7月某日
「八日目の蝉」(角田光代 中公文庫 2011年1月)を読む。以前、NHKのドラマを観て面白かったので小説も読むことにした。ドラマよりももっと面白い。さすがに角田光代である。不倫相手の子を妊娠した希和子は不倫相手の強い希望で中絶する。その後、不倫相手の妻の妊娠出産を知る。希和子は不倫相手の家から乳飲み子を盗み出す。逃避行を続ける希和子と赤ん坊。2人は小豆島に安住の地を見出すが…。希和子と希和子の名づけた薫は、ある写真コンクールをきっかけに父親に発見され、希和子は逮捕され刑務所へ。薫は実の親の元に返される。実の親と馴染まない薫は、大学入学を機に都内で一人暮らしの生活を送る。そして妻子ある男性と不倫の末に妊娠する。出産を決意する薫。妊娠出産小説とも不倫小説とも言えるが、私は希和子と薫の自立していく過程を描いた小説として読めた。タイトルは蝉は長い間地中にいて、地上に出ても七日しか生きられないが、「八日目の蝉は、ほかの蝉が見られなかったものを見られるんだから」と思うところからとられている。
7月某日
午前中に床屋さんへ。帰りに我孫子駅近くの日高屋で「冷麺」。ここは「冷やし中華」と冷麺があって「冷麺」は韓国風、660円(税込み)。図書館で読書、3時から手賀沼歯科で検査、レントゲン検査で口の中にフィルム(?)様のもの突っ込まれる。歯科衛生士の若い女性は「ごめんなさいね」と言いながら容赦なし。手賀沼歯科から徒歩5分でマッサージ店「絆」へ。電気15分、マッサージ15分。帰宅。
7月某日
「二人キリ」(村山由佳 集英社 2024年1月)を読む。1936年5月の阿部定事件をモデルにした小説。14歳の頃、幼馴染の兄に無理やり処女を奪われた定は、それをきっかけに家の金に手を付け遊びまわる。手を焼いた親は定を芸者に出す。芸者と言っても芸のない定は客と売春するようになり、やがて妾や私娼を生業にするようになる。料理屋で住み込みの女中として働くようになった定が出会ったのが料理屋の主人、石田吉蔵である。阿部定の評伝小説として読むことも出来るが、私はそう読まなかった。時代とともに生きた女性を狂言回しとした小説とでもいえばよいか…。この小説の狂言回しはもう一人いる。1967年、旧吉原近くで小料理屋を営む定を訪ねてくる脚本家の吉弥である。石田吉蔵には妻と愛人の定以外にも芸者の妾がいた。妾の子が吉弥である。小説の最後で定が吉蔵の墓に参るシーンがある。定はそこに吉蔵を幻視する。吉蔵から声を掛けられる。
「……。お定、さん?」
呼びかけられて我に返った。
波多野吉弥だった。
定は吉蔵はじめ多くの男と性交を繰り返す。しかし、何よりも定は時代と寝た女のような気がする。
7月某日
本日、12時から手賀沼健康歯科で口腔ケアがあるので、朝食は抜く。歯医者の前にマッサージ「絆」へ。本日は長男が休みなので車で送って貰う。「絆」の後、向かいの京北スーパーへ。今朝のチラシに15%の割引券が付いていたのでウイスキーを購入。ウイスキーをリュックに入れて手賀沼歯科へ。ここは担当の歯科衛生士が決まっていていつも同じ歯科衛生士が担当してくれる。私の担当歯科衛生士は群馬県出身で前橋の歯科衛生士の専門学校に通ったそうだ。口腔ケアを受けて感じるのは歯科衛生士って繊細な技術も必要だが、結構な力技でもある。手賀沼歯科の向かいのウエルシアの駐車場まで迎えに来てもらう。
7月某日
「超人ナイチンゲール」(栗原康 医学書院 2023年11月)を読む。ナイチンゲールってこどもの頃に絵本で「クリミア戦争で献身的な看護をした」とか「看護学の基礎を確立した」
程度の知識しかないんですけど。でも著者がアナキズム研究の第一人者、栗原康だからね。ナイチンゲールは1820年、両親がヨーロッパ大陸を新婚旅行中にイタリアのフローレンスで生まれる。当時、ヨーロッパを新婚旅行するくらいだから、両親とも上流階級の家に生まれた。こどものころから利発で本を読むのが好きだった。24歳のとき、看護婦になることを決意するが、当時の看護婦には「汚らしい、賤しい仕事というレッテルが貼られていた」。カトリックの多いフランスやイタリアではシスターの伝統が残っていて、修道院で看護のための専門的な訓練を受けていた。イギリスはプロテスタントだから修道院がつちかってきた看護の伝統がないのだ。同じ頃イギリスに亡命していたマルクスやエンゲルスが見たのもそうした「イギリスにおける労働者階級の状態」だったのだろう。もうひとつナイチンゲールが見たのは当時の男女差別の実態だ。男性は結婚によってすべてを得るが、女性が得る者は何もないといっているそうだ。「次のキリストはおそらく女性だろうと私は信じている」という言葉も残している。ナイチンゲールを精神病とした伝記作家もいた。栗原は「精神病だったとしたら、統合失調症的なものだったのだろう」とする。そして統合失調症…縄文時代、狩猟採集民、時間の先どり、徴候。うつ病…弥生時代、農耕民、直線的な時間、計算可能性、執着気質。と図式化する。私は「うつ病」体質だが、確かにそんな気もする。
7月某日
東京都知事選挙。小池知事が3選を制する。2番目に得票が多かったのが石丸候補。京都大学を卒業して銀行に入り安芸高田市長に。私は千葉県民で都知事選に投票権はない。しかし新聞、テレビが大騒ぎするのでつい関心を持ってしまう。石丸氏は今後の身の振り方聞かれて「広島1区から衆院選を目指そうかな」と語っていた。岸田首相の選挙区である。その意気や良し、と私は思うのである。
7月某日
「ひとびとの足音」(司馬遼太郎 中央公論新社 2009年8月)を読む。司馬は1923年生まれ、私の父母と同世代だ。1歳下の24年生まれが吉本隆明、2歳下の25年生まれが三島由紀夫である。ところで足音の足の字は恐の上の部分に足がつくのが正しいのだが、私のパソコンでは出てこないので足音と記す。「ひとびと」とは市井の人々ということだと思う。主要な登場人物は二人。正岡子規の死後、子規の妹の律の養子となった忠三郎、そして忠三郎が進学した仙台の二高で親友となった西沢隆二。西沢隆二は後に日本共産党の幹部となり、検挙されたが獄中非転向を貫き、敗戦後、釈放された。西沢は戦後も日本共産党の指導的な地位にあったが、除名されている。忠三郎は京都帝大の経済学部へ進学、卒業後に阪急電鉄に就職、電鉄の車掌やデパートの販売員も経験している。西沢は戦前からプロレタリア文学運動にかかわり、戦後は歌声運動などを指導した。私は学生時代、ゲバルト学生であったから、当時の日共、民青を「歌と踊りの民青」とバカにしていた。しかし本書を読むと、
西沢は「コミュニズムでもって革命をおこした場合、ブルジョア民主主義のもっともすぐれた遺産である個人の自由と解放を継承しなければ、革命された社会は単なる統制主義になるだけだ」という思想を抱いていたとある。これは旧ソ連や中国や北朝鮮の社会主義思想=スターリン主義とするどく対立する思想である。