モリちゃんの酒中日記 4月その4

4月某日
家にあった「昭和維新試論」(橋川文三 朝日新聞社 1984年4月)を読む。今から36年前に出版された本である。この本は数年前、我孫子市民図書館のロビーに「リサイクル本」として出されていたものを家に持ち帰ったものである。何日か前に読んだ中公新書の「5.15事件」が面白かったので、事件の首謀者たちに共通するスローガンだった昭和維新に興味を持ったためだ。しかし本書は昭和維新そのものを論じたものではなく、昭和維新に関連する人物や出来事を叙述することによって、第一次世界大戦後の日本を覆ったある種の閉塞感を分析する。本書は「渥美勝のこと」と題する章から始まる。渥美勝は明治10(1877)年、滋賀県彦根に生まれ一高から京大に進学するも中退、明治44(1911)年に上京する。著者によるとこの頃すでに「神政維新」という独特の理念を抱いていた。大正2(1913)年に神田須田町の広瀬中佐の銅像前に立って毎日のように「桃太郎」と大書した旗のもと「真の維新を断行して、高天原を地上に建設せよ」と演説していた。著者は神政維新に昭和維新の原型を見るのだ。しかし上京してからの渥美は正業に就くことはなく、生活は後援会からの資金援助などによって賄われていた。渥美は昭和3(1928)年、遊説先で51歳で死ぬが葬儀は日本青年館で頭山満を葬儀委員長に営まれ参会者200名と盛会であった。今日ではほとんど顧みられることのない渥美だが、当時の渥美を知る人たちにとっては「昭和維新の願望をもっともナイーブに、鮮烈に印象づけた人物が渥美であった」のである。この本は私にとって決して読みやすい本ではなかった。しかし著者の橋川文三と同じく気になる存在である。

4月某日 
我孫子市民図書館は休館日をさらに延長、5月中は休館となったらしい。我孫子駅の反対側のイトーヨーカドーには書店が入っていたことを思い出す。書店で文庫本を2冊購入して早速、読むことにする。1冊目は田辺聖子先生の「夜の一ぱい」(浦西和彦選 中公文庫 2014年1月)である。田辺先生の酒を巡るエッセイを集めた文庫オリジナルという。選者の浦西和彦は元関西大学教授で関西大学の図書館長を務めていたとき、田辺先生が図書館に川柳関係の資料の閲覧に見えたのが付き合いの始まりと「解説」にある。収録されているエッセイはどれも面白かったが、私には「若山牧水は、いい酒の歌を残している」で始まる「ぬすみ酒」が面白かった。牧水と言えば「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」が有名だが、体を壊して医者に酒を禁じられた。そのときの歌が「酒やめむそれはともあれながき日のゆふぐれごとにならば何とせむ」である。禁じられればなおのこと想いが募るのが人情、牧水は「足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の瓶は立ちて待ちおる」「妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲み噎せ鼻ゆこぼしつ」という歌を残している。田辺先生は「私は、ぬすみ酒などしない。すぐ顔が赤くなるほうだから、たちまちわかってしまう」と書く。しかし亭主(田辺先生の夫、開業医のカモカのおっちゃん)が体調を崩してあまり飲めぬとき「亭主が飲まんのに、女房のくせに飲んでる奴があるか」となじられる。それで亭主がテレビに気を取られているすきなどに「いそいで飲む」、「これもいわばぬすみ酒であろう」と田辺先生は綴るのである。
 この際だからもう少し先生のエッセイを紹介しよう。「きさらぎ酒場」は1984年2月9日号に掲載されているが、「民衆の酒焼酎は 安くて早く酔える ウイスキーは 高すぎる ビールなら 早くさめる」と赤提灯で若者が歌っている様が紹介されている。これは「民衆の旗 赤旗は」の替え歌であるのだが、1960年代末から1970年代初頭の私の学生時代もかすかにうたった記憶がある。ただ歌詞が微妙に違っていて私どもは「民衆の酒焼酎は 安くて辛くて旨い 高くつく一級酒 その陰に搾取あり」と歌っていたような気がする。先生は「感傷旅行(センチメンタルジャーニー)」で芥川賞を受賞し文壇にデビューする。内容は覚えていないが党員(この場合の党員は共産党員。これが自民党員や公明党員では様にならない)と若い女性の恋愛をテーマにしていたように思う。それはさておきエッセイで先生は「終戦後の共産党はピンクの夢色に光りかがやいていた」と書く。おっちゃん(カモカのおっちゃんである)は「共産党と恋愛中の女は、しつこいことで似てる」さらに「感じとして、ですよ、共産党に何か、かかわりもつと、アトアトまでゴチャゴチャと『いうてこられ』そうな気がする」と反論する。庶民の反共感情をうまく表現していると思う。カモカのおっちゃんはドクターであるからしてインテリの部類に入るのだが思考も嗜好も庶民である。そして先生の左翼贔屓というか、変革を志す若者への同情心、それは「夕ごはん、たべた?」という小説にも表れているが、も変わらないなぁと思ってしまう。

4月某日
書店で買った文庫本のもう1冊「彼女に関する十二章」(中島京子 中公文庫 2019年3月)を読む。単行本は2016年の4月、初出は「婦人公論」2014年7月7日号~2015年7月14日号である。中島京子は割と好きな作家で「小さなおうち」「妻が椎茸だったころ」「長いお別れ」を読んだ記憶がある。本書も書店で表紙とタイトルだけを見て買ったので「彼女に関する十二章」というタイトルが伊藤整の「女性に関する十二章」に因んでいることも小説を読んで初めて知った。伊藤の「十二章」は1954年のベストセラーで、中島の「十二章」と同じ婦人公論に連載された。中島の「十二章」の主人公は50歳の主婦の聖子、夫の保は編集プロダクションを経営し、聖子は週に3日税理士事務所を手伝っている。一人息子の勉は大学卒業後、地方の大学院に進学している。小学生の聖子の初恋の人である久世佑太が死亡し、遺品を整理していたら佑太と聖子の写真が出て来たので、迷惑でなかったら郵送したいという手紙が佑太の息子の穣から届く。聖子は税理士事務所の所長から頼まれNPO法人の経理も見ることになる。このNPO法人に出入りするのが元ホームレスの片瀬氏。帰省した息子の勉は同棲中のトヨトミチカコを連れてくる。まぁ主な登場人物はこの程度なんですが、これらの人々の日常を聖子の目線で描いていくわけです。「小さなおうち」もそうだったが、中島は庶民の何でもない日常に潜むドラマを描かせたら本当に上手だと思うね。

4月某日
家にある西部邁の本でまだ読んでいない本を読んでしまおう、ということで最初は「大衆への反逆」(1983年7月 文藝春秋)を読む。今から37年前に出版された本だが、内容はまったく古びているとは思えなかった。この本の出版当時は、西部は東大教養学部の助教授だが、86年に教授に就任している。だが88年には自身が推薦した中沢新一の助教授就任が教授会で否決されると、これに抗議して教授を辞任している。この本を読んで改めて東大教授など辞めてよかったと思う半面、教授として残っていれば稀代の人文学者となったかもしれないという思いも残る。西部は60年安保の全学連と共産主義者同盟の指導者の一人であるが、関係したいくつかの裁判が終わると左翼から完全に離れた。本書には雑誌その他に発表された文明論や状況論、人物論などが掲載されている。西部が最も影響を受けた知識人の一人と言えばスペインの哲学者、ホセ・オルテガ・イ・ガッセトだが、そのオルテガについては次のように述べている。「オルテガがいわんとするのは、孤独もしくは絶望という生の根本形式から出発しない限り、自我の純正な基盤はえられないし、それがえられなければ真正な文化もつくられないのだ、ということである」。この短文のなかにさえ「孤独、絶望、自我の純正な基盤、真正な文化」といった西部の好みそうな単語があふれている。
オルテガに対してマルクスは「私がマルクスの著作とふれあったのはごく短い期間」であり、マルクスの世界変革は、疎外から解放そして物象化の克服らしいとして、「このおそろしく真面目な提案が私をほとんど窒息させる。疎外や物象化から自由になった自分を想像することなぞ、私にはできない」とそっけない。ヴェブレンという経済学者のことを私は知らない。しかし、この「赤貧と労苦と病弱と孤独のほとんど感動的といっていいような」人生を送った経済学者に対して西部は「いくらとぼけてみてもやはり陰にこもってしまうといった調子のかれの皮肉は、罪人でありながら自分の罪状をちっとも自覚せぬ似非知識人にたいして向けられたものである」と評する。西部はヴェブレンのなかにほとんど自分自身を見ているとしか思えない。在日朝鮮人であり後にヤクザとなる札幌南高校の親友について書いた「不良少年U君」、特攻帰りで右手首を失っていた高校の日本史の教師のことを綴った「或る教師」などを読むと、西部の「熱き友情」とそれと裏腹な「交流不全感」に想いを致すことになる。