モリちゃんの酒中日記 8月その2

8月某日
厚労省社会援護局の伊藤彰浩課長補佐が亡くなった。伊藤さんが阿曽沼真司次官の書記をやっている時からの付き合い。いつもニコニコとして人間的な温かさを感じさせる人だった。がんを患って入退院を繰り返していたようだ。大谷源一さんから連絡があり、蓮根の葬祭場で行われた通夜に出席する。自分より年齢の若い人の死は辛い。蓮根からバスで赤羽へ。赤羽で大谷さんと呑む。携帯で久しぶりに阿曽沼さんと話す。我孫子へ帰って「愛花」に寄ると常連さんが何人かいた。

8月某日
「新版 障害者の経済学」(中島隆信 東洋経済新報社 2018年4月)を読む。前に旧版の「障害者の経済学」を読んで、私の障害者に対する考え方を修正させられた思いがあるので「社保研ティラーレ」の佐藤社長にお願いして買ってもらった。なんで佐藤社長かというと、社保研ティラーレの主催する地方議員向けの「地方から考える社会保障フォーラム」の次回の講師に中島さんを予定しているからだ。旧版は2006年の出版だから10年以上も前である。中島さんは「はしがき」で「『障害者総合支援法』や『障害者差別解消法』など法整備が進み」「10年間の新たな変化を踏まえ、今回の『新版 障害者の経済学』が誕生した」としている。今回もたいへん多くのことに「なるほど」と思ったわけだが、その一つが「医学モデル」「社会モデル」の考え方。日本は視力、聴力、知力、運動能力などが一定の基準を満たさなければ障害者として認定される。その判断をするのは医師であることから、こうした障害の定義づけを「医学モデル」という。一方、車椅子利用者にとって日本の社会は不自由極まりないが、今後、社会全体のバリアフリー化が徹底されれば、障害者でなくなる日が来るかもしれない。こうした障害の原因が機能不全ではなく、社会にあるという考え方を傷害の「社会モデル」という。「社会モデル」の考え方に立脚すれば、障害者を固定的に捉えるのではなく、障害者にとっても健常者にとっても暮らしやすい社会づくりを目指すことになると思う。

8月某日
図書館で借りた「江藤淳は甦る」(平山周吉 新潮社 2019年4月)を読む。四六判で本文が760ページを超える大部な本だが江藤淳という複雑な個性を証言と資料によって炙り出したもので、夏休みの4日を掛けて読み通した。それほど面白かったということである。内容を要約するのは私の手に余る。そこで本書を江藤の住まいという観点から見てみる。江藤の自筆年表によると昭和8(1933)年12月25日、東京都豊多摩郡大久保町字百人町309番地に生る。江頭隆の長男、淳夫と命名さる。父は海軍中将江頭安太郎の長男、三井銀行本店営業部勤務。母廣子は海軍少将宮路民三郎の次女となっている。この自筆年表の生年は事実と異なり江藤は昭和7年生まれである。結核により高校を休学し学年が遅れたことを隠したかったようだ。それはさておき大久保の百人町は戦前の屋敷町であった。海軍中将の祖父が入手したものである。祖父は大正2年に49歳で亡くなっている。佐賀中学、海軍兵学校、海軍大学校と首席を続けた秀才だった。祖父の死亡記事に「記録破りの昇級」とあるように49歳で中将というのは異例だったのだろう。戦前は役人は厚遇され民間に年金制度が導入される以前から退職者には恩給が支給されていた。なかでも軍人は軍人恩給によって遺族の生活が保障されていた。江藤の祖父は中将まで昇進しているから軍人恩給もそれなりに支給されていたと思われ、三井銀行勤務の父の給与と合わせれば十分に百人町の屋敷は維持できたと思われる。
 百人町の屋敷で最愛の母を27歳で亡くしている。父は後添いを貰うのだが、江藤は義母千江子の提唱で昭和16年9月、義祖父の鎌倉の隠居所に転地させられる。昭和19年に父は鎌倉極楽寺に別宅を構え、百人町の屋敷はそのままに一家は鎌倉に転居する。百人町の家は昭和20年5月25日の山ノ手大空襲で焼失する。昭和23年春、江藤は北区十条の三井銀行の社宅に転居、学校も湘南中学から都立一中(日比谷高校)に転校する。祖母も亡くなり軍人恩給も停止され、社宅に住まわざるを得なかったのであろう。十条には昭和30年に父親が練馬区関町に新居を建築するまで住んでいたから、日比谷高校、慶應大学も十条から通ったことになる。江藤は十条の7年間を「穢土」と感じたとエッセーに記しているようだが、百人町の屋敷町や鎌倉で育った江藤はそう感じたかもしれない。私からすれば東京の下町なのだが。江藤は昭和32年に大学1年生のときの同級生、慶子夫人と結婚し吉祥寺駅南口の鉄筋アパートで新婚生活を送る。その後下目黒や麻布笄町(今の西麻布)の邸宅へ転居するが、屋敷の主が外国にいるので「留守番」役だった。昭和39年、市ヶ谷の分譲マンションを購入しここには1982年に鎌倉西御門に新居を建てるまで住むことになる。新宿に「ジャックと豆の木」というクラブがあったが、ここのマスターの三輪さんが慶應文学部出身で「江藤先生の市ヶ谷の家に行ったことがある」と話していたっけ。
「江藤淳は甦る」は全体で45章で構成されているがこのうち2章は吉本隆明に費やされている。第23章60年安保の「市民」江藤淳と「大衆」吉本隆明と第38章「儒教的老荘」吉本隆明vs.「老荘的儒教」江藤淳である。江藤は体制派、保守派のイメージが強いし事実、佐藤首相や福田首相に信頼されていたらしいが、吉本とは互いに認め合う関係だった。吉本は江藤への追悼文で江藤が雑談のなかで「僕が死んだら線香の一本も上げてください」と語ったエピソードをあげ「この文章が一本の線香ほどに、江藤淳の自死を悼むことになっていたらこれ幸いに過ぎることはない」と結んでいる。飾らない吉本らしいいい文章である。住居で言えば、十条以外は鎌倉、市ヶ谷、吉祥寺と山ノ手派だった江藤に対して吉本は佃に生まれ御徒町や駒込と終生下町派であった。この対比も面白い。

8月某日
青海社の工藤社長と大阪日帰り出張。松戸リハビリテーション病院に入院している工藤さんとは、私が我孫子から上野東京ラインのグリーン車に乗車、同じ車両に松戸駅で工藤さんが乗車することでドッキング。病院の医師もOT、PTも大阪行きに反対だったと工藤さん。当たり前である。大阪出張は厚労省委託の「がん総合相談に関わる者に対する研修事業」の「手引き」作成の会議に参加するため。新大阪駅には工藤さんの息子さんで理学療法士の啓太君が迎えに来てくれていた。啓太君は普段は熱海で活動しているが今日はお父さんの付き添いということだ。予定の3時間で会議を終え、新大阪の駅構内の居酒屋で3人で軽く一杯。熱海へ帰る啓太君と別れて我々は「のぞみ」で東京へ。品川駅で降りて行きと同じように上野東京ラインのグリーン車に乗車、ワンカップ大関を呑む。松戸駅で工藤社長は下車、私は我孫子へ。「愛花」へも寄らずタクシーで自宅へ。ウイスキーを呑んで爆睡。