モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
白梅大学の山路先生と、荒川区尾久の(株)介護ユーアイを訪問する。介護ユーアイの馬木社長も山路先生も、そして私も西武池袋線の江古田にあった国際学寮の出身。国際学寮というのは財団法人の「力行会」が運営する学生寮で、もともとは南米移民のための研修施設だったようだが、私が在籍していたころ(1970年から1972年3月)は学生運動の活動家や活動家OBも受け入れていた。私が入寮したころには山路先生はもう退寮していたが、毎日新聞で社会保障を担当しており、知り合って15年くらいになる。馬木社長とは国際学寮当時から仲良くしてもらった。その寮には色んな大学から入寮しており、例えば山路先生は慶應だし、馬木社長は上智、私は早稲田だ。その他、東大や東京教育大、東京外語大といった国立大生もいた。同じ寮にいた早稲田の戦旗派(ブント)だった森君が69年の4.28でパクられ、同房だった土方の親方、水野勝吉さんと知り合い、私も含めて国際学寮の何人かがアルバイトとして土方をやらせてもらった。私が69年の9月に早大の第2学生会館屋上で逮捕され、東京拘置所に送られたとき、水野さんから「自分も若かったら君たちと一緒にやりたい」というような「激励の手紙」をもらったことがある。今から50年近く前のことだが、そうしたことは覚えているものだ。
昔話になってしまったが、介護ユーアイは居宅介護支援、訪問事業所に加え、デイサービスを2か所運営している。その2か所のデイサービスを見学させてもらった。従業員がとても明るく、その「気分」が利用者に伝わるのか、雰囲気はとてもよかった。しかし介護ユーアイのような中小の事業所が生き延びるのは、介護報酬の引き下げなどを考えるとなかなか厳しいものがあると思わざるを得ない。智と情を備えた馬木社長ならできると思う。

6月某日
図書館で借りた「連合赤軍物語 紅炎(プロミネンス)」(山平重樹 徳間文庫 2011年2月)を読む。1972年2月、多くの人々がテレビの中継に釘付けとなった。連合赤軍の5人が軽井沢の山荘、あさま山荘に管理人夫人を人質にとって立てこもり、機動隊を相手に銃撃戦を展開していたからだ。5人が立てこもってから10日目、機動隊の強行突破により5人は逮捕された。今となっては信じられないことだが、私は当時、半ば本気で「日本でも本格的な武装闘争が始まるのか」と思ったものだった。だが、あさま山荘事件から数日たって私たちは衝撃的な報道に接することになる。連合赤軍のアジト「山岳ベース」で「総括」と称するリンチ殺人が行われていたことが明らかにされる。殺された中に横浜国大生の大槻節子がいた。前述したように69年の9月3日に私が早大の第2学生会館で逮捕されたとき、留置されたのは大森警察署であった。翌4日に1人の女子大生が留置所に送られてきた。愛知外相訪ソ阻止闘争で逮捕された大槻節子だった。留置所の金網越しではあったが楚々とした姿が目に焼き付いている。そんなこともあって「連合赤軍物語」は一気に読み通してしまった。読み終わってほかに連合赤軍関係の書物はないか図書館で検索すると「マイ・バック・ページ」(川本三郎 平凡社 2010年11月)が出てきたので借りることにする。
川本三郎は1944年生まれ、東大法学部卒業後、1969年朝日新聞社に入社、「週刊朝日」「朝日ジャーナル」の記者として、当時の大学闘争の現場や三里塚闘争の取材を行うが、1972年1月、自衛隊朝霞基地の自衛官殺害事件に絡んで埼玉県警に「証憑湮滅」(しょうひょういんめつ)容疑で逮捕され、容疑事実を認めた段階で朝日新聞社を解雇される。川本三郎の評論、エッセーは割と好きで何冊か読んでいる。川本のたんたんとした文章に潜む「ある陰翳」に魅かれるのかもしれない。

6月某日
川村学園女子大学の食品科の福永先生は日本に帰化しているが台湾出身。福永先生が台湾の恩師と知人を我孫子に呼んでいるので「モリちゃんも来ないか?」と元厚労省の年金局長で川村学園の先生をやっている吉武さんから誘いの電話。吉武さんが車で迎えに来てくれてまず、我孫子の農家で市会議員をやっている日暮さんのお宅で福永先生一行と待ち合わせ。マイクロバスで福永先生たちが到着し日暮さんの農園を見学。都市近郊農家という特徴を活かして都内のレストランなどに出荷しているらしい。日暮という姓は珍しいが、我孫子では割と多い。日暮さんによると江戸時代の初めに九州から我孫子に来たらしい。
福永先生の同僚がワインやチーズなどを用意してくれたので日暮さんの軒先で軽く乾杯。その後、我孫子駅前のうなぎ屋で懇親会。台湾の若者の話が聞けて楽しかった。