12月某日
年末年始の休みが始まる。今年は9連休だが特に予定もないので、本を読んで過ごすことにする。我孫子駅前の書店で買った桐野夏生の「夜また夜の深い夜」(14年10月 幻冬舎)を読む。最近、読む本の大半は自宅から歩いて5分の我孫子図書館で借りる。桐野はベストセラー作家なので、図書館で借りるとなると何か月待ちとなる。で桐野の近著の「だから荒野」などは書店で買っている。主人公のマイコはナポリのスラムに日本人の母親と住んでいる。マイコには国籍がなく生まれたときから19歳の今に至るまでアジアやヨーロッパで転居を繰り返す。学校はロンドンの小学校に行ったきりで、その後は母親が日本から取り寄せた教科書使って教えている。ナポリに日本人が店長を務めるマンガ喫茶がオープンし、マイコはそこの常連となり日本のマンガに強く魅かれる。ここまでが物語の第一段階。第二段階はマイコが家出し、エリスとアナという2人の若い女性と邂逅し、行動を共にすることから始まる。エリスは内戦で肉親を殺され自身もレイプされ、そこから逃れるために殺人も犯す。アナも親に捨てられた過去を持つ。3人にはナポリに居ながらイタリア国籍も市民権もないという共通点がある。エリスがマフィアにレイプされたうえ殺されても対抗するすべがないのだ。しかしこの3人は人間としてのプライドと他者に対する優しさという感情を共有する。
グローバリズムが拡大深化し、格差は広がっている。そのとき国家は何をなすべきか、マイコら3人は国家、市民社会という後ろ盾がないままマフィアと争う。当然敗退し、エリスは殺されるのだが、3人の精神的な強いつながりは残る。アナは女の子を出産しその子にエリスと名付ける。マイコは南半球で名前を変えて母親と暮らす。新しい名前はエリスだ。
12月某日
図書館から借りた「愛に乱暴」(吉田修一 13年5月 新潮社)を読む。「夜また夜の深い夜」が無国籍の日本人を主人公にして外国を舞台にした、日本の小説には珍しい「グローバリズム」ノベルとすれば、「愛に乱暴」は東京郊外の高級住宅地を舞台とする伝統的な「ドメスティック」ノベルである。主人公桃子は夫と夫の実家の別棟に住む。ある日、夫は桃子と別れ恋人と再婚したいと告げる。わたしは小説を読むとき、登場人物の誰か(多くは主人公)に感情移入することが多いのだが、この小説の場合、桃子にも夫にも感情移入できなかった。わたしも男ですから桃子の夫が浮気する気持ちが分からないわけではないが、もうちょっとぴしっとしなさなさいよ、といいたくなる。夫の恋人が決して魅力的に描かれていないのもわたしには好感が持てる、というか夫の恋人が魅力的なら「それゃ無理ないよ」で終わってしまうものね。ドメスティックノベルではあるけれど、後期資本主義の日本で暮らす中産階級の家族の危機が良く描かれていると思う。そのなかで救いがあるとすれば近所のコンビニに務める外国人、李さんとの触れ合いと、パート先のサラリーマンが、今度独立するから一緒にやらないかと声をかけてくれたことだろう。桃子にも「家族」以外の社会とのつながりを残している点である。
12月某日
佐藤優の「功利主義者の読書術」(新潮文庫 平成24年4月)を読む。小説新潮に連載されたものをまとめたもので09年7月に単行本化されている。佐藤は1960年生まれだから私より一回り12年若い。同志社大学大学院神学研究科修了の後、外務省に入省。ロシア連邦日本大使館、本省勤務の後、背任と偽計業務妨害罪で逮捕起訴され、05年に執行猶予付き有罪判決を受ける。佐藤の本を読んで感心するのはその記憶力と読書量である。どちらも半端ではないのだが、本書においてはその読書の量と幅の広さに今更ながら驚かされる。わたしは佐藤が背任と偽計業務妨害罪で有罪となったのは、検察官僚が一つの国家意思のもとに遂行したものと思っている。国家が権力を維持するうえで鈴木宗雄や佐藤の言動や存在が邪魔となったが故の有罪判決と思っている。しかし佐藤が起訴され有罪にならなければ、職業的作家としての佐藤は誕生しなかったのではないか、あるいはノンキャリアの外務官僚としての将来に見切りを付けて作家となったとしても、今の佐藤とはそうとう違った作家になったのではないかと思われる。だとすれば佐藤の逮捕起訴、有罪判決も日本の文化状況という視点からすれば意味のあることだったかもしれない。
宇野弘蔵の「資本論を学ぶ」をとりあげて佐藤は大要次のように言う。日本の非正規労働者の増加について「非正規雇用者の労働者は、労働組合によって守られておらず、弱い立場にある。従って、賃金が低い水準に抑えられるのである」とし「年収200万円以下の給与所得者が1000万人を超えているのは、尋常な状態ではない」ともいう。ほとんど社会民主主義者の言説ではあるが、佐藤はそこでは終わらない。「マルクスの『資本論』や宇野弘蔵の著作がもっと読まれるようになれば、資本主義の限界についての認識が日本社会で共有されるようになる」というのである。わたしには佐藤が日本の経済や社会の現状分析の武器としてマルクスや宇野弘蔵の著作をもっと利用しなさいと言っているように思えるのだが。
12月某日
上野のブックオフで買った田辺聖子の「女の日時計」(講談社文庫)を読む。10数年前から田辺の小説は読むようになったが、「女の日時計」は初めて読む。初出は「婦人生活」の1969年1~12月号とあるから今から45年前。ストーリーをざっと紹介すると、阪神間で高級住宅地として名高い夙川の旧家に嫁いだ沙美子が主人公。母屋とは別棟の新居で穏やかで優しい夫と新婚生活を送っている。姑や小姑との小さな軋轢はあるが、夫の愛に包まれた生活を考えれば当然、我慢すべきものであった。義理の妹の見合い相手、相沢があらわれるまでは。相沢は沙美子に一目ぼれし沙美子もバンコクに赴任する相沢の後を追うことをいったんは心に決める。結局はそうはならず、病に倒れた姑を看病するうちに沙美子は一家の主婦の座を実質的に襲うことになる。沙美子の学校時代の親友と義理の姉の夫との不倫、親友と沙美子の夫の弟との純愛もからんでストーリーは展開してゆく。田辺はこの小説で何を言いたかったのだろうか?田辺は1964年に芥川賞を受賞、66年にカモカのオッチャンこと医師の川野純夫氏と結婚している。田辺にとって子持ちの川野氏との結婚は、一種の「断念」としての側面もあったのだと思う。「断念」は言い過ぎかもしれないが開業医の妻、それも二人の子持ちの後添えになるのだから、文筆業を続けることの不安がなかったわけではあるまい。田辺のそこらへんの「断念と不安」を象徴的に描いたのが「女の日時計」ではなかったのかと思う。そう考えて文体を見ると、以降の軽妙さは見られず、硬質で重い文体と感じてしまうのである。