2月某日
「浮沈・踊子 他3編」(永井荷風 岩波文庫 2019年4月)を読む。持田叙子の解説によると、「浮沈」は昭和16年12月8日に書き始められたという。日本軍による真珠湾奇襲の日というのも何やら因縁めく。戦争中は発表を見送られ、戦後、中央公論の昭和21年1月号から6月号に連載された。ヒロインさだ子が女給として生活を維持しながら、かつての常連だった越智と上野駅で偶然に再会、恋に落ちてゆく。反時代的と言おうか、時局に批判的だった荷風の面目躍如たる作品である。
2月某日
「この国のかたちを見つめ直す」(加藤陽子 毎日新聞出版 2021年7月)を読む。日本の近代史を専門にし、東京大学文学部で教鞭をとる加藤教授の本だが、この本には毎日新聞に連載されたコラムやインタビューが収録されている。加藤教授は日本学術会議への任命を拒否された6人の学者のひとり。任命拒否についても極めて論理的に反論しているが、私は加藤教授の豊富な読書量に驚いた。日本近代史を専門にする大学教授なら当然かもしれないが、シナリオライターの笠原和夫の「書いたものは必ず読むようにしてきた」とか、橋本治や井上ひさしを愛読している。加藤教授の歴史書が面白いのも彼女の幅広い読書によるところが大きいのではないか。
2月某日
「それからの海舟」(半藤一利 ちくま文庫 2008年6月)、「幕末史」(半藤一利 新潮文庫 平成24年11月)を続けて読む。「それからの海舟」は筑摩書房のPR誌「ちくま」に連載されたもの、「幕末史」は慶應丸の内シティキャンパスの特別講義として、2008年3月から7月まで12回にわたって講演したものをまとめたものである。私は半藤さんに講演を依頼したことがある。20年ほど前だったか、会社で「森田さん電話ですよ」と言われて出たら「半藤だけど」。その頃は半藤さんの本を読んでいなくて「半藤さんって誰だっけ?」と一瞬思ったが幸いすぐに思い出した。確か厚労省OBのSさんにお願いされたのだ。講演の依頼にも快諾してもらって、当日、私も講演を聞いたはずだが内容はまったく覚えていない。当時、私は文藝春秋社=保守的出版社と思い込んでいて、「そこの専務をやった奴(半藤さんのこと)ならゴリゴリの保守だろう」と思っていたのだ。のちに半藤さんの著作を読むにつけ、半藤さんが反戦の高い志を持つ人だということを知るわけである。学術会議への任命を拒否された東大の加藤陽子教授との対談もあるくらいで、この人の日本近代史に対する学識の深さは半端ではない。その深い学識を平明な語り口で叙述するのが、歴史探偵たる半藤さんの真骨頂なのだ。
「それからの海舟」の「それから」とは大政奉還後ということである。大政奉還をしてから、つまり幕府が幕府でなくなってから、幕府と最後の将軍、徳川慶喜を支えたのが勝海舟である。半藤さんの先祖は長岡藩に仕えていたそうである。戊辰戦争に際して河井継之助に率いられて官軍に抵抗したあの長岡藩である。したがって半藤さんは官軍という呼称は用いない。官軍はあくまでも西軍であり、長岡藩や会津藩、五稜郭に立て籠った幕軍の残党まで、東軍と称する。「それからの」で描かれる海舟は頭脳明晰なうえに肝が据わっており、世の中を見通す眼力は薩長の藩閥政治家たちの遥か上をいっていた。「それからの」の主演はもちろん海舟だが、助演男優賞を上げたいのが二人、徳川慶喜と西郷隆盛だ。慶喜と海舟は必ずしも互いに好意を抱いていたとは言えないが、海舟は家臣として生涯、慶喜を支える。西郷は江戸城明け渡しの交渉相手だが、その人間的度量の大きさに海舟は感服してしまう。西南戦争の最終局面、城山で西郷は別府晋介の介錯で死ぬが、海舟は西郷の息子の留学の面倒を見たり西郷の碑を建てたりしている。
「幕末史」も反薩長史観に貫かれている。「はじめの章」で永井荷風の薩長罵倒の啖呵が紹介されている。「薩長土肥の浪士は実行すべからざる攘夷論を称え、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を転覆したれど、原(もと)これ文華を有せざる蛮族なり」(「東京の夏の趣味」)。慶應が明治に改元されたころの狂歌に「上からは明治だなどといふけれど 治まるめい(明)と下からは読む」というのがあるという。江戸の庶民が明治維新に対して冷ややかな感情を抱いていたことがわかる。「五箇条の御誓文」という明治維新の一つのイデオロギーを示したものがある。このもとが坂本龍馬の「船中八策」にあることも、半藤さんは明らかにする。後藤象二郎が坂本から船中八策を示され、後藤は坂本案であることを伏せて藩主の山内容堂に伝える。容堂は船中八策をもとに「大政奉還に関する建白書」を朝廷と幕府に提出し、これが五箇条の御誓文のもととなった。最近の歴史の教科書ではどうなっているのか。教科書ではないが「幕末維新変革史(下)」(宮地正人 岩波書店 2012年)によると、「3月15日江戸城総攻撃期日の前日の14日、京都紫宸殿の明治天皇が出御、公卿諸侯を率い天神地祇に誓う形式で5カ条の誓文が示された」とあっさり記述されている。歴史としてはこういうことかも知れないが、半藤さんは歴史をより深くとらえようとしていると私には思える。