モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
「彼女のこんだて帖」(角田光代 講談社文庫 2011年9月)を読む。いろんな人たち、独身だったり、恋人だったり、夫婦だったり…が料理を通して人生を語る。それも深刻にではなくさらっとね。その料理のレシピが巻末についている。角田光代って深刻な話しも面白いけれど、こうした軽い話もよい。帝国ホテルのPR誌に連載した短編をまとめたのも面白かった。角田の「あとがきにかえて」、井上荒野の解説「世界を味わう小さなスプーン」もよい。

4月某日
「東京抒情」(川本三郎 春秋社 2015年1月)を読む。東京を愛する川本は、旅を愛する人でもある。紀行文にも読ませるものがあるが、今回は東京モノ。私は高校を卒業した1966年に上京、町田市玉川学園の親戚の家で一年間、浪人生活送った後、早稲田大学に入学した。1年生は西武線下井草のアパートに入居した。2年の夏に学生運動で逮捕され、アパートにがさ入れが入ったこともあって居ずらくなり、友人の紹介で練馬区小竹町の力行会が運営する国際学寮に卒業するまでいた。卒業後に現在の妻と結婚、妻の親が建てた我孫子の家に入居、現在に至っている。千葉県民歴が50年以上に及ぶが勤め先は、浜松町、駒込、新橋、神田と変わったが、いずれも東京の個性的な街であった。したがってこの本にも共感するところが多かった。共感その1「東京は大都市とはいえ、よく見れば小さな町の集まりで作られている」。例えば駒込は山手線の外側が豊島区で内側は文京区、豊島区側には霜降り銀座などがあって下町だが、内側には六義園や東洋文庫などがあって山の手の雰囲気を残す。共感その2「東京の町の特色は電車の駅を中心に商店街が作られていくことだが、そこにはたいてい居酒屋がある」。私は浜松町では国道1号線沿いにあった居酒屋、駒込では駅前の姉妹がやっている居酒屋によく行っていた。新橋では居酒屋で一杯やった後、ニュー新橋ビルの2階にあったスナックに行くというのが定番であった。神田では日銀通りをちょっと入った葡萄屋などによく行っていた。2次会には湯島の「マルル」、根津の「フラココ」というスナックへ行った。どちらも個性的なママがいたが、両方ともいまはない。共感その3「ちなみに「金美館」は戦後も、下町に多くの映画館持ったチェーンで、現在も日暮里にはその名残で「金美館通り」という商店街がある」。私の義理の姉(兄の奥さん)の元職場は小学館で詩人の高橋順子さんと親しかった。順子さんの夫が作家の車谷長吉で、私はこの人の小説のファンであった。で、義理の姉が車谷夫妻と酉の市の帰りに金美館通りの小料理屋に行くのでそこに来ないか、と誘ってくれたのだ。「侘助」という小料理屋で今でも繁盛しているようだ。

4月某日
高校時代の同級生、山本君と増田君と春日部駅西口で16時に待ち合わせ。20分ほど目に行くと増田君がすでに来ていて駅前のベンチに座っていた。増田君の隣に座って山本君を待っていると、ほどなく山本君が改札から顔を出す。私と二人は確かに高校の同級生なのだが、増田君とは中学も一緒、山本君とはなんと小学校から一緒である。3人で駅近くの飯田屋へ入る。飯田屋といえば我孫子の飯田屋で元年住協の林さんと呑んだことがある。高齢者の間で飯田屋で呑むことが流行っているのかもしれない。生ビールで乾杯した後、三人は好きなものを呑む。私はハイボール。2時間ほど呑んだ後解散。私は春日部から柏、柏から我孫子へ。我孫子駅前の「しちりん」で軽く一杯。

4月某日
「あ・うん」(向田邦子 文春文庫 2003年8月)を読む。「あ・うん」はテレビドラマ化もされ、映画化もされた。テレビドラマはNHKとTBSで作られたが私が観たのはNHKの方。主人公の水田仙吉をフランキー堺、門倉修造を杉浦直樹、水田の奥さんで門倉が秘かに惚れている水田たみを吉村実子、門倉の奥さんを岸田今日子、水田の一人娘を岸本加世子が演じていた。映画では門倉を高倉健、水田が坂東英二、門倉の妻を富司純子、娘を富田靖子が演じていた(ウイキペディアによる)。小説では門倉と水田の容貌を「門倉は羽左衛門をもっとバタ臭くしたようなと言われる美男で、銀座を歩けば女は一人残らず振り返るといわれたが、仙吉のほうは、ただの一人も振り返らない男だった」と表現されているからテレビも映画もキャスティングは適切であった。文庫本の裏表紙に「太平洋戦争をひかえた世相を背景に男の熱い友情と親友の妻への密かな思慕が織りなす市井の家族の情景を鮮やかに描いた著者唯一の長編小説」と記載されている。向田は昭和4(1929)年生まれ、56(1981)年8月に航空機事故で死去。テレビドラマは81年5月から6月にかけて放映されている。

モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
HCM社の大橋さんから尾身茂さんの日本経済新聞に連載された「私の履歴書」の切り抜きが送られてきた。今朝、新聞を取りに行ったら大橋さんからの封書があったのだ。「私の履歴書」によると尾身さんは子どもの頃から外交官志望であった。高校生のときに米国に1年間留学し、帰国したとき東大は紛争で入試はなく、慶應大学法学部に通うことに。自治医科大学が一期生を募集していることを知り、入試を受け合格する。卒業後は東京都の離島の診療所や都立墨東病院で地域医療に携わる。WHOへの赴任を希望し、そのため厚生省に入省する。WHOではフィリピンにある西太平洋事務局に勤務、ポリオ撲滅などに貢献した。尾身さんはSARSの流行も半年で終息させた。後にコロナウイルスの闘いで中心的な役割を担うことになるが、感染症と向き合った人生とも言えようか。尾身さんは現在、結核予防会の理事長。6年ほど前に亡くなった竹下隆夫さんが専務理事を務めていた団体だ。竹下さんが元気だったころ、水道橋のビルにあった予防会の本部によく竹下さんを訪問したことを思いだす。

4月某日
図書館で借りた「鯨の岬」(河崎秋子 集英社文庫 2022年6月)と「村田兆治という生き方-マサカリ投法、永遠なれ」(三浦基裕 ベースボール・マガジン社 2024年11月)を読む。「鯨の岬」は表題作と「東陬(とうすう)遺事」がおさめられている。表題作は老年期に差し掛かろうとする主婦が幼年期を振り返るというストーリー。私にとっては可もなく不可もなしという読後感。「東陬遺事」は読み応えがあった。幕末、幕府の直轄地となった北海道東部のネモロ(根室)地方の物語。東陬とは東の僻地という意味らしい。河崎は北海学園大学出身の酪農家、「東陬遺事」で北海道新聞文学賞を受賞、その後、直木賞も受賞。文章もしっかりしているし時代考証もホンモノだ。「村田兆治」はマサカリ投法で名をはせた元ロッテライオンズの村田兆治の物語。作者の三浦基裕は日刊スポーツの社長を務めた後、佐渡市長を1期務めた。2期目は元市役所職員に敗れたが、この時の市長選には元厚労省職員で佐渡市の副市長を務めた私の友人も出馬した。それはさておき、村田はプロを引退した後、離島甲子園の開催など少年野球の振興に尽力した。自宅の火災で死亡したが、著者の哀惜の情が伝わってくる書である。

4月某日
「ピリオド」(乃南アサ 双葉文庫 2024年5月)を読む。巻末に「本書は2002年5月、小社より文庫判で刊行された同名作品の新装版です」との文章がある。乃南は1960年生まれだから40歳頃に構想、執筆された小説である。当時、話題になったという記憶もないが、私は面白く読んだ。主人公は40歳、×1のフリーカメラマンの葉子。冒頭、葉子が津軽の廃屋と化したアパートを訪ねるシーンから物語は始まる。去年、死刑になったという男の育った家だという。小説では死刑囚の名前は明らかにされないが、永山則夫のことであろう。物語では葉子の住む中野のマンション、葉子の兄一家が住む長野の家、それと葉子と兄が育った栃木の家、そして津軽の廃屋が重要な意味を持っている(と思う)。葉子と不倫関係にあった編集者の妻が殺害される。葉子のマンションには甥が受験のために滞在し、姪も春休み遊びにくるに。葉子の兄は末期がんで長野の病院に入院している。葉子の旧友でもある兄の妻は近くのガソリンスタンドの主人との不倫が疑われている。終章で葉子が撮影した栃木の実家の写真を見るシーンがある。そこで葉子は津軽の廃屋のことを思いだす。「あの長屋が残る限り、既に刑死している男の記憶は、人々から薄れることはないだろう。男は今も不名誉なまま、生き続けることになる」と記されている。

4月某日
アメリカのトランプ大統領が自国第一主義に基づいて高い関税障壁を設けようとしている。これについて今朝の朝日新聞(4月14日)に小野塚知二・東大特任教授(西洋社会経済史)が解説していた。19世紀、重商主義のもと自国の産業を保護するために高い関税がかけられていた。当時の英国では人口増加に伴う穀物価格の上昇が問題になっていた。そこで外国の食糧に関税をかけずに輸入することを主張したのがリカードで、その考え方は1846年の穀物法廃止につながり、輸入穀物の関税が撤廃された。しかし自由貿易の考え方がそのまま単線的に広がったと見るのは過ちで、第一次世界大戦の背景には英国やドイツ、イタリア、ロシアに広がった経済的なナショナリズムがある。戦間期の1932年、英国は自由貿易から保護主義に転換、オーストラリアやインドなどを自国の経済圏に囲い込み、それ以外の国には高い関税を課した。やがて世界は連合国側(米英中ソなど)と枢軸国(日独伊)に分かれ、第二次世界大戦を戦うことになる。戦後の国際通貨基金(IMF)や関税貿易一般協定(GATT)に通底するのは、経済的に相互依存が進めば戦争の可能性が低くなるという思想だ。小野塚教授は最後に次のように警告する。「米国が経済圏を囲い込み始めたりすれば、1930年代のブロック化に近づくかもしれない。関税をおもちゃのようにもてあそび続けるなら、これまで経験したことのない緊張と摩擦がもたらされる恐れがある」。何年か前にタモリが言っていた「新しい戦前が始まる」という言葉が思い出される。

モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
昨日、評議員をしている社会福祉法人の評議員会が立川で開催。7時から開催なので6時30分頃、立川に到着、楽勝で間に合うと思ったが会場がなかなか見つからない。何度も来ているのに見つからないとは…。老化の兆しか。霧雨が降り出し、寒さも募り悪寒も。体調を考えて立川駅に戻り、しばし休息。我孫子まで帰ることにする。我孫子駅でトイレによったらバスを乗り過ごす。次のバスまで20分以上あるのでタクシーに乗る。タクシー代900円也。本日はとことんついていない。にしても社会福祉法人の理事長、理事、評議員の皆さん、申し訳ありませんでした。

4月某日
昨年、週刊文春が報じたタレント中居某のフジテレビ女子アナウンサーへの性加害とそれを巡るフジテレビへの対応についての報告書が公表された。公表を報じた新聞やテレビの報道を通じてしかその内容を知ることはできないが、フジテレビの対応はひどすぎないか。たとえてみれば中居某は時代劇に出てくる悪代官で、フジテレビは悪代官を支える越後屋である。悪代官は村の娘に性的暴行を行うが越後屋を通じて事件の隠ぺいを図る。「おぬしも悪よのー」である。悪代官の舞台は江戸時代であり、しかも当時、悪代官が普遍的に存在したわけでもない。中居某とフジテレビの件は現代に現実に起きた事件である。我々はテレビ局の記者に性的暴行を受けた伊藤沙織さんの事件も知っている。権力や権威、不平等を背景にした性的な取引を含む不正な取引は許されない。

4月某日
千代田線で霞が関へ。虎ノ門の渡邉弁護士を訪問、渡邊先生は昨年、フェアネス法律事務所から独立、高田馬場の社会福祉法人の件は引き続き担当しているとのこと。社福を巡る訴訟は敗訴したとのこと。訴えた地主とも電話で話したが意気軒高であった。私はこの件に関わって10年近くになるが、応援する気持ちは変わらない。裁判所も間違うことがある(袴田さんの事件をみよ)のだ。正義は何回負けても、最後に勝てばいいのだ。弁護士事務所を出て、大学の同級生で弁護士の雨宮先生の待ち合わせ場所、「さかなさま」へ。最初から日本酒を頼む。刺身の盛り合わせ、栃尾の油揚げなどをいただいた後、鍋を頼み、最後は雑炊、おいしゅうございました。雨宮先生にすっかりご馳走になる。

4月某日
「アナキズムを読む-〈自由〉を生きるためのブックガイド」(田中ひかる編 皓星社 2021年11月)を読む。私は若年から何度か思想の変遷(それほど大袈裟なものではないが)を繰り返してきたが、最後に行きついたのはアナキズムのようだ。半世紀前の全共闘運動も根底にはアナキズムがあったように思うし、地球環境保護やフェミニズムの運動もアナキズムに通底しているように思う。本書では「チッソは私であった-水俣病の思想」(緒方正人)や「明けの星を見上げて-大道寺将司獄中書簡集」などが紹介されている。私は1870年代のスイスの時計工たちの主張「平等で自由な社会が、権威主義的な組織から生み出されることなどどうして望みえようか」に限りなく共感する。

4月某日
「皇后は闘うことにした」(林真理子 文藝春秋 2024年12月)を読む。林真理子は皇室や華族に大いに興味を抱く。そのこと自体は一般の国民の関心事と同じであり、私も同類である。しかし林は膨大な資料を読みこなし、関係者への取材を行った後に作品を仕上げている。林の興味、関心はミーハーを基礎にしていると思われる。しかしそれを基礎にして立派な文学作品に仕立て上げている。現在、日大の理事長を務め文学活動は控えざるを得ない。将来の文化功労者候補である。宮尾登美子のようにね。

モリちゃんの酒中日記 3月その2

3月某日
「昭和天皇の敗北-日本国憲法第一条をめぐる闘い」(小宮京 中央公論新社 2025年1月)を読む。1945年8月に大日本帝国は米国を主体とする連合国に敗北した。これは歴史的な事実であるが、敗北を境として天皇制国家が民主的国家に転換した、と私などは思っていたのだが、本書を読む限りはそれは誤りであったようだ。8月の敗戦は軍事的な敗北であって、昭和天皇はじめ支配者層は天皇制が敗北したとは考えていなかった。それが米軍を主体とする進駐軍との折衝を経ながら、日本型ファシズムとしての天皇制が敗北したことを支配者層が骨身にしみて感じるようになる。私は少し猫背で、国民に帽子を振る昭和天皇しか記憶にないのだが、戦前戦中は天皇は大元帥陛下でもあったのだ。敗戦後、新憲法の公布とその定着まで、天皇の地位は結構、不安定だったのではないか。

3月某日
「宮尾登美子全集 第四巻(岩伍覚書 寒椿)」(朝日新聞社 1993年2月)を読む。「岩伍覚書」は「櫂」「春燈」「朱夏」で岩伍と妻の喜和、娘の綾子の生涯を描いたシリーズのいわば外伝。三作は喜和や綾子の視点で描かれているが、「岩伍覚書」はタイトルのとおり岩伍の視点で描かれている。作者の宮尾登美子は父の死後、父の日記を読むことになるが、「岩伍覚書」の一部もその日記に基づいていると思われる。「寒椿」は高知の芸者子方屋の松崎に売られてきた澄子、民江、貞子、妙子の物語。芸者子方屋で三味線や踊りなどの芸を仕込まれた少女たちはやがて芸者や娼婦として売られていく。少女たちは親の借金のために芸者子方屋に売られ、さらに膨らんだ親の借金のために売られていく。戦前は日本が進出した中国大陸へ渡った女性も多かった。戦前は人身売買も普通に行われていたのである。岩伍はその人身売買で財を築くわけだが、岩伍自身は貧しい人のためと思っている。宮尾登美子はこのような人身売買を必ずしも「悪」とは描いていない。物語の前提として、時代小説が身分制度を前提として描くように描いているのである。

3月某日
中央区新川の高本夫妻のマンションの集会室で花見の会。八丁堀駅からマンションを目指すがスマホの地図がうまく読み取れず、高本(夫)さんに迎えに来てもらう。部屋に着くと全員が揃っていた。元民介協専務の扇田さんとは久しぶりに会うことができた。元厚生労働省の江利川、吉武さん、社保研ティラーレ社長の佐藤さん(現在は立憲民主党の衆議院議員秘書)、元滋慶学園の大谷さんらと歓談。年友企画の岩佐さんが医師の小堀鴎一郎先生を連れてくる。先生は1938年生まれだから私の10歳年上だが、とてもお元気で現在も自分で車を運転して訪問診療を行っているという。先生は文豪森鴎外の孫ということで、私も上野の池之端にあったホテル、鴎外荘の話などをする。先生は外科医で江利川さんの実父の手術も執刀したそうだ。帰りは吉武さん、大谷さんと茅場町駅から日比谷線で上野へ。私と吉武さんはそのまま北千住で常磐線に乗り換えて我孫子まで。

3月某日
昨年、ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンの「少年が来る 新しい韓国の文学15」(クオン 2016年10月)を読む。2024年12月に第2班第4刷が発行されている。作者のノーベル賞受賞で売れ行きに弾みがついたのである。1980年の光州事件を舞台としつつ、事件の死者の魂が時空を超えて語る。リアルかつファンタジックな不思議な作品。繰り返し読みたいが「この本は、次の人が予約してまっています」という黄色い札が貼ってあるので、これから図書館に返却します。

3月某日
「ダーク」(桐野夏生 講談社 2002年10月)を読む。パソコンで光州事件を検索したら、ハン・ガンの「少年が来る」などと一緒に桐野の「ダーク」が示されたので、我孫子市民図書館にリクエストした。02年の発行なので通常の書棚ではなく書庫に在庫されていて、図書館員が書庫から出してくれた。私立探偵の村野ミロを主人公としたシリーズの最終作。私は「ダーク」を除いてすべて読んでいる。第一作の「頬に降りかかる雨」が93年で02年の「ダーク」までシリーズは5作である。この頃の桐野はハードボイルド作家に分類されていたし、本作においても暴力とセックスの場面の描写はさすがである。ミロはソウルで日本人に強姦され、その子を身ごもる。ミロは中絶はせず出産することを決意する。ラストシーンは赤ん坊のハルオと訪れた那覇市である。光州事件に釜山から光州を訪れた少年が、後にミロと結ばれる徐である。「ダーク」はミロシリーズのなかでも時間的、空間的な広がりと内容的な深さで際立っているように思う。

3月某日
床屋「カットクラブパパ」に散髪に行ったら2人待ち、近くのレストラン「コビアン」で生ビール中と「エビとキノコのアヒージョ」を頼んで時間をつぶす。コビアンに小1時間ほどいて再び床屋へ。10分ほど待って散髪、今年から料金が500円上がって4000円に。以前行っていた若松の床屋は2500円で、こちらは25日に1回のペースで行っていた。カットクラブパパは35日~40日に1回で行こう。こちらの床屋さんは腕がいいというか、センスがいいんだよな。

3月某日
「男の愛-俺たちの家」(町田康 左右社 2025年1月)を読む。「男の愛-たびだちの詩」の続編。ヤクザとしてデビューした清水次郎長がヤクザとして世の中に認められていく過程を描く。町田はヤクザとしての次郎長を肯定も否定もしない。その破天荒な人生を率直に描く。人間としての次郎長は肯定していると言ってよい。「ギケイキ」もそうだったけれど、町田は「人生を外れた」人が好きなんだ。本書の最後で次郎長は恋女房お蝶と結婚する。次郎長には過ぎた女房なのだが、町田はその次郎長を「その後ろ影には華やかな孤独の香りが漂っていた」と形容する。「華やかな孤独」だよ。

モリちゃんの酒中日記 3月その1

3月某日
宮尾登美子の「櫂」(新潮文庫 平成8年11月)と「春燈」(朝日新聞社 宮尾登美子全集第2巻)を読む。15歳で渡世人・岩伍に嫁いだ喜和と岩伍が娘義太夫との間に儲けた綾子の物語。芸妓娼妓紹介業を始めた岩伍は商売に集中するあまり家庭を顧みない。喜和は家を出て小商いを始める。綾子は喜和になつき岩伍の家には寄り付かない。しかし綾子の高女受験を機に綾子は岩伍の家に帰ることにする。岩伍と喜和の離婚は成立し、岩伍はすでに使用人だったお照と事実上の夫婦となり、お照の連れ子二人も同居する。喜和と別れ、岩伍の家へひとり自動車で向かう綾子。「櫂」は喜和の視点から大正、昭和の高知の街と芸妓娼妓紹介業という現在では特別な世界を描く。「春燈」では今度は綾子の視点で昭和戦前期の高知の街と綾子の県立高女の受験失敗と、高坂高女への進学と卒業後の研究科での勉学、そして高知の山村での綾子の代用教員生活を描く。綾子が赴任した山村は高女時代の親友で夭折した規子の故郷でもあった。山村の自然の描写が美しく、高知の街中で育った綾子、そして作者の感激が伝わってくる。
「春燈」の最後で綾子は小学校教員の同僚と結婚する。綾子は岩伍の経営する芸妓娼妓紹介業という仕事が若い女性の生き血を仕事に見えて嫌でたまらない。そういう価値観は喜和とは共有されるが岩伍には通じない。岩伍にとっては女性の貧困からの脱出に手を貸している感覚である。NHKBSのドラマでは岩伍は仲村トオルが演じていた。喜和を演じていたのが松たか子だからバランス的には仲村トオルでいいのかもしれない。しかし岩伍の複雑な性格を演じるにはもう少しベテランがいいのではないか。イメージでいうと三船敏郎とか萬屋錦之助、青年期は仲村トオルでいいが、中年以降はかえてもらいたい。ところで芸妓娼妓紹介業は戦後の売春防止法により、少なくとも娼妓紹介業は違法とされる。

3月某日
監事をしている一般社団法人の理事会に出席。会場は八重洲の貸会議室。会長(代表理事)の挨拶がいつも聞かせる。今回は東日本大震災から14年ということもあって震災がらみのお話。死者は15900人にのぼるが、うち70-79歳が23.8%、80歳以上が20%だったとか、高齢者の比率が高い。あの日は確か金曜日、地震の発生は午後2時46分。高齢者は自宅にいて津波に襲われたということだろう。この日は根津で呑み会があるので八重洲から丸の内口に出て、千代田線の大手町から根津へ。駅近くの喫茶店で遅いランチのサンドイッチをいただく。喫茶店を出て言問通りを5分ほど行ったところで「森田さん!」と声を掛けられる。本日の呑み会のメンバー、大橋さんに土方さん、石津さんだった。4人で本日の会場「たけむら」へ。上品な割烹で日本酒も揃っている。土方さんにすっかりご馳走になる。大橋さんからはお土産をいただく。

3月某日
「仁淀川」(宮尾登美子 新潮文庫 平成15年9月)を読む。「櫂」「春燈」「朱夏」と続く岩伍と喜和、そして綾子の物語の最終版。満洲から体一つで引き揚げてきた綾子と夫の要、娘の美耶は故郷高知の仁淀川のほとりにある夫の生家に身を落ち着ける。貧しい農家を手伝いながら綾子は満洲からの帰還やここでの暮らしを娘のために書き残そうと決意する。後に綾子は要と離婚し夫の生家も出ることになる。綾子は作者の宮尾登美子その人がモデルであるが、宮尾は高知市で再婚後、上京して遅咲きの作家デビューを果たすことになる。

モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
水曜日の夜はNHKBSのドラマを見る。7時からは特選ドラマ「櫂」。原作は宮尾登美子の同名の自伝的小説。遊郭への女郎紹介業を営む岩伍(仲村トオル)に嫁いだ喜和(松たか子)が主人公。夫の稼業に反発する喜和。しかし満州事変当時の時代の雰囲気はそれを許さない。20代前半と思われる松たか子の初々しさが光る。櫂が終わると同じNHKBSで「ハルとナツ-届かなかった手紙」。脚本は橋田須賀子。戦前、北海道から南米に渡った姉妹、ハルとナツの物語。実はナツは渡航直前にトラホームに罹患、独り北海道の親戚の家に預けられる。親戚の家では叔母に苛め抜かれるナツ。ここらへんはさすがに「おしん」を手がけた橋田須賀子。70年後、日本に里帰りしたハル(森光子)に日本で成功したナツ(野際陽子)はあおうともしない…。森光子も野際陽子もすでに物故しているが、二人とも達者な演技で。「ハルとナツ」が終わると10時、ウイスキーを飲み始める時間である。

2月某日
図書館で借りた「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子 河出書房新社 2017年11月)を読む。実は宮沢賢治の詩「永訣の朝」に同じ一節があることを朝日新聞の天声人語で知った。若竹の小説は高卒後、上京した私が夫と出会い、そして死に別れる。悲しみのなかで私は自立の道を選ぶ。「ひとりでいぐも」である。宮沢賢治の詩では「いぐも」は病床の妹が「ひとりで逝くも」とつぶやいたことを描写している。若竹の「いぐも」は「行くぞ!」という意味ね。

2月某日
手賀沼健康歯科で3カ月健診、奥歯に磨き残しがあると指摘される。頑張って歯磨きしてきたのに残念である。歯医者の帰りにスーパーに寄って歯ブラシと歯間ブラシを購入、さらに丁寧な口腔ケアを目指す。

2月某日
我孫子駅前の千葉県福祉ふれあいプラザ2階の「ふれあいホール」に「我孫子市ふるさとお笑いLIVE!」を観に行く。全席指定で前売券は4000円、即日完売という。我孫子市出身の塙が属するナイツが出演するのが目玉。14時30分の開場に合わせて行くと、ホールにはすでに人が詰めかけていた。ナイツ他、10組ほどの芸人が出演、ライブとテレビでは演目の内容が微妙に違うことを発見、テレビでは他人のプライバシーや差別発言と捉えられることを気にするのが一般的。しかし誤解を恐れずに言えば、プライバシーの暴露や差別は芸能の重要な要素だったはずだ。例えば歌舞伎や文楽の心中ものは実際の事件に題材をとったものがあるし、落語では与太郎は知恵遅れを主人公にしているといえなくもない。現代でもビートたけしや爆笑問題はテレビでもぎりぎり切り込んでいるように思う。

2月某日
日曜午後1時からはBSNHKで映画が放映されている。今日はデビットリーン監督の「ドクトルジバゴ」が放映されるので観ることにした。この映画が日本で公開されたのは私が高校生のとき。同級生の山本君と観に行った。観た後に山本君が「社会主義も嫌に感じるな」といったのに対し、私が「そんなことはない」と反論したのを覚えている。今にしてみると山本君が正しかった。

2月某日
「孤独な夜のココア」(田辺聖子 新潮文庫 昭和58年3月)を読む。何度目かな、少なくとも2回は読んでいるはず。12の短編小説がおさめられている。惹句に曰く「田辺聖子の恋愛小説。そのエッセンスが詰まった、珠玉の作品集」。失恋もめでたく成就する恋愛も描かれるが、私はどちらかというと悲恋ものが好き。なかでもお薦めは「春つげ鳥」と「ひなげしの家」。「春つげ鳥」は22歳のわたしとちょうど倍、年上の笹原サンの物語。笹原サンには妻子がいるが、子どもの進学を機会に離婚する心を固める。笹原サンは二人のために山の上に家を買い、家財道具もそろえ始める。「毎夜、笹原サンは正確に七時ごろ帰る。…でも、その夜、笹原サンは、いつまで待っても帰らなかった」。会社で倒れて病院で死んだのだ。山の上の家には毎朝、春告鳥が姿を見せていた。「もしかしたら笹原サンは、わたしに、あの春つげ鳥を見せるために、わたしにめぐりあったのではないかと思われる」。「ひなげしの家」は、神戸の都心をはずれた西の盛り場でバーをやっているわたしの叔母さんには長年連れ添っている画家の叔父さんがいる。叔父さんには別に家族がいるが別居している。「ひなげしの咲く前に、叔父さんは入院した」「たった七十日の入院で、叔父さんは死んだ」「ガンである」。病室から叔母さんが出て行った。「いつまでたっても、叔母さんは帰らなかった。叔母さんはひなげしの家で、首を吊って死んでいた」。「遺書もなかった。叔母さんはいさぎよかった」「ひなげしの家は、いまは人手に渡った」。

2月某日
虎ノ門の社会保険福祉協会で「保健福祉委員会」。協会の保健福祉活動の報告を受け、必要に応じて助言する。今回で委員会は役割を終えるということで近くのフレンチレストランで昼食をご馳走になる。昼食後、15時に人と会うことになっているので新橋界隈をしばし散策。15時に烏森口で厚労省OBの堤修三さんと待ち合わせ。近くの昼飲みできる店に入る。もともと厚労省の医系技官だった高原亮治さんと3人の呑み会だったが高原さんが赴任先の高知で亡くなったので2人の呑み会に。3人は堤さんが東大法学部、高原さんが岡山大学医学部、私が早稲田の政経と出身大学も別々だが、それぞれの大学の全共闘崩れという共通項がある。

2月某日
図書館で借りた「ゲーテはすべてを言った」(鈴木結生 朝日新聞出版 2025年1月)を読む。芥川賞受賞作である。高名なゲーテ学者の博把統一(ひろば・とういち)の一家を描く。惹句に曰く「若き才能が描くアカデミック冒険譚!」。まぁそういうことである。

モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
「力道山-『プロレス神話』と戦後日本」(斎藤文彦 岩波新書 2024年12月)を読む。力道山は私の子どものころのヒーロー。著者は力道山を描くことによって戦前から戦後日本の一断面を描きたかったようだ。「いまここにいるぼくたちにとって、力道山の歩んだ道こそは、戦前・戦中から戦後の復興、高度経済成長期までの昭和そのものであり、戦争を体験した世代の日本人の物語であり、いままでとこれからの日本の物語、アジアの物語なのである」(あとがき)。「日本とアジアの物語」であることに共感する。力道山は戦前、日本の植民地であった朝鮮半島に生まれた。生年は1920年、22年、23年、24年など諸説ある。力道山は現在の北朝鮮、韓国でも人気があるようだ。金日成主席に自動車を贈ったという話も紹介されている。プロレスラーとして成功しただけでなくプロモーター、実業家としても成功した。頭が良かっただけでなく、勝負勘にも優れていたのだろう。

2月某日
「イスラーム 生と死と聖戦」(中田考 集英社新書 2015年2月)を読む。パレスチナでは今もイスラエルとアラブ国家に支援されたアラブゲリラが戦闘を続けている。アラブの人びとが信仰しているのがイスラム教で、仏教やキリスト教と並んで世界三大宗教とも言われる。しかしその割にはイスラム教の何たるかを知らないことから図書館で本書を借りた。聖戦とはジハードのことで私の考えではアラブの人は自爆ゲリラも聖戦と考えているように思う。ジハードについて著者は「ジハードは死ぬことを目的にした自殺ではなく、あくまでも戦いであって、死ぬまで戦うのが基本」(序章)と言い切っている。そういえば半世紀ほど前、イスラエルの空港で銃を乱射して自爆した日本赤軍がいた。彼らがイスラム教徒であったかどうか知らないが、恐らくジハードを意識していたと思われる。

2月某日
アビスタにある我孫子市民図書館へ「イスラーム 生と死と聖戦」を返却に行く。良い天気なのでアビスタ前から「天王台経由湖北行き」のバスに乗る。天王台で下車、北口の泰山逸品という中華料理屋でランチ。店員の言葉使いからすると、中国人の経営かと推定される。泰山一品という店名からして中国っぽい。五目チャーハンを注文する。私好みにパラパラに仕上がっている。満足して代金、880円を支払う。帰りは天王台から一駅の我孫子へ。我孫子からバスに乗車、手賀沼公園前で下車。市民図書館に寄って帰宅。

2月某日
今日は月曜日で図書館の休館日。遅い朝食をとったあと、徒歩で駅前の我孫子県民プラザへ。ここは県の施設で学習室や会議室などが充実している。私はだいたいが1階のホールのベンチに座って読書。私のような高齢者が待ち合わせ場所として使っている。15時になったので駅前の「しちりん」がオープンする時間。マスターが暖簾を出すと同時に入店、ホッピーと国産ニンニクオイル揚げをいただく。我孫子駅前からバスでアビスタ前へ。そして帰宅。

2月某日
「力道山未亡人」(細田昌志 小学館 2024年6月)を読む。日本航空の客室乗務員だった田中敬子は21歳で当時、人気も実力も絶頂期にあった力道山と結婚する。しかし盛大な結婚式を挙げて1年も経たないうちに力道山はヤクザとの諍いの末に死ぬ。敬子は小学生のとき神奈川県の健康優良児に選ばれ、高校生のときは神奈川新聞主催の英語論文コンクールで特等賞をとるなど健康にして学業優秀な少女だった。彼女の夢は外交官となることで、大学は国際基督教大学を志望する。入試に落ちて予備校の通学途中の電車で「日本航空客室乗務員・臨時募集」のポスターに魅かれ、試験を受けて見事、合格する。ポスターと出会わなければ客室乗務員になることもなく、力道山との結婚もなかったであろう。力道山は粗暴で酒癖が悪いとの風評があるが、敬子には優しかったようだ。しかも企業家としても鋭いセンスを持っていたといってよい。力道山と敬子は娘に恵まれたが、その娘の子が慶応高校で甲子園に出場したことも明かされている。彼は慶応高校から慶應大学に進み、三菱商事に就職したという。そういえばプロレス中継は三菱電機の提供であった。

モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
久しぶりに我孫子から上野経由で神田へ。社保研ティラーレの吉高会長を訪問。佐藤社長は新人議員の秘書仕事に多忙を極めているようだ。吉高会長と雑談しながら缶ビールをいただく。地下鉄の大手町から銀座へ。銀座風月堂ビルでセルフケアネットワークの高本代表を訪ね3月22日の花見の会の概要を聞く。風月堂ビルから歩いて有楽町の東京交通会館へ。ふるさと回帰支援センターの高橋ハム代表を訪問。ほどなく大谷源一さんが登場。3人で銀座のフランス料理店へ。元厚生労働省の中村秀一さん、元読売新聞記者で現在は「子どもと家族のための政策提言プロジェクト」の共同代表を務める榊原智子さんが待っていた。高級フランス料理を堪能。大谷さんと有楽町から上野まで山手線で帰る。上野で大谷さんと別れ、私は上野から我孫子へ。運よく座れた。豪華フランス料理は中村さんと高橋さんにご馳走になる。

2月某日
北海道室蘭市で小中高が一緒だった佐藤正輝君が東京に来るというので新橋駅の機関車前で4時50分に待ち合わせ。私が行くとすでに佐藤君、山本良則君、上野英雄君、大郷君それに山本君の前の奥さんの新谷真理さん、高校から一緒だった中田(旧姓)志賀子さんが揃っていた。大郷君が別に用事があるというので機関車前で記念撮影。客引きをしていた青年にシャッターを頼むと機嫌よく引き受けてくれた。私が予約を入れておいた、ニュー新橋ビル2階の初藤へ。佐藤君、山本君、上野君は小学校からの付き合いだから、およそ70年くらいか、新谷さん、中田さんは高校からだが、それでも60年くらいの付き合いだ。楽しく歓談してひとり3000円ほどの勘定になったが、佐藤君が全部払ってくれた。佐藤君は全員にお土産までくれた。新橋で解散。私は新橋から山本君と上野東京ラインに乗り、山本君は北千住で春日部へ。私はそのまま我孫子へ。

2月某日
「代替伴侶」(白石一文 筑摩書房 2024年10月)を読む。「国連が『世界人口爆発宣言』を行ったのがいまからほぼ半世紀前」という近未来が舞台。伴侶を失い精神的に打撃を被った人間に対し、最大10年という期限つきで、かつての伴侶と同じ記憶や内面を持った「代替伴侶」が貸与されることになった…。というストリー。私はマンガの「鉄腕アトム」を思い出した。最愛の息子を失った天馬博士が息子にそっくりなロボット「アトム」を開発する。
子どもの頃は「鉄腕アトム」に夢中になったが、この小説には夢中になれなかった。舞台が近未来でも小説にはリアリティが必要と思うが、それが希薄なのだ。

2月某日
「別れを告げない」(ハン・ガン 斎藤真理子訳 白水社 2024年4月)を読む。昨年、ノーベル文学賞を受賞した韓国の文学者の作品。韓国の済州島(チェジュド)事件を生き残った母親と、いまを生きる力を取り戻そうとする二人の若い女性が主要な登場人物。済州島4.3事件は1948年に南半分だけの「単独選挙」に反対して済州島民が起こした武装蜂起を契機とする、朝鮮半島の現代史上最大のトラウマともいうべき凄惨な事件である。現代の韓国もユン大統領の戒厳令や大統領の解任など、政治的な混乱が続いている。私はそこに韓国の民主主義の成熟を感じるのだが、逆に未成熟を指摘する識者もいる。私は本書を読んで済州島事件や光州事件を通して韓国民は民主主義を「戦いとった」と思う。本書はもう一度読みたいし、ハン・ガンの他の作品も読んでみたい。

モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
「ロシアとは何ものか-過去が貫く現在」(池田嘉郎 中央公論新社 2024年5月)を読む。プーチン大統領が率いる現在のロシア連邦、その前身はソ連であり、ソ連はロシア帝国の打倒のうえに築かれた。東京大学大学院教授で73年生まれの著者は、該博な知識をもとに「ロシアとは何ものか」を解説してくれる。「はじめに」で「過去100年ほどのあいだに、ロシアは帝政から共産党独裁へ、そして大統領国家へと変転をとげた。だが、ロシア史を貫く基本構造は同じである」とし、「統治が直接的な人間関係によって支えられている」と続ける。これを説明するために著者はゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念を用いる。ゲマインシャフトとは、血縁共同体が代表的で「個々の部分がはじめから全体の有機的な一部をなす共同体」でゲゼルシャフトとは、「個々の部分がある利害のために集まって、全体を形成している共同体」で会社が代表的な事例である。「各人が固有の権利をもたず、一個の集団として上位権力から構成されるロシアの人的結合は、よりゲマインシャフト的な傾向をもつ。これに対して、各人が固有の権利をもつヨーロッパ人の人的結合は、よりゲゼルシャフト的な傾向をもつ」。なるほどで。そうすると戦前の日本はゲマインシャフト的であり、中国や北朝鮮もそういう傾向があることにならないか。ただ日本は戦後、完全にゲゼルシャフト化したかというとそうでもないのではないか。昨今のフジテレビや中居某の問題を見聞するに現代日本にもゲマインシャフトの影が残っているように思う。ただロシアもゴルバチョフの時代にゲゼルシャフト化する機会があったようだ。

1月某日
監事をやっている一般社団法人の理事会が八重洲であるので出席。2月にある高校の同期会の会場の予約のためにニュー新橋ビルの「初藤」へ。ランチの後、予約を済ませる。神田駅西口で前の会社の同僚と17時30分に待ち合わせ。時間があるので新橋⇒有楽町⇒東京⇒神田と歩く。17時30分に同僚と会い、西口直ぐの「ととや大関」へ。調子に乗っていささか呑み過ぎ。

1月某日
「あさ酒」(原田ひ香 祥伝社 2024年10月)を読む。「ランチ酒」シリーズの最新刊。「見守り屋」を始めることになった美麻。一晩、クライアントが眠っているのを見守るのが「見守り屋」の仕事。仕事が終わってから朝からやっている食べ物屋で朝食をとることになるのだが…。「ランチ酒」シリーズはそこそこ面白いと感じたのだが、本作はちょっとね。「読み終わったらなるべく早くお返しください」の黄色いラベルが貼ってあったので、これから図書館に行って返してきます。

1月某日
有名タレント中居某から発したフジテレビ問題。社長と会長が辞任し、遠藤龍之介副会長も3月に辞任するという。フジテレビの経営陣はこれで何とか問題の決着を図ろうとしたのだろうが、マスコミと世間の追求の嵐は収まりそうもない。社長と会長を歴任した日枝取締役相談役の辞任は避けられないのではないか、というのが私の個人的な観測。さらに個人的な観測を言わせてもらえば、フジテレビ問題には日本の天皇制の問題が潜んでいる。戦前の明治憲法では天皇は無答責とされた。天皇にはあらゆることに責任がないのである。天皇を政治家や軍部から一歩距離を置かせた伊藤博文らの知恵であった。フジテレビの相談役も無答責なのである。明治憲法は立憲君主制に立脚した、当時としては優れた憲法であったが、軍部の独裁を防ぐことはできなかった。フジテレビは元に戻ることはできるのだろうか?

1月某日
「天皇の歴史08 昭和天皇と戦争の世紀」(加藤陽子 講談社 2011年8月)を読む。昭和天皇は1901(明治34)年4月、明治天皇の皇太子(後の大正天皇)の第1子として生まれる。生涯に3度の焦土を経験した。1度目は皇太子として訪問したヨーロッパで第1次世界大戦の戦跡を訪ねた。皇太子は「戦争というのは実にひどいものだ」とつぶやいたという。2度目は1923年の関東大震災。皇太子は摂政に就任していた。自動車や騎馬で現場を視察した。3度目は太平洋戦争末期の東京大空襲で、天皇は陸軍の軍装で被害地を自動車で巡行した。本書を読むと日中戦争から太平洋戦争における天皇の軍事的な発言が目につく。かなり的確な発言だったようだ。軍事的な知識も豊富だったと思われる。私などは戦後の昭和天皇しか知らないから、生物学者としての天皇や地方巡行の際の「愛される皇室」を体現した天皇皇后像を思い浮かべるだけだが、戦前は確かに大元帥陛下としての天皇でもあったのだ。著者の加藤陽子は東大教授、日本近代史専攻の歴史学者である。半藤一利との共著もある。略歴を見ると1960年うまれ、今年65歳だから東大は定年の歳である。 

モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
小川町の蕎麦屋「創」でフィスメックの小出社長、社会保険出版社の高本社長と会食。ここは料理もおいしいが日本酒の品揃えが多いのが特色。日本酒に目を奪われて料理のことをあまり覚えていないのが難点だ。小出社長にすっかりご馳走になる。帰りは新御茶ノ水から千代田線で我孫子まで1本。途中で家に電話して我孫子駅まで迎えに来てもらう。

1月某日
「全斗煥-数字はラッキー7だ」(木村幹 ミネルヴァ書房 2024年9月)を読む。韓国では現職のユン大統領が訴追され、職を追われる危機にあるという。その一方で直近の世論調査では野党に水を開けられていた与党の支持率が野党を逆転したという。韓国の政治状況に比べると日本はぬるま湯と思うのは私だけだろうか。韓国では大統領を辞めた後に訴追されるケースが極めて多い。訴追されていないのはユン大統領の前の文大統領など僅かといってよい。全斗煥は朴大統領が暗殺された後の大統領で朴と同様、陸軍の出身である。彼が在任した1981~87年は朴に引き続き、韓国の高度成長期であり、退任した翌年にはソウル五輪が開催されている。しかしその開会式に全が出席することはなかった。在任中に起きた光州事件への関与などが影響したと思われる。結局、全は95年に収監され96年に無期懲役が確定するが、翌年には特赦で放免されている。21年11月、90歳で死去している。なぜ韓国は権力を失った前大統領に厳しいのだろうか。私は韓国が保守と革新の厳しい対立、されも僅差の対立によることが大きいと思う。対して日本の場合は天皇の存在が大きいのではないか。天皇は権力は持たないが、それ故、国民の統合の象徴としての機能を果たしているように思う。

1月某日
「加耶/任那-古代朝鮮に倭の拠点はあったか」(仁藤敦 中公新書 2024年11月)を読む。私が日本史を学んだのはもう60年も前の高校生のとき。そのとき朝鮮半島の南部には任那日本府というのがあって日本が領有していたと学んだものだった。しかしそれは現在ではかなり否定されている学説だということを本書で初めて知った。任那日本府の存在は日本書紀に記述されているのを根拠とし、また好太王の碑にも倭が百残(百済の蔑称)を従えたということが記されている。著者の仁藤はきちんとした史料批判により歴史的事実を明らかにして行く。任那は日本書紀ではそのように表記されているが、古代朝鮮では加耶と呼ばれた地域である。では任那日本府はあったのか。「あとがき」から引用する。「本書を手に取る方が、一番関心あると思われるのは『任那日本府』の解釈だろう。これは、倭から派遣された使者、土着した二世の旧倭臣、在地系加耶人という三つから構成された集団である」。科学としての歴史学が定着するまで、権力者に都合の良い歴史が作られたのだ。

1月某日
フジテレビの社長会見に反発、フジへのCM放送を差し止める企業が相次いでいると報じられている。朝日新聞によると「現時点ではACジャパンのCMが流れても、広告料金はテレビ局に支払われるという。フジ関係者によると深刻な影響が出るのは、4月以降の番組だ」という。もともとタレントの中井某と女性の間で発生したトラブルに端を発した問題。インターネットの発達などによって新聞やテレビなどの既存メディアの影響力は急速に低下しているという。今回の問題はそれに拍車をかけることになるだろう。
兵庫県議会の百条委員会の委員を務めていた前県議が死亡(自殺とみられる)した。NHK党の立花孝志氏らによるネットでの誹謗中傷が原因という。立花氏は「前県議は兵庫県警の任意取り調べを受けていた」「明日逮捕される予定」などの事実とは異なる情報をネットで流していた。ネットなど情報の進化に比べて、それとどう向き合うかという態度、慣習、リテラシーの整備が追いついていないのだろう。

1月某日
トランプ大統領の就任式。トランプ支持層の熱狂と反トランプ層の沈黙。私の観るところ熱狂的なトランプ支持層というのは白人の労働者階級が多いのではないか。アメリカの製造業の多くが国際競争力を失い、多くの労働者が工場を去った。職とともに誇りを失った労働者も多かったのではないか。そんな彼らに訴えたのがトランプの「メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン」だ。そこにファシズムの兆しはないのか。私は第一次世界大戦の敗北により自信喪失したドイツ国民に、アーリア民族の栄光を訴えたヒットラーを思い浮かべてしまうのだが。

1月某日
「西郷従道-維新革命を追求した最強の「弟」」(小川原正道 中公新書 2024年8月)を読む。西郷従道(1843~1902)は西郷隆盛の実弟であるが、父を幼くして亡くした従道にとって、15歳離れた隆盛は父代わりの存在であった。従道は戊辰戦争に従軍、明治新政府でも主として軍事畑で能力を発揮する。兄隆盛は西南戦争で賊軍の将として自裁するが、従道は軍隊でも政府でも要職を歴任する。何度か「総理大臣」の声があったが従道が受けることはなかった。従道は当初は陸軍に属し、陸軍として台湾出兵も経験しているが、初の入閣は第1次伊藤内閣の海軍大臣であった。当時彼は陸軍中将であった。従道は権力欲が薄く、したがって敵も少なかったと思える。総理大臣を受けなかったのも「分をわきまえる」ためだったのかもしれない。