モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
「トーキョー・キル」(バリー・ランセット 白石朗訳 2022年11月 集英社)を読む。四六判ハードカバーで本文だけで400ページを優に超える。定価は税別3000円。いわゆるハードボイルド、図書館で借りなければ私はまず読むことはない本だ。読み終えるのに3日かかったが、実に面白かった。粗筋は巻末に付されている解説(杉江松恋)に述べられているので、それをさらに削って紹介する。主人公のジム・ブローディは両親ともにアメリカ人だが、17歳まで東京で育つ。父親は東京では初の調査とセキュリティ全般の探偵社を起業する。ブローディは長じてサンフランシスコで古美術商を開業するが、父からは探偵社の経営権も遺贈される。ブローディは第2次世界大戦中に日本軍の士官として満洲に赴任した過去がある三浦晃から身辺警護を依頼される。いくつかの殺人事件が起こり、ブローディにも危険が及ぶ。事件の全体像は物語の最終部に明らかにされるが、ここでは満洲国皇帝の溥儀の隠された財宝を巡るとだけ明かしておこう。竹刀や日本刀によるアクションシーンはなかなかのものでした。

1月某日
庭の金柑の木から実を収穫。奥さんと二人で1時間、3分の2ほどを取り終える。残りはリクエストしていた友人のために残しておく。金柑の実を水洗いして金柑酒造りに挑戦する。果実酒ブランデーに漬け、3カ月ほどで熟成するらしい。今年は4月に夏みかん酒、11月には柚木酒に挑戦したい。

1月某日
「きみはポラリス」(三浦しをん 新潮文庫 2011年3月)を読む。新潮文庫は発行年を平成、令和という元号で記している。本書も奥付では平成23年となっていたのを「ほぼ日手帳」の「満年齢早見表」をみて、西暦に書き換えた。平成23年って2011年だったんだ。しかも3月、東日本大震災があったときである。あの日からもうすぐ12年になるわけね。三浦しをんは1976(昭和51)年生まれ。昭和の場合は昭和の年数に25を加えると西暦の2桁になる。たとえば終戦の年、昭和20年は25加えて45、すなわち1945年である。さて解説(中村うさぎ)によると、本書にはさまざまな形の「恋愛」をテーマにした11の短編が収められている。男同士の「恋愛」だったり、1日限りの車泥棒と車に紛れ込んだ8歳の少女との「恋愛」だったり。この歳の差恋愛は「冬の一等星」というタイトルで、中村うさぎも「私の一番好きな作品」としている。私も同じです。

1月某日
「すれ違う背中を」(乃南アサ 新潮文庫 2012年12月)を読む。前科者(前持ち)二人組女子の物語。前作「いつか陽のあたる場所で」に続くシリーズ2作目。芭子はホストに貢ぐためにカード詐欺を働き、綾香はドメスティックバイオレンスから逃れるために夫を殺害、それぞれ懲役刑を済ませて出所、根津界隈で綾香はパン職人の修業中、芭子はペットショップでバイト中。本作で芭子は愛犬用のチョッキなどの服飾作家としての才能を発揮する。乃南アサには「女刑事音道貴子」シリーズがあるが、こちらは「前持ち二人組」シリーズ。私も学生運動で留置所の経験があるが、そこで出会ったいわゆる犯罪者にも悪い人はいなかった。社会人になってからも学生運動、労働運動で刑務所に行った人や、普通の犯罪(傷害や公務執行妨害など)で刑務所に行った人と知り合ったが、普通人と何ら変わりなかった。むしろ人の好い人が多かった気がする。綾香と芭子も「人の好さ」にかけては人後に落ちない。むしろ「人の好さ」故に様々な「事件」に巻き込まれていく。乃南アサは多彩な作家で様々な人生模様を描くが、私は「前持ち二人組シリーズ」のような人生肯定モノが好きですね。

1月某日
前の会社で一緒だった石津さんと呑みに行く約束をしていたら第一生命の営業ウーマンの本間さんも一緒に行くことになった。本間さんの指定は八丁堀の「串武」という焼き鳥屋。八丁堀は以前付き合いがあったCIMドクターズネットワークの事務所があったところで、私には多少土地勘がある。18時スタートということだが、少し早く地下鉄の駅に着いたので近所を散策する。早稲田大学が社会人向けのスクールを開設している早稲田大学エクステンション講座も近くだ。私も10数年前、貸借対照表や損益計算書の読み方を学びに3カ月くらい通った経験がある。それから1階がお酒や食料品売り場で2階がバーになっている店も健在だった。「串武」では本間さんにお刺身や焼き鳥、焼酎をご馳走になる。

1月某日
「トリップ」(角田光代 光文社文庫 2007年2月)を読む。日本の東京から私鉄で2時間ほどの中都市が舞台の短編集。そこで暮らす普通の人々が各短編の主人公だ。「普通の人々」というのが角田文学の肝ではないかと私は思っている。「八月の蝉」では普通のOLが愛人の生まれたばかりの赤ん坊を誘拐、我が子として育てる話である。普通のOLは誘拐という犯罪を犯したりはしない。しかし私は誰にでも犯罪を犯す可能性はあるのではないかと思う。乃南アサの「すれ違う背中を」の二人組の主人公も前科持ちだったし。「トリップ」の主人公たちも犯罪は犯さない。LSDを常習する主婦いたけれどね。でもこれは普通の主婦がLSDに親しんでいるという話だ。つまり普通の日常こそに小説の種は潜んでいるということなのだ。

1月某日
「可能性としての戦後以降」(加藤典洋 岩波現代文庫 2020年4月)を読む。加藤典洋は1948-2019年、明治学院大学教授、早稲田大学教授を務めた。加藤典洋の本はよく読むほうだが、私にとって難解である場合が多い。なのになぜ読むかというと、テーマが私にとって魅力的だからだ。本書の最初の論文「『日本人』の成立」も「日本人とは何か?」を含む魅力的かつ難解なテーマではある。日本列島には稲作が始まる遥か以前から人間が居住していた。その人たちは日本人という意識はなかったと思われる。ひとが自分の所属を○○人と意識するのは他国の人、他言語を発する人を意識してからと思われる。中国の歴史書「三国志魏志倭人伝」に日本のことが倭、そこに住む人が倭人として紹介されている。当時の倭国の指導者は中国の皇帝から冊封されることによって自らの権力の正統性を確認し、被支配者層にも確認させたものと思われる。のちに大和王権も推古天皇のとき、聖徳太子が「日出ずる処の天子、日没する処の天子へ」と書簡を送り、日本列島にも中国大陸と同等の王朝=皇帝が存在することを宣言した。これを中国の皇帝政府がどう認識したか、正確には分からない。加藤典洋の本は難解ではある。しかしそれだけ私の知的好奇心を刺激してくれることは確かである。亡くなったのが惜しまれる。