10月某日
「宰相鈴木貫太郎の決断-「聖断」と戦後日本」(波多野澄雄 岩波現代選書 2015年7月)を読む。波多野は近代日本政治史専攻で筑波大学名誉教授。最近、この人の著作をよく読む。この本は太平洋戦争末期の昭和20年4月に首相となり、ポツダム宣言を受諾した鈴木貫太郎の言わばドキュメントだ。鈴木は戦争の現状を敗北は明らかと認識していた。この認識は近衛文麿や外相を務めた東郷茂徳とも一致していた。しかし内閣や軍部をどのように敗戦に導くかは、鈴木にとって極めて厳しい難問であった。当時、主要な艦船を失っていた海軍に比べると陸軍の本土決戦論は当時の日本の支配者層、一般国民に支持を得ていた。鈴木はときに本土決戦を主張しながら、注意深く敗戦の道を探っていく。鈴木を後押ししたのは昭和天皇の終戦への思いであった。6月22日の御前懇談会で天皇から「…戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げ、その実現に努力することを望む」との「御言葉」があった。さらにポツダム宣言についても「連合国側の回答の中に「自由に表明されたる国民の意志」とあるのを問題にして居るのであると思うが、それは問題にする必要はない。若し国民の気持ちが皇室から離れて了って居るのなら、たとえ連合国側から認められても皇室は安泰ということにはならない。…」(木戸陳述録)と述べている。終戦に至る昭和天皇の言動は実に興味深い。自身は明治憲法に謳われている立憲君主であろうとするのだが、戦争末期に至って終戦のイニシアチブをどの勢力もとることができず、結局は天皇の「聖断」という非立憲的な手法に頼らざるを得なかったのだ。
10月某日
市ヶ谷のルーテルセンターの「荻島良太サキソフォンリサイタル」に行く。18時30分の開場に合わせて行くと川邉さんがすでに来ていた。荻島良太さん川邉さんと厚生省入省同期の荻島國男さんの長男。荻島國男さんとの同期は川邉さん以外にも厚労省の次官を務めた大塚さんや内閣府と厚労省の次官を務めた江利川さん、宮城県知事になった浅野さんら個性的な人が多い。年金局の資金課長に江利川さんの次になったのが川邉さんだ。資金課というのは年金の積立金を管理するのが主な仕事で年金福祉事業団(当時)も監督していた。私は年金住宅融資を貸し付けていた年金住宅福祉協会や社会保険福祉協会から仕事をもらっていたから年金局資金課とも付き合いがあった。私が年友企画の前に勤めていたのが日本プレハブ新聞社で、社名通りプレハブ住宅業界の専門紙であった。今から半世紀近く前の話しである。当時は今と違って資金不足の時代で、銀行は産業金融に力を入れる一方、個人金融、住宅金融には目を向けていなかった。そうしたなか住宅金融はもっぱら、政府系金融機関の住宅金融公庫が担っていた。厚生年金の積立金を原資にした年金住宅融資も存在してのだが、事業主を通して借りる事業主転貸だったため利用者は少なかった。事業主に代わって被保険者に融資したのが年住協などの転貸民法法人だ。そこから厚生省との長い付き合い始まったわけで、荻島國男さんにも大変、お世話になった。良太さんのリサイタルにも顔を出さないわけにはいかないのである。
10月某日
「決定版 大東亜戦争(上)(下)」(波多野澄雄等 新潮新書 2023年7月)を読む。1945年8月、日本は米国を中心とする連合国に敗れた。この戦争をどう呼ぶか、論争があったようだ。これについては第13章「戦争呼称に関する問題-「先の大戦」を何と呼ぶべきか」(庄司潤一郎)が詳しい。真珠湾攻撃後の1941(昭和16)年12月12日、閣議で支那事変を含めて大東亜戦争と呼ぶことが正式に決定された。終戦後、GHQから「八紘一宇」などとともに「大東亜戦争」の呼称は禁止され、「太平洋戦争」という呼び方が定着していく。しかし太平洋戦争という地理的に限定された言い方では中国大陸や東南アジアでの戦いや、ソ連軍との戦闘を表現しきれないという問題があった。昭和6年の満州事変から同20年の終戦まで時間的にとらえた「15年戦争」、中国大陸、東南アジア、太平洋と戦争を空間的にとらえた「アジア・太平洋戦争」という呼称もある。本章の最後で庄司は「結局のところ、戦争肯定という意味合いではなく、相対的に最も適切な呼称は、原点に戻って、「大東亜戦争」に落ち着くのではないだろうか」としている。本書を読んで感じることは、開戦への意志決定が当時の首相であった東条英機の強いリーダーシップとは言えず、まして昭和天皇の意向を汲んだものとも言えない。当時、ドイツの猛攻にさらされていた英国が敗れ、ソ連は日ソ中立条約によって参戦しない、という楽観論に支えられていたと言うしかない。言葉を替えるとそうした「空気」に流されてしまったとも言える。近現代の戦争は軍事力だけでなく経済など国の総力を挙げた総力戦として戦われる。米国を中心とした連合国に日本は敵うべくもなかったわけである。
10月某日
「縄文-革命とナショナリズム」(中島岳志 太田出版 2025年6月)を読む。戦後の日本社会に縄文という時代が、どのように影響を及ぼしたかを考察している。取り上げられているのは岡本太郎や民芸運動、吉本隆明と島尾敏雄、太田竜に上山春平と梅原猛。縄文時代に日本の原点があるという発想である。そして縄文文化が色濃く残っている文化としてアイヌと琉球の文化に着目し、アイヌ文化、琉球文化ではそれぞれ太田竜、吉本隆明と島尾敏雄に言及される。太田竜って現在はほとんど顧みられることはないが、私の学生時代(今から50年以上前の話し)は過激派の理論的指導者のひとりとして新左翼系の雑誌に論文を寄稿していた。平岡正明と竹中労と3人で「世界革命浪人」を名乗っていた。プチブル化した先進国の労働者は革命の主体となりえず、釜ヶ崎や山谷の日雇い労働者、沖縄人やアイヌ、被差別部落民、在日朝鮮人などが革命の主体となるべきと訴えた。縄文時代に日本列島はもちろん存在したが、日本という国はなかった。米作りもまだ日本列島には到来せず、基本的には狩猟採取の生活だった。北海道のアイヌの人たちも狩猟採取を主とした生活であった。太田竜は確か「辺境最深部へ退却せよ」という著作などによって、彼の考える日本革命の主体となるべき人に訴えた。当時、過激な爆弾闘争を展開した反日武装戦線などにも彼の思想が影響したとされる。それはさておき、日本文化の古層に縄文があるという発想は大変興味深いものがある。
10月某日
「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史」(瀬川拓郎 ちくま新書 2016年2月)を読む。中島岳志の「縄文」が面白かったので図書館で瀬川の著作を2冊借りた。私は北海道室蘭市で18歳まで育ったが、北海道の歴史についてはほとんど無知。この本を読んで少しは無知が解消されたように思う。近年、北海道でも縄文時代の巨大な土木遺跡が発掘されている。たとえば、苫小牧市の静川遺跡は区画の長さ140ⅿ、環濠の幅3ⅿ、面積は1500㎡にもなり、千歳市のキウス周堤墓群は全体を土塁で囲った共同墓地が群集しているが、土塁の直径は最大のもので75m、深さは5m以上だ。最大の周庭墓の土塁の土量は3400㎥、10tダンプで600台以上に相当する。瀬川は「おそらく数十人ほどのひとびとがこの工事にほとんど専従、つまり食糧の調達にわずらわされることなく工事に従事していた可能性が高い」とし「縄文社会は、そのような余剰の蓄積と「扶養」も可能な、高い生産力のポテンシャルをもつ社会だったのであり、その意味ではたしかに「豊かな社会」といえる」と述べる。本書では津軽海峡以南の日本列島は縄文文化から弥生文化に移行したとされるが、北海道では縄文文化が継続し、それを担ったのがアイヌとしている。「大陸からの渡来人と縄文人が混血して本土日本人が形成され、周縁の琉球と北海道には渡来人の影響が少ない人びとが残った」(人類学者の埴原和郎の二重構造モデル)という。アイヌは早くから和人と交易し、畑作もやっていた。アイヌは狩猟採取を主として行い、農耕には従事していなかったというのは私の先入観にすぎなかったようだ。
10月某日
「アイヌと縄文」に続いて同じ瀬川拓郎の「縄文の思想」(講談社現代新書 2017年11月)を読む。私は北海道出身と言っても18歳のときに上京しているから、北海道と縁が遠くなってから60年になる。本書を読んで北海道やアイヌ、縄文人のことが少し知ることができた。本書によると、縄文人は北海道から沖縄にかけて日本列島のほぼ全域に住んでいた。この縄文人と朝鮮半島から渡来人が混血し、現代の本土人の直接的な先祖である弥生人になった。北海道の縄文人は肉食主体で植物食を多く取り入れていた本州の縄文人と異なり、北海道の縄文人には虫歯が少ないそうだ。遺跡からはヒラメやメカジキの骨も出土して、彼らの食生活も想像させる。ヒラメやメカジキは沖合の水深200メートルほどの海域に生息することから、彼らの造船、操船の技術の高さがうかがえる。本書では海民、アイヌ、南島の伝説と古事記などを比較している。私の故郷にもアイヌの伝説をもとにした地名があった。小学校の近くにイタンキ浜という海浜があった。昔、アイヌがイタンキ浜の近くにあった岩を鯨と見誤り、焚火をしながら鯨が流れてくるのを待った。最後にはお椀(アイヌ語でイタンキ)さえも燃してしまったが鯨は来ずに、アイヌは餓死してしまったという説話だ。瀬川という人は考古学や歴史学の文献だけでなく、柄谷行人や網野善彦、宮本常一、渡辺京一らの本も参照にしている。大杉栄とともに虐殺された伊藤野枝のことにも触れている。考えてみると縄文の社会は共産主義、無政府主義の社会とも近いのかもしれない。
