モリちゃんの酒中日記 8月その4

8月某日
大木毅という人の書いた「独ソ戦-絶滅戦争の惨禍」(岩波新書 2019年7月)を読む。これがなかなか面白かった。独ソ戦とは1941年6月から45年5月まで4年にわたって戦われたドイツとソ連との文字通りの死闘のことである。著者の大木は膨大な資料を読みこなしてその実情に迫る。巻末の「文献解題」に参照、引用した資料が紹介されているが、邦訳されているものだけでなく、英語、ドイツ語、ロシア語の文献にまで及んでいる。独ソ戦は戦いの当初こそドイツ軍がその機動力にものを言わせてソ連軍を圧倒するが、やがてソ連軍の物量と極めて戦略的な作戦そして「大祖国防衛戦争」というイデオロギーによる国民総動員によってドイツ軍を追い詰めていく。そこらへんの描写がたいへん巧みで読者を飽きさせない。
本書によると1937年から38年のスターリンの大粛清によりソ連軍の34301名の将校が逮捕、もしくは追放され、そのうち22705名は銃殺されるか行方不明になっている。このため一時期、ソ連軍は弱体化していたともみられるが、それを補ったひとつがソ連軍の「用兵思想」である。この思想を完成させたのがトゥハチェフスキー元帥で、彼は「現代の戦争は規模と激烈さにおいて第1次世界大戦を上回る消耗戦になると解釈し、それに勝利するためには、無停止の連続攻勢を行い、戦略的な広域レベルで突破が必要不可欠であると考えた」。そのためには空軍、戦車、機械化部隊、空挺部隊といった新しい時代の軍備が必要と説いたという。彼の思想を概念化・言語化したのが1936年の「赤軍野戦教令」で大木によるとまず、戦争目的を定め、国家のリソースを戦略化するのが「戦略」で、作戦術はその目的を達成すべく、戦線各方面に「作戦」を、相互に連関するように配するということになる。
なるほどねー。1939年の満蒙国境のノモンハン事件で日本陸軍がソ連軍にかなわなかったのもうなづけるものがある。
著者の大木毅(たけし)という人は巻末の著者紹介によると1969年生まれ。立教大学大学院後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、現在著述業となっている。ウィキペディアで大木毅を検索すると赤城毅(つよし)が出てきて「日本の小説家、軍事史研究者、翻訳家、本名は大木毅」とあった。帝都探偵物語、ノルマルク戦史などの小説も書いているそうだ。文章に迫力が感じられるもんなぁ。

8月某日
上野駅の公園口でフリーライターの香川さんと待ち合わせて西洋美術館に「松方コレクション展」を観に行く。もともと西洋美術館の収蔵美術品は松方コレクションがもとになっている。ロダンの「考える人」や「地獄門」が名高い。松方という人は名門の家に生まれ若くして造船会社を興し、第1次世界大戦で巨万の富を得、それを元手にヨーロッパで多数の美術品を購入した。クロード・モネの「睡蓮」はじめ名画をたくさん鑑賞できたが、どうも蒐集にあまり一貫性が感じられず私など素人にはちょいとつらかった。見終わって御徒町まで歩き、「吉池食堂」で食事。

8月某日
「茗荷谷の猫」(木内昇 平凡社 2008年9月)を読む。木内昇は「きうち・のぼり」と読んで女性である。日経新聞に「万波を翔ける」という幕末を舞台にした小説を何年か前に連載していたが、しっかりとした時代考証とストーリーの展開が面白く愛読していた。「茗荷谷の猫」は9編の短編が収められているが、9つの短編が幕末から昭和にかけての江戸・東京を舞台にしていて、各短編が舞台=住居を軸に連関しているという凝った構成になっている。うーん、「凝った構成」という自覚がなく読み始めたものだから最初は「何が面白いのか?」と思ったが、読み進むうちに「これは!」と感動に代わっていく。木内昇は1969年生まれだから今年50歳、これからが楽しみな作家である。

8月某日
橋本治の遺作となった「黄金夜界」(中央公論新社 2019年7月)を読む。尾崎紅葉の「金色夜叉」の現代版で主人公名前の間寛一はそのままだが、ヒロインの宮は同音の美弥に改められている。さすがにヒロインが宮では古すぎる。両親が亡くなった寛一は、父親同士が親友だった美弥の家に引き取られる。美弥の父、鴫沢隆三は高輪で老舗のレストランを経営しているがバブルがはじけて以来客足は減ってきている。東大に進学した寛一と美弥は愛し合うようになり、鴫沢はレストランの後継者に寛一を据えようと思う。そこに登場するのがIT経営者の富山で、美弥の美貌に心を奪われた富山は美弥に求婚する。「金色夜叉」での富山の職業は高利貸しだが、現代版ではIT長者なのだ。美弥は富山の求婚に応じるがその時点で、寛一は愛と同時に居場所さえも失う。寛一は川口に本店のある居酒屋チェーン店に就職し、「東大中退」のイケメン店長として居酒屋チェーンの拡大に貢献する。桐野夏生の小説を「現代のプロレタリア文学」と評したのは政治思想家の白井聡だが、私は「黄金夜界」にも現代のプロレタリア文学を感じた。寛一を引き取った鴫沢家は高輪でレストランを経営するプチブルジョアジーである。そこに居場所を失った寛一は「失うべきものを持たない」プロレタリアートに転落する。一方の美弥はIT長者と結婚、新興ブルジョアジーの仲間入りを果たす。現代の富と貧困を描いて橋本の筆は冴えまくる。橋本は確か私と同じ昭和23年生まれ、今年5月に亡くなった文芸評論家の加藤典洋も同年。昨年亡くなった竹下隆夫さんも昭和23年生まれで70歳だった。

8月某日
医療介護福祉政策研究フォーラムの中村秀一理事長と単行本の打ち合わせ。終った後晩ごはんをご馳走してくれるというので、蕎麦を希望。近くの「砂場」に連れて行ってもらう。中村さんは夏休みに奥さんとオーストリアに行ったそうだ。人口は890万人ほどで日本の10分の1以下だが、かつてはヨーロッパの強国でナポレオン失脚後のヨーロッパの新秩序を議題に「ウィーン会議」が開かれたのは首都のウィーン。経済学のハイエク等のウィーン学派、精神分析ではフロイトなどが、音楽ではハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン等をウィーン楽派と呼ぶらしい。映画「サウンドオブミュージック」はナチスドイツに併合されたオーストリアからスイス経由でアメリカへ逃れる音楽家一家の話だった(多分?)。

8月某日
(社福)にんじんの会の石川はるえ理事長に荻窪でご馳走になることに。吉武民樹さんに「石川さんにご馳走になる」と言ったら「俺も行く」と。荻窪駅前の「源氏」というお店で待ち合わせ。カツオのタタキや刺身の盛り合わせを肴に日本酒を頂く。美味しい日本酒を何種類か頼んだのだが銘柄名を忘れてしまった。楽しく呑めればそれでいいのだが、折角だから銘柄名くらいメモしなさいよ。

8月某日
「資本主義と民主主義の終焉-平成の政治と経済を読み解く」(水野和夫・山口二郎 祥伝社 2019年5月)を読む。2人とも現在は法政大学法学部教授で水野は民主党政権下で内閣府の審議官を務めたし、山口は旧民主党のブレーンにして応援団。したがってアベノミクスには極めて批判的。安倍首相がアベノミクスの成果として失業率の低下と有効求人倍率の上昇を挙げるのに対して水野は、「単純計算ですが、各学年で200万人もいる団塊の人たちが引退して、120万人しかいない新卒者が就職するのですから、どう考えたって有効求人倍率は上がっていきます」とバッサリ。消費税についても水野は増税の先送りはナンセンスとしつつも「消費税で財政赤字の全部を埋めるというのは、実に安直」「消費税は若年層にも所得の少ない人にも税率は一律ですから、消費税を上げるなら、高額所得者への累進課税と同時に行わなければ、不公平感は募るでしょう」と言う。山口は平成という時代を総括して「理想が終わった時代」「戦後が終わった時代」「発展が終わった時代」の3つの側面を挙げる。平成のスタートした年はベルリンの壁が崩壊した年で、明るい希望を持たせたのだが、湾岸戦争やユーゴ紛争など地域紛争が続発、国内政治では政治改革や民主党政権が登場したものの結局は元の木阿弥、前よりも悪くなったと見る。「戦後が終わった」では野中広務らの戦争経験者の政界引退により、自民党の歴史修正主義に対する歯止めが利かなくなったとする。「発展が終わった」では経済の衰退に「呼応するかのように、自民党だけでなく、社会全体にみずからを慰めるようなナショナリズムが頭をもたげてきました」と述べる。2人の話はなるほどと思わざるを得ないではないか。