4月某日
「孤塁-双葉郡消防士たちの3.11」(吉田千亜 岩波現代文庫 2023年1月)を読む。双葉郡とは福島県浜通りの郡の名で南をいわき市、北を南相馬市に接する。双葉消防本部は、広野町、楢葉町、富岡町、川内村、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村の6町、2村からなる双葉地方広域市町村圏組合の、組合事業の一つとして消防業務を行っている。本書は2011年3月11日に発生した東日本大震災と福島第1原発の事故に不眠不休で対応した消防士たちのドキュメントである。私はこの本を読むまで福島県南部の沿岸部で、震災時に多くの消防士たちの死を覚悟した救援活動があったことを知らなかった。あらためて医師や看護師、警察官や自衛官と並んで消防士その他のエッセンシャルワーカーに敬意を表したい。私は震災2カ月後に取材でライター、カメラマン、編集者と一緒に石巻に入った。仙台を早朝にカメラマンの運転するレンタカーで立ち、石巻の被災地や避難所を取材した。その後も気仙沼や山田町、そして本書に出てくる双葉郡を訪れたのだが、消防士たちの活躍を知ることはなかった。これはたぶん私だけの問題ではないと思う。戦災を含む災害の取材には情報の制約が付きまとう。取材者は限られた情報の中から一部を取り出して市民に情報を届けざるを得ない。その意味では著者の吉田が、災害後、数年たってからこの取材を始めたことは、災害の記憶をより深く留めることになったと思う。
4月某日
4月になって最初の日曜日。「天気晴朗なれども花粉多し」である。外出を控えてテレビと読書に専念する。BS1で六角精児の「呑み鉄本線日本旅」を観る。今回は新潟県に次いで造り酒屋が多い長野県を旅する。長野といえば蕎麦も有名、六角さんは蕎麦屋も訪れ、蕎麦とともに日本酒を堪能する。日曜日2時からはフジテレビでドキュメンタリー番組を観るのが恒例。今日は18歳で栃木から浅草のフレンチレストランに務めることになった女性の2年間を追った。結局、彼女はレストランを辞めてしまうのだが、私の20歳の頃を想うと「しかたないよ。またがんばりな!」と声を掛けたくなってしまう。
「花粉症と人類」(小塩海平 岩波新書 2021年2月)を読む。今年の花粉の飛散量は去年の10倍とか言われている。イングランドの牧草花粉症、アメリカのブタクサ花粉症と日本のスギ花粉症はあわせて世界の三大花粉症といわれているらしい。米英をはじめとした先進国の花粉症研究の紹介が手際よくなされている。そのうえで「ヴィクトリア朝後期はイギリスの上下水道が整備された時期であり、環境衛生が向上して感染症や寄生虫が減ったこと、また富裕層における牛肉や羊肉、ミルクやチーズの摂取量が増え、免疫に関するタンパク質量が増加したことなども、花粉症患者増大の引き金となったはずである」と述べている。要するに文明化が花粉症患者増大の一因という考え方だ。私は深く共感する。私の考えではコロナも武漢郊外の森の深くに潜んでいたウィルスが、開発を要因として人類と接触したのが地球規模の大流行の始まりではないか。自然との共存、人類以外の生きものとの共存が今こそ求められている。
4月某日
「日本神話はいかに描かれてきたか-近代国家が求めたイメージ」(及川智早 新潮社 2017年10月)を読む。明治維新により政権は徳川幕府から新政権へ移行した。新政権の頂点には幼い明治天皇が就いたが、政権としては支配の正当性を明らかにする必要があった。教育現場でも江戸期には顧みられることのなかった「古事記」「日本書紀」の神話が天皇の国土統治の由来を説くものとしてとりあげられることとなった。その際、多くの国民にイメージを提供したのが画像である。著者は主として戦前期の教科書や商品パンフレットに残された画像を収集、分析して解析を加えている。イナバのシロウサギ伝説は記紀に由来するが、この物語でシロウサギに騙されるワニとは何を指すのか。2説があって日本には生息しない熱帯由来の鰐なのか、あるいは鮫や鱶の類いなのか。著者は「ワニという概念は、鰐であり、鮫であり、海蛇であり、龍であったといえよう。つまり、それらすべてを含む、水に棲む威力のある想像上の存在を指示する語としてあったとするべきである」と断言する。ワニが現実の生物である鰐か鮫であるかを議論するのは「近代的合理主義」というのである。私は著者の見解に賛成である。
4月某日
「無限の玄/風下の朱」(古谷田奈月 ちくま文庫 2022年9月)を読む。古谷田奈月は我孫子出身。というわけで最新作の「フィールダー」も読んだけれどあまりよく理解できず。「無限の玄」は文庫の裏表紙のコピーによると「ブルーグラスバンド『百弦』のリーダーにして一家の長である宮嶋玄は、家でひとりで死んだにもかかわらず、なぜか毎日蘇っては死に続ける。その不条理な繰り返しに息子たちは蝕まれていく」、「風下の朱」は同じく「魂の健康を求めて野球部を作ろうとする侑希美さんの下に集まった私たちは、しかし理想と現実の間で葛藤する」となっている。「無限の玄」の登場人物は男性だけ、「母の不在」もテーマか。一方、「風下の朱」は女子大が舞台だけに女性だけが登場する。こちらは「男性性の不在」がテーマか。というかむしろ「女性性」とは何かに迫っているような気もする。しかし著者の野球の知識は半端ではない。
4月某日
「丸の内線療法少女ミラクリーナ」(村田沙耶香 角川書店 2020年1月)を読む。表題作を含め4編の中編小説が掲載されている。表題作は小学校3年生から魔法少女ミラクリーナに変身できるようになった30代の女性会社員茅ヶ崎リナが主人公。もちろん実際に変身することなど不可能なのだが、リナは変身を装うことにより難関を回避してきた実績がある。たとえば急な残業を頼まれたときも、秘かにミラクリーナに変身し笑顔で残業を引き受ける。小学校以来の変身仲間のレイコの同棲相手も変身ゲームに加わることになるのだが。村田沙耶香は性の問題に取り組んできた小説家と思うが、この表題作に限りセックスの話は後景に退く。一種のよくできたドタバタ劇として私は読んだのだが、それはそれで快適な読後感であった。他の3つの中編、「秘密の花園」「無性教室」「変容」は著者が年来のテーマとする性が主題。表題作を含め「クレイジー沙耶香」の面目躍如ということか。古谷田奈月は我孫子市出身だが、村田沙耶香は我孫子市の東北に位置する印西市の出身である。
4月某日
「マルクス-生を呑み込む資本主義」(白井聡 講談社現代新書 2023年2月)を読む。白井聡は1977年生まれの政治学者なんだけど、本書を読むと白井のフィールドは政治学に止まらずもっと広い。本書ではマルクスの思想を「経済学哲学草稿」「共産党宣言」「経済学批判」「資本論」などの著作から拾い上げ、現在の日本や世界の動向を考えながら解説している。「はじめに」で「資本主義は近代文明社会を築き上げたが、その資本主義のメカニズムによって文明に終止符が打たれようとしている」とし「このメカニズムを最初に見抜き、徹底的に解明したのがマルクスだった」としている。マルクスの思想の淵源はヘーゲルにある。マルクスはヘーゲル左派のフォイエルバッハを批判することによって宗教一般の批判、さらに資本主義批判を行う。「資本主義社会では労働力が商品化され、労働過程とその生産物が利潤追求の道具となるために、働く者は自らの労働の主人公でなくなってしまう」のだ。マルクスは、「人間による人間の支配がある限り、それは本来の意味での人間社会ではない」「その支配がなくなったときはじめて、人間の本当の意味での歴史が始まる」とし、「共産主義社会とは、そのような支配なき社会を指すものだ」とする。共産主義を目指す政党や組織はそこのところを本当に理解しているのだろうか。