4月某日
「ミス・サンシャイン」(吉田修一 文藝春秋 2022年1月)を読む。大学院生の岡田一心は指導教官に往年の大スター、和楽京子の家の整理をアルバイトでやってみないかと言われる。和楽京子の豪華なマンションを訪ねると、80代の女性とは思えないほど艶めかしい女性があらわれる。和楽京子、本名は石田鈴の登場である。一心と鈴さんはなぜか気が合い、心を通わせるようになる。二人とも生まれが長崎だった。鈴さんは被爆者であり親友の林佳乃子を白血病で亡くしていることが明らかとなる。物語の横糸が鈴さんと佳乃子の友情物語、というか幼馴染がともに原爆の爆風で投げ飛ばされ、一人は映画スターの道を歩み、一人は故郷の長崎で闘病生活を送る、それでも二人の友情はゆるぎない。縦糸は和楽京子の肉体派としてのスタートからハリウッド進出、文芸映画での成功、テレビや舞台での活躍といった女優としての成功譚である。肉体派としての彼女の成功は「洲崎の闘牛」に主演してからである。戦後の赤線・青線でたくましく生きる女を描いた映画というから、これは「肉体の門」をモデルにしているのではないか。鈴さんは次に巨匠、千家監督の声掛けで「竹取物語」の主演に抜擢される。これは黒澤明監督、京マチ子主演の「羅生門」であろう。というようなことを考えながらこの小説を読むのも一興である。そして鈴さんが幼馴染の佳乃子と死別したように一心も小学校5年生のときに9歳の妹を病気で失っている。少年期、青年期の親しいものとの別離も隠れたテーマであろう。なおタイトルの「ミス・サンシャイン」はハリウッドに進出した和楽京子につけられたアメリカでのニックネームである。
4月某日
大学の同級生だった清夫妻(眞人君と百合子さん)が上京してくるというので西新橋の弁護士ビルにある雨宮弁護士の事務所へ。同じ同級生の岡超一君はすでに来ていて日本酒を呑んでいる。私も日本酒をいただく。18時に清夫妻も来たので弁護士ビルにある日本料理店に向かう。清君はノンアルコールビールを呑んでいたようだ。私と雨宮先生、岡君はもっぱら日本酒。岡君は早めに帰る。私は日本酒をしっかり呑んで千代田線の霞ヶ関駅から帰る。清夫妻は上野のホテルに宿泊ということで銀座線の虎ノ門駅に向かった。皆、雨宮先生の指示に従う。
4月某日
「日独伊三国同盟-『根拠なき確信』と『無責任』の果てに」(大木毅 角川新書 2021年 11月)を読む。独伊とくにドイツと同盟を結ぶことは当時の日本の陸軍指導部では強い願いであった。しかしこの願望にさしたる根拠はなかった。当時の流行語「バスに乗り遅れるな」に表されるようにドイツ軍の西部戦線と東部戦線の破竹の進撃に陸軍指導部と、日本外交を仕切っていた松岡外相が乗せられたのである。私はこの本を読んで安倍晋三元首相の対ロシア外交を思い出した。プーチン大統領と何度も会談し北方領土返還に糸口を付けたかのように安倍首相は語っていたが、北方領土は帰ってくる兆しも見えない。むしろロシアのウクライナ侵攻により北方領土の返還は絶望的になったのではないか?「根拠なき確信」と「無責任」は21世紀の今も日本の政治を覆っているのだ。
4月某日
「五つ数えれば三日月が」(李琴峰 文藝春秋 2019年)を読む。李琴峰は1989年台湾生まれの台湾育ち。国立台湾大学卒業後、2013年に早稲田大学大学院修士課程入学。本名は非公開でレズビアンである。「彼岸花が咲く花」と「ポラリスが降り注ぐ夜」を読んだが、「彼岸花」は沖縄と台湾の間にある離島を舞台にした作品で「ポラリス」は確か新宿2丁目のレズビアンバー「ポラリス」が舞台。「彼岸花」を読んだときはずいぶんと土俗的な作家だなと思ったものだが、「ポラリス」は一転して都会的な印象だった。私はこの小説を読むまでポラリスが北極星の意味であることを知らず、もっぱらアメリカが開発したミサイルとしか認識していなかった。で「ポラリスが降り注ぐ夜」も第三次世界大戦でミサイルが東京に降り注ぐ話かと思ってしまった。恥ずかしい。「五つ数えれば三日月が」は日本で働く台湾人女性と台湾人と結婚した日本人女性の物語である。二人で食べに行く池袋の台湾料理屋のシーンが楽しいし、台湾人女性が作る漢詩も二つほど紹介されている。江戸時代おそらくは明治時代までは漢詩や論語などの漢文は、日本人にとっての基礎的な教養だった。現代では詩吟を唱える人は少数いるにしても漢詩を作る人はほとんどいないのでは。李琴峰が卒業した台湾大学は日本でいえば東大。日本語で小説を書くほどだから日本語はペラペラ、おそらく英語も堪能であろう。さらに漢詩まで。李琴峰恐るべし。
4月某日
小熊英二の「1968【下】-反乱の終焉とその遺産」(新曜社 2009年7月)を読み進む。本文に注、索引、年表を入れると1000ページを超す大著である。当時のビラや新聞記事、雑誌の記事や論文、さらには個人の回想記を丹念に調べた労作である。この本の執筆時でも半世紀前のことを主として文献だけに頼って再現する―こういうことを思いつき実行した小熊英二を誉めたいね。1968年は早稲田大学に入学した年で、私が学生運動を始めた年でもあるから、私は当事者の一人でもある。表紙はヘルメット姿の学生が両手をヘルメットの上に乗せて機動隊に投降している写真である。学生はややうつむきながらも毅然としている(ように私には見える)。おそらく東大の安田講堂が機動隊の手によって封鎖解除されたときの写真であろう。60年年の安保闘争で盛り上がった学生運動はその後沈静化、65年、66年の日韓、早大闘争で一時的な盛り上がりを見せるが、一気に火が付いたのはベトナム反戦運動からで、具体的には67年の10月8日の三派全学連による第一次羽田闘争からである。【上】では時代的背景や個別の大学闘争、東大、日大闘争が描かれているが【下】では高校闘争や新宿事件、新左翼の「戦後民主主義批判」そしてべ平連、連合赤軍が描かれる。私は各章とも面白かったのだが、ここでは第15章「べ平連」を取り上げる。私は浪人中だった67年の10.8に衝撃を受けて「大学に行ったら学生運動をやろう!」と秘かに決意していた。しかし最初から過激な三派のデモに行く自信がなく、当時、清水谷公園が集合場所だったべ平連のデモに行くことにした。月一回のデモの四月と五月に参加した記憶がある。六月からは政経学部の自治会が属していた社青同解放派のデモに参加することになる。
小熊の見解では1968年の後半から東大、日大闘争にも翳りが見え始めセクトの動員数も頭打ちになっていたという。69年の佐藤訪米阻止闘争で反乱側は機動隊の「軍事力」に完敗する。ここで学生側には二つの選択肢があったと思う。一つは火炎瓶とゲバ棒だった反乱側の武力を銃と爆弾までに飛躍的に高め、学生部隊も「軍団化」するという方向である。これは後に連合赤軍となる赤軍派と京浜安保共闘の路線でもあるが、当時の革マル派を除く新左翼は多かれ少なかれ軍事化の方向を向いていたと思う。革マル派も対権力ではなく内ゲバ向けに武装を強化し軍団化していたのではないか。もう一つは非暴力で多くの大衆の支持を得てゆく方向である。これはべ平連の方向でもあった。ベトナム戦争の激化に対応して米軍の戦闘機の訓練中の事故やジェット燃料運搬中の事故が派生し、ベトナム反戦運動は社共や総評を中心に一定程度の盛り上がりを見せた。これに対し小田実や後にべ平連事務局長となる吉川勇一は、日本人は米軍の被害者だけでなくベトナム人民に対しては加害者となっているのではないか、という議論を展開し、これがのちのべ平連に繋がってゆく。べ平連は普通の市民のパートタイムの運動であり、メンバーシップをもたない、だれでも入れる組織であった。これは軍団化したセクトの職業革命家、職業軍人として24時間、活動を強いられる組織とは真逆の組織である。70年代の新左翼にこうした方向はなかったのであろうか? ないのだろうなやはり。