社長の酒中日記 8月その3

8月某日

「資本主義の終焉と歴史の危機」
「資本主義の終焉と歴史の危機」

「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫 集英社新書 14年3月)を読む。水野が着目するのは「利子率の低下」である。日本の10年国債の利回りは1997年に2.0%を下回り2014年1月末時点では0.62%、米、英、独の10年国債も金融危機後に2%を下回り、短期金利の世界では事実上ゼロ金利が実現している。利子率=利潤率の著しく低い状態の長期化は、企業が経済活動をしていくうえで設備投資を拡大していくことができなくなったということに等しいと水野は言う。そして「利潤率の低下は、裏を返せば、設備投資をしても、十分な利潤を産み出さない設備、つまり「過剰」な設備になっている」ことを意味しているとし、これは「長い16世紀」におけるジェノバの「「山のてっぺんまでブドウ畑」に21世紀の日本は「山のてっぺんから地の果てまで行きわたった」ウォシュレットが匹敵するという。
「利子率の低下」とともに水野が着目するのが「価格革命」である。これも「長い16世紀」には燕麦、麦芽は7~8倍、小麦は6.5倍と高騰している。ひとつは人口の増加であり、従来別個の経済圏だった地中海圏と英蘭仏独と東欧圏の経済圏の統合だと水野は見る。ヨーロッパ経済圏の統合と人口増大によって、供給に制限のある食糧需要が非連続的に高まった。こうした「長い16世紀」の「価格革命」に対して「長い21世紀」の「価格革命」は資源価格、とりわけ原油価格の高騰としてあらわれている。結論を急ごう。結局、水野は資本主義はその誕生以来、少数の人間が利益を独占するシステムであったと結論する。そして水野はこの「歴史の危機」を直視して、資本主義からのソフト・ランディングを求めるように提言する。水野の言説には説得性があると思われる。だからこそこの本がベストセラーとなったのだろう。しかしわれわれには、ソフト・ランディングすべき地面が未だ見えてこないのだ。

8月某日

「信用金庫の力」
「信用金庫の力」

図書館から借りていた「信用金庫の力」(岩波ブックレット 12年9月)を読む。城南信用金庫の吉原毅理事長が執筆したものだ。「資本主義の終焉と歴史の危機」では、世界経済システムが一大転換期にあることを歴史的な低金利から証明しようとしたものだが、本書もまた株式会社に支えられている資本主義の危機を述べ、協同組合運動と地域金融の意義について語っている。信金という金融機関を「銀行の小さいヤツ」くらいにしか認識してこなかった私としては「目からウロコ」が落ちる思いであった。著者は慶応大学の経済学部を77年に卒業、いくつもの就職試験に落ちた後、地元の城南信金に就職する。そこで出会った城南信金及信金業界全体のリーダーだった小原鐵五郎との出会いが現在の城南信金と吉原を支えている。
著者は市場経済を野放しにしておくと「お金」の暴走が始まり貧富の差が拡大するとして、市場経済原理主義ではなく「人を大切にする社会の構築」を説く。そのためには効率のみを重視するのではなくコミュニティの要素も重視しなければならないという。ここでいうコミュニティとは「出会い、共感、感謝、感動、理想、文化、学び、発展」などがある存在と著者はいう。非常に共感できるし、事実、城南信金は3.11の福島原発の事故を受けて「原発に頼らない社会」を追求することになる。この挑戦の結果はまだ出ていない。しかし著者と城南信金の勇気と危機感には注目していきたい。

8月某日
多田富雄の「春楡の木陰で」(集英社文庫 14年5月)を読む。多田富雄は世界的な免疫学者として高名だが、医学生の頃は医学の勉強そっちのけで江藤淳らと同人誌を出す文学青年だった。その一方で現代創作能の作家でもあり、鼓の名手としても知られる。01年に脳梗塞を患い、右半身の自由と声を失う。本書は前半が日本の大学院を終えた後、アメリカ中西部のデンバーに留学した日々を綴ったもので後半はリハビリ生活とそれを支えた内科医でもある妻のことが描かれている。多田という類まれな感受性の持ち主とそれに出会う様々な人々のことが飾らない文章で描かれる。

8月某日
引続き多田富雄の「寡黙なる巨人」(集英社 07年7月)を図書館で借りる。「あの日を境にしてすべてが変わってしまった」と多田は語り始める。「あの日」とは脳梗塞を発症した日であり、それは多田が67歳の誕生日を迎えて間もなくのことだった。私も4年前脳出血で倒れ、急性期病院と回復期のリハビリ病院併せて3か月の入院を経験している。しかし多田の本を読んで思うのは、闘病経験など軽々しく人にいうものではないなということだ。多田はかなりの重度の左半身の麻痺が後遺症で残り、一時はリハビリの甲斐あって独力で歩行することも可能になったのだが、前立せんがんの手術の予後療養で足の筋力が低下し、以後、車いす生活を余儀なくされる。半身まひと同時に声も失うが、こちらのほうも言語療法が成功したとは言えず、喋れない状態が続く。多田は当初は自死も考えたという。それを思いとどめさせたのは一に内科医である妻の働きによるが、私には自らの病さえ、それを「寡黙なる巨人」と名付け、観察する多田の好奇心も大きく作用しているように思える。多田に比べれば私などまだまだということである。

8月某日
JR東日本の関連会社で東日本ライフサービスという会社がある。ここのI藤さんという常務は私の古くからの友人。どれくらい古いかというと、私が日本プレハブ新聞という業界紙に勤めていた頃からだから、かれこれ30年にはなる。当時、I藤さんはナショナル開発という住宅展示場の運営会社にいて、取材を通じて知り合ったのが最初。そのI藤さんが会社を退くことになったので今日は当時のI藤さんの同僚で今はフリーライターのK川さんとささやかな宴を神田の葡萄舎ですることにした。I藤さんは私の一つ上で早大を卒業後、北海道のテレビ会社に勤めた後、ナショナル開発へ。その後インドネシア旅行社という旅行会社やオーストラリアの大学の日本法人の事務局など、面白い仕事をいろいろとやっている。仕事は変わってお付き合いはずーっと繋がっている。なぜだかわからないがどこか気が合うのだろう。川村女子学園大学のY武副学長が合流。何の会だか訳が分からなくなったところで散会。

8月某日

「知の巨人」
「知の巨人」

「知の巨人-荻生徂徠伝」(佐藤雅美 講談社 14年6月)を図書館から借りて読む。佐藤雅美は好きな作家で図書館から借りて良く読む。ほとんどが江戸時代中後期を舞台にした時代物。だが今回は評伝。荻生徂徠は論語はじめ四書五経などの原典に忠実であろうとし、漢文の読み方も上から直接、読み下してㇾ点やかな交じり文は用いなかったという。佐藤雅美の時代小説も、小説はもちろんフィクションだが時代考証が厳密なのが特徴。その辺が荻生徂徠に共感したのかも。

8月某日

O橋さんチェコの美人留学生
O橋さんチェコの美人留学生

HCM社のO橋さんがチェコからの美人留学生を紹介するという。会社に来てもらうことにして名刺を交換する。カタカナでドヴォジャーコヴァ―・ヨハナと書かれた名刺をもらう。お茶の水女子大学の文教育学部でマンガ論の研究をしているという。日本語はペラペラで容姿はO橋さんの言うとおりなかなかの美人。何でO橋さんと知り合ったかというとO橋さんの地元の居酒屋で若い外国人の女の子2人が日本語で話し込んでいるのを見たO橋さんが「何で日本語で話しているの?」と声を掛けたのがきっかけだそうだ。もうひとりはブルガリア人で共通言語が日本語ということらしい。将来の希望は日本の出版社でマンガに関わる仕事をしたいと話していた。

8月某日

実家の近所。遠くに室蘭港
実家の近所。遠くに室蘭港

札幌出張に合わせて室蘭市の実家に寄る。実家には今年91歳になる母と社会保険労務士をやっている弟と弟の嫁さんが住んでいる。実家は室蘭市の絵鞆半島の先っぽにある。最も私が育ったのは父親の勤務先である室蘭工業大学のある水元町である。今の実家は室蘭市の海側、育ったところは山側ということだ。だから今の実家には愛着はないのだが、とにかく景色のいいところで私は気に入っている。91歳の母は耳が遠くなったぐらいで、ボケもせず介護保険の世話にもならず元気。100歳まで生きるかも知れない。夜は札幌の高校の同級生とその嫁さんたちが集まって歓待してくれる。

8月某日

トウモロコシとジャガイモの皮むきをする「さくらんぼの会」のみなさん
トウモロコシとジャガイモの皮むきをする「さくらんぼの会」のみなさん

本来の出張の目的である健康生きがいづくり開発財団の「生きがいづくりアドバイザー」の活動を紹介するDVDの撮影。ディレクターのY溝君、カメラマン、当社のH尾さんと大通公園で待ち合わせ。大通公園を撮影した後、旧道庁の赤レンガも撮影。昼食時となったが、清田区にあるアドバイザーのA石さん宅に直行。A石さん夫妻は「さくらんぼの会」を主催し、地域の高齢者向けに自宅をサロンとして開放しているのだ。今日はまずみんなでトウモロコシとジャガイモの皮むき。トウモロコシとジャガイモが茹で上がったところでみんなで食事。バターとイカの塩辛と一緒にジャガイモを食べる。これが意外と合う。昼食を摂らないで正解だった。サロンは月1回の開催ということだったがこういうサロンなら私も参加してみたいと思った。後で聞いたのだがこのサロンの中核となっているのはA石さんの奥さんのヘルパー時代の仲間たち。そういうのってちょいとうらやましい。私は札幌でHCMのM社長と「胃ろう・吸引ハイブリッド・シミュレータ」の委託販売先の「竹山」のS村さんと会うために地下鉄の駅までA石さんのご主人に車で送ってもらう。
東急インでMさんと打合せ。S村さんは6時に来ることになっているが、少し遅れて登場。東急イン地下の居酒屋へ。「ハイブリッド・シミュレーター」について意見交換。近くのオールデイズのスナックへ。パティ・ペイジの「テネシーワルツ」をリクエストすると画像とともにパティ・ペイジの歌声が流れる。

8月某日

三川屋の特上寿司
三川屋の特上寿司

Mさんと小樽へ。事業者を訪問した後、少し早いがお昼にする。Mさんが寿司屋横丁の三川屋さんに連れて行ってくれる。ここは歴史のある店で昭和の初期からあるらしい。特上寿司をご馳走になる。特上でも2000円とか2500円(Mさんに払ってもらったのでよく分からない)。三川屋さんは寿司専業ではなく焼肉などもやっている。東京だったら4~5000円はするのではないか。帰りに近くの食料品屋によって私はトウモロコシと「八角」の干物を買う。

8月某日

「世界史の中の資本主義」
「世界史の中の資本主義」

「世界史の中の資本主義-エネルギー、食糧、国家はどうなるか」(東洋経済新報社 水野和夫+川島博之 20013年)を読む。私たちが生きている21世紀は世界史的に見て大きな転換期にあるという。まずフロンティアを喪失した現在つまり新たな投資機会を失った資本主義は、貨幣が過剰となり金利は超低金利となる。次に歴史上初めて人口の増加が止まり食糧が過剰となってくる。歴史の進化なのか退歩なのかよく分からないが、人類は食糧の過剰という事態を迎えつつある。食糧だけではない。石油価格も現在は高騰しているが、シェールガス革命や代替エネルギーの開発により供給過多になってくとの予想もある。歳への人口集中と同時に少子化が進行する。人口減は世帯当たりの所得を増やす要因とはなるが,経済成長にはマイナスに働く。これからも我々は「未だかつてなかった」ような体験をしていくのであろうか。

8月某日

{雑魚や}の鱧の湯引き
{雑魚や}の鱧の湯引き

「へるぱ!」の取材で認知症ケアでユニークな取り組みをしている滋賀県守山市の藤本クリニックへ。藤本直規先生は認知症の患者を中心に据えたケアを展開しているが、詳細は10月発行の「へるぱ!秋号」を読んでほしい。いろいろ感心するところが多かったのだが、藤本先生が力を入れていることの一つが若年性認知症。若年性だけに仕事や生活のことなど難しい問題があるようだ。藤本先生はNPO法人をつくって若年性認知症患者の就労支援を行っている。袋詰め作業などやって患者は月1万円ほどの収入を得るという。たかが1万円だがされど1万円だと思う。若年性認知症で仕事を失った人が自らの労働により報酬を手にする。これは大きな励ましになるのではないかと思う。
守山から京都へ。編集者の当社のS田、フリーライターのS見も一緒。京都のホテルには元厚労省のA沼さんが迎えに来てくれる。S田とS見も誘ってA沼さんが予約していた店「雑魚や」(ざこや)へ。「ぐじ」や「鱧」をいただく。仕舞屋風のなかなかいい店だった。

8月某日
京都から神戸三宮へ。HCMの平田会長にお昼ご飯をご馳走になる。12時にJR三宮の中央口で待ち合わせ。私はその前に神戸市立博物館へ。ギヤマンの展示が行われていた。それに合わせて伊能忠敬の地図も併せて展示されていた。私は常設展で神戸の今昔を楽しませてもらった。お昼は「日本料理櫂」。明石の昼網の新鮮な魚介が売り。生ビールの後、燗酒を頂く。おいしいお料理だったが、経営上のアドバイスをいろいろ頂いたので、味わうどころではなかった。