社長の酒中日記 4月その2

4月某日
「私の1960年代」(山本義隆 金曜日 15年10月)を図書館から借りて読む。山本は東大闘争のときの東大全共闘代表。当時の東大大学院、物理の博士課程に在学していた。1941年生まれだから私より七歳上。1960年に東大に入学、決して先頭に立ったわけではないが、無党派として大学管理法反対闘争や処分撤回闘争に取り組む。山本の描く東大闘争は私から見ると少なからず「牧歌的」だ。私が入学した早稲田では敵対する党派との暴力的な対峙が日常化していたが、東大ではクラス討論の積み上げにより民主的にストライキ決議がなされている。東大の闘争は医学部での処分撤回闘争に端を発し、何よりも学生の人権を無視した大学当局に対する民主化闘争、人権闘争であったように思う。そしてその過程で高度に資本主義化した日本において産学協同の幹部候補生としての東大生とは何かという自己否定の論理まで突き進む。早稲田はそこまで考えなかったものなー、というのが私の率直な感想。まぁ早稲田というより私はだけど。「1960年代論」にとどまらず、科学技術についての、原発についての山本の見識はやはりさすがである。5,6年前に亡くなった豊浦清さんは山本の物理学科の同級生だったという。「豊浦さんを偲ぶ会」に山本も来ていて発言していた。山本も豊浦さんもやはり立派な人はどこででも立派な人なのだ。

4月某日
HCMの大橋社長と打合せ。そろそろ5時なので「呑みに行きましょうか?」と誘うと「いいですね」という返事。神田にちょっと気になる店があるので当社の石津を誘って内神田1丁目の「ど丼がぁドン」へ。残念ながら満員ということで近くの「串よし」へ。ここは焼き鳥の店だが「たまご焼き」などお惣菜風で美味しかった。「神田バー」へ流れる。

4月某日
民介協の扇田専務と「内神田うてな」へ。扇田専務が推薦の店で神田駅西口通りが外堀通りを交差する先を左に曲がって右にある。白木のカウンターとテーブルだけの店で、「神田にはあまりないタイプの店ですね」と私が言うと、「そうなんだよ、居酒屋は多いけどな」と扇田専務もうなづく。先付もお刺身も美味しかった。先付のホタルイカにはアンチョビで味付けがしてあるなど一工夫が光るし、盛り付けも美しい。包丁を握っている主人と思しき人に「どこで修業したの?」と聞くと「なだ万で」という返事。「うーん、なるほどね」。問題は西口通りからちょっと入ったところという立地。それにしても開店間もないこの店を見つけた扇田専務の眼力も「さすが!」である。

4月某日
池袋の「かば屋」でSCNの高本代表と。実は以前、HCMの大橋社長に近くの「鳥定」というレトロな店に連れて行ってもらったことがあるのだが、残念ながらまだやっていなかった。で、近くで客引きをしていたこの店に入ったわけ。九州料理の店でなかなかおいしかったがモンテローザという居酒屋のチェーン店を展開する企業の店舗だった。あとからSCNの市川理事も参加。お嬢さんの受験の話などを聞く。受験など私にとってははるか昔のこと、でも本人の気持ちが大切なのは変わらないと思う。

4月某日
結核予防会の竹下専務を訪問。「モリちゃん、今晩空いてる?」というので「最近飲みすぎで」と答えると「いーじゃないか、奢るよ」。で、6時に会社の前のビルの「跳人」で待ち合わせ。6時過ぎに「跳人」へ行くと竹下さんはビールをすでに呑んでいた。フィスメックの小出社長を誘うと「今、面接中ですが終わったら行きます」という返事。ビールからウイスキー、さらに日本酒へ。本日も深酒。

4月某日
当社の寺山君が平川克己の「路地裏の資本主義」(角川SSC選書 14年9月)を貸してくれる。平川は1950年生まれ、早稲田の理工を卒業後、内田樹と翻訳業の会社を設立、現在はリナックスカフェ代表、立教大学特任教授も務める。平川の資本主義の現状認識は正しいと思う。「人口が減少し、商品市場の拡大が望めなくなった先進国の最大の問題は、総需要の減退で」ある。それでも各国の政策担当者は経済成長戦略を掲げざるを得ない。そこで登場したのがグローバリズム。「世界をひとつの市場とすることで、株式会社はまだまだ経済成長というバックグラウンドを手にすることができる」のである。その結果起きているのは「富裕層の過剰な資産膨張であり、資本蓄積であり、中間層が破壊されて貧困層へと再び繰り込まれてしまうような貧富格差の拡大で」ある。ではどうするか。平川は言う。「わたしは、日本がこれから永続的に生き残っていくためには、無理筋の経済成長を追うのではなく、世界に先駆けて定常経済モデルを確立すべきと思っています」。うーん、正しいと思う。

4月某日
我孫子駅前の東武ブックスで小谷野敦の「反米という病 なんとなくリベラル」(飛鳥新社 16年3月)を見つけ、パラパラと立ち読みしていたら呉智英の名前が出てきたので買うことにする。呉は私が早大1年のときロシヤ語研究会に入部した当時、法学部の3年生で文学研究会からロ語研に移ってきた。大変博識な人でそのころから詩や評論を書いていたと思う。呉は第一次早大闘争の被告で、そうした意味では左翼になるのだろうが、最初の評論集のタイトルが確か「封建主義者・・・」で、思想的な立場があるとするなら、むしろ小谷野に近いのかも知れない。私は小谷野の評論集「もてない男」や小説「母子寮前」を面白く読んだ記憶があるが、この「反米という病」はどうもいただけない。私には本書における小谷野の言説がどうにも理解できないのである。かと言って、理解するために再読三読する気も起きない。ただ、本の末尾に掲載されている「補論 山本周五郎とアメリカ文学」は周五郎の小説に対する欧米の文学の影響なかんずくアメリカ映画の影響について論じたもので比較文学者としての小谷野の面目躍如というべきであろう。