は14年5月)を読む。佐藤雅美は1941年生まれだから今年77歳、さすがに昔のように書けなくなったようで、私も佐藤の小説を読むのは久しぶり。「物書同心」というのは取り調べに同席して調書をまとめる仕事と各種裁判の先例を調べるのが主な仕事。江戸幕府ではもちろん三権が分立していたわけではなく、江戸府内における行政、司法、立法はともに幕府が一手に掌握していた。検察、警察、裁判についても江戸町奉行が独占していた。まぁ細かく言うと勘定奉行や評定所などが絡むのだが、詳しく知っているわけでもないのでそれは省く。「居眠り」というのは主人公の藤木紋蔵が今で言う「ナルコレプシー」で、取り調べ中に居眠りをすることから「居眠り紋蔵」と綽名されたため。今回も面白く読ませてもらったのだが、私も年をとったのか敵役の描き方が気になった。2人の孫を育てていた老爺が死んで、月に何両かの家賃を稼いでいた家作を後見人を名乗る親戚に乗っ取られるというストーリーでは「なまじ財産などあるから人は醜い争いをしてしまう」と思ってしまう。佐藤雅美は私のような庶民の正義感に「さりげなく」訴えるのが巧みなのだ。今度の北海道の胆振東部地震でも思うのだが庶民の正義感や同情心が実は社会を支えていると言えないだろうか。

9月某日
「どアホノミクスへ 最後の通告」(浜矩子 毎日新聞出版 2016年10月)を読む。2010年から2016年にかけて毎日新聞や週刊エコノミストへ掲載された連載やインタビューをまとめたもの。浜矩子は以前からアベノミクス批判の急先鋒の一人。アベノミクス=アホノミクスという論調は、私は真っ当な批判と評価している。本書でも多くの浜の指摘には同感した。なかでも安倍政権の異次元の金融緩和と財政の拡大による景気刺激策について、「財政と金融が同じ方向を向かないと政策が効かない」とするリフレ派の主張に対して「全くナンセンスですね。金融政策は通貨価値の保全が最大の任務です。財政が拡張的になった時は、そのことに伴う通貨価値棄損の懸念に金融政策が対応する。それでこそ、財政・金融の名コンビが機能する」と反論する。本書ではイギリスのEU離脱についても触れられているが、浜はEUの当初の理念は正しいにしろもはや、時代に合わなくなっているうえに通貨統合は誤りだったと断言、イギリスのEU離脱にも理解を示す。巻末に少女時代からの浜の人生が語られているが、それによると商社員だった父の勤務の都合で、8歳から12歳までロンドン郊外のウインブルドンに住んでいたという。ロンドンでは学校にもそこでの暮らしにもなじんだものの、帰国子女として過ごした都内の公立学校ではかなり浮いた存在だったらしい。いずれにしても彼女の国際感覚は「ホンモノ」だと思う。テレビで見る彼女のファッション感覚は独特、パンクの系統か?

9月某日
厚生労働統計協会の西山裕常務を訪問。同協会が出版した単行本「新時代からの挑戦状-未知の少親多死社会をどう生きるか」(金子隆一・村木厚子・宮本太郎)の販売についてアドバイス。台湾から帰った大谷源一さんからメール。厚生労働統計協会の後はフリーなので、入谷の「さんたけ」へ。協会のある八丁堀から入谷までは日比谷線で一本なのだが、まだ早いので協会から神田まで歩き、神田から山手線で上野へ。上野から「さんたけ」まで歩くとちょうど4時過ぎ。「さんたけ」には大谷さんがすでに来ていた。ホッピーセットを頼む。安くてくつろげる店。

9月某日
図書館で借りた「連合赤軍物語 紅炎(プロミネンス)」(山平重樹 徳間文庫 2011年2月)を読む。1960年代末から1970年代の初めにかけて日本の学生運動は、60年の安保闘争に並ぶ高揚期を迎えた。私が北海道室蘭市の高校を卒業したのが1967年。大学受験に失敗して上京した浪人中の秋、10月8日と11月12日に当時の佐藤首相の訪米阻止闘争、訪ベトナム阻止闘争がそれぞれ羽田空港周辺で闘われた。私は真面目な浪人生だったので闘争には参加しなかったが、「大学に受かったら学生運動に参加しよう」と密かに思ったものだった。68年の3月、第一志望だった東京都立大学の入試には落ち、早稲田の政経学部には何とか合格することができた。当時、政経学部の自治会は社青同解放派の拠点で、私もその年の12月までは青ヘルメットを被っていた。12月に早稲田で解放派と革マル派の内ゲバが発生、解放派は東大駒場に逃げて駒場の教育会館に立てこもる。東大はその頃、東大闘争の真っ最中。授業は行われていなかったし、各セクトの部隊が東大に常駐していたと思う。東大の民青と全共闘がそれぞれ応援部隊を全国動員していたのだ。年が明けて1月18日、19日が東大安田講堂の攻防戦。そして早稲田の反革マルの活動家に「圧殺の森を解放せよ」という電報が配信され、4月17日に反戦連合を主体にした反革マル連合が革マルの戒厳令を突破、大学本部の封鎖に成功する。東大、日大に限らず全国の多くの大学、高校でバリケード封鎖が行われたが、政府は大学正常化のため夏頃から封鎖解除に乗り出す。早稲田では全共闘、革マルのそれぞれの拠点だった第2学生会館と大隈講堂に対し大学側が機動隊に封鎖解除を要請、9月3日の早朝から機動隊が導入された。私は第2学館に立て籠もったのだが、10時過ぎには機動隊に制圧され全員が逮捕された。
私が逮捕された9月3日の2日後の9月5日には全国全共闘の結成大会が日比谷野音で予定されていた。4日には愛知揆一外相の訪米訪ソに反対して京浜安保共闘が羽田空港の滑走路に火炎瓶を投げ、坂口弘、吉野雅邦らが逮捕される。そして本書によると羽田空港突入の陽動作戦として高速道路からの火炎瓶投擲が準備され、これは未遂に終わったものの、後に山岳アジトで殺害される大槻節子が逮捕される。私が第2学生会館屋上で逮捕されて留置されたのが大森警察署、大槻節子が留置されたのも大森警察で、私が留置されて2日後くらいに楚々とした女子大生が送られてきたが、それが大槻節子だった。
大槻節子の逮捕後何日かして、小柄な若い男が大森警察に留置された。彼が大槻節子の当時の恋人で、昭和45年の12月18日に板橋区の上赤塚交番で拳銃を奪取しようとした3人組の1人、渡辺正則だった。3人組の1人、柴野春彦は現場で警官により射殺されている。東大日大をはじめ、各大学でバリケードが次々に解除され「火炎瓶とゲバ棒」の限界は明らかだった。限界を突破するには武装をエスカレートして「銃と爆弾」しかないと思い詰めたのが赤軍派と京浜安保共闘であり、連合赤軍だった。「銃と爆弾」路線は、連合赤軍が「あさま山荘」銃撃戦とその後に明らかになった同志へのリンチ殺人事件で壊滅したのちも、アラブ赤軍によるイスラエルのロッド空港での銃乱射事件や東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件へと受け継がれていく。今から50年前、「そんなこともあった」のである。当時は高度経済成長の時代で日本は繁栄を謳歌していた。その一方で反体制の学生運動は激化し、その頃19歳で盗んだ拳銃でタクシー運転手を3人殺害した永山則夫事件も起きている。本書を書いた山平重樹は鈴木邦男による解説によると民族派の学生運動家だったという。革命派と民族派という違いはあっても志半ばで倒れざるを得なかった学生運動家への想いが伝わってくる。

9月某日
我孫子市会議員で公明党所属の関勝則さんが公明党の代表質問をするというので市議会を傍聴しに行く。同じ我孫子市民で元社会保険庁の中西富夫さんも傍聴に行くという。我孫子市民となって45年以上になるのだが市議会を傍聴するのは初めて。代表質問は1時間。これは質問時間が1時間ということで市側の答弁を加えるとほぼ2時間。関さんは社会保障中心に高齢者への就業支援や我孫子市での地域包括ケアシステムについて質問、市側から前向きな答弁を引き出していた。ただ市民の傍聴は私と中西さんの2人だけ。議会の開催時間もウイークデイの昼間。これでは日中、仕事を持っている市民は傍聴できないし、第一、普通の市民は市会議員への道を実質的に閉ざされていると言えないだろうか。市議会の夜間の開催は検討されてよい。

9月某日
図書館で見かけた「村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝」(栗原康 岩波書店2016年3月)を読む。伊藤野枝は大杉栄の妻で関東大震災のときに甘粕正彦憲兵大尉らによって、大杉と大杉の3歳の甥とともに虐殺されたことで知られる。といって私もそれ以上のことは知らない、ということもあって読むことにした。読み始めて「評伝」にしては文体がやけに軽いことに気が付いた。「はじめに」で著者の栗原は伊藤野枝について「やりたいことだけやって生きていきたい。ただ本が読みたい、ただ文章が書きたい、ただ恋がしたい、ただセックスがしたい、もっとたのしく、もっとわがままに。(中略)不倫上等、淫乱好し」と書く。ちょっと町田康の文体を思い浮かばせるものがある。著者の栗原は1979年生まれ。まだ40歳になっていない。早稲田の政治学の大学院博士課程満期退学という学歴ながら現職は東北芸術工科大学非常勤講師のみ。栗原は恐らく伊藤野枝を自分の理想の女性像として描いている。それがとても生き生きと描かれているということは、栗原の力量はもちろんのこと伊藤野枝という人格とアナーキズムという思想の魅力なんだと思う。

9月某日
尾久で訪問介護事業所を経営している馬木君から幕張メッセで開かれる「医療と介護」をテーマにした展示会に誘われる。東京駅の京葉線ホームで待ち合わせて海浜幕張へ。中村秀一さんの講演を聞いたところで久しぶりの人混みに疲れてしまい退散。上野駅のエキュートの「はいり屋」で馬木君にご馳走になる。馬木君とは学生時代、練馬区江古田にあった学生寮「国際学寮」で一緒だった。馬木君は上智大学で大学は違ったのだがよく吞みに行った。馬木君は卒業後、仕事をしながら鍼灸師の資格を取得、介護保険のスタート時にケアマネジャーの試験に合格、尾久で訪問介護事業所を開業した。がんが見つかったりいろいろ大変らしいが、介護事業所の経営は順調のようだ。