モリちゃんの酒中日記 11月その4

11月某日
図書館で借りた「私はスカーレット Ⅲ」(林真理子 小学館文庫 2020年10月)を読む。原作はもちろんマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」で登場人物もほぼ踏襲している(と思われる。何しろ原作を読んでいない。ヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル主演の映画は何度か観たけど)。主役のスカーレットが語り手になっているのだけれど、高慢で自信家というその性格がたいへん巧みに描かれていると思う。女流作家としての林真理子の力量が十分に発揮されている。Ⅲでは南部の大都会アトランタに出て来たスカーレットが、北軍の迫るアトランタで臨月のメラニーを支えながら故郷のタラに脱出する様子が臨場感たっぷりに描かれる。実際の南北戦争は1961年から65年まで4年間戦われ北軍の勝利に終わる。1968年1月の鳥羽伏見の戦いに始まって翌年の五稜郭の戦いで終わった日本の戊辰戦争に比べるとスケール感が違うと言わざるを得ない。タラではスカーレットがたどり着いた前の日に最愛の母が死んだことが明らかにされ、大勢いた奴隷の多くも逃亡してしまっている。荒廃した故郷で妻を失って茫然自失の父を抱え、「どうする!スカーレット」-第4巻が楽しみである。

11月某日
嵐山光三郎の「『下り坂』繫盛記」(2014年7月 ちくま文庫)を読む。嵐山は作家、エッセイストと紹介されることが多いが、私に言わせると「雑文家」というジャンルこそふさわしい。これは何も貶めているわけではない。「雑」という意味には「何にも属さない」という意味があって(個人の意見です)、雑誌のコラムなども私の分類では雑文に入る。サンデー毎日の「満月雑記帳」(中野翠)、「抵抗の拠点から」(青木理)、週刊文春の「夜ふけのなわとび」(林真理子)、「本音を申せば」(小林信彦)など私の愛読する雑文です。中野や林はどちらかと言えば軟、小林はどちらかと言えば硬、青木ははっきり硬派である。昭和の終わりごろだと思うが「情報センター出版局」という出版社から椎名誠の「さらば国分寺書店のオババ」という本が出版され、以降この出版社から村松友見の「私、プロレスの味方です」など数々の雑文の名作が生み出された。雑文家には雑誌の編集者出身が多いように感じる。嵐山は平凡社で「太陽」の編集長だったし、小林も確か「ヒッチコックマガジン」の編集者ではなかったか。雑文家と雑誌、雑の字が共通しているでしょう。どれはともかく、嵐山は國學院大學で日本の古典文学を専攻、平凡社に入社、40前にフリーとなっている。本書は文庫化される前に2009年に新曜社から単行本として出版されている。とすれば収録されている雑文が執筆されたのは2000年代初頭、1942年生まれの嵐山が60代に入った頃から60代後半にさしかかった頃である。人生が下り坂になり始めた頃の執筆、だからタイトルが「『下り坂』繫盛記」なのです。

11月某日
数日前に堤修三さんから「来月19日に72歳を超え云々」というメールをもらったので「私は11月25日が誕生日で50年前の11月25日には三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で自決しました」と返信した。今日25日に堤さんから「祝・72歳!誕生日は禄でもない日だったのですね(笑)」というメールが来た。次いで山田風太郎の「人間臨終図鑑」から72歳で死んだ人々を列記してくれた。古くは孔子、西行、水戸光圀、新しいところでは棟方志功、船橋聖一、ジャン・ギャバン、ジョン・ウエインなどなど。そうか、私もそういう年齢になったのか…。

11月某日
神田の「ゐくよ寿司」で社保研ティラーレの吉高会長、佐藤社長、社会保険旬報の谷野編集長、税理士の琉子さんとランチミーティング。社会保険研究所のエレベーターホールで全国社会福祉協議会の古都賢一副会長と待ち合わせ、谷野編集長に面談。社保研ティラーレで吉高会長、琉子さん、雑賀さんと除菌システムG-バスターの販売会議。雑賀さんはG-バスターの販売代理店で営業担当だが商品知識も豊富、雑賀さんにG-バスターのスポークスマンになってもらったらいいと思う。17時過ぎに古都さんと鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」へ。遅れて元日航のキャビンアテンダントの神山さん、「ふるさと回帰支援センター」を手伝わされている大谷さんが来る。古都さんは元厚労省で全社協に来るまでは国立病院機構の副理事長をしていた。役人ぽくないのが魅力だ。

11月某日
図書館で借りた「わたしに無害なひと」(チェ・ウニョン 亜紀書房 2020年4月)を読む。やはり図書館で借りた「優しい暴力の時代」(チョン・イヒョン)が面白かった。両方とも現代韓国の女流作家の作品だ。「わたしに無害なひと」には七つの短編が収められている。タイトルは「告白」という短編の「ジニと一緒にいると、ミジュの心にはそういった安堵感がゆっくりと広がっていった。あなたは私にとって無害な人なのよ」という文章からつけられている(と思う)。チェ・ウニョンは1984年生まれというから今年36歳、私からすれば子供のような年齢だが、異性間や同性同士の愛情や友情を「関係性」という視点から丹念にえがいているように思う。最後の「アーチディにて」もちょっと変わった小説だ。語り手はブラジル生まれのラルド。大学を中退した引きこもり気味の青年だ。ひと夏の恋の相手だったアイルランド娘を追ってダブリンへ。当然のように拒絶されたラルドは帰国すべくダブリン空港でブラジル行きの飛行機の窓側に座る。二度とアイルランドの地を踏むことはないと思って。しかしアイスランドの火山噴火によって事態は一変、ダブリン空港は十日間の閉鎖を余儀なくされる。有り金も乏しくカードも停止されたラルドはダブリンからバスで3時間以上かかる人里離れたアーチディの果樹園でアルバイトをする羽目に。そこで出会うのが韓国で看護師をしていたハミンだ。ラルドとハミンの交情(恋愛未満友情以上)がテーマなのだが、ここでも異郷(アイルランド)における外国人(ポルトガル語を母国語とするブラジル人と韓国語を母国とする韓国人)同士の「関係性」が重要なカギとなるのだ。

11月某日
朝日新聞朝刊(11月26日)で「日没」(岩波書店)の作家、桐野夏生氏がインタビューに答えていた。学術会議の菅首相による任命拒否問題や「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」などを挙げて記事は「そんな雰囲気にあらがうかのように、精力的に発言を続け、小説に書く。それはなぜなのか」と桐野氏に問いかけると、氏は「ださいと思われるかもしれないし、攻撃されるかもしれない。けれど、いま言わないと後悔する。怒りがこみ上げて憤死しそう」と答える。それはそれで私は100%桐野氏を支持する。だが小説の結末について氏は語る。「最初はうまく逃げおおせて、その体験を書いている、というエピローグにしようかと思っていた。けれど、近年の状況をみていて絶望的な気持ちになった。ちょっとそれは違うな、と」。私は「え!」と驚く。主人公は逃げおおせたものと私は理解していたのだ。改めて「日没」の結末部分を読む。施設から逃れた主人公は逃亡をほう助者の自転車から降り、「早く行けよ」と促される。「私はゆっくりと荷台から降り、おむつを着けた不格好な姿のまま、よたよたと崖の方に近付いていった」。まぁ主人公は崖から飛び降りると考えるのが妥当なところだろう。私は主人公は「逃げおおせる」と誤読していたわけね。誤読したのは読者たる私の責任が100%なことは間違いないし、私は映画でも小説でも作家の意図と違った解釈をすることがままある。それはそれでまっいいかと思っています。