7月某日
午前中、月1回の高血圧治療のため我孫子南口駅前の「中山クリニック」へ。治療と言っても「お変わりありませんか?」「特にありません」という簡単な問診のあと、中山先生が血圧を測って「お大事に」「ありがとうございました」で終わり。高血圧は自覚症状がほとんどないので厄介だ。私も11年前の2010年3月、HCM社のゴルフコンペの朝、フラフラしてズボンをはけず、HCM社のMさんに「こういうわけでコンペは欠席します」と電話した。そうしたらMさんが「親父が高血圧で倒れたときと同じだから直ぐに救急車を呼んだ方がよい」と言われてそうした。会社の検診で高血圧と診断され、当時から中山クリニックに通っていたのだが、何しろ自覚症状がないもので服薬もサボり勝ちだった。今は真面目に服薬を続けています。中山クリニックから我孫子薬局でいつもの薬を調剤してもらい帰宅する。
7月某日
厚労省の医系技官だった高原亮治氏。上智大学の教授を務めた後、高知県の医療法人で働いていたが持病の心臓病が悪化、急死した。高原さんの生前、堤修三さんと私の三人で何回か呑みに行った。高原さんが岡山大学医学部の全共闘、堤さんが東大駒場、私が早大政経の全共闘という全共闘つながりだった。7月の命日には堤さんと奈良女子大学元教授の木村陽子さんとの3人で高原さんの墓参りに行くことにしている。お墓と言っても高原さんの遺骨は四谷の聖イグナチオ教会の納骨堂に納められているから、そこにお参りする。お参りした後、近くの喫茶店で休憩。木村さんにCDを頂く。
7月某日
家にあった「それからの海舟」(半藤一利 ちくま文庫 2008年6月)を読む。前に一度読んだことがある筈だが、例によって内容はほとんど覚えていない。著者の半藤は元文藝春秋社の編集者で最後は専務を務めた。東京は向島の生まれで、先祖は越後長岡藩の出。江戸は幕府のおひざ元だし、長岡も薩長の倒幕勢力に抵抗して敗れた。半藤は根っからの薩長嫌いなのである。勝海舟も江戸っ子だが、三河以来の幕臣ではなく「祖父の平蔵が三万両で株を買い、千石取りの男谷家をついだ」。父の小吉が男谷家から勝家の養子に入る。勝小吉は無役の貧乏旗本だったが勝海舟、幼名麟太郎は幼い頃から文武両道に励み優秀だった。表題の「それから」について半藤は「あとがき」で三田薩摩屋敷での勝・西郷隆盛の会談のときと記している。会談の結果、「江戸城は無血開城となり、近代日本は華やかに幕を開いた」のである。海舟は1823(文政6)年に生まれ1899(明治32)年に75歳で没している。当時としては長命だったのではないか。ちなみに維新の三傑といわれる西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通の終焉についても本書に触れられている。西南戦争の最終局面、城山で政府軍の総攻撃を受ける西郷軍。「流れ弾が股と腹に当たるに及んで、傍らの別府晋介を顧みて言った。『晋どん、晋どん、もうこん辺でよか』」。1878(明治10)年9月24日、享年51。木戸は西南戦争の真っ最中の同年5月26日に「西郷、もういい加減にせんか」の一言を最後に病死した。享年45。翌年、1879(明治11)年5月14日、大久保利通が暗殺される。享年49。三人ともずいぶん若くして死んだことが分かる。そういえば半藤さんも今年1月に亡くなっている。こちらは享年90。
7月某日
林弘幸さんと我孫子駅南口の「しちりん」で呑む。林さんは元年金住宅福祉協会の幹部職員。確か九州支所長や東京支所長を務めた。九州支所長のとき博多でご馳走になった覚えがあるが、仲良くなったのはむしろ林さんが年住協を止めて以降だ。林さんは年住協の前の職場が永大産業。この会社は合板とプレハブ住宅のメーカーだったが、オイルショック後に倒産した。年住協の実質的な創業者だった坂本専務、その後を継いだ中谷、米田さんも永大出身だ。年住協の創業当時の話を聞けた。
7月某日
「ロッキード」(真山仁 文藝春秋 2021年1月)を読む。600ページ近い大著だが、週刊文春に2018年~2019年にかけて連載されていた「ロッキード 角栄はなぜ葬られたか」をもとにしているだけに読みやすかった。私が大学を卒業したのが1972年、田中角栄が首相になったのがその年の7月、文藝春秋に立花隆の「田中角栄研究」が掲載されたのが74年の10月、田中内閣が総辞職したのが11月だ。角栄は首相は辞めたが最大派閥の田中派を率いて自民党の実力者であり続けた。角栄が逮捕されたのは76年の7月である。東京地裁は83年10月に角栄に懲役4年、追徴金5億円の判決を下す。85年2月に角栄は脳梗塞で倒れ入院、退院後も本格的な回復を見ないまま93年12月に波乱に満ちた生涯を閉じている。私が23歳のときに角栄は首相となり、死んだのは私が45歳のときである。感慨深いものを感じながら読了した。角栄の起訴、有罪判決は無理筋であったのでは?と思わせるものがあった。今度、弁護士の雨宮先生に会ったら聞いてみよう。
7月某日
「夫・車谷長吉」(高橋順子 文藝春秋 2017年5月)を読む。最後の文士とも呼ばれた小説家、車谷長吉との日々を描いたエッセー。本作で高橋は講談社エッセイ賞を受賞している。
車谷との出会いから車谷の直木賞受賞、豪華客船による世界一周、そして車谷が晩年、体力と同時に執筆意欲を失ってゆく様子が赤裸々にかつユーモラスに描かれる。私は実は車谷と高橋と二度ほど酒を呑んだことがある。私の兄の奥さん(義理の姉)が小学館に勤めていて高橋順子さんと親しく、酉の市に鳳神社にお参りした後、入谷で4人で呑んだのだ。私が車谷のファンであることを知った義理の姉が誘ってくれたのだ。高橋さんは東大、車谷は慶應の仏文を出たインテリなのだが、お会いしたときは普通のオジサンとオバサンに見えた。高橋さんの方が1年、年長なのだが高橋さんがかいがいしく車谷のお世話をしているように見受けられた。「夫・車谷長吉」を読んで、そのときのことを思い出した。