モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
図書館で借りた「アンボス・ムンドス」(桐野夏生 文藝春秋 2005年10月)を読む。図書館の桐野夏生のコーナーで手に取って「読んでないな」と思って借りたのだが、読みだしたら記憶が蘇ってきた。大まかなストーリーは思い出すが、初回に読んだときには気が付かなかったことや「あーそういうことなんだ」と思うことがあり、同じ本を繰り返して読むのも悪くない。桐野の作品を「平成のプロレタリア文学」と評したのは政治学者の白井聡である(「奴隷小説」(文春文庫)の解説)。白井は「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」と提起する。「アンポス・ムンドス」には表題作含めて7つの短編が収められているが、冒頭の「植林」を白井理論によって読み解いてみよう。
宮本真希は医薬品や化粧品の安売り量販店のアルバイトである。時給850円で実働7時間、週に5日出勤しても月収は12万円程度、コンタクトレンズの片一方を無くしても貯金が無いから買うこともできない。「失うべきものがない」真希は平成のプロレタリアートである。真希はその上チビで小太り、「セックスはおろかキスもしたことがない」。異性からも疎外されているし、職場の高校を出たての同僚からも馬鹿にされている。両親と暮らしていた実家には兄夫婦と姪が転がり込んできて真希は居場所さえも脅かされる。ふと見たテレビのワイドショーが真希の記憶を揺り動かす。未解決事件の特集で「1984年グリコ・森永事件」が取り上げられている。当時、真希は小学校3年生で寝屋川市のマンションに住んでいたが父親の転勤で東京へ引っ越すことが決まっていた。
グリコ森永事件では子供の声が身代金の置き場所を指定する。テレビで流されたその音声は真希の小学校3年生のものだった。同じマンションに住む一人暮らしの女の人、鈴木さんの部屋。真希は右手に大きな金の指輪をした男に言われて地図の地名を読み上げた。男はそれをテープにとり鈴木さんはアイスクリームをくれた。近いうちに東京へ引っ越し、もともと東京者だから、あまり大阪訛りがないないこと、それが真希が選ばれた理由だ。日本中が騒いだ事件に自分が加担していたことを知る真希。真希は冴えなかった自分が急に誇らしくなる。それによってアルバイトの同僚との関係も逆転する。これはプロレタリアート真希によるいわば「蜂起」である。決して永続することのない単独の。

2月某日
有楽町の交通会館にある「ふるさと回帰支援センター」に高橋公(ヒロシと読むが仲間はハムさんと呼ぶ)さんを訪問。田舎暮らしのニーズが高まっているのか、フロアには相談に訪れている思われる中高年が何人も。ハムさんと私は早稲田大学の全共闘仲間。当時の早稲田は革マル派が全学を支配しており、革マルに同調しない学生は学内に入れなかった。50年前の1969年の4月17日、反戦連合など反革マル派の学生がヘルメットとゲバ棒で武装し本部に突入した。「50周年だからあつまろうよ。オレ忙しいから森田君、事務局やってくれ」ということで呼び出されたわけ。こうしたイベントの事務方は私の知る限り大谷源一さんが最適。大谷さんは早稲田ではないが「全共闘崩れ」ということでは一緒。ハムさんが大谷さんに電話して交通会館に来てもらう。打ち合わせ後、神田の焼き鳥屋で大谷さんと呑む。

2月某日
「維新と敗戦-学びなおし近代日本思想史」(先崎彰容 晶文社 2018年8月)を読む。先崎彰容は、白井聡とともに私が最近最も注目する思想家。2人の立場はずいぶんと違う。白井はレーニンの政治思想の研究から出発して(「未完のレーニン」など)、「永続敗戦論」「国体論」などで戦後体制を鋭く評論、昨年は確か「赤旗」で日本共産党への期待を表明していた。一方の先崎は「維新と敗戦」のもとになったのが「産経新聞」の連載や「正論」に掲載された論文ということから、どちらかというと「保守派」と見られがちかもしれない。先崎が1975年生まれ、白井が1977年生まれで私からすればどちらも息子の世代、「がんばれよ」とエールを送りたくなるのである。「維新と敗戦」は福沢諭吉、頭山満、吉本隆明ら23人の思想家を論じた産経新聞連載のエッセーをまとめたⅠと雑誌「正論」などに発表された論文をまとめたⅡによって構成されている。Ⅰでは高山樗牛、葦津珍彦など私が読んだこともない思想家が取り上げられて興味深かったし、Ⅱでは今ではあまり取り上げられることもない橋川文三に触れた論文などに魅かれるものがあった。しかし私が最も感銘を受けたのが「死者を慰霊する季節に-あとがきに代えて」であった。そこで先崎は亡くなった祖母との盆の思い出を綴る。西武多摩湖線の終点駅から近い平屋の都営住宅が祖母の家だった。幼い頃祖母の傍らで茄子の牛を造り、胡瓜に足をつける手伝いをした先崎は、四半世紀以上たった現在、祖母の住んだ都営住宅の跡地を訪れる。「私は人目をはばからず膝をつき、雑草にむかい手を合わせていた。確かに祖母はここにいて私を見ている。真夏の日差しが、私と祖母をつつんでゆく-」。そして先崎は「ここからしか『国家』というものを、日本というものを考えることができない」と述べる。うーん、先崎の日本浪漫派への想いの原点があるような気がする。

2月某日
日韓関係波高しである。慰安婦像問題、元徴用工への賠償問題に加えて韓国国会の議長が「日本の天皇が元徴用工や元慰安婦に謝罪すれば済む問題」と発言したことが日本の世論をいたく刺激した。天皇は憲法上、政治的な発言はできないのだから韓国の国会議長の発言は筋違いではあるのだろう。だが日本の世論や政府与党の反発には私は少なからず違和感を抱いた。日本が日清戦争に勝ってからだと思うが、日本は朝鮮半島や中国大陸の民衆を蔑視し、挙句の果てに朝鮮半島を併合し植民地化し、中国大陸の東北部には傀儡政権の満洲国を建国、国土を蹂躙したのは紛れもない事実。昭和天皇も現在の天皇もこうした歴史的な事実を踏まえて「周辺の国々に迷惑をかけた」と遺憾の意を表明している。喧嘩でも殴ったほうは忘れても殴られたほうは忘れない。外交でも同じことが言えるのじゃないか。
たまたまではあるけれど現代韓国小説を読む。図書館で借りた「ホール」(ピョン・ヘョン 書肆侃侃房 2018年10月)を読む。著者は1972年ソウル生まれ、写真が略歴に添えられていたけれどなかなかの美人。小説はとても現代的で「生きることの不条理や不安」を著者は描きたかったのではと思う。文芸も映画もポップスも韓国勢の勢いは止まらないように思う。もしもですよ、韓国と北朝鮮が統合するようなことになれば単純に統合した以上の効果が表れると思わざるを得ない。軍事的、経済的、文化的に見ても相当な大国が日本の隣国となる。東西ドイツの統合を見れば分かるでしょう。「ホール」の出版社、書肆侃侃房は福岡市に本社があって、「韓国女性文学シリーズ」を出版している。

2月某日
「啓順兇状旅」(佐藤雅美 幻冬舎 2000年10月)を読む。佐藤雅美は昭和16(1941)年生まれだから50代後半の作品、作家として最も脂の乗り切った時期なのだろうか、期待にたがわず面白かった。啓順シリーズは「兇状旅」「地獄旅」「純情旅」の3作品だと思うが、読んでいないのは「純情旅」だけ。ふとしたことから凶状持ちとなった医者の啓順、司法の網と浅草の火消しの親方、聖天松の手先から逃亡の旅を続ける。逃亡先でやむを得ず医術を施し、それがために聖天松の手先に居所が知れてしまう。私がこの小説を面白いと思うのは、佐藤雅美のほかの小説にも言えることなのだが、その時代考証の緻密さにある。啓順シリーズの場合、江戸時代の医療、医学の考証に加えて、逃亡劇なのでその時代の交通手段、交通路の考証がすごい。今回は八王子、甲府、伊豆、大島、石巻などが舞台に設定されている。したがって甲州街道はもちろん、下田や大島の波浮湊を拠点とする当時の海運に対する考証も。海運については波浮湊から石巻までの千石船も紹介され、さらに鬼怒川や江戸川の水運も啓順は利用する。この時代考証は半端ではない。

2月某日
昨日、本郷さんから「北大の元叛旗派と吞むので一緒にどう?」という誘いの電話があったので新宿まで出かける。紀伊国屋書店の前で待ち合わせて「三平食堂」へ。ほどなく「水田」と名乗る元叛旗派が来る。北大の理系の学部を卒業した後、一部上場企業に就職したがほどなく退職、ずっと塾の講師を勤めていたそうだ。叛旗派と言っても今の若い人には通じないだろうね。1969年くらいだったと思うがブント(ドイツ語で同盟のこと。私が若かりし頃は共産主義者同盟=社会主義学生同盟のことをブントと呼んでいた)から赤軍派が分裂、次いで情況派と叛旗派が誕生した。情況とか叛旗というのはセクトの機関誌名だったような記憶があるけれど、定かではない。しばらく3人で吞んでいると、もう一人「元叛旗派」が登場。この人は「日本語講師」という肩書の名刺をくれた。聞くと中国で日本語講師をしているという。4人でいろいろ話しているうちに私はすっかり酩酊。我孫子に帰って駅前の「愛花」に寄る。ママが心配して「モリちゃん、タクシーで帰った方がいいよ」と言ってタクシーを呼んでくれる。