モリちゃんの酒中日記 10月その1

10月某日
「日本終戦史 1944‐1945-和平工作から昭和天皇の「聖断」まで」(波多野澄夫 中公新書 2025年7月)を読む。著者の波多野は巻末の略歴によると、1947年生まれ、72年慶大法学部卒、79年同大博士課程修了。防衛研修所戦史部勤務を経て、筑波大助教授、同教授、副学長となっている。こう見ると順調に学問の世界を歩んできたように見えるが、ウイキペディアで調べると印象は少し違う。ウイキペディアによると、波多野は66年に岐阜県立岐南工業高校卒、防衛大学校入校、68年同校退学、慶大法学部政治学科入学となっている。工業高校からストレートで防大に入学しながら中退、慶大の政治学科入学というんだからかなりの「変わり種」であることは確かだ。さて本書は1941(昭和16)年12月、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争及びそれ以前から中国大陸で戦われていた日中戦争の終結のドキュメントである。敗色が濃厚になって以降、いろいろな終戦工作が行われるが、軍部とりわけ陸軍の納得が得られない。45年5月のドイツ敗北以降、連合国側はポツダム宣言の受諾を迫る。連合国側の条件は無条件降伏である。日本の当時の支配者は天皇制の維持に拘る。結果はどうか? 象徴天皇制ということで天皇制は維持された。しかし明治憲法でいう「神聖にして侵すべからず」という絶対主義的な天皇制は葬られる。昭和天皇は戦前からかなり立憲的な君主であったが、戦争の終結においては、「聖断」という非立憲的な手法を用いたと言えよう。

10月某日
「時代を超えて語り継ぎたい戦争文学」(澤地久枝 佐高信 岩波現代文庫 2015年7月)を読む。五味川純平、鶴彬、高杉一郎、原民喜、大岡昇平らの戦争文学について澤地久枝と佐高信が語り合う。鶴彬は戦前の川柳作家で、治安維持法違反で逮捕され、拘留中に死亡する。「手と足をもいだ丸太にしてかへし」「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」などの句が残されている。「シゲオ、戦争だけはダメだからね」というのは亡くなった私の母の言葉である。そういうこともあって私の反戦平和の気持ちは固い。ロシアのウクライナ侵攻にも、イスラエルのガザ侵攻にも強く反対です。

10月某日
「決定版 日中戦争」(波多野澄夫 戸部良一 松元崇 庄司潤一郎 川島真 新潮新書 2018年11月)を読む。波多野は先日読んだ「日本終戦史」の著者で、日本近代史とりわけアジア太平洋地域で戦われた太平洋戦争、日中戦争の専門家である。帝京大教授の戸部、防衛研究所の庄司との3人の研究会での討議がきっかけとなり、3人に中国史の川島東大教授、財政史の松元(元内閣府次官)を加えた5人による執筆。私にとって日中戦争は、主として日米戦争として戦われた太平洋戦争に比べると、今まで関心が低かった。しかし最近のロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるガザ侵攻のニュースを観るにつけ、武力による現状変更を憂慮するし、ウクライナやガザへの侵攻に日本の中国大陸侵略の姿が重なって来る。どのように侵攻が行われたか、巻末の年表から張作霖爆殺から南京陥落までをたどってみる。


1928年6月 張作霖爆殺事件。12月 蒋介石による北伐終了。
1932年9月 満州事変。12月 犬養毅内閣発足。
1932年1月 第1次上海事変勃発(停戦協定は5月)。3月 満洲国建国宣言 5月 5.15事件(犬養首相暗殺)。9月 日本が満洲国承認。10月 リットン調査団報告書公表
1933年3月 日本が国際連盟脱退。5月 停戦協定により満州事変終了。
1934年11月 共産党の根拠地・瑞金が陥落、共産党は「長征」に入る。
1935年1月 蒋介石が日中連携の必要性を訴え、広田外相も中国に対する不侵略唱える。5月 日中が大使交換。11月 汪精衛が行政院長兼外交部長を辞任。上海で海軍特別陸戦隊の水兵が射殺される。反日感情からの日本人襲撃事件が相次ぐ。
1936年2月 2.26事件(高橋是清大蔵大臣暗殺)。12月 西安事件(張学良が抗日救国を訴え蒋介石を拘禁)。
1937年6月 近衛文麿内閣発足(外相は広田)。7月 盧溝橋事件(日中戦争の始まり)。8月 上海の海軍特別陸戦隊の士官と水兵が殺害。武力衝突開始(第2次上海事変)。日本との武力衝突の進展を受け「国共合作」が進む。11月 日本軍が上海を制圧。蒋介石が重慶への首都移転を発表(翌年12月、重慶国民政府発足)。12月 南京陥落。南京事件。

10月某日
「蝙蝠か燕か」(西村賢太 文藝春秋 2023年2月)を読む。私小説作家の西村賢太がタクシーの中で意識を失い、病院に搬送後に亡くなったのが2022年2月5日。本書には表題作を含めて3作がおさめられている。表題作の「蝙蝠か燕か」の初出が「文学界」の2021年11月号だから、これは遺作と言ってもいいだろう。主人公の北町貫太、彼は西村賢太の分身でもあるのだが、が慕う戦前の私小説作家藤澤清造をめぐる物語である。貫太の尽力により藤沢清造の文庫本は刊行されるが、貫太の願う全集の刊行はままならない。放埓ともいえる西村の私生活、そして藤澤清造への熱い思いが語られる。西村がすでに亡いことを想うといささかジンとする。

10月某日
室蘭東高首都圏同窓会に出席。17時に「すし土風炉銀座1丁目店」に集合。女子4人含めて20人ほどが集まる。日本女子大に進学して現在は京都に住む中島さんや、新百合ヶ丘でブルーベリーの栽培など都市型農業を営んでいる女性(名前を失念!)、そして元スキー部の中田さんなどが出席。珍しい人では中学を卒業後、東京に引っ越した豊田君。彼は中学の頃から秀才だったが、東京工大に進学後、新日鉄に入社したそうで、引退後は唐津に住んでいるそうだ。北海道から岩淵君と歯医者をやっている柴田君が参加、北海道の銘菓を持ってきてくれた。9時過ぎまで呑んで食べてしゃべっているうちに時間が来たので散会。私は我孫子在住の坂本君と有楽町から上野へ。上野からちょうど成田線直通の快速が来たので乗車。私は我孫子で下車、坂本君は湖北まで。