モリちゃんの酒中日記 12月その2

12月某日
「ナチュラルボーンチキン」(金原ひとみ 河出書房新社 2024年10月)を読む。ナチュラルボーンは「生まれつきの」、チキンは「ニワトリ」ではなく俗語の「臆病モノ」という意味である。主人公の浜野は45歳独身の×1女性。出版社の文芸図書の編集部に在籍していたが、同業者との離婚を機に経理担当となり、「仕事に動画とご飯」がルーティンとなる。浜野はある日、部長から在宅勤務の平木と連絡をとれないので様子を見て来てくれないかと頼まれる。ホストクラブに通いロックグループのコンサートに入れあげる平木の日常は、浜野の「仕事と動画とご飯」とは全く異質のものだった。浜野は平木に誘われてロックコンサートへ行き、バンドの打ち上げにも参加する。そしてそこで出会ったバンドのメンバー、まさかと恋仲になるのだが…。金原ひとみは1983年生まれ、私と35歳違う。出てくる用語も私には意味不明な横文字も多い。それでも私にはこの物語が面白かった。柄谷行人が言っていたと思うが、中上健次や村上春樹以降の「新しい文学」の世界があるように感じられるのだ。

12月某日
目が覚めると喉が痛い。体の節々も痛い。体温を測ると平熱であった。念のため名戸ヶ谷我孫子病院へ行く。アビスタ前からバスに乗って4つ目の市役所前で降りると病院のすぐ前に着く。内科外来で3時間待って診察は5分。たんなる風邪だった。まぁ採血や採尿、CTで肺も撮影してもらったし、いい機会とゆうことで。市役所前からバスに乗って若松で下車、調剤薬局のウエルシアで調剤。ウエルシアから徒歩で自宅へ。朝から何も食べていなかったので、妻にうどんを作ってもらって食す。

12月某日
テレビでクリントイーストウッド主演、監督の「グラントリノ」を観る。実はこの作品は2度ほど観ているのだが、いつも途中から。今回初めて最初から観る。「グラントリノ」というのはフォード社の制作した1970年代の乗用車。燃費が悪く現代向きではないということでは主人公のコワルスキーを象徴している。コワルスキーの住む町にベトナムから脱出したモン族が住み着くようになる。モン族の少年との淡い友情が描かれる。少年の姉がモン族の不良に凌辱され、コワルスキーは立ち上がる。コワルスキーは死に、グラントリノはモン族の少年に遺贈される。コワルスキーはポーランド系移民の末裔で宗教はカソリック。アメリカ社会では少数派である。トランプの大統領再登場でアメリカ社会の分断が強化されるという予測も根強い。「グラントリノ」はアメリカ社会における少数派、ベトナム難民の少年とポーランド移民の末裔のカソリックの老人の友情を描いたという観方もできる。

12月某日
「ナチズム前夜-ワイマル共和国と政治的暴力」(原田昌博 集英社新書 2024年8月)を読む。第1次世界大戦でドイツが敗北し、ワイマル共和国が成立する。やがてナチスが台頭しワイマル共和制は崩壊する。本書は当時、ドイツの街頭や酒場で起きていた「暴力」に着目し、それが共和国の政治や社会を蝕んでいった過程をひもとくことによって答えを探る。この時期のドイツ政治の特徴のひとつは街頭での政治的暴力である。主として共産党とナチスが時に死者を出しながら激しく戦った。私は日本において1980年代から顕著になった革共同革マル派と中核派の内ゲバを連想してしまう。こちらの場合は多数の犠牲者を出しながら暴力的な衝突は一応は終息したようだ。

12月某日
「消費される階級」(酒井順子 集英社 2024年6月)を読む。著者の酒井順子は「負け犬の遠吠え」(2004年)が出世作となったエッセイスト。私は酒井の著作を読むのは本作がはじめて、おおむね酒井の考えに同意できた。例えば「結婚する人が減り続け、そうして日本の人口が減っていくのは、制度上の平等と精神的平等の乖離から日本人が眼を逸らし、放置し続けているから」というくだり。「制度上の平等と精神的平等の乖離」ね。確かに私の在職していた会社も日本の多くの職場にも男女の「制度上の平等」は保障されていた。しかし「精神的平等」はどうか? おそらく精神的な平等はまだのような気がする。

12月某日
「坂の中のまち」(中島京子 文藝春秋 2024年11月)を読む。北陸の高校から東京の女子大に進学した私は、茗荷谷の志桜里さんの家に下宿する。私と志桜里さんの日常が淡々と描かれる。私の学生時代というと50年以上前だが、学生運動が盛んな時代で、学生同士の暴力事件が日常的に起きていた。とても「淡々と」してはいなかった。しかし今にして思うと「坂の中のまち」に描かれるような日常が正しいのだと思う。