モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
我孫子市民図書館でコロナ感染者が出た、ということで図書館は「当分の間、閉鎖」。で自宅にある未読の本を読むことにする。手に取ったのは「戦後入門 加藤典洋 ちくま新書 2015年10月」。この本は家の近くの香取神社で開かれる朝市の古本屋コーナーで入手した。定価は1500円だが、500円くらいで買ったと思う。2年ほど前に買ったのだが新書版で600ページというボリュームから手を出せないでいた。図書館が休館なので挑戦することにする。加藤は「はじめに―戦後が剝げかかってきた」で「先の戦争でこてんぱんに負けた日本は、面白い。私は、この国には世界に平和構築を呼びかける大きな可能性が秘められていると思っています」と述べている。この加藤の想いが強く表れていると思われるのが「第三部原子爆弾と戦後の起源」である。加藤はまず米国における原子爆弾開発の経緯をたどり、次いで原子爆弾の広島と長崎への投下と、その想像を絶する被害に対する米国内および連合国内の反響を記す。これが私には面白かった。私の拙い知識においては日本に対する原爆投下は、日本の敗戦を速め米軍兵士のそれ以上の損傷を防ぐうえでやむを得ないものだった、あるいは真珠湾攻撃に対する報復として、原爆投下はむしろ歓迎すべきだというのが米国世論の大勢であろうというものであった。
しかし加藤によると原爆投下後に、原爆を開発した科学者、世論をリードしてきたジャーナリスト、哲学者、宗教者たちにやってきた感情は「言葉にならない動揺と、虚脱、深い懐疑」だったという。加藤はそれを彼らが残した膨大な回想録や記事、日記などから論証してゆく。原爆投下直後あるいは戦争終結直後から、米国のプロテスタントやカトリックの宗教界から原爆投下に対する批判と懐疑が表明された。米国の代表的な神学者はプロテスタント系の雑誌に「我が国のより冷静で思慮深い階層にとっては、日本に対する勝利は奇妙な胸騒ぎと不満を残すものだった。…我々は日本が我々に対して使用したものよりも恐ろしい武器を彼らに使ったのだ」と書き残している。保守派雑誌の編集長も「歴史上もっとも破壊的な兵器」を老若男女に「無差別に使用」したと記している。「なぜ日本に事前の警告を行わなかったのか。降伏の意志を表明している日本に降伏のチャンスを与えなかったのか」-こうした批判は執拗に続けられた、と加藤は述べる。これらの批判に対して米国政府とその支持者は猛然と反論を開始する。こうした批判が一掃されなければ今後、米国が国際社会のなかで原子力推進の牽引車となることは困難になるからだ。
現代史は現代史だからこそ「思い込み」によって「作られてしまう」可能性がある。コロナもそう。私たちは限られた情報の中であっても、主体的に判断していかなければならない。

2月某日
加藤典洋の「戦後入門」を読み進める。日本は1945年8月、米軍を中心とした連合軍に敗北し第二次世界大戦は終了する。結果、我々は占領軍が起草した平和憲法を手に入れる。そして朝鮮戦争が勃発し、日本は米軍の巨大な後方基地となる一方で米国の対日政策は大きく変化し、米国の要請により日本は再軍備に踏み切る。しかしときの吉田茂政権はあくまでも軽武装にとどめ、経済成長を優先させる。吉田の想いはその後の自民党政権に受け継がれ、日本は高度経済成長を遂げ、国民の生活と社会保障の水準も向上した。池田・佐藤政権は吉田の意図を引き継ぎ、「経済的アプローチによる政治的課題の代替的達成、つまり経済大国化によってナショナリズムの発露をめざすという新路線の確立」に成功する。加藤は池田と佐藤の路線を継承する宏池会、および田中派の経済、外交政策についてはおおむね認める。宏池会、田中派以外の中曽根政権についても同様である。きわめて危ういと危惧するのが安倍政権であり、その思想的バックボーンをなすという日本会議である。安倍政権成立の前、2000年の森内閣のときに起きた宏池会の流れをくむ加藤紘一の「加藤の乱」の挫折により、自民党内の穏健派、親米派、良識派、ハト派の溶解・解体が始まったと加藤典洋は指摘する。その後の首相は、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎といずれも自民党のタカ派ないし非ハト派出身者がなっているとも指摘する。福田康夫は福田元首相の子どもであり、福田派は岸派を継承しているから、系譜的にはタカ派である。私はしかし、福田康夫は思想的にはハト派と見ているけどね。
加藤は「あとがき」で、この本を書くにあたって「私が最も励まされ、教えられたのは、イギリス人のドナルド・ムーアと元編集者の矢部宏冶」の憲法9条論としている。この2人の本は私も読んでみたいと思う。加藤は現実の政治路線として「平和的リアリスト」(平和主義+国際主義)のグループ-このなかにはドーアや矢部も含まれる-と「非武装中立論」(平和主義+一国主義)のグループの連携をはかることを提言する。これには自民党ハト派の一部、小沢一郎の国連中心主義、社民党・日本共産党の平和主義、外務省、財務省、防衛省の一部政治的リアリズム派までが結集できることになる、としている。私ならばこれに宗教界(仏教、カトリック、プロテスタント、創価学会など)の一部を加えたいところだ。現実の国政を見ると自民党と公明党の連立政権が圧倒的多数を占めている。しかし今年の夏までには衆議院選挙は必ずある。後手後手に回る新型コロナ対策、与党議員の相次ぐ不祥事と自公は守勢に立たされている。加藤の政治路線が実現するチャンスである。残念ながら加藤は2019年に亡くなっているのだが。

2月某日
図書館で借りた「風よあらしよ」(村山由佳 集英社 2020年9月)を読む。四六判ハードカバーで400ページを超す大著だが、大変面白く2日余りで読了した。関東大震災の混乱時に大杉栄と大杉の甥、宗一とともに憲兵隊に虐殺された伊藤野枝の評伝小説ということになろうが、それだけにとどまらず明治から大正にかけての日本社会の在りようを、巧みに描いていると思う。作者の村山由佳って恋愛小説家の筈。私は「ダブル・ファンタジー」を週刊文春の連載時に読んだくらい。伊藤野枝と大杉栄を主人公にした小説は瀬戸内寂聴も書いているから、村山由佳はこの小説をきっかけに小説家として変身を遂げるかもしれない。大杉栄は日頃から自由恋愛を唱えていたが、伊藤野枝と出会ったときは年上の妻、保子と暮らしていた。野枝も後にダダイストとなる辻潤と同棲し二人の子どもまでいた。野枝は子どもを辻潤のもとに残し大杉のもとに走った。三角関係、四角関係のもつれから神近市子に大杉が刺されるという日蔭茶屋事件もあったが、野枝と大杉の関係は良好で二人の間には毎年のように子どもが産まれた。二人の愛は本物だったし大杉は子煩悩で家事にも協力的だった。しかし家族だけでなく常に何人かの同志を居候させなければならなかった大杉家の家計は火の車であった。この小説には大杉と野枝の恋愛小説の側面と大杉一家の家庭小説という側面がある。もうひとつ見逃せないのは大正という時代の社会ドキュメントという側面だ。大正12(1923)年、大杉は無政府主義の国際大会に出席するために外遊する。外遊の費用を出した一人が有島武郎である。大杉の帰国の直前に有島は軽井沢で婦人公論の記者と心中していた。そして関東大震災。かねてから共産主義者や無政府主義者の活動に不満を抱いていた憲兵隊の甘粕大尉は大杉、野枝、大杉の甥を検束、大杉と野枝に激しい暴行を加えたうえに虐殺した。扼殺された甥はわずか数えで七歳であった。戦前は暗黒時代という見方がある。大杉らの虐殺事件にはその一面はある。しかし大杉と野枝と子供たちの貧しいが幸せな家庭、彼らを温かく見守る友人や同志のアナキストたち。これらは現代とも遜色ないといえる。むしろ彼らの方が濃密な関係を築き得たとさえ思えるのだ。

2月某日
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森会長の女性蔑視発言が波紋を呼んでいる。国内、海外を問わず非難する声が圧倒的、というか擁護する発言は皆無。大杉栄や伊藤野枝が活動していたのはおよそ100年前だが、当時から大杉は幼子をあやしたり、おしめの洗濯をやったりと家事に協力的だった。森会長の意識は100年以上遅れていると言わざるを得ない。こういう人を会長に選ぶというセンスも問題。それ以前にこういう人が内閣総理大臣だったという現実。ミャンマーでは軍のクーデタに対する抗議デモが続いているというし、ロシアでも反プーチンの活動家ヌバリヌイ氏の釈放を求めるデモが続いている。日本でも森会長の辞任を求める抗議デモが必要ではないですか?