7月某日
11時45分に社会保険研究所の入るビルでキタジマの金子さんと待ち合わせ。「真の成熟社会を求めて」のゲラを返すつもりだったが、肝心のゲラを自宅に忘れてしまった。後でメールすることにする。年友企画の石津さんとランチ。「跳人」で三色丼をご馳走になる。「跳人」でホールを担当している大谷さんと話す。大手町から霞が関へ。厚労省1階ロビーで社保研ティラーレの佐藤社長と待ち合わせ。樽見事務次官に「地方から考える社会保障フォーラム」への出席のお願い。厚労省で佐藤社長と別れ、虎ノ門の日土地ビルで打ち合わせを済ませた後、霞が関から千代田線で帰る。北千住で快速に乗り換え我孫子へ。南口駅前の「しちりん」に寄る。
7月某日
「政治家の責任-政治・官僚・メディアを考える」(老川祥一 藤原書店 2021年3月)を読む。著者の老川は読売新聞グループ本社会長・主筆代理、同グループではナベツネこと渡辺恒雄主筆に次ぐナンバー2ということだろう。1941年東京都出身、早稲田大学政経学部政治学科卒業後、1964年読売新聞社に入社。入社以来、多くの期間を政治部で過ごし政治部長も務めた。この本を一読して私も色々な感慨を持ったが、一つは衆議院選挙制度の中選挙区から小選挙区への移行であろう。一選挙区に3~5人程度の定員を設ける中選挙区制は選挙に金がかかり過ぎる、同一政党から複数の候補者が立候補するため派閥政治が助長される、などの批判があり小選挙区制への移行が決まった。政党には税金から政党助成金が交付されるようにもなった。中選挙区時代は派閥のボスから盆暮れ、選挙時に金が配られていた。党執行部の力が強まり派閥の力は低下した。現在の菅首相(総裁)は無派閥だが、かつては考えられなかった。安倍一強を謳歌できたのも小選挙区制の賜物と言えまいか。政治家が小粒になったのも小選挙区制に源がありはしないだろうか。
7月某日
「何とかならない時代の幸福論」(ブレイディみかこ×鴻上尚史 朝日新聞出版 2021年1月)を読む。ブレイディみかこは一昨年だったか、金子文子らの女性テロリストを描いた「女たちのテロル」(岩波書店)を読んで以来のフアン。鴻上尚史の芝居は観たことはないけれど、彼が司会をやっているNHKBSの在日の外国人を集めてのトーク番組「COOLJAPANN」はときどき観る。二人とも日本社会を外から(批判的に)見ているのが共通点と言えようか。コロナで同調圧力が高まっている現在、二人の視点は重要だ。コロナと言えば、明日から東京に緊急事態宣言が発出される。これに関連して西村担当大臣が、酒類を提供する飲食店には金融機関や種類の卸業者を通じて圧力をかけるとか発言して批判を浴びた(後に撤回したらしいが)。西村大臣は灘高から東大を出て通産省に入った秀才らしいが、だめだねぇ。コロナで窮地に立たされている飲食店等の弱者に対する想像力が欠けている。「何とかならない時代の幸福論」でも「『エンパシー』とは、その人の立場を想像する能力」としてブレイディみかこが「『エンパシーという能力を磨いていくことが多様性には大事なんだよ』と、息子が学校で習ってきた」と語っていた。そういうことなんだよなぁ。
7月某日
家にあった「幕末維新変革史」(下)(宮地正人 岩波書店 2012年9月)を読むことにする。上巻を10年近く前に読んで下巻は読まずに放っておかれた。読まずに死んでしまうのももったいないので読むことにする。下巻は第Ⅲ部「倒幕への道」、第Ⅳ部「維新史の課程」、第Ⅴ部「自由民権に向けて」という構成。著者の宮地正人は1944年生まれ、東大の史料編纂所教授、国立歴史博物館館長を務めている。東大の国史学科を卒業しているから昨年亡くなった坂野潤治先生の後輩にあたる。ウイキペディアでは宮地のことを「左派」としているが、そういう決めつけは如何なものか。第Ⅲ部は政治史的に言うと薩長同盟の成立から大政奉還までを扱っている。そうそうこの本を読むきっかけとなったのはNHKテレビの大河ドラマ「青天を衝け」がちょうど、渋沢栄一が一橋慶喜に仕官し、慶喜が大政奉還をする当たりを扱っているからだ。渋沢を演ずる吉沢亮という役者がなかなかいい。二枚目なんだけれど三枚目的でもあるし、熊谷あたりの方言「だっぺ」丸出しなのも好感が持てる。
本書が面白いのは中央の政治史だけでなく経済や地方、文化や学問にも焦点を当てている点だ。第Ⅲ部ではこれまであまり知られていなかった蘭学者や東国の平田国学者、豪農や豪商にも言及している。「青天を衝け」でも渋沢家が熊谷の豪農で藍玉を扱う商人を兼ねていることが描かれている。第33章「幕末期の東国平田国学者」では宮和田光胤という国学者が紹介されている。この人は今は取手市と合併した藤代町宮和田の出身、今でも宮和田という地名は残っているし宮和田小学校も存在する。水戸街道沿いということもあって水戸学の影響も受けたらしい。本陣の当主だから名字帯刀は許されたが基本は農民ないしは町民であった。この辺は渋沢家と一緒だ。新選組の近藤勇や土方歳三も三多摩の農民出身。だけれども剣術も学問も学び江戸へ出て道場を開く。道場を開く資金はおそらく実家からも出ていただろう。米だけでなく生糸も扱っていたと思われる。開国によって藍玉や生糸の価格が乱高下した。渋沢や近藤らの生産者が攘夷思想に魅かれていく一因となったのでは。
7月某日
「幕末維新変革史」(下)の第Ⅳ部「維新史の過程」を読み進む。明治維新の性格については、講座派(日本共産党系)の絶対主義革命と労農派(戦後の日本社会党に繋がる)のブルジョア民主主義革命という二つの見方があった。本書はそのどちらに与するものではない。講座派と労農派の論争そのものが観念的であったのかも知れない。本書は明治維新が政治体制、経済社会、暮らしを含めて幅広い変革であったことを明らかにしていく。私としては士農工商の近世的身分制度の解体など、明治政府の民主的、進歩的な性格は評価する一方、後の大逆事件をはじめとした反動的な性格も見逃せないと思っている。そういえば坂野潤治先生は明治時代から大正デモクラシー、5.15事件まで日本は民主的とファシズム的の政権交代が繰り返されてきたと述べていたように思う。
7月某日
「幕末維新史」(下)を読了。今回読んだのは第5部「自由民権にむけて」。第48章「福沢諭吉と幕末維新」、第49章「田中正造と幕末維新」の2章で構成される。福沢は九州中津の中津藩、奥平家の下級武士の家に生まれる。天保5(1835)年生まれだから、ペリー来航がなければ九州の片田舎で平凡な一生を送った可能性が高い。しかしペリー来航が福沢の運命を一変させる。蘭学の習得を命じられた福沢は長崎、次いで大阪の緒方洪庵の塾で学ぶ。オランダ語を学んだ福沢は開港した横浜に出かけるが、欧米世界での共通語は英語であることを知り愕然とする。オランダ語を学んだ友人の多くは「今さら」と英語学習に背を向けるが福沢は果敢に挑戦する。これが福沢の咸臨丸による渡米、さらに帰国後の幕臣への登用につながる。幕臣としての福沢は、統一中央政府の幕府という形で幕府をとらえ、幕府権力の維持、強化を訴える。維新後の福沢は幕臣の静岡移住にも加わらず、新政権にも参加しなかった。維新前からの英語塾、のちの慶應義塾の経営に務めることになる。明治という時代は薩長を中心とする藩閥政府とそれと結びついた三井、三菱、住友、安田らの政商(後の財閥)の時代と理解されやすいが、福沢らの慶應義塾の力も無視できない。なにしろ東京大学が1977年に設立され、最初の卒業生を出すまでは、慶應義塾は最大の管理養成校だったらしい。それ以降は経済人を輩出していくが、彼らが明治期のブルジョア民主主義を担ってゆくことになる。田中正造は下野国小中村の庄屋の家に生まれる。幕末期には近隣の農民や浪人たちと共謀して倒幕の挙兵を試みるが鎮圧される。この辺の反権力の志は後の足尾銅山の鉱毒反対闘争に引き継がれてゆく。本書を読んで感じたのは、われわれが享受している民主主義や平和は当たり前のように存在しているように見えるが、そうではないということ。先人たちの命がけの労苦のうえに成り立っている。事実、幕末から明治期にかけて倒幕運動や反政府運動に携わった者のうち少なからぬ人が死罪となっている。当時の死罪は斬首だからね。文字通り「首を賭けた」闘いだったわけだ。