社長の酒中日記 12月その3

12月某日
西新橋の洒落た小料理屋屋風の店で昼食をとっていたら奥のカウンター席に元厚生次官の幸田正孝さんがいた。幸田さんが店を出るとき「今日は協会(社会保険福祉協会)ですか?」と尋ねると「そう」と答える。「後でご挨拶に伺います」と言って別れる。私はHCMに向かって大橋社長と雑談。その後、社会保険福祉協会に行き、まず4階の内田さんに挨拶、続いて2階の幸田さんに挨拶。幸田さんは若いころに北海道の国民年金課長をやっている。そして幸田さんが全社連の理事長をやっているときの常務理事が北海道出身の河崎さんだ。河崎さんは残念ながら数年前に亡くなっているが、すこしばかり思い出話ができた。会社へ戻って当社の寺山とプレハブ建築協会へ。専務理事の合田さんに会うためだ。合田さんは国土交通省の住宅技官。今から30年以上前、合田さんが住宅局住宅生産課の係長のころ日本プレハブ新聞の記者だった私は取材で大変お世話になった。今日は東商がやっている福祉住環境コーディネータ試験のPRのお願いに伺った。
小川町のプレハブ協会の事務所を出て寺山は会社へ。私は近くの堀子税理士事務所で堀子先生と大島先生に挨拶。今日はフィスメックの小出社長、社会保険出版社の高本社長と忘年会なので会場の上野広小路の「さくらい」へ。従業員教育がよくされているしっかりした洋食屋さんだった。小出社長にすっかりごちそうになる。帰りに我孫子駅前の「七輪」でウイスキーのソーダ割りを一杯。

12月某日
理事長をやっている高田馬場の社会福祉法人の理事会、評議員会。グループホーム2ユニットにデイサービスを併設しているのだが、人員不足からデイサービスは休止しているのだが、先の理事会で10月からの再開が決議されていた。私が10月から理事長に就任して以降もグループホームの運営に手いっぱいで開設準備は遅れていた。それで理事会に再度延期したいと提案したのだが圧倒的多数で否決されてしまった。早期再開の方針が再度議決されてしまったのである。私としては開設に向けて人員に余裕があるならともかく、現状で再開するとなると入居者や職員の負担が増すと考えた。したがってデイサービスを早期再開するのなら社会福祉法人全体の運営に責任を持てないことから辞任を申し出了承された。わずか3か月の理事長であったが社会福祉法人の在り方、介護保険事業への取り組み姿勢等、勉強させてもらった。至らない理事長を支えてくれた事務局や現場のスタッフに深く感謝である。

12月某日
年金住宅福祉協会の2代目理事長が中村一成さん。援護局長で退官、年金福祉事業団の理事を経て年住協の理事長に就任した。今から30年くらい前の話である。当時私は「年金と住宅」という年住協のPR雑誌の編集を任されていた。理事長に古地図を見ながら東京の名所旧跡を回るという企画を提案したら採用された。毎月1回、江戸城や町奉行所跡、刑場あとの小塚原などを取材に回った。取材のあとの食事も楽しかった。10年位前だろうか中村さんから「故郷の宮崎に帰ることにしました」という連絡をいただいた。それからは年1回の賀状と私からのささやかなお歳暮だけのお付き合いとなった。今年も我孫子名物のお煎餅を送ったところ、義理の弟さんから宮崎名産のデコポンと一緒に「今年8月に亡くなった」という手紙をいただいた。中村さんは東大を出てから海軍経理学校を経て海軍に。戦後厚生省に入省した。90歳を超えているから天寿を全うしたということなのだが、やはり悲しい。合掌。