6月某日
「アマテラスの誕生―古代王権の源流を探る」(溝口睦子 岩波新書 2009年1月)を読む。アマテラスは天皇家の先祖で、だからアマテラスが祭られている伊勢神宮は今度即位した新天皇も早速、皇后と一緒にお参りすることになっている。とここら辺は私たちにとって常識なのだが、この常識は誤ってはいないにしても必ずしも真実とは言えないことを溝口は古事記や日本書紀を読み解いて実証する。日本書紀では極めて明快に「タカミムスヒ」を国家神=皇祖神として掲げている。溝口の論を乱暴に要約すると、タカミムスヒは5世紀に「朝鮮半島から導入した、元を辿れば北方ユーラシアの遊牧民の間にあった支配者起源神話にその源流をもつもの」で、これに対してアマテラスは弥生に遡って日本土着の文化から生まれたとされる。6世紀から7世紀にかけてタカミムスヒからアマテラスへの国家神の転換がなされたことになる。この転換を主導したのが天武天皇とするのが溝口説である。日本神話を日本列島という狭い地域に閉じ込めることなく広く東アジアの情勢との関連で読み取ろうしたのである。
6月某日
「あちらにいる鬼」(井上荒野 朝日新聞出版 2019年2月)を読む。井上荒野は割と好きな作家で、新作が出ると図書館にリクエストする。「あちらにいる鬼」は、女流作家の長内みはると小説家の白木篤郎の不倫、篤郎の妻と2人の娘を巡る話だ。長内みはるは瀬戸内寂聴、白木篤郎は井上光晴がモデルになっている。そして作者の井上荒野は井上光晴の長女である。一種のモデル小説だが、モデルの不倫関係を不倫の当事者の長女が描くという、世間的に見ればスキャンダラスな話かもしれない。でも小説的にはとても面白かった。みはると篤郎の不倫はみはるの出家により終止符を打たれる。やがて篤郎は癌に冒され死に至る。この本の読みどころのひとつはみはると篤郎が不倫関係を続けながら、みはると篤郎の妻が心を通わせ、なおかつ篤郎と篤郎の妻の関係も基本的には揺るがないというところではないか。小説だからもちろんデティールはフィクションだが、みはる-篤郎-篤郎の妻、という3者の関係は事実に基づいていると思う。3者のうちフィクションでは篤郎と篤郎の妻、現実では井上光晴とその妻が死んでいる。みはる=寂聴だけが生きているのだが、寂聴は井上光晴との関係を暴かれても微動だにしない、どころか楽しんでいるのである。ネットで「あちらにいる鬼」を検索したら寂聴と井上荒野の対談が掲載されていたが、まさに楽しそうであった。30年ほど前だが、村瀬春樹さんに誘われて出席したパーティで井上荒野に挨拶したことがある。「お父さんに似てますね」と言った覚えがあるが、もちろん私は井上光晴の実物に会ったことはない。会ったことはないが当時、井上光晴の小説をよく読んでいて新刊が出るたびに買っていたような気がする。しかし、図書館に行って驚いたが、現代日本文学のコーナーに井上光晴の本が一冊もないのである。おそらく書庫に収蔵されているのであろう。「おちらにいる鬼」で井上光晴の人と作品に興味を持つ人が増えればな、とふと思う。
6月某日
石津さんと地下鉄根津駅で待ち合わせ「根津食堂 民の幸」へ。ここは数日前、青海社に行く前にランチに寄った店。不忍通りの東大側の一本裏通りの、そのまた奥の路地にある。ランチのときは若い女性がウエイトレスをしていたが、今日は時間が早いのか、経営者らしい上品な年配の女性が一人だけ。刺身や野菜の煮物などを頂く。ビールで乾杯の後、私はもっぱら日本酒。料理はおそらく経営者と見られる女性の手作り、どれも美味しかった。