モリちゃんの酒中日記 10月その2

10月某日
図書館で借りた「昭和史講義【戦後編】(下)」(筒井清忠編 ちくま新書 2020年8月)を読む。【戦後編】(下)は第1講「石橋内閣」から第21講「バブル時代の政治」を扱っている。石橋内閣は1956年12月から1957年2月までのごく短期間存続した内閣で、1948年生まれの私はこのとき小学校2年生、石橋内閣の記憶はほとんどない。しかしそれ以降の「安保改定」「安保闘争と新左翼運動の形成」「池田内閣と高度経済成長」「佐藤長期政権」「日韓基本条約」などは記憶に残っているし、第12講「全共闘運動・三島事件・連合赤軍事件」は私は早大全共闘の下級活動家として当事者の一人であった。本書を通読して思うのは「日本現代史は知っているようで知らないことが多い」という感慨であった。私が興味を持った幾つかについて感想を記しておきたい。
第3講「安保闘争と新左翼運動の形成」
安保闘争を主導した全学連と共産主義者同盟(ブント)が日本共産党での党内抗争を経て誕生したのは知っていたが、その淵源をたどると日共の所感派と国際派の分裂、六全協による党の統一までさかのぼることを初めて知った。そういえば廣松渉という東大教授で哲学者は安保ブントの理論家の一人であったが、高校生のときはすでに日共の党員だったという。本書によると日共東大細胞のキャップだった森田実と島成郎らが全学連を再建したのが1956年6月で同年秋の第2次砂川闘争には生田浩二、唐牛健太郎、清水丈夫ら後の安保闘争の指導者が参加した。彼らが全学連の主流派を形成するのだが主流派は日共の旧所感派が多かったというのも本書で初めて知った。生田浩二は静岡高校出身で高校時代からの党員で所感派に与し、中核自衛隊に志願して火炎瓶闘争を行った。生田はブントの事務局長を務めたが安保闘争後、青木昌彦らと渡米し近代経済学を学んだが志半ばにして火災事故で死んでいる。それはともかく日共から除名ないし排除された森田や島らによって1958年12月、ブント創立大会が開かれた。安保闘争後、ブントは分裂消滅するが、組織や理念は一部は革共同に吸収され、一部は第2次ブントに継承されていく。
第6講「池田内閣と高度経済成長」
60年安保の一連の騒動の責任をとって岸が退陣した後に登場したのが池田内閣である。所得倍増論を掲げた池田が主張したのは「政府が高成長に伴う税の自然増収分を財源に、鉄道や道路といった飽和状態の産業基盤の整備を進めれば、10年間に月給は2倍にも3倍にもなる」というものであった。実際に「1960年の一人当たり実質国民所得を基準にすると、68年に2倍を超え、70年には2.5倍になった」のである。私が早稲田に入学したのが68年だが、それまでのわが家の家計を考えるととても東京の私学には進学させられなかったと思う。それでも何とか学費を払うことができたのは高度成長のおかげということかも知れない。農村の過剰人口がとしに吸収されサラリーマンや工場労働者になって高度経済成長を支えた。おそらく出生率も2.0前後だったのではないか。未来に希望が持てた時代なのだ。高度経済成長には公害など負の側面は確かにあるけれど、国民一人一人にとっては今よりはるかに将来に希望の持てた時代であったと思う。
第10講「佐藤長期政権」第12講「全共闘運動・三島事件・連合赤軍事件」
佐藤政権は池田首相が1964年11月に病気で退陣した後を受けて登場した。政権は7年8カ月と長期に及び1972年7月に総裁選で福田赳夫に勝利した田中角栄に引き継がれる。私の高校3年間と浪人の1年間、大学の4年間とほぼ重なる。浪人しているときの1967年10月8日、佐藤訪米阻止の羽田闘争が三派全学連を中心とする学生たちによって闘われた。私は浪人だったから闘争には参加しなかったものの「大学に行ったら学生運動をやろう」とひそかに思ったものだ。68年頃から東大、日大をはじめ全国で学園闘争が激化、佐藤政権は大学立法で応じる。三島由紀夫が東大全共闘と駒場で討論を交わしたのが自決の1年前の69年5月である。早稲田から締め出されていた反革マル連合(後の早大全共闘)が、正門前に陣取る革マルの防衛隊を粉砕したのが4月17日、第2学生会館の封鎖が機動隊により解除され、学館の屋上で私が逮捕されたのが9月3日である。逮捕後、大森警察署に留置されることになるのだが、留置所の女子房に京浜安保共闘の女子学生が入ってきた。のちに連合赤軍で殺された大槻節子である。金網越しではあったが楚々とした美人であることが伺えた。70年の11月25日に三島と楯の会が市ヶ谷の自衛隊司令部で自衛隊の決起を促す演説した後、割腹自殺している。私は早稲田からバスで市ヶ谷に向かい、塀の周りをウロウロしたがもちろん現場に入ることはできなかった。評論家の村上一郎が中に入ろうと自衛官と押し問答しているのを目撃した。佐藤政権の末期は確かに騒然とした時代ではあったが、経済は好調でだからこそ学生が異議申し立てをする余裕があったのかもしれない。

10月某日
図書館で借りた「武器としての『資本論』」(白井聡 東洋経済新報社 2020年4月)を読む。奥付を見ると4月に初刷りを発行して3カ月後の7月に第6刷発行とあるから、この種の本としてはかなり売れているほうではないだろうか?「この種の本」とは左翼的な傾向のある本、ということで、私の学生時代とは真逆である。資本論とは言うまでもなくマルクスの手による資本制の本質を明らかにした書物だが、もちろん私は読んだことはない。白井聡は若手の若手(1977年生まれ)の政治思想史の学者で私は「未完のレーニン」「永続敗戦論」「国体論」などを読んだことがあるが、アカデミックな学者というよりも吉本隆明の若いときを思わせる鋭い問題意識を感じる。私は左翼の学生だったので若いときにマルクスやレーニンの本は読んだ。読んだけれどマルクスの資本論や経済学批判は敬遠し初期マルクスと言われた経済学哲学草稿、ドイツイデオロギーなどには挑戦した。が理解はできなかった。共産党宣言やフランスの内乱、ルイ・ボナパルトのブリューメル18日などは何とか理科で来たと思う。要するに原理論的な書物は苦手で運動論的なものは比較的好んでいたように思う。レーニンの「何をなすべきか」「国家と革命」なども運動論として読んだ。さて「武器としての『資本論』」だが、平易な語り口で叙述されていることもあって大変読みやすい。だが書かれている内容は高度。簡単に要約するのは困難なので著者の問題意識の一部を私なりに紹介してみたい。
マルクスによる資本制社会の定義は「物質代謝の大半を商品の生産・流通(交換)・消費を通じて行なう社会」であり、「商品による商品の生産が行われる社会(=価値の生産が目的となる社会)ということである。物質代謝とは人間が何かをインプットし何かをアウトプットしていく連鎖のことと考えていい。食物から栄養をインプットし、精神的・肉体的活動としてアウトプットしていくのも物質代謝の一環であろう。「物質代謝の大半」を「商品の生産・流通(交換)・消費」を通じて行なう社会」が資本制社会ということになる。日本でいえば江戸時代はこの定義が当てはまるのではないかと考えてしまうが、江戸時代は基本的には封建的な身分社会であり、土地の私有は原則認められず職業選択の自由もなかった。日本が本格的に資本主義化するのは、版籍奉還から廃藩置県、廃刀令が発せられ、四民平等が宣言された明治維新以降ということになる。
なお白井聡はユーミンが安倍首相の辞任会見について「泣いちゃった、切なくて」とコメントしたことに対し、自身のFacebookに「荒井由美のまま夭折すべきだったね。本当に醜態をさらすより、早く死んだ方がいい」と書き込み、非難を浴びた(らしい)。私は安倍首相の辞任に「泣いちゃった」りはせず、むしろ「もっと早く辞めるべき」と思った口だから、白井の感性に近い。だが、白井先生は自身の社会的な影響力に対してもっと自覚的になったほうがいい。「好漢、自重せよ」ですな。もちろん私は白井聡の政治思想の研究業績は高く評価します。