モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
昨日、汐留の高層ビルの本屋で買った「JR品川駅高輪口」(柳美里 2021年2月新装版初版)を読む。巻末に「本書は2012年10月に単行本『自殺の国』、2016年11月に河出文庫『待ち合わせ』として弊社より刊行されました」とある。同じ著者の「JR上野駅公園口」が昨年11月に全米図書賞を受賞したことから、それにあやかって改題したのかと思っていたが、著者の「新装版あとがき 一つの見晴らしとして」を読むと違う構図が見えてくる。もともと著者は「JR上野公園口」などの連作を「山手線シリーズ」として構想していたが、担当編集者の独立した一つの作品として読まれたほうがいいのでは、という助言を入れて駅名をタイトルとすることは断念した。しかし「JR上野駅公園口」の受賞を機会に当初の構想通り駅名をタイトルとしたということだ。「JR上野駅公園口」は常磐線の起点となる上野と福島浜通り相馬に生まれた出稼ぎ労働者の悲劇的な交錯を描いた秀作だった。一方、「JR品川駅高輪口」は高輪口に近い住宅地に住む女子高校生が主人公。生活も意識も出稼ぎ労働者とは全く異なる。しかし二人はともに家族や共同体、社会から孤立していくということで通底しているのだ。孤絶とそれからの回復は、東日本大震災後、被災地の南相馬に移住して本屋を営む柳美里のテーマなのだろう。

2月某日
「金融政策に未来はあるか」(岩村充 岩波新書 2018年6月)を読む。先週「ドキュメント日銀漂流」を読んだ流れである。現代の金融は私にとって複雑怪奇、本書も日本語で書かれているから読むことはできても解することは難しい。例えば自然利子率。著者によれば現在時点における未来への期待ということなる。未来への期待が大きければ金利は上昇し、未来への期待が小さければ、あるいは不安が大きければ金利は下降するということであろう。日本も含めて先進国は超低金利、ゼロまたはマイナス金利である。私たちが未来に期待を持てない結果だとすればその通りなのだが。岩村充は東大経済学部卒、日銀を経て現在、早稲田大学教授である。この本一冊しか読んではいないがなかなかの理論家である。

2月某日
社会保険出版社の入居しているビルの1階ロビーで香川喜久恵さんと待ち合わせ。印刷会社キタジマの金子さんから再校正紙を受け取るためだ。時間通りに金子さんが来る。再校正紙を受け取り私と香川さんは、白山通りをJR水道橋駅方面へ。途中の北京亭で遅い昼食。この店はBSの「町中華で飲ろうぜ」で紹介されていた店だ。私はカレー、香川さんはタンメンを注文。野菜がたくさん入った具だくさんのカレーだったが、私には量が多い。ここら辺は日大経済学部、明治、専修、東京歯科大などの大学や大原簿記などの専門学校も多い。学生の街だからメシの量も多くなるのだろう。水道橋で新宿方面に行く香川さんと別れ私は神田の社保研ティラーレへ。打ち合わせ後我孫子へ、駅前の「しちりん」で軽く一杯。

2月某日
「MMT-現代貨幣理論とは何か」(井上智洋 講談社選書メチエ 2019年12月)を読む。MMTとはModern Monetary Theoryのことで「自国通貨を持つ国は財政破綻することはない」という主張である。この本の出版は2019年の12月であり、コロナ以前である。しかしコロナ以降、日本経済は需要不足に陥り政府は国債の大量発行により資金を調達し、数次にわたる経済、コロナ対策を実施している。昨年実施された国民一人当たり10万円の給付などはヘリコプターマネーそのもののように私には思える。現実の方が理論を追い越したのである。もっとも1920年代の世界大恐慌のおり、アメリカはフーバー大統領のもと大規模な公共事業を実施して恐慌に対峙した。ケインズ主義的な政策を実施したわけだが、当時のアメリカ政府内にケインズ理論の信奉者はいなかったそうだ。私たちは国の借金(国債)と個人の借金(住宅ローンなど)を同じような感覚で捕らえがちであるが、個人の寿命は有限であるのに対して国の寿命は無限である。個人の借金は死ぬ前に始末をつけなければ、借金の貸し手や残された家族に迷惑をかけるが、寿命が無限である(かのように感じられる)国家の場合はそうでもないということになる。

2月某日
「村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝」(栗原康 岩波現代文庫 2020年1月)を読む。村山由佳の「風よあらしよ」を読んで以来、「美は乱調にあり-大杉栄と伊藤野枝」(瀬戸内寂聴)に続く伊藤野枝シリーズだ。「風よあらしよ」も「美は乱調にあり」も伊藤野枝の恋愛や運動との関りに焦点を当てているがこれは小説だから当然であろう。一方、栗原の「村に火をつけ、白痴になれ」は評伝だから彼女の思想にも筆が及ぶ。物騒な「村に火をつけ、白痴になれ」というタイトルは伊藤の小説「白痴の母」と「火つけ彦七」から取られている。障害の子を持つ母が首吊り自殺してしまうのが「白痴の母」、被差別部落出身の彦七が村に火をつけて回り村人にとっつかまるのが「火つけ彦七」である。どちらも救いがない。現代日本で無政府主義はほとんど力を持たないと言っていいかも知れない。だが伊藤野枝や大杉栄が生きた明治末から大正時代はそうでもなかったようだ。大逆事件で死刑になった幸徳秋水は無政府主義者だったし、大杉は幸徳の子分だった。大杉は1917年のロシア革命にもボルシェビキに対して批判的だったらしい。本書には野枝の「いわゆる『文化』の恩沢を充分に受けることのできない地方に、私は、権力も、支配も、命令もない、ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活を見た」という文章が紹介されている。野枝は辻潤との間に2人、大杉栄の間に5人の子どもをなしているが、大杉の間の子どもは故郷の福岡県今宿村(現福岡市西区)で産んでいる。よほど居心地が良かったのであろう。彼女のアナーキズムの原点には今宿村での暮らしがあったのかも知れない。