モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
「遊動論-柳田国男と山人」(柄谷行人 文春新書 2014年1月)を読む。柄谷の本は「世界史の実験」「憲法の無意識」に続いて3冊連続。世間は平成から令和への代替わりで大騒ぎだが、柄谷の本には天皇制の基層に触れるものが少なくない。本書も直接的に天皇制を論じたものではないが、柳田の論稿を通して日本人の起源や定住民、遊牧民について述べており、私はテレビで上皇や天皇の姿を見るにつけ、彼らの先祖たる大陸の遊牧民に想いを馳せたくなる。そもそも日本人の祖先にはいくつかのルーツが考えられる。南太平洋、中部太平洋の島々からフィリピンあるいは台湾を経由して沖縄、日本に至るコース、北方騎馬民族が中国大陸、朝鮮半島を経由して日本に上陸したケース、中国大陸南部、現在の福建省あたりから日本にたどり着いた人々などである。シベリヤやベーリング海峡あたりから千島列島経由で南下したのが現在のアイヌ民族の先祖であろうと思われる。天皇家の先祖は北方騎馬民族らしいが、その末裔たちが3世紀に大和地方の有力豪族として政治連合を形成し、大和王権が成立した。その政治連合のトップが天皇家の先祖なんだろう。先祖は北方騎馬民族だから遊牧民なんだが、宮中祭祀は完全に定住民の農業、とくに稲作を意識したものとなっている。毎年秋の新嘗祭は五穀豊穣を神に感謝するもので、これと同じようなものが村の鎮守様の秋祭りであり、天皇の代替わりに際して執り行われるのが大嘗祭だ。日本の保守派は天皇の男系男子に固執しているが、日本はもともと男系でも女系でもなく双系制だったことからすると、男系男子の根拠は曖昧となってくる。柄谷によると双系制は出自・血縁よりも「家」、言い換えれば「人」よりも法人を優位に置く考えだという。「天皇家」を一種の法人と考えれば、この考えもうなづける。
「あとがき」によると、そもそも柄谷と柳田のかかわりは40年前に遡り、その頃柄谷は雑誌に「柳田国男論」を連載していたという。単行本にもせずにいたが、東日本大震災をきっかけに柳田のことを再び考えるようになったという。柳田によると、日本では、人が死んだら魂は裏山の上空に昇って、祖霊(氏神)となって子孫を見守ることになっている。柳田は終戦目前に書いた「先祖の話」で「外地で戦死した若者らの霊をどうするのか」という問いを発している。柳田は若い戦死者に養子をとり戦死者を「初祖」とする「家」を創始することを主張している。柳田にとって死者の帰るべき場所は国家、及び国家の主宰する靖国神社などではなく死者の生まれ育った村の裏山と社なのであった。柳田には国家を超える思想があったし、侵略戦争には否定的であった。天皇の代替わりに天皇制を考えるうえで柳田の思想は有効かもしれない。

5月某日
「エリザベスの友達」(村田喜代子 新潮社 2018年10月)を読む。村田の小説は、結構深刻な問題を違った視点でとらえることによって人間存在を肯定的に捉えるという特徴がある。とこう書いてしまうと優れた小説ってみんなそういう感じがあるのかもしれない。村田の「ゆうじょこう」は遊郭に売られた少女の話だけれど、ことの本質は貧困にあり、売春などは告発されるべきことなのだが、村田はそこにはあえて踏み込まない。田舎の貧しく無知な少女が遊女になることで美しく成長していく姿を描く。さて「エリザベスの友達」のテーマは認知症である。千里の母親の初音は97歳、有料老人ホーム「ひかりの里」で暮らす。初音は戦前の天津租界の裕福な日本人に嫁ぎ、当時の内地では考えられないようなハイカラな生活を送る。租界の若奥さんたちは互いをエヴァ、ヴィヴィアン、サラ、キャシーなどと呼び合っていたほどである。初音はホームの裏口の戸を開けて外へ出て行こうとする。所謂徘徊である。しかし著者の村田及び千里はそうは受け取らない。初音は意識の上では20代、裏口の戸を開けて天津租界に帰ろうとしているのだ。ホームの大橋看護師は認知症の人の言動を否定しない。入居者が幻覚の蛇に怯えれば「あらほんと。あたくしにまかせて」と追い払う。「そんなもの、いないと言ってはいけないのよ。目に見えてるものはいるのよ」という大橋看護師の言葉は認知症介護の本質を突いている。ホームにおける音楽、歌が認知症の進行を緩和させることも描いており、このフィクションがかなりの取材に基づいていることを伺わせる。

5月某日
「ナポリの物語3 逃れる者と留まる者」(エレナ・フェッランテ 早川書房 2019年3月)を読む。「ナポリの物語」は「リラと私」「新しい名字」と本書、それにまだ翻訳されていない4作目で完結する(と思われる)シリーズ。主人公は作者の分身と思われるエレコ・グレーコ(レヌー)とラッファエッラ・チェルッロ(リラ)の2人。レヌーの父は市役所の案内係、リラの父は靴職人、2人はナポリの下町のアパートで育ち幼い頃から親友となる。シリーズは第2次世界大戦のイタリア敗北後のからナポリが舞台である。2人とも1944年8月生まれ。作者のフェッランテは1943年ナポリ生まれだから、物語は作者の体験が下敷きになっている(と思われる)。第1作はナポリの戦後復興期が第2作では1950年代の高度経済成長期が描かれ、リラは靴職人の道を選びレヌーは高校、大学と進学するのだが2人の関係は変わらない。第3作は60年代後半から70年代のナポリや結婚したレヌーの暮らすフィレンツェが舞台。第3作の舞台となった時代は先進国で日本も含めて学生反乱が荒れ狂った。イタリアでは左翼とファシストとの激しい戦いがあったがこれは日本で言えば全共闘と体育会系の学生、あるいは右翼学生との対決であった。またイタリアでは赤い旅団、西ドイツではドイツ赤軍派などの軍事路線も生まれたが、日本ではブントの赤軍派や連合赤軍、東アジア反日武装戦線がそれに該当する。「ナポリの物語3」でもファシストの抗争やテロ、爆弾事件などが物語の背景として描かれている。レヌーは作家デビューしリラも通信教育でコンピュータを学び、コンピュータ技術者として高給を得るようになる。レヌーは大学教授と結婚し2人の女の子の母親となるのだが幼馴染と再会し恋に落ちてしまう。レヌーの駆落ちで「ナポリの物語3」は終わるのだが、第4作が待ち遠しい。