モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
「心に龍をちりばめて」(白石一文 新潮文庫 平成22年1月)を読む。ヒロインの小柳美帆は医者の娘で誰もが振り返るような美人、お茶の水女子大を卒業後、イギリスに短期留学した後フードライターとして年収2000万円を稼ぐ。恋人は東大法学部卒業後、共同通信社に入社、保守党から国政への進出を目指す。こう書くと嫌味なカップルと言わざるを得ない。しかしこれは美帆の抱えるもう一つの現実を際立たせるための小説上のテクニックだ。美帆のもう一つの現実とは、孤児として医者の家で育てられ、幼馴染で弟の命の恩人の仲間優司は、「俺は、小柳のためならいつでも死んでやる」と美帆に言うが、福岡でヤクザとなっていた。恋人の子を妊娠した美帆は恋人と別れ、優司とドライブの最中、優司に恨みを抱くヤクザに襲われる。こう粗筋をたどると典型的な通俗小説にしか見えないし、事実これは通俗小説である。しかし私は大変、面白く読んだ。多分、これは読者と作者の「相性」の問題と思う。

5月某日
「キャンセルされた街の案内」(吉田修一 新潮社 2009年8月)を図書館から借りて読む。エアメールを模した表紙がお洒落だ。帯には「デビューから『悪人』までの、そのすべてのエッセンスが詰め込まれた必読のマスターピース」とあるけれど、私には全10編のうちほとんどが印象に残らなかった。唯一、表題作に奇妙な印象が残った。故郷の長崎から風来坊の兄が上京し「ぼく」の部屋に居候する。「ぼく」は別れた恋人の母親に可愛がられ、母親の家に入り浸る。「ぼく」は船会社に勤務の傍ら私小説を書いているのだが、現在とその私小説と故郷の軍艦島の思い出が交差する。短編ならばこういうちょっと複雑なストーリーが最近の私は好みのようだ。

5月某日
会社の帰りに上野駅構内の本屋「ブックエクスプレス」に寄って、本を眺めていたら元年住協の林弘幸さんから携帯に電話。今、神田にいるということなので「ブックエクスプレス」で待ち合わせ。林さんは新松戸に住んでいるので新松戸で吞むことにする。市松戸の駅近くの「GUI吞み」に行く。ここは新横綱の稀勢の里の写真とサインが飾ってある。林さんによると稀勢の里の所属する部屋(田子の浦部屋)が以前、松戸にあり、その関係で力士が顔を出していたことがあるという。稀勢の里は今でも年に何回かこの店に来るそうだ。林さんは3月で前の会社も退職、今はフリー。定期のないのがつらいのと、昼食を自分で作ると麺類中心となり塩分が多めになるのが悩みと言っていた。なるほどね、参考になります。

5月某日
我孫子駅前の本屋で文庫本を物色していたら藤沢周平の「一茶」(文春文庫 2009年 単行本は1978年)が目についたので買う。以前は藤沢周平は好きでよく読んだがこのところご無沙汰だった。「一茶」はもちろん面白かったが、今回は藤沢の文章の巧みさに感心した。一茶は50を過ぎて江戸での生活を切り上げ故郷の信州に帰る。そこで思いもかけず嫁の話が持ち上がる。その話を聞いた後の文章である。「外に雪囲いがしてあるので、家の中は昼も薄ぐらく、出るまで気づかなかったが、外に出ると珍しく日が照っていた。大きな千切れ雲が、ゆっくり空を走っていて、二乃倉を出て野に出ると、雪の野は雲が走り去るとまぶしく日にかがやいた」。江戸期ならば老年であろう50過ぎ。その老爺に持ち上がった嫁取り話に沸き立つような喜びが伝わってくる風景描写である。一茶といえば子供や小動物に優しい俳人というイメージがあるが、藤沢の描く一茶は、前半生は俳諧師としてスポンサーの顔色を伺いながら句作に励む日々を送り、後半生は親の遺産を巡って親族と争い、嫁との間に設けた子供にも死なれ、ついには嫁とも死に別れるという我々のイメージを大きく裏切る一茶である。藤沢は故郷の師範学校を出た後教職に就くが、ほどなく結核に倒れ療養生活を余儀なくされる。教職への復帰はかなわずハム、ソーセージ業界の業界紙に就職する。私には藤沢が「思いならぬ人生」を一茶に託して描いたと思えるのである。

5月某日
図書館で借りた「『格差』の戦後史―階級社会、日本の履歴書」(橋本健二 河出書房新社 2009年10月)を読む。橋本は以前、「居酒屋ほろ酔い考現学」(毎日新聞社)を読んだことがことがあるが、本職の社会学の本を読むのは初めて。データを駆使して通説に切り込んでいく姿勢には好感が持てる。著者は「格差について語ることは、政治について語ることである」という。政治の最も基本的な機能は資源の再分配にあるからだ。今の自民党政権がその機能を十全に果たしているとは思えないが、野党の民進党にもその自覚があるとは思えない。日本の再分配が最も進んだのは戦中と戦争直後であろう。戦中は総力戦体制のもと「平等」が指向され、戦争直後は圧倒的なモノ不足から結果的に「平等」となった。資源を再分配するにも資源自体が不足していたからだ。