モリちゃんの酒中日記 1月その1

1月某日
「明治維新を考える」(三谷博 有志舎 2006年8月)を読む。三谷博は1950年生まれ、72年に東大国史学科卒、78年に同大学院博士課程単位取得退学。東京大学教授を2015年に定年退職。ウイキペディアに「共産党から離脱した反共産主義・保守派の伊藤隆と佐藤誠三郎に師事する」と記載されている。しかし菅義偉首相に日本学術会議会員への選任を拒否された加藤陽子東大教授も伊藤隆夫門下であることからすると、門下生が師匠と同じ思想傾向をとるとは限らない。事実、本書を読んで私は三谷博にリベラルの風を感じた。著者の日中戦争観は、8年という長期間、主要な中国領の主要部で戦われ、軍隊だけでなく、庶民も当事者となり、戦火と徴発、しばしば殺戮とレイプが行われたという、私からすると至極、真っ当な歴史観である。そしてまた私の保有していた歴史観に修正を迫るものであった。例えば日本の朱子学受容に関して私は江戸時代、朱子学は幕府公認とされ官学の大道を歩んでいたと理解していた。しかし朱子学を徹底的に受け入れた朝鮮と違って、その受容に最も抵抗したのが日本という。そして日本の朱子学受容は、明治天皇による教育勅語の発布と、高等文官試験の実施(プロイセンの官僚制を媒介にした科挙の受容)ということになる。日本が朝鮮や清国と違って、一応の近代化を果たせたのは「近隣2国と同じく閉鎖的な体制をとりながら、エリートが外部にある西洋や世界に対して注意を向け続け、外部環境が変化した場合に鋭敏な対応ができるようになっていた」からという。勝海舟や坂本龍馬、福沢諭吉などが代表的な例だろう。これからは私の想像だが松下村塾や福沢の学んだ適塾、さらに竜馬が通った北辰一刀流の道場など、私塾や剣道場(いずれも官立ではない)が幕末に幕臣や重臣層の子弟だけでなく、下級武士や浪人にも開かれていたことも大きいのではないか。つまり勉学における機会均等である。
ネットで検索していたら伊藤隆のインタビューがあった。先生は新聞は産経新聞1紙を購読するのみでテレビは「YOUは何しにニッポンへ」「私が日本に住む理由」「ポツンと一軒家」を好んで観るそうである。ちなみにこの3つの番組は私も好きで観ている。先生、88歳、意外といい人かもしれない。

1月某日
「夢も見ずに眠った。」(絲山秋子 河出文庫 2022年11月)を読む。かつて絲山秋子が双極性障害(躁うつ病)を患っていたことはよく知られているし、彼女の小説にもうつ病患者が登場するケースがある。本書はエリート銀行員の沙和子と沙和子の夫で双極性障害の高之の物語であり。話の途中でふたりは離婚し沙和子も銀行を辞めるのだが、ストーリーは淡々と続く。「淡々と」というのが絲山文学の魅力の一つと私は思っている。しかし「淡々と」した日常の中でふたりの感情は微妙に行違う。離婚したふたりは最終章で山陰へ旅をする。「なにもかもが愛しい。そう思うことは一瞬でも、重みは永遠に等しいのだった。同じ場所にいることは、かけがえのないことなのだった」という文章は、ふたりの愛の復活を示していないだろうか。

1月某日
「私の1960年代」(山本義隆 金曜日 2015年10月)を読む。山本義隆は東大全共闘の元代表、東大闘争のときは東大物理学の大学院博士課程に在学中だった。闘争終息後も大学には戻らず駿台予備校で講師を務めるなどした。山本は1941年大阪生まれ。60年に大阪の大手前高校を卒業し東大に入学。64年に東大物理学科を卒業。物理学科に進学したころ大管法闘争に参加している。この闘争は「当時の東大自治会中央委員会の議長をしていた医学部の今井潔君、そして理学部の豊浦清君が指導した」(4 62年の大学管理法反対闘争)と記載されている。豊浦さんは晩年、社会保険研究所の関連会社の役員をやっていて私も親しくさせてもらった。第2次ブンドやML同盟の政治局員を務めた「偉い人」なのだが、偉ぶることのまったくない人だった。豊浦さんを偲ぶ会に私も出席したが、そういえば山本義隆も来ていたように思う。東大全共闘を担ったのは山本義隆のような大学院生や助手だった。それが東大闘争の幅と厚みを支えたのかも知れない。69年の3月に始まった早大闘争は学部の1年と2年が主体だったからね。とにかく「革マル粉砕!」が最優先、大学解体や安保粉砕も叫んでいたが中身はなかった。

1月某日
11時30分にマッサージを予約しているので近所のマッサージ店へ。ここは健康保険が適用されるので1回の料金は450円。マッサージを終えて帰宅、簡単な昼食をとって市立図書館へ行き「私の1960年代」を返却。新着の黒川創の小説を借りる。図書館2階の学習コーナーで読書。図書館から10数分歩いて駅前の関野酒店でバーボンウイスキーを購入、駅前からバスに乗って帰宅。

1月某日
「耳の叔母」(村田喜代子 書肆侃侃房 2022年10月)を読む。村田喜代子は1945年北九州市生まれ。中学校を卒業後、鉄工所に就職。結婚後、2児を育てながら小説を書き始める。戦後生まれで中卒作家というのは珍しい。私の知るところ昨年亡くなった西村賢太くらいか。村田は日本芸術院会員にも選ばれているし確か勲章も受賞している。勲章も芸術院の会員も文学的な価値とは関係ないと思うが、それと同じように学歴も関係ないと私は思う。村田の中編や長編小説は面白く読んだ記憶があるが、短編は初めてじゃないかな。長編でもそうだが、村田が描くのはもっぱら庶民。それも九州あたりの土着庶民だ。私は中学生の「わたし」と転校生の「トモエ」の交情を描いた「雷蔵の闇」と「わたし」の出産経験をもとにした「花影助産院」がお気に入り。図書館で借りたこの本は人気があるらしく「読み終わったらなるべく早くお返しください」の黄色い紙が貼られている。これから返してきます。