モリちゃんの酒中日記 6月その1

6月某日
NHK BSで韓国映画「タクシー運転手―約束は海を越えて」を観る。事前の知識はまったくなかったが1980年の光州事件に巻き込まれたタクシー運転手の話だ。ソウルのタクシー運転手が学生や市民が民主化を叫んでいる光州市へドイツ人記者を乗せる。妻に死なれ一人娘と生活する運転手にとって高額な報酬が魅力だったのだ。ドイツ人記者の映像取材に同行するうちに、運転手は次第に光州市の市民や学生に同情的になっていく。いったんはドイツ人記者を光州市に置いて、ソウルの娘のもとに帰ろうとする運転手だが、知り合いになった市民や学生、ドイツ人記者が気になって光州へ引き返す。軍隊や警察の弾圧はさらに激しさを増し、取材に協力してくれた学生も虐殺される。「この現実を世界に伝えてくれ!」という学生の声を胸に運転手と記者は空港を目指す。軍の追跡を阻むために光州のタクシーが何台も参加してカーチェイスを展開するのが後半の山場だ。天安門事件もそうだが光州事件、そして香港の民主化闘争の映像は涙なしには見られない。年を重ねて涙もろくなったこともあるのだろうけれど。

6月某日
白人警官が黒人青年を死なせたことをきっかけに全米各地でデモが広がっているとニュースが伝える。トランプ大統領はデモの鎮圧に軍隊の出動も考慮しているという。光州事件や天安門事件の再来か?「アンティファ」という組織が過激な行動を煽っているとの報道もあった。アンティファってアンチ・ファシストのことでヒットラー時代のドイツに実際に存在した組織ということだ。現在のアンティファの組織の実態はよく分からないらしい。放火や略奪はいけないがデモはどんどんやったらいい。警官隊への投石?個人的には許容します。
今日の昼ご飯はチャーハンを自分で作った。玉ねぎ4分の1、ピーマン2分の1、ニンジン少々、ニンニク少々を予め刻んでおく。レタスの皮をちぎっておく。生卵をご飯にかけ混ぜておく(こうしたほうが卵とご飯のくっつきがいいような気がする)。中華鍋をガスに掛け、温まったら油を引く。ニンジン、ニンニクを入れ、卵とご飯も入れ、玉ねぎ、ピーマンを入れる。昨日の夕ご飯のおかずの残りの豚肉も少々入れる。最後にレタス、醤油、胡椒を入れて味を調えて完成。味は満足できるものでした。

6月某日
図書館で借りた「君がいないと小説は書けない」(白石一文 新潮社 2020年1月)を読む。白石一文っていわゆる私小説作家ではなかったと思うけれど、これはどう読んでも私小説。帯に「小説史をくつがえす自伝的小説、堂々刊行」「鬼才の叡智、作家の業、ここに結集す」と刷り込まれている。白石は小説家の白石一郎を父として福岡に生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業後、文藝春秋社に入社し雑誌記者や編集者を経た後、小説家としてデビューした。小説の主人公、野々村保古も小説家の父を持ち早大政経学部を卒業して出版社に入社して、記者や編集者として活躍後、作家となっている。一子を設けた後、離婚、現在の同棲相手ことりと事実婚(前の妻が離婚に応じないため)というこの小説のストーリーも事実乃至はそれに近いのだろう。それにしても作家とはすごいものだとつくづく実感。相対性理論はアインシュタインが発見しなくても、いずれ誰かが発見しただろうがピカソのゲルニカはピカソでなければ描かれなかったというような記述が文中にあったが、それは白石の小説家としての自負なんだろうね。

6月某日
1週間ぶりの上京。13時から社保研ティラーレで打ち合わせがあるため。先ずは鎌倉橋ビル地下1階の「跳人」でランチ。暑かったので「刺身定食」と生ビールを頼む。生ビールを飲み干すと店員の大谷さんが「お代わりは?」と聞いてくるが断る。食後のアイスコーヒーをサービスしてくれる。児谷ビル3階の社保研ティラーレで佐藤社長、吉高会長と打ち合わせ。社会保障フォーラムの日程を確認し来週から講師の依頼を進めることに。我孫子へ帰って「いしど歯科」へ。虫歯の治療と歯石取り。これで今回の治療は終了ということで「歯ブラシ」を頂く。「いしど歯科」から手賀沼湖畔へ。ほぼ日課になっている白鳥の親子を鑑賞。親白鳥が2羽、子どもの白鳥が5羽。親白鳥は夫婦なんだろうな。

6月某日
「12人の手紙」(井上ひさし 中公文庫 1980年4月)を読む。私が読んだのは2020年3月改版8刷発行で、帯に「井上ひさし没後10年」と刷り込まれてあった。井上ひさし(1934~2010)は私が小学生の頃のNHKテレビ「ひょっこりひょうたん島」の作者として私には身近だ。ということは1960年前後だから当時、井上は20代ということになる。それはともかく本作は単行本として1978年6月に中央公論社から出版されている。井上が40代、作家として最も脂が乗り切っていた頃と言ってもいいかも知れない時期の作品である。プロローグ、エピローグ含めて13の短編が収録されているが、エピローグ以外はすべて書簡を中心とした構成となっている。プロローグの「悪魔」は両親の不仲に悩んで家出同様に上京した娘が、就職先の社長の甘言に惑わされ関係を持つ。社長の離婚を信じていた娘は社長の不実を知り、社長の子どもを殺めてしまう。最後は娘から同級生への「差し入れありがとう」という東京拘置所からの手紙で結ばれる。「葬送歌」は小説家への劇作家志望の女子大生への手紙とそれへの小説家の返信という形式。女子大生は去る作家の小品をもとにした「帰らぬ子のための葬送歌」という戯曲を小説家に送る。テロ未遂事件を起こした青年が留置場で虐殺され、青年の恋人が遺骨を北国の母に帰しに来るという筋の戯曲だ。戯曲を読んだ小説家は、リアリティがないという感想を綴った手紙に続けて「去る作家の小品」とは昭和10年ごろ同人誌に発表した自分の作品ではないかという手紙を送る。学園祭に展示する小説家の自筆の手紙が欲しいが故の女子大生のトリックという種明かしだ。しかし私は「帰らぬ子のための葬送歌」という戯曲が、特高に虐殺された小林多喜二とその母のことを思い出されて切なかった。全体的に非常に凝った、それでいて作者の社会の底辺にいる人々への温かいまなざしが感じられる作品であった。

6月某日
図書館で借りた「占(うら)」(木内昇 新潮社 新潮社 2020年1月)を読む。木内昇(のぼり)は1967年生まれの女流作家、「漂砂のうたう」で直木賞受賞。日経新聞連載中から愛読していた「万波を翔ける」は蘭学に励む幕臣の次男坊が幕末の外交官として活躍する姿を描いたもの。幕末から明治、大正時代の江戸、東京を舞台とする小説を得意としているようだ。本作はタイトル通り占いをテーマとした短編連作集。作中の雰囲気は高音というよりは中低音、つまり暗め。冒頭の「時追町の卜い家」は翻訳を業とする独身女、桐子が主人公。瓦の修繕を頼んだ若い大工と関係を結ぶことになるが、若い大工には苦界に売られた妹がいて、彼は妹のことになると他のことが眼に入らなくなる。桐子は迷い込んだ時追町で一軒の「卜い家」に出会う。「卜い家」は今で言う「占いの館」で、何部屋かに占い師が控えている。桐子が通された部屋には汀心と名乗る初老の女が待っていた。とこういうような話が七つ並ぶ。他の6作のタイトルだけ示すと「山伏村の千里眼」「頓田町の聞奇館」「深山町の双六堂」「宵町祠の喰い師」「鷺行町の朝生屋」「北聖町の読心術」。地名は架空と思われるが地名も中低音だ。

モリちゃんの酒中日記 5月その4

5月某日
「未完のファシズム-『持たざる国』日本の運命」(片山杜秀 新潮選書 2012年5月)を読む。発売直後、結構評判になって買ったものだが、今回再読して内容をほとんど覚えていないことに驚いた。新型コロナウイルス対策で我孫子市民図書館が閉鎖され、家にある本を読んでいるのだが、こういうこともあるのでコロナ禍もまんざら悪いことばかりじゃないのである。 片山杜秀は1963年生まれで本書が出版された当時は慶応義塾大学法学部の准教授だったが今は教授である。音楽評論家としても知られ著作もある。映画にも詳しく本書の「あとがき」では平田昭彦(1927~84)という映画俳優に触れている。平田は東宝映画「ゴジラ」(1954)に芹沢大助という科学者役で出演し、ゴジラを破壊する水中酸素破壊装置を発明させる役を演じている。平田は敗戦時には陸軍士官学校生徒で、長野県松代で本土決戦に備えていた。「あとがき」からその辺を引用すると「一億玉砕の覚悟で最後の勝利をつかみとろうとしていた平田さんが、9年後には映画俳優になって、「ゴジラ」に出演し、間に合わなかった対米決戦兵器を抱いて放射能怪獣に神風アタックを行い、平和を訴えて死んでゆく。歴史の面白さです」。こういうことを「あとがき」に書く歴史家、思想史研究家はなかなかユニークと言わなければならないだろう。
片山は第一次世界大戦に注目する。第一次世界大戦では日本はそれほど大きな軍事行動はとらなかったものの、主戦場となった欧州各国に対する輸出で大儲けをする。戦争成金の登場である。日本はこの戦争を契機にして産業の重化学工業化を図ることができたし、その一方で戦後アメリカのウイルソン大統領によって提唱された国際連盟の常任理事国の地位を手に入れる。片山はこの戦争で日本がとった唯一と言ってもよい作戦行動、青島攻略戦を取り上げる。青島攻略戦で日本は大口径の榴弾砲でドイツ軍の要塞を徹底的に攻撃する。要塞砲や機関銃坐を破壊したのちに歩兵が占領するというパターンである。これは第二次世界大戦で米軍が日本軍に対して、艦砲射撃や空爆で攻撃したのちに歩兵が上陸するという作戦を髣髴させる。要するに青島攻略戦の頃は帝国陸軍も合理的な思想を持っていたということであろう。第一次世界大戦後の日本の仮想敵国はアメリカとソ連に絞られる。アメリカにしろソ連にしろ石油、鉄鉱石など資源に恵まれた「持てる国」であった。それに対して日本は資源を輸入に頼らざるを得ない「持たざる国」である。石原莞爾の世界最終戦争論では日米の最終戦争に備えて日本は満洲を手に入れ「持てる国」となる戦略が示されている。しかし石原の構想は実を結ばず、日本は太平洋で米軍と、中国大陸で国民党軍や中国共産党軍と、ビルマ戦線では英軍と戦わざるを得なかった。敗戦の年の8月にはソ連と満洲の国境にはソ連軍が押し寄せてくる。勝てる戦いではなかったのである。戦争指導者の責任は重いと言わざるを得ない。

5月某日
手賀沼湖畔の喫茶店兼の古書店で購入した「白く塗りたる墓」(高橋和巳 筑摩書房 1971年5月)を読む。高橋は71年の5月に死亡しているから絶筆となるのかもしれない。第11章まで書き進められ未完で終わっている。本書は高橋の小説には珍しくテレビ会社を舞台にした現代小説である。六全協の頃の前衛党の内部を描いた「日本の悪霊」、戦前の新興宗教を描いた「邪宗門」など高橋には高度成長にいたる前の日本を描いた小説が多い。タイトルの「白く塗りたる墓」はマタイ伝の一節から取られている。「偽善なる学者、パリサイ人」を「白く塗りたる墓」に例え、「外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまなの穢れとにて満つ」と告発しているのだ。主人公の三崎省吾は報道部の解説室長で解説番組に出演している。テレビ局の労働組合にも反戦派の影響が及び始め、三崎は会社側と労働組合の板挟みにあって次第に健康を害していく。三崎はほとんど高橋その人ではないかと感じられた。執筆当時の高橋は京都大学文学部の助教授で全共闘の主張に理解を示す。助教授に就任したのが67年4月、69年3月に学生側を支持して辞職、71年5月に死去。高橋は三崎の苦悩を通して革命運動と知識人の関係性を描くと同時に「パリサイ人」としての知識人の偽善性を明らかにしたかったのではないか。

5月某日
NHKBSプレミアムで映画「遥か群衆を離れて」(1967年のイギリス映画)を観る。先日、やはりはりBSプレミアムで「ドクトルジバゴ」でラーラ役を演じていたジュリー・クリスティが主演しているためだ。ラーラは知的でありながら情熱的な役柄だったが本作でジュリー演じるが女性、バスシェバもそんな役柄だ。叔父からの遺産として農場の女主人となるバスシェバに3人の男が絡む。1人は以前、バスシェバに求婚したが「その気はない」と振られた羊飼いの男。自分の牧場は失いバスシェバの農場に雇われる。1人はバスシェバの農場の隣で広大な農地を所有する男性。最後の一人は騎兵の伍長。バスシェバは色男で女にモテモテの伍長と結婚するが、賭け事にのめり込んだ伍長は海で溺死する。農場主の男性から求婚されたバスシェバは悩みつつも受け入れる。農場主の邸宅で開かれた婚約披露のパーティーに死んだと思っていた伍長が現れ、場主は伍長を射殺し捕らわれる。で、結局は羊飼いの男と結ばれるというハッピーエンドなのだが、私は殺された伍長や捕らわれた農場主に哀れを感じた。映画としてはまぁ二流。でも私、ジュリー・クリスティのファンなので…。

5月某日
「昭和史講義【軍人編】」(筒井清忠編 2018年7月 ちくま新書)を読む。これも2年前に買って読んだはずだが内容をほとんど覚えていない。昔から物覚えは良かったはずだが、これも老化か!まぁ今年72歳だからね、受け入れましょう。最初に筒井清忠が「昭和陸軍の派閥抗争―まえがきに代えて」を執筆している。筒井は昭和史の著作、とくに戦争や軍隊・軍人を扱ったものには不正確なものが多いと苦言を呈し、その理由として出版社の需要が多いのに研究者側の供給が少ないことをあげ、「戦後かなりの間このテーマに関心を抱き研究をすること自体が戦争を肯定しているという誤解が生じがちでそのためテーマとして避けられ続けた」としている。筆者(筒井)の世代が研究成果を発表し出した1970年代ころから客観的な研究が行われ始めたという。筒井は1948年生まれだから私と同世代、そんなもんですかね。それはともかく筒井は、派閥抗争の観点から昭和陸軍の歩みを振り返る。それによると明治以来、山県有朋を頂点とする長州閥が陸軍をけん引していたが、大正後期・昭和初期には人材が切れ、準長州閥の宇垣一成を軸にした宇垣閥へと展開した。長州閥、宇垣閥に対抗したのが大山巌に始まり上原勇作を中心とした薩摩閥で、これが真崎甚三郎、荒木貞夫を擁する九州閥に転生していく。そうしたなか、陸士同期の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次がドイツの保養地、バーデン・バーデンに集い第一次世界大戦の教訓を基に、総力戦体制確立、長州閥専横人事の刷新などで合意した。彼らは帰国後「二葉会」を結成し、それは「木曜会」「一夕会」につながり、永田や東条英機らの中堅幕僚による日本を高度国防国家に作り替えていこうとする「統制派」に続く。一方、北一輝や西田税の影響を受けた青年将校グループは真崎を押し立て陸軍と国政の改革を進めようとした。のちに2.26事件と呼ばれるクーデター未遂を起こした「皇道派」である。2.26事件後、首謀者は逮捕処刑され皇道派は壊滅、統制派が陸軍の主流となるが、統制派も後に首相、陸相、参謀総長を兼務することになる東条の派閥と世界最終戦論を唱える石原莞爾派に分かれることになる。本書では14人の陸海軍人が取り上げられている。皆それぞれ優秀な人であるが、日本軍全体としてはダメだったわけ。「日本はなぜ開戦に踏み切ったかー『両論併記』と『非決定』」という本を読んだことがあるが、要するに決定できないんだよね。それで両論併記に逃げる。「新型コロナ対策」にもそのことは言えないか?

5月某日
図書館が一部再開。リクエストした本を受け取れるようになった。今日は林真理子の「綴る女 評伝・宮尾登美子」(中央公論新社 2020年2月)を読むことにする。評伝は1990年の4月14日にホテルニューオータニの別館で開かれた「第8回宮尾杯争奪歌合戦」から始まる。当日の進行表によると出席者は朝日新聞社、角川書店、講談社、集英社、新潮社、世界文化社、中央公論社、テレビ朝日、東宝、文藝春秋、東映といった日本を代表する出版社やマスコミである。ゲスト審査員は女優の浅利香津代、藤真利子、作家の中上健次、画家の灘本唯人、歌手の都はるみである。直木賞を「一絃の琴」で受賞した宮尾は「序の舞」「陽暉楼」「鬼龍院花子の生涯」と言ったベストセラーを次々と発表し、その多くが映画化やテレビドラマ化されていた。そんな華々しさとは裏腹に宮尾は孤独であった。生前、宮尾と親交のあった林真理子がその孤独に迫る。林は「前書き」で「私は宮尾さんの評伝を書くにあたって、どうしても知りたいことがあった。いや、そのために評伝を書こうと思い立ったのだ」とし「私をあれほど熱狂させた『宮尾ワールド』は、本当に存在していたのだろうか。の登場人物の女衒の岩伍は実在していたのだが、隆盛を誇った土佐の花柳界の話は本当だったのか…」と記している。

5月某日
大谷源一さんが我孫子来訪。我孫子駅の改札で待ち合わせ、成田街道から嘉納治五郎邸宅跡、柳宗悦宅だった三樹荘、天神坂を歩く。手賀沼周辺を散策し、レストラン「コビアン」で食事。私にとっては50年近く住む我孫子の風景は日常だが、大谷さんにとっては湖畔の風景はちょっとした非日常だったようだ。

モリちゃんの酒中日記 5月その3

5月某日
「検察庁法改正、今国会成立を断念。政府与党、批判受け転換」という記事がWEBに共同通信から配信されていた。当然だろうね。だいたい内閣が「この高検検事は63歳定年」「この高検検事は定年を65歳まで延長して検事総長に」なんてことをやると、検事の政治的中立性が侵されることが眼に見えている。こんなことは検察庁法改正を国会に上程する前に、自民党の内部できちんと議論すべきことだと思う。中央省庁の局長級以上の人事を内閣人事局で一括してやるというのもおかしい。官僚の人事は事務次官が責任を持ってやるのがいい。中央省庁の少なくとも課長になったらきちんと国会議員や大臣に意見を言えるようにならないとね。もっとも私の知っている元官僚(特に名を秘す)は「○○先生(国会議員)は理解できないと思ったから騙したよ」と私に語っていたけれど。

5月某日
NHKのBSプレミアムで映画「飢餓海峡」(1965年 内田吐夢監督)を見る。原作は水上勉。北海道岩内で質屋の主人が惨殺される。犯人は金を奪った後に質屋に放火、これが岩内大火の原因となる。網走帰りの2人の犯人に協力するのが三国連太郎。3人で岩内から函館へ逃げるが、函館は青函連絡船の遭難の真っ最中である。3人は小舟を調達、下北半島を目指す。下北半島に着くことができたのは三国と奪った金だけだった。犯人の2人の遺体は函館の浜に流れ着くが、青函連絡船遭難の犠牲者として処理される。遺体の頭部の傷に疑問を抱いたのが函館署の刑事、伴淳三郎だ。遺体を火葬にせず土葬とすることにより遺体の身元が網走帰りの2人であることが判明する。三国は青森で娼婦の左幸子と一夜を共にし、左に奪った金の一部を渡す。左はその金で娼家の借金を清算、東京に出る。亀有の娼家で左の見た新聞に舞鶴で成功した実業家(三国)が2000万円を寄付したことを知る。舞鶴に三国を訪ねた左に三国は会ったことはないと突き放すが、激情のうちに絞め殺してしまう。一瞬、三国は左のことを認め2人は抱き合うのだが、そのまま三国は左を絞殺してしまう。ここら辺が凄いですね。舞鶴署の刑事が高倉健で署長が藤田進。結局、三国は罪を認め検証のため北海道へ移送される。ラストは三国が青函連絡船から身を投げる。「飢餓海峡」ってよく名づけたと思うね。左が高等小学校卒業後、娼婦として身を売らなければならなかったのも、三国が金を奪ったのも「貧しさ」故だからね。

5月某日
「満洲事変―『侵略』論を超えて世界的視野から考える」(宮田昌明 PHP選書 2019年12月)を読む。本書は従来の我が国の第2次世界大戦に至る近現代史観を「天皇を中心とした抑圧的国家の成立と、それに伴うアジアへの侵略から、ヨーロッパ諸国やアメリカとの帝国主義戦争、そして破滅的敗北と戦後の民主化へ、という歴史観」とし、その中で満洲事変は「武力によって中国の領土を奪取すると共に、国内に軍国主義を確立し、支那事変、大東亜戦争への流れを決定づけた転機として位置づけられてきた」(はじめに)とする。私はまさに著者が否定する歴史観によって教育され、今もその歴史観を基本的に容認しているものである。したがって著者の歴史観とは相容れないのだが、それはそれとして本書からは教えられるところが多かった。本書の帯に「民族自決を否定した中国、少数民族の権利を保護した日本」という刺激的な文字が刷り込まれている。これだけを読むと本書はトンデモ本と見られかねないが、本文を読んでみるとなるほどと思わせる。中国は基本的には漢民族を主体とする王朝が支配してきたが異民族支配の経験もある。最後の王朝となった清は女真族が中国を征服して建国した国名である。清王朝を倒した辛亥革命はブルジョア革命であると同時に女真族という異民族支配から漢民族を解放した民族革命の一面もある。「民族自決を否定した中国」というのは辛亥革命により成立した中華民国は新疆ウイグルやチベットなど辺境の少数民族の独立に反対したことを指している。一方の「少数民族の権利を保護した日本」というのは、おそらく日本陸軍が主導して建国された満洲国が、日本、朝鮮、満洲、蒙古、支那(漢)の五族協和をスローガンとしてきたためだろう。スローガンだけでなく実践的に満州国で五族協和が図られたかどうかは本書を読んでもはっきりしなかった。しかし、時間的には清朝末期から辛亥革命を経て満州国建国まで、空間的には中国大陸はもちろんのこと、日本列島、朝鮮半島、インドシナ半島、インドネシア、インド、イギリス、アメリカ、ヨーロッパ大陸まで叙述は及ぶ。著者の労力、努力は尊敬に値すると思う。

5月某日
岩田昌明の「満洲事変」を読んで戦前の日本がどのように行動してきたか、もっと知りたくなってきた。図書館も休みだし前に読んだ本を再読することにする。最初は「とめられなかった戦争」(加藤陽子 文春文庫 2017年2月)。加藤は1960年生まれ、桜蔭高校から東大文学部、同大大学院国史学専門課程単位取得満期退学、現在は東大大学院人文社会科学研究科教授。ウイキペディアによると在学中は民青だった。さて「とめられなかった戦争」だが、ユニークなのは第1章「敗戦への道」、第2章「日米開戦 決断と記憶」、第3章「日中戦争 長期化の誤算」、第4章「満洲事変 暴走の原点」と歴史を遡る構成になっているところ。こちらの方が歴史の因果関係がよく分かるかもしれない。第2次世界大戦で日本が闘った戦争のことを一般的には太平洋戦争と呼ぶ。岩田は大東亜戦争と呼称する。大東亜戦争とは「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」ということで開戦時の東条内閣が決めた。戦後GHQによって軍国主義と切り離しえない用語として大東亜戦争という名称が禁じられた。アメリカ側の戦争の呼称であった太平洋戦争が使われるようになったという。太平洋戦争では中国大陸や東南アジアでの戦争が忘れられがちになるという難点があるので、最近では「アジア・太平洋戦争」という名称が提唱され始めている。
この戦争の悲惨さと愚かさを加藤は2つの図版で的確に表現している。1つは「岩手県出身兵士の戦死者数の推移」。戦争の始まった1941年12月8日からを含め1942年は1222人だったが、1943年には2582人、1944年には8681人とうなぎ上りに増加している。戦争の終わった1945年は8月15日までで1万3370人が戦死、8月16日以降も4869人が死んでいる。加藤は「日中戦争・太平洋戦争の戦死者310万人の大半は、サイパン以後の1年余りの期間に戦死している」と述べる。指導者が戦争終結をもっと早く決断していれば失われなかった命も多かったのだ。もう1つは「日本とアメリカの国力の差―開戦時(1941年)」である。アメリカは日本に対して、国民総生産で約12倍、すべての重化学工業・軍需産業の基礎となる粗鋼生産も12倍、自動車の保有台数は実に161倍、石油資源にいたっては約777倍である。アメリカに対して総力戦を挑むなど所詮は無謀だったのだ。ここにも、国民を無謀な戦いに追い込んだ指導者の責任を感じてしまう。

モリちゃんの酒中日記 5月その2

5月某日
松浦玲の「勝海舟」(筑摩書房)を読了。結局、読み終わるまで1週間ほどかかってしまった。本文のみで700ページを超え、(注)と(参考文献)を加えれば900ページという大著ということもあるが、海舟の日記や書簡を原文のまま引用することが多く、その解読に手間取ったこともある。松浦玲は昭和6年生まれだから古文や漢文は基礎的な教養は小学校、中学校で身につけたうえに、京大は放校処分されたが立命館大学大学院修了後、京都市史料編輯主幹を務めている。幕末や明治時代の文章を原文で読むことなど容易なことだと思われる。私はというと引用された原文の意味もよく分からなかったが、さすがに地の文は理解できた。そのうえで言うと幕末、明治の日本を生きた勝海舟という「傑物」の生涯を残された資料から等身大に描き切ったと言える。本書を読んで私は勝の生涯は5期に分けることができると思った。第1期は誕生(1823年)から剣術修業、蘭学修業を経て幕府に海防に関する建言書を提出、蕃書翻訳勤務を命じられる(1855年)まで。第2期は長崎伝習を命じられてから咸臨丸艦長として太平洋を往復する(1860年)まで、幕府海軍の草創期である。第3期は1867年の大政奉還、王政復古のクーデターまで。幕臣として兵制改革に尽力する一方で第2次長州征伐の後片付けに奔走する。第4期は江戸城明け渡し(1868年)から明治維新政府に協力し参議海軍卿に就任し、辞任する(1874年)まで。第5期は海軍卿を辞任して以降、死ぬまで。元老院議員としての肩書は残るがもっぱら政界、官界の指南役として明治の社会で重きをなす。
私はこの本を読んで初めて知ったが、海舟は経済的に困窮する旧幕臣に対して経済的な援助を行っていた。資金は海舟の懐から出たこともあるし、徳川家から出たこともある。援助は旧幕臣に止まらず、明治維新で没落した士族にも及んでいたらしい。もうひとつは海舟の長男、小鹿はアメリカの海軍兵学校を卒業後、明治海軍の士官となるが健康に優れず40歳で病死する。小鹿の長女と結婚させたのが徳川慶喜の10男、精である。慶喜と海舟はときに対立することもあったが、海舟は終生、徳川家の恩顧を忘れることはなかった。海舟は日清戦争に反対していたことも初めて知った。これは後の幸徳修水や内村鑑三の非戦論や反戦論とは少し違うと思う。海舟は清国はもとより韓国も独立国として見ており、文化的にはむしろ尊敬していたと思われる。日清戦争で得た遼東半島を独仏露の三国干渉によって日本は清に返還するのだが、海舟は返還するのが筋という立場である。明治政府の主流は薩摩、長州を主流とする藩閥政府なのだが、海舟は薩摩贔屓である。西郷隆盛と親しかったことが大きかったと思えるが、長州流の合理主義とは肌が合わなかったのではないか。海舟と言えば福沢諭吉の「瘦我慢の説」を外すことはできない。福沢は「戊辰戦争のとき徳川は徹底的に抗戦し、最後は城を枕に討死すべきだった」と言うのである。海舟は「行蔵は我ニ存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せず存候」と突っぱねたという。「私の行動は自らの信念によるもの、けなしたりほめたりは他人の主張、私は知らぬこと」という意味か。これは海舟に軍配が上がったと私は見る。

5月某日
林真理子の「我らがパラダイス」(集英社文庫 2020年3月)を読む。我孫子市民図書館が6月まで休みなので家にあってまだ読んでいない本を読んできたのだが、小説を読みたくなって我孫子駅北口のイトーヨーカドーの3階にある書店に行く。林真理子の文庫本の新刊があったので買ったのだ。私の読んだ林真理子の小説はどれも面白かった。秘かに田辺聖子先生の後継者と私は考えているのですが。まぁたんに私が考えているだけですが。この小説の初出は2016年に毎日新聞に連載され、単行本は2017年3月に毎日新聞社から刊行されている。日本で最高級レベルとされる有料老人ホームを舞台に、受付職員の細川邦子、看護師の田代朝子、食堂のウェイトレスの丹羽さつきの人生が交差する。3人とも高齢の親を抱えどこかの施設へ入居させたいと思っているが、自分の勤めるホームは入居一時金が8600万円と高嶺の花なのだ。文庫本の帯に「国民の大問題、『介護』と『格差』に切り込む長編小説」とあったが、このことである。受付職員と看護師はホームの管理者や職員の眼を欺いて自分の親をこの有料老人ホームに入居させることに成功し、丹羽さつきは入居者のダンディな元編集者と結婚する。管理者は庶民=さつきが有産階級の入居者と結婚することが認められない。結構を認めることはさつきが有産階級となることを認めることだからだ。結局、庶民の3人は「蜂起」し、一部の入居者も同調し上層階に立て籠る。入居者で元学生運動家も登場し、彼の指導でバリケードを構築し火炎瓶も製造、投擲する。解説の上野千鶴子は「入居者の元活動家は自分が差別者の側にいることを自覚しないのだろうか」と疑問を投げかけるのだが。

5月某日
近所の喫茶店「NORTH LAKE」には古本も置いている。高橋和巳の本が3冊あったので買うことにする。3冊で150円!。「堕落」(河出書房新社 1969年2月)から読み始める。孤児院の園長、青木隆造が主人公で、青木は満州国建国の理想に破れた引揚者の設定。青木が新聞社から表彰されるシーンが冒頭である。孤児を救うという理想に燃えている青木は、しかし秘書の水谷を犯し公金を横領する。そして金を奪おうとした青年を持っていた傘で刺す。高橋和巳の小説は「救い」のないのが特徴、初版の出た1969年は私が学生運動で逮捕起訴された年でもある。その頃、私たちに圧倒的に支持されていた小説家が高橋だ。「自己否定」という熱に浮かされていた私の眼に、高橋も同じ熱に浮かされていると映ったのかもしれない。

5月某日
1週間ぶりで電車に乗って東京へ。鎌倉河岸ビル地下1階の「跳人」へ寄ってランチ。お店の大谷君に聞くと夜も営業を再開したそうだ。「7時ラストオーダー、8時終了ですけどね」。児谷ビル3階の社保研ティラーレで次回の「社会保障フォーラム」の打ち合わせを佐藤社長、吉高会長、社会保険研究所の水野氏らと。帰りに上野駅の本屋「BOOK EXPRESS」で月刊文藝春秋とPHP新書の「満洲事変」を購入する。文藝春秋は新型コロナウイルスの特集を読みたかったためだが、中央省庁の人事の噂を掲載している「霞が関コンフィデンシャル」をのぞくと、鈴木俊彦事務次官(58年)の後任レースは吉田学医政局長(59年)がトップで、次官と同期の樽見英樹新型コロナウイルス感染症対策推進室長も見逃せないとしていた。まぁ人事は所詮「ひとごと」ですから。

モリちゃんの酒中日記 5月その1

5月某日
西部邁の「ニヒリズムを超えて」(日本文芸社 1989年7月)を読む。西部が東大教養学部教授を辞めたのが1988年3月だから、東大を辞めてから1年4カ月後の出版ということになる。ただし収められている文章は85~88年11月に雑誌等に発表したものだ(ひとつだけチェスタトンについて論じた「保守の情熱」は書下ろし)。東大を辞める以上、国家公務員としての糧秣を絶たれるわけだから、それなりの覚悟が必要だったように思う。そのためかチェスタトン論はじめ三島由紀夫論の「明晰さの欠如」などは私には難しかった。私が西部の本に親しんだのは、西部の個人的な回想(「60年安保 センチメンタルジャーニー」「友情 ある半チョッパリとの45年」「妻と僕 寓話と化す我らの死」)が最初だったためか、彼の文学や哲学、経済学の本格的な論考は閾値が高いのである。しかし書名「ニヒリズムを超えて」の意味はささやかながら理解できたように思う。「保守の情熱」でチェスタトンを借りて「知識や道徳の絶対基準はない」とする相対主義は「現代人にとっての陥穽」である、と言い切っている。方法論としての相対主義は、意味論としては虚無主義=ニヒリズムに他ならない。ということは西部が言論戦に当たって掲げた保守主義とは、虚無主義、相対主義に抗するものであったと思われる。西部の言う保守主義は私なりの理解では精神の孤高に近しい気がする。それは本書に収録されている3人(田中美知太郎、清水幾太郎、福田恒存)の知識人論からも伺えるのである。

5月某日
西部は60年安保のとき東大教養学部の自治会委員長であり、このときの全学連委員長が唐牛健太郎である。二人の交流は唐牛が1984年享年47歳でがんで死ぬまで続く。私は唐牛健太郎の二番目の奥さん、真喜子さんとは知り合いでその縁だったのかどうか「唐牛伝―敗者の戦後漂流」(佐野眞一 小学館 2016年8月)の出版記念パーティに出席したことがある。西部は2018年1月に多摩川で入水自殺しているが、その前年の17年に真喜子さんは亡くなっている。西部と真喜子さんが仲が良かったことも知っていたから、真喜子さんを元気づけようと電話したら「唐牛は昨年亡くなりました」と聞かされた。出版記念パーティのときはいつもと変わらず元気だったのにと思ったものだった。「唐牛伝」を久しぶりに読み返すことにする。佐野眞一は文献もよく調べ何よりも関係者(このなかには真喜子さんも含まれる)も丹念に取材している。再読しても70年前の安保闘争の指導者として活動し(指導者としての活動期間は3年に満たなかったと思う)、36年前に市井の一私人として死んだ唐牛の評伝として非常に面白かった。おそらく唐牛の評伝としては最初で最後のものとなると思われる。唐牛は1937年北海道函館市に庶子として生を受け、北大に入学。それまでは東大や京大から選出されるのが常だった全学連委員長に就任した。安保闘争の敗北後、「何者でもない死を遂げるまで」高度成長期の日本を駆け抜けた。真貴子さんも「イイオンナ」だったが、唐牛も負けずに「イイオトコ」だったのだろうと思う。

5月某日
NHKテレビのBSプレミアムで映画「ドクトルジバゴ」をやることが新聞のテレビ欄に告知されていた。「ドクトルジバゴ」は高校生のとき、同級生の小川邦夫君と観に行った記憶がある。なんだけれど、今回テレビで観ると高校生の私は筋を全然理解していなかったことが判明した。ジバゴ役を演じたオマー・シャリフだったこととジバゴの奥さん役がジュラディン・チャップリンだったことは覚えているが、それ以外はほとんど忘れているというか、最初から理解していなかったとしか思えない。日本で公開されたのが1966年6月とあるからその頃私は、北海道の田舎の高校3年生、外人の俳優の顔と名前を覚えられなかったとしても無理ないかもしれない。それまでアメリカ映画を中心に外国映画を見たことはあった。しかしその大半が西部劇か戦争映画で、筋も比較的単純でわかりやすかった。
今回、私なりに筋を要約すると次のようになる。幼くして両親を失ったジバゴは資産家の家に引き取られる。ジバゴは優秀な成績で医学校を卒業し医師となり資産家の娘、Tonyaと結婚する。ジバゴは医師としてだけでなく詩人としても注目されるようになる。ときはロシア革命前夜で、労働者の反政府デモやそれを弾圧するロシア騎兵隊の姿も描かれる。デモの中でワルシャワ労働歌やインターナショナルが歌われているが、それは今だからわかることで、田舎の高校生には「外国の歌」という感覚しかなかった。ジバゴも医師として従軍するが、そこでかつて見かけたLaraと再会する(再会にもドラマがあるのだが話が複雑になるので割愛)。Tonyaという愛する妻がありながらLaraとも恋におちてしまうのだ。当時の私はここら辺が全く理解できていなかったようだ。全編に主題曲「Laraのテーマ」が流れるのだが、当時の私は「妻以外の女性と恋愛する」ということが理解できなかったうえにLaraとTonyaをごっちゃにしていたと思う。復員してきたジバゴはTonyaと息子、それにTonyaの父親と再会するが、革命前に住んでいたTonyaの邸宅は革命政府に接収されてしまう。粗筋をゴチャゴチャ述べてもしょうがないのでまとめてしまうと、戦争と革命という激動の時代に翻弄されながら「愛」に生きた一人の知識人を描いた映画というわけですね。

5月某日
「瘡瘢旅行」(西村賢太 講談社 2009年8月)を読む。瘡瘢は「そうはん」と読む。意味は分からないのですが。この本も以前に買って一度読んだ本なのだが、何しろ図書館も休み、不用不急の外出は自粛ということなので、再読することにする。発行日からして10年ほど前に買った本で、内容は例によってほとんど覚えていない。表題作を含む3作が納められている。著者の分身たる貫太と秋恵の同棲ものである。女性にほとんど持てたことのない貫太は漸くにして秋恵という娘と所帯を持つに至る。定職もなく戦前の作家、藤澤清造の古書の収集に異常な情熱を持つ貫太、そんな貫太をレジのバイトで支える秋恵。何か気に喰わないことがあると殴る蹴るの暴力を働く貫太。立派なドメスティックバイオレンスである。本の帯に「こういう風にしか生きていけない」というコピーが印刷されているが、まさにその通りである。私はしかし西村賢太の小説には魅かれるものがある。けっこうユーモラスな描き方もしているのだが、その根底には哀しさがあると思う。「こういう風にしか生きていけない」という哀しさが。

5月某日
監事をしている一般社団法人の監事監査があるのでほぼ1か月ぶりで東京は虎ノ門へ。会計のことはもとより詳しくないので、もう一人の監事さんのやることに従う。監査報告書に署名捺印して終了。神田の社保研ティラーレに向かう。佐藤社長、吉高会長に社会保険研究所の2人を加えて地方議員向けの「地方から考える社会保障フォーラム」をどうするか協議。当初は5月開催を予定していたのだが新型コロナウイルスによって延期を余儀なくされたのだ。とりあえず開催を8月まで延期することにして、来週また会議をすることに。

5月某日
大谷源一さんにもらった「勝海舟」(松浦玲 筑摩書房 2010年)を読み始める。上製本で900ページを超える大著なので1章の「剣から蘭学へ」から8章の「大政奉還から彰義隊戦争まで」を読み終えたところでの感想を記す。海舟は1823(文政6)年、勝小吉の長男として生まれる。父親の勝小吉という人は面白い人で幕臣ながら生涯無役、剣の腕に優れ道場破りをして回り、不良旗本として恐れられたという(ウイキペディア参照)。勝海舟は剣でも頭角を現すが、世間で知られるようになったのは蘭学である。幕末、ペリー来航以前からアメリカだけでなくロシア、イギリス、フランスが日本への接近を図る。当時、日本と西欧世界の唯一の窓口であったオランダの学問、蘭学とオランダ語の需要が高まったのである。海舟は長崎海軍伝習所でオランダの海軍士官から航海術や数学や物理を学び、幕府の遣米使節に咸臨丸で随行する。帰朝後、幕府海軍の本格的な創設に着手する。この辺が海舟の前半生のハイライトの一つだろう。前半生のもう一つのハイライトは大政奉還から王政復古の大号令、江戸城無血開城を経て江戸幕府の実質的な幕引きを図ったことだろう。海舟は徳川慶喜が主導した大政奉還は公だが薩長が主導した王政復古は私である、と主張している。確かに王政復古は薩長と岩倉具視らの一部公家のたくらんだクーデターとも言えるのである。著者の松浦玲という人は京都大学を学生運動で放学処分され立命館大学大学院を修了している。昭和6(1931)年生まれだから今年89歳か、他の著作も読んでみたい。

モリちゃんの酒中日記 4月その4

4月某日
家にあった「昭和維新試論」(橋川文三 朝日新聞社 1984年4月)を読む。今から36年前に出版された本である。この本は数年前、我孫子市民図書館のロビーに「リサイクル本」として出されていたものを家に持ち帰ったものである。何日か前に読んだ中公新書の「5.15事件」が面白かったので、事件の首謀者たちに共通するスローガンだった昭和維新に興味を持ったためだ。しかし本書は昭和維新そのものを論じたものではなく、昭和維新に関連する人物や出来事を叙述することによって、第一次世界大戦後の日本を覆ったある種の閉塞感を分析する。本書は「渥美勝のこと」と題する章から始まる。渥美勝は明治10(1877)年、滋賀県彦根に生まれ一高から京大に進学するも中退、明治44(1911)年に上京する。著者によるとこの頃すでに「神政維新」という独特の理念を抱いていた。大正2(1913)年に神田須田町の広瀬中佐の銅像前に立って毎日のように「桃太郎」と大書した旗のもと「真の維新を断行して、高天原を地上に建設せよ」と演説していた。著者は神政維新に昭和維新の原型を見るのだ。しかし上京してからの渥美は正業に就くことはなく、生活は後援会からの資金援助などによって賄われていた。渥美は昭和3(1928)年、遊説先で51歳で死ぬが葬儀は日本青年館で頭山満を葬儀委員長に営まれ参会者200名と盛会であった。今日ではほとんど顧みられることのない渥美だが、当時の渥美を知る人たちにとっては「昭和維新の願望をもっともナイーブに、鮮烈に印象づけた人物が渥美であった」のである。この本は私にとって決して読みやすい本ではなかった。しかし著者の橋川文三と同じく気になる存在である。

4月某日 
我孫子市民図書館は休館日をさらに延長、5月中は休館となったらしい。我孫子駅の反対側のイトーヨーカドーには書店が入っていたことを思い出す。書店で文庫本を2冊購入して早速、読むことにする。1冊目は田辺聖子先生の「夜の一ぱい」(浦西和彦選 中公文庫 2014年1月)である。田辺先生の酒を巡るエッセイを集めた文庫オリジナルという。選者の浦西和彦は元関西大学教授で関西大学の図書館長を務めていたとき、田辺先生が図書館に川柳関係の資料の閲覧に見えたのが付き合いの始まりと「解説」にある。収録されているエッセイはどれも面白かったが、私には「若山牧水は、いい酒の歌を残している」で始まる「ぬすみ酒」が面白かった。牧水と言えば「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」が有名だが、体を壊して医者に酒を禁じられた。そのときの歌が「酒やめむそれはともあれながき日のゆふぐれごとにならば何とせむ」である。禁じられればなおのこと想いが募るのが人情、牧水は「足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の瓶は立ちて待ちおる」「妻が眼を盗みて飲める酒なればあわて飲み噎せ鼻ゆこぼしつ」という歌を残している。田辺先生は「私は、ぬすみ酒などしない。すぐ顔が赤くなるほうだから、たちまちわかってしまう」と書く。しかし亭主(田辺先生の夫、開業医のカモカのおっちゃん)が体調を崩してあまり飲めぬとき「亭主が飲まんのに、女房のくせに飲んでる奴があるか」となじられる。それで亭主がテレビに気を取られているすきなどに「いそいで飲む」、「これもいわばぬすみ酒であろう」と田辺先生は綴るのである。
 この際だからもう少し先生のエッセイを紹介しよう。「きさらぎ酒場」は1984年2月9日号に掲載されているが、「民衆の酒焼酎は 安くて早く酔える ウイスキーは 高すぎる ビールなら 早くさめる」と赤提灯で若者が歌っている様が紹介されている。これは「民衆の旗 赤旗は」の替え歌であるのだが、1960年代末から1970年代初頭の私の学生時代もかすかにうたった記憶がある。ただ歌詞が微妙に違っていて私どもは「民衆の酒焼酎は 安くて辛くて旨い 高くつく一級酒 その陰に搾取あり」と歌っていたような気がする。先生は「感傷旅行(センチメンタルジャーニー)」で芥川賞を受賞し文壇にデビューする。内容は覚えていないが党員(この場合の党員は共産党員。これが自民党員や公明党員では様にならない)と若い女性の恋愛をテーマにしていたように思う。それはさておきエッセイで先生は「終戦後の共産党はピンクの夢色に光りかがやいていた」と書く。おっちゃん(カモカのおっちゃんである)は「共産党と恋愛中の女は、しつこいことで似てる」さらに「感じとして、ですよ、共産党に何か、かかわりもつと、アトアトまでゴチャゴチャと『いうてこられ』そうな気がする」と反論する。庶民の反共感情をうまく表現していると思う。カモカのおっちゃんはドクターであるからしてインテリの部類に入るのだが思考も嗜好も庶民である。そして先生の左翼贔屓というか、変革を志す若者への同情心、それは「夕ごはん、たべた?」という小説にも表れているが、も変わらないなぁと思ってしまう。

4月某日
書店で買った文庫本のもう1冊「彼女に関する十二章」(中島京子 中公文庫 2019年3月)を読む。単行本は2016年の4月、初出は「婦人公論」2014年7月7日号~2015年7月14日号である。中島京子は割と好きな作家で「小さなおうち」「妻が椎茸だったころ」「長いお別れ」を読んだ記憶がある。本書も書店で表紙とタイトルだけを見て買ったので「彼女に関する十二章」というタイトルが伊藤整の「女性に関する十二章」に因んでいることも小説を読んで初めて知った。伊藤の「十二章」は1954年のベストセラーで、中島の「十二章」と同じ婦人公論に連載された。中島の「十二章」の主人公は50歳の主婦の聖子、夫の保は編集プロダクションを経営し、聖子は週に3日税理士事務所を手伝っている。一人息子の勉は大学卒業後、地方の大学院に進学している。小学生の聖子の初恋の人である久世佑太が死亡し、遺品を整理していたら佑太と聖子の写真が出て来たので、迷惑でなかったら郵送したいという手紙が佑太の息子の穣から届く。聖子は税理士事務所の所長から頼まれNPO法人の経理も見ることになる。このNPO法人に出入りするのが元ホームレスの片瀬氏。帰省した息子の勉は同棲中のトヨトミチカコを連れてくる。まぁ主な登場人物はこの程度なんですが、これらの人々の日常を聖子の目線で描いていくわけです。「小さなおうち」もそうだったが、中島は庶民の何でもない日常に潜むドラマを描かせたら本当に上手だと思うね。

4月某日
家にある西部邁の本でまだ読んでいない本を読んでしまおう、ということで最初は「大衆への反逆」(1983年7月 文藝春秋)を読む。今から37年前に出版された本だが、内容はまったく古びているとは思えなかった。この本の出版当時は、西部は東大教養学部の助教授だが、86年に教授に就任している。だが88年には自身が推薦した中沢新一の助教授就任が教授会で否決されると、これに抗議して教授を辞任している。この本を読んで改めて東大教授など辞めてよかったと思う半面、教授として残っていれば稀代の人文学者となったかもしれないという思いも残る。西部は60年安保の全学連と共産主義者同盟の指導者の一人であるが、関係したいくつかの裁判が終わると左翼から完全に離れた。本書には雑誌その他に発表された文明論や状況論、人物論などが掲載されている。西部が最も影響を受けた知識人の一人と言えばスペインの哲学者、ホセ・オルテガ・イ・ガッセトだが、そのオルテガについては次のように述べている。「オルテガがいわんとするのは、孤独もしくは絶望という生の根本形式から出発しない限り、自我の純正な基盤はえられないし、それがえられなければ真正な文化もつくられないのだ、ということである」。この短文のなかにさえ「孤独、絶望、自我の純正な基盤、真正な文化」といった西部の好みそうな単語があふれている。
オルテガに対してマルクスは「私がマルクスの著作とふれあったのはごく短い期間」であり、マルクスの世界変革は、疎外から解放そして物象化の克服らしいとして、「このおそろしく真面目な提案が私をほとんど窒息させる。疎外や物象化から自由になった自分を想像することなぞ、私にはできない」とそっけない。ヴェブレンという経済学者のことを私は知らない。しかし、この「赤貧と労苦と病弱と孤独のほとんど感動的といっていいような」人生を送った経済学者に対して西部は「いくらとぼけてみてもやはり陰にこもってしまうといった調子のかれの皮肉は、罪人でありながら自分の罪状をちっとも自覚せぬ似非知識人にたいして向けられたものである」と評する。西部はヴェブレンのなかにほとんど自分自身を見ているとしか思えない。在日朝鮮人であり後にヤクザとなる札幌南高校の親友について書いた「不良少年U君」、特攻帰りで右手首を失っていた高校の日本史の教師のことを綴った「或る教師」などを読むと、西部の「熱き友情」とそれと裏腹な「交流不全感」に想いを致すことになる。

モリちゃんの酒中日記 4月その3

4月某日
家に閉じこもってばかりは体に毒、といっても近所を散策するのもいささか飽き気味。ということで午後、電車に乗る。我孫子駅から快速電車の上野行に乗車、座席に一人おきに乗客が座っている。松戸で特別快速の品川行に乗り換え。いつもは特別快速で座れたことはないのだが、今日はらくらく座れた。上野駅で下車、上野駅構内の書店「BOOK EXPRESS」に寄って、文庫本と新書を購入して我孫子へ帰る。我孫子で駅前の居酒屋「七輪」の顔を出すと、こちらもカウンターに一人おきで客が座っている。隣を見ると「愛花」の常連の荒岡さんがいたのでおしゃべり。このところ家で奥さんとしか会話しないので新鮮だった。

4月某日
上野駅構内の書店で買った「路(ルウ)」(吉田修一 文春文庫 2015年5月 単行本は2012年11月)を読む。帯に「ドラマ化決定!NHK総合2020年5月放送予定」とあったが、新型コロナでどうなることやら。総合商社、大井物産に勤める入社4年目の多田春香が主人公。青山通りに面する本社ビルの20階にある「台湾新幹線事業部」で春香は、新幹線受注の可否の電話を待っている。春香は東京生まれの神戸育ち、関西の私立大学を卒業後に商社に入社した。在学中に旅行で訪れた台湾で一人の青年と出会う。再会を約束し青年からは住所を記したメモを貰うのだが春香の不注意から失くしてしまう。劉人豪(通称エリック)という名の青年は当時、台湾の大学の建築科に通う大学生。阪神大震災の報に接して春香の身を案じて神戸に駆け付けるが春香に出会うことはなかった。エリックは卒業後、日本の大学院で学び九段下の設計事務所で働く。新幹線は大井物産が受注し春香は台北支社へ異動する。春香はエリックのことは忘れられないが、現在はホテルマンの繁之と恋愛中である。新幹線の受注から建設、試運転、開業までを物語の縦糸とするなら春香とエリックの別離と再会、春香と繁之の恋愛と別離、さらに幾つかの恋愛と友情が物語の横糸を構成する。吉田修一の小説はいつも楽しまさせてもらうのだが、今回はストーリーに加えて台湾の自然や風物、食べ物の巧みな描写に感心させられた。台湾には奥さんと一度訪ねたことがあるが、また行きたくなってしまった。

4月某日
朝日新聞朝刊1面に「米原油初のマイナス価格」「世界の景気悪化深刻」の見出しが。記事は「米国で原油先物価格が暴落し、史上初めて「マイナス価格」に落ち込んだ。新型コロナウイルスを封じ込める措置によりエネルギー需要が低迷し、貯蔵する場所がないほど原油が余っているためだ。マイナス価格自体は一時的なものとみられるが、原油市場の動揺は、世界的な景気悪化の深刻さを伝える」と続く。記事によるとマイナス価格というのは、原油を売る側が手数料を払って買い手に引き取ってもらうということだ。日本でもガソリンの値段が13週連続して下がっているとTVニュースで報じられていた。消費者の「ガソリンが安くなるのは嬉しいが、どこにも行けないし」という声も紹介されていたが、事態はもっと深刻なのではないか。同日の朝日新聞夕刊では「原油先物6月もの、一時6ドル台」として、21日の米ニューヨーク商業取引所で米国産WTI原油の先物価格は前日のマイナス価格からは持ち直したが、取引の中心となった6月物は一時、前日の3分の1の1バレル=6ドル台まで暴落し、これを受けて米株式相場も急落している、と報じている。原油、株式相場の下落が続けば、他の商品相場も下げざるを得ない。おそらくすでに下がっているに違いない。日本を含む世界資本主義は第2次世界大戦後、不況は何度も経験しているが、1929年のニューヨーク株式市場の暴落に端を発した世界大恐慌のような恐慌は体験していない。不況になると公共事業の増大などによって景気の下支えを図ってきたためだ。しかし新型コロナ不況に対してはどうか。赤字国債を増発して新型コロナ対策の費用を捻出しているのが現状だ。さらに不況対策で赤字国債に頼るとすれば、国債価格の暴落を招きかねない。国債価格の暴落=金利の上昇である。日本の財政破綻が現実となりかねないのだ。

4月某日
「五・一五事件-海軍青年将校たちの「昭和維新」」(小山俊樹 中公新書 2020年4月)を読む。1932(昭和7)年5月に起きた5.15事件は4年後に起きた2.26事件に比べると注目度が低い気がする。2.26は小説や映画の素材に何度か取り上げられているが5.15はそうでもない。というようなこともあって上野駅構内の書店で購入することにした。2.26と5.15は何しろ規模感が違う。5.15の直接的な被害者は犬養毅首相と護衛の巡査だけだが、2.26では陸軍の歩兵第1連隊などから将校、下士官、兵1500人余りが参加、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺され、警察官5名が殉職している。2.26は本格的なクーデター未遂事件だが5.15はテロの域を出ない。2.26の首謀者は民間人の北一輝を含め、将校らは銃殺されたが、5.15は事件から6年後に三上卓らの首謀者も釈放されている。釈放後、三上は近衛文麿に面会したり、東条英機の暗殺計画に一枚かんだりしている。戦後の三上の人生が興味深い。右翼団体の全国的な糾合を試みたり、台湾からペニシリンなどの密輸を図ったり(逮捕され入獄している)、参議院選挙に全国区から出馬したり(落選)している。何か「永遠の国士」という気がするね。

4月某日
朝日新聞の朝刊1面準トップ「フランス介護崩壊 死者4割が集中」という見出しが白抜きで踊る。本文は「新型コロナウイルスの感染が拡大している欧州で、高齢者向けなどの介護施設が危機的状況に陥っている。フランスでは全体の死者数の約4割が施設の入所者らに集中している」と報じている。2面では「日本も募る懸念」として、日本でも介護施設やデイサービスでの集団感染が各地で発生、緊急事態宣言で休業や事業を縮小する事業者が増え、経営不安が広がると報じている。介護事業者の知り合いが多いので心配だがどうすることもできない。同紙のオピニオン欄では「新型コロナ まさかのマスク2枚」というタイトルで3人の識者が意見を述べている。小川仁志山口大教授(哲学)は「すべてが場当たり的で、妥協の産物です。いまの政治は世の中の感覚、民意とずれてしまっているように感じます」、テレビでよく見かける山口真由信州大学特任准教授は、モリカケ問題や桜を見る会などのスキャンダルでもそれほど支持率が下がらなかった安倍政権も、コロナ危機は私たちの生活に多大な影響を及ぼし、国民の不満が噴き出ていると分析している。ユニークだったのは、お笑いコンビ髭男爵の山田ルイ53世の「安倍晋三首相の周りにはツッコミの人材がいないのではと心配です」という意見。本当にそうだと思う。長期政権が続くと首相に意見を言う人が遠ざけられ、周りをイエスマンで囲みがちになる。「マスク2枚」は安倍政権のつまづきの石となるかも知れないよ。

モリちゃんの酒中日記 4月その2

4月某日
新型コロナウイルスが日本経済も直撃している。昨日の新聞には「工作機械の受注激減」などの記事が載っていた。「設備投資の先行指標とされる工作機械の受注は、米中貿易摩擦で落ち込んでいた昨年を上回る勢いで悪化しており、予断を許さない状況だ」「日本工作機械工業会が9日発表した3月の工作機械総額(速報値)は773億円で、前年同月より40.8%減った。中でも43.8%減った海外は、3月としてはリーマン・ショック後の2009年以来の低水準に落ち込んだ」(朝日新聞4月11日朝刊の経済面)。さらに「イオン営業利益、最大76%減予想」「Jフロントは純利益76%減」という見出しも並ぶ。新型コロナウイルスはいつ治まるとも見えない。新型コロナ不況は確実だが新型コロナ恐慌まで進む可能性も十分ある。

4月某日
我孫子市民図書館も閉館中。書店に行くのも自粛。ということで家にある本でまだ読んでいない本を読むことにする。最初に手に取ったのが「昭和恐慌―日本ファシズム前夜」(長幸男 岩波現代文庫 2001年7月)。定価は1100円+税だが700円の値札が付いているところを見ると古書店で買ったらしい。本書の成り立ちを「あとがき」から類推すると、最初は1973年に岩波新書として登場、1994年に同時代ライブラリーに納められている。さらに岩波新書のもとになったのは1968年の岩波市民講座で著者が高橋是清について講演したことに遡る。本書は「昭和危機の心情-テロリスト小沼の内面-」と言うタイトルの第1章から始まる。1932年2月、大蔵大臣として金解禁を断行した井上準之助が血盟団の小沼正によって暗殺されるシーンが冒頭である。金解禁を引きがねに日本は昭和恐慌という未曾有の経済危機に陥り、それが結果的に日本ファシズムを招き寄せたことを暗示させる冒頭シーンと言える。岩波新書の初版が刊行された1973年の2年前、1971年に米国のニクソン大統領が金とドルとの交換停止を発表した(ニクソンショック)。ニクソンショックによって円ドルの交換比率は変動相場制に移行し、円は切り上げられた。新型コロナウイルスはアメリカでも猛威を奮い現在は1ドル110円前後で推移している。医療崩壊が叫ばれているが医療崩壊の次は経済崩壊、経済恐慌である。

4月某日
家にあった「夕ごはんたべた?」(田辺聖子 新潮文庫 昭和54(1979)年)を読む。文庫本の最後に「この作品は昭和50年9月新潮社より刊行された」とある。物語の舞台は尼崎の下町で「皮膚科・内科」の看板を掲げる吉水医院である。院長の吉水三太郎は鹿児島の医学部を卒業後、神戸の病院で勤務医をした後、妻の玉子と結婚して開業した。子どもは長女に男の子2人。田辺は実生活でも妻を亡くした医師、川野純夫と結婚し川野の4人の子どもを育て上げた。小説の一部は田辺の当時の暮らしがモデルとなっているに違いない。1960年代末から70年代に掛けて全国の大学を学園闘争の嵐が吹き荒れたが、それから少し遅れて高校でもバリケードストライキが闘われた。三太郎と玉子の2人の息子も高校生闘争に参加、学園に止まらず成田や羽田の街頭闘争にも参加し、三太郎と玉子は一再ならず警察や鑑別所に息子を引き取りに行く。私事ですが私は男3人兄弟で、私が大学2年の夏に逮捕起訴され、同年秋の佐藤首相の訪米阻止闘争で当時大学5年の兄が逮捕起訴された。翌年には高校生だった弟が逮捕され、弟は起訴されなかったが高校のPTA会長だった父は辞任する。私は本書を読んで今さらながらに「親父とお袋に申し訳ないことをした」という想いに駆られた。釈放された私に父も母も何も言わなかった。父はさすがに憮然としていたけれど。私は学生運動や革命運動の当事者を主人公とした小説や手記、ドキュメントは何冊か読んできたが、親の立場から描いた小説を読んだのは初めてだと思う。70歳を過ぎて親の気持ちに想いを致すというのも不思議な感じではあるけれど。
 本書の最後当たりに連合赤軍事件に対する三太郎の想いが描かれている。三太郎は自身が医者であるが「医者の故なき権威主義をぶっこわす意味で、学園紛争が医学部に端を発したことを、けっこうなことだと思っていた」のだ。しかし「それら若者の情熱はいくらでもエスカレートしていった。大衆の支持をと共感を離れて突っ走ってしまった」。三太郎は「赤軍派一派のごとき、無謀で独善的な過激理論を是認できない」が、連合赤軍の一連の事件に対して「人の親として涙せずにはいられない」のだ。三太郎は「阿保な奴らやなあ、永田洋子らは。首くくって死んでしもた森恒夫は」という。「この『阿保』はむろん、罵声ではない。……いたましさのあまりの『阿保』である」とも述べられている。これは永田や森だけでなく連合赤軍事件で死んでいった人々に対する田辺からのレクイエムでもあると思う。

4月某日
今日(4月15日)の朝日新聞一面のトップ記事は「世界恐慌以来最悪の不況」「成長率異例のマイナス予測」という活字が躍っていた。リードは「国際通貨基金(IMF)は14日発表した最新の世界経済見通しで、2020年の世界全体の成長率を前年比3.0%減として、1月の予測(3.3%増)から大幅に引き下げた。新型コロナウイルスの感染拡大で、世界経済は1920~30年代の大恐慌以来最悪の同時不況に直面している」と報じている。本文では各国の経済対策として「先進国では未曾有の政策対応がとられた。世界で計8兆ドル(約870兆円)という巨額の財政出動が決まり、各国とも中央銀行の金融政策と一体化する形で市場に大量の資金を流し込んでいる」としている。日本は巨額の財政赤字を抱えているが、それでもここは赤字国債を増発し、日銀券(1万円札)を印刷しまくるより手はなかろう。コロナデフレを脱出するにはインフレ政策しかないように思うのだが。

4月某日
「恐慌現象が資本主義社会に特有なる必然的なものであるということは、今ではほとんどあらゆる人々が認めていることといってよいであろう」。これは宇野弘蔵の「恐慌論」の「はしがき」の冒頭に記されているものだ。確かに19世紀から20世紀初頭にかけては数年から10年のサイクルで好況-恐慌―不況のサイクルで世界経済は循環してきた。しかし1929年10月のニューヨーク株式市場の株価暴落に端を発した世界大恐慌に対して、当時のフーバー大統領はニューディール政策と称する大胆な公共事業を推し進めて経済を回復させた。一方、日本とドイツ、イタリアの枢軸国は第2次世界大戦を引き起こし、戦時経済により見かけ上は不況を回避した。第2次世界大戦後は世界は何度も不況は経験したものの深刻な恐慌は逃れることができた。新型コロナウイルスの感染拡大に端を発する今回の不況はどうであろうか。私の貧しい経済学の知識からすると恐慌は、好況時の過剰生産から商品価格の下落を招くことに始まる。今回の新型コロナ不況は過剰生産というよりも需要不足による価格の下落である。国民一人当たり10万円の給付では現在の需要不足を補うことは難しいと思われる。アベノミクスは年間2%の物価上昇を当初公約していたが、物価の下落と深刻なデフレが安倍政権の幕を閉じさせることになるだろうか。

モリちゃんの酒中日記 4月その1

4月某日
新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。入院患者から感染者が出た台東区の永寿総合病院は机を借りているHCM社から歩いて数分の距離にある。不要不急の外出は避けるように言われているが、本日は社保険ティラーレに吉高会長と佐藤社長を訪問、次回の「地方から考える社会保障フォーラム」について、講師の人選等を相談した。17時に大学の同級生で西新橋で弁護士事務所を開いている雨宮英明先生を訪問。雨宮先生はビールと日本酒を用意してくれていた。お店に行くとウイルスに感染する恐れがあるからね。二人で一升瓶の5分の4ほど空けたと思う。雨宮先生に千代田線の霞ヶ関駅近くまで送ってもらう。翌日、雨宮先生から首からぶら下げていた貴重品入れを忘れて行ったよとの電話を貰う。宅急便で送って貰うことにする。スミマセンねぇ。

4月某日
図書館で借りた「天皇と軍隊の近代史」(加藤陽子 勁草書房 2019年10月)を読む。日本近代史なかでもその外交と軍事を専門とする著者は現在、東大大学院人文社会系研究科の教授。高校生との日本近代史を巡る対論集を出版するなどアカデミックな世界に止まらない幅の広さを備えた人である。本書には「天皇と軍隊」を巡って著者がかつて発表した論文に、新たに書下ろしの総論「天応と軍隊から考える近代史」を加えたものだ。私には第6章「大政翼賛会の成立から対英米開戦まで」、第7章「日本軍の武装解除についての一考察」がとくに面白かった。第6章では第2次世界大戦の開戦でドイツが快進撃を進めると、軍部が南方のオランダやフランスの植民地の確保に動く様子や、それを阻止しようとする主としてアメリカの動きが描かれる。大東亜共栄圏の理想は欧米帝国主義に侵略されたアジアを白人支配から解放するというものだったはずだが、当時の軍部の考え方はドイツ優勢の尻馬に乗って仏、蘭のアジアの植民地を簒奪しようというものだった。浅ましいね。第7章では終戦時、武装解除と戦争犯罪人の処罰を軸とする無条件降伏を迫る連合国に対して、連合国側の条件を受け入れようとする天皇と、それを阻止しようとする軍部の動きが描かれる。昭和天皇はかなり聡明な人だったんじゃないかな。即位当初から軍部の暴走には批判的だったしね。ただ明治憲法下の立憲君主制だから、内閣の判断に対してなかなか「ノー」と言えなかったんだ。天皇が自分の政治的な意志を通したのが終戦の御前会議だったとは、歴史の皮肉だ。

4月某日
志村けんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった。この土日のテレビでは在りし日の志村の映像が各局から流されていた。私は生前の志村に特に注目しているわけではなかったので、初めて見る映像がほとんどであったが、志村の「人気の素」のいくつかが分かったような気がする。志村は20代に新井注の後任としてドリフターズに参加、「8時だよ全員集合」などのバラエティー番組で圧倒的な人気を得る。「バカ殿様」「アイーン」「カラスの勝手でしょ」のギャグが主として子供たちに支持されたのだ。バラエティー番組からも志村の人気は確認できたが、私が感心したのは90年代以降の旅番組や食べ物番組に出演した志村である。志村は田舎のおじいちゃんおばあちゃん、市井の人々と志村は実に自然に交わる。
「テレビで人気者になったけれど、それはそれで俺は俺」という志村の考え方、姿勢は一貫しているように思った。晩年の志村は子供というよりも市井の人々にこそ愛されたのだ。昭和の喜劇役者、伴淳三郎は晩年、内田吐夢監督の映画「飢餓海峡」で三国連太郎と共演、その演技が注目された。志村も役者としてそうした道を歩む可能性も残されていた。

4月某日
家でじっとしているのも何なので散歩に行くことにする。我が家から「水の館」まで歩く。「水の館」は「ベルサイユのばら」「オルフェウスの窓」などの少女漫画で一世を風靡した池田理代子のデザインである。建設当初は「ラブホテルみたい」と悪評だったが、今は我孫子市民にも受け入れられているようだ。「水の館」の1階にある農産物直売所「アビコン」で弁当と銀河ビールを買って手賀沼公園内のベンチで食する。絵筆を揮っている人が4~5人いる。いずれも爺さん婆さんである。手賀沼公園の遊歩道で満開の桜を見ながら家路へ。遊歩道の桜は染井吉野だけでなく八重桜などいくつかの種類があることを初めて知る。

4月某日
厚生労働省の伊原和人政策統括官を社保険ティラーレの佐藤聖子社長と訪問、「地方から考える社会保障フォーラム」へのアドバイスを頂く。佐藤社長と別れ私は虎ノ門から新橋へ歩く。緊急事態宣言が出されたためか人出が疎らである。新橋からJRで神田へ。鎌倉河岸ビルの地下の「跳人」で「鯖焼き定食」を食べる。顔なじみの店員の大谷君に聞くと「夜は閉めている」とのこと。年金生活者の私はお気楽なものだが現役の人たちは大変なのだ。アイスコーヒーをご馳走になった後、社保険ティラーレへ。佐藤社長と吉高会長と「地方から考える社会保障フォーラム」について打ち合わせ。「新型コロナウイルス」をメインテーマとすることで一致。神田から上野、上野から我孫子へ。電車はすいている。我孫子の駅前で「愛花」の常連の荒岡さんに遭遇。「愛花」がこのところずっと休んでいるので「どうなの?」と聞くと「辞めちゃうみたいよ」という答え。まぁ仮に店を開けたとしてもコロナじゃなぁ、客も見込めないしなと納得。荒岡さんと別れて駅前の「七輪」へ。4時開店だが客は私1人だけ。生ビールとウイスキーのソーダ割を2杯頂いて家路へ。

4月某日
図書館で借りた「日本経済のマクロ分析」(鶴光太郎、前田佐恵子、村田啓子 日本経済新聞出版社 2019年11月)を読む。私には少し難しかったが、それなりに面白く読めた。私なりに本書を要約するとバブル崩壊以降の日本経済は、労働力人口の減少に加えて社会のICT化に乗り遅れ、経済成長率は低迷した。物価上昇年率2%という安倍政権の公約もいまだ達成できないでいる。本書はこうした日本経済の現状を「低温経済」と名付け、「一言でいえば、日本経済が「低成長・低温経済の自己実現」のサイクルにはまってしまい、その罠(悪い均衡)から抜け出ることが難しくなっている」と分析する。またアベノミクスに関しては、短期的には経済に一定の好影響を与えることができたが、経済の構造や土台を変えることはできなかったと評価。単純化していうと、これからの日本経済には労働生産性をどのように引き上げていくかが求められていることであろう。労働面では労働の質、つまり人的資本を向上させ、資本面ではICT化など情報化投資を拡大させ、もう一つは役割の大きくなった無形資産(ソフトウエアや企業の教育投資など)への投資を拡大することであると提言している。新型コロナ対策で日本中が右往左往している感がある。しかし在宅勤務や遠隔医療、パソコンによる遠隔授業など新しい試みが広がっていることに注目すべきである。新型コロナは日本社会の構造改革を進める好機として捉えることも可能なはずだ。

モリちゃんの酒中日記 3月その4

3月某日
図書館で借りた「客室乗務員の誕生―『おもてなし』化する日本社会」(山口誠 岩波新書 2020年2月)を読む。「はじめに」で「本書は、これまで学術的に通観されることのなかった日本の客室乗務員の歴史を分析の縦糸として、その時々の新聞や雑誌の記事、テレビ番組、広告などに描かれたメディア言説を分析の横軸として用いることで、時代とともに変遷してきた日本の客室乗務員のイメージを復元し、その社会的意味を観光社会学の視覚から考察することを試みる」と述べられている。キーワードの一つは「感情労働」であろう。以前、看護師や介護士の仕事を「感情労働」と位置づけした本を読んだことがあるが、客室乗務員の仕事も紛れもなく感情労働だろう。本書でもアメリカの初期の客室乗務員の多くは女性看護師だったことが明らかにされている。スチュワーデスからCA(キャビンアテンダント)への名称の変遷、テレビドラマに取り上げられた客室乗務員(「スチュワーデス物語」(主演は堀ちえみ)、「アテンションプリーズ」(主演は紀比呂子))の分析も鋭いものがある。制服の変遷からその時代の雰囲気を読み取ろうとしているのも見逃せない。

3月某日
家にあってまだ読んでいなかった「イエスの生涯」(遠藤周作 新潮文庫 昭和57年5月)を読む。何日か前の朝日新聞に「ブレイディみかこ」が自分は九州の隠れキリシタンの末裔で、愛読書は「イエスの生涯」としていたからだ。遠藤周作は1923(大正12)年生まれだから私の父母と同じ歳だ。96年に死んでいるから享年73ということになる。解説(井上洋治、この人は神父で遠藤と親交があったらしい)によると、本作は遠藤が50歳のときの作品で、「遠藤氏の心にまかれたキリスト教信仰の種が、成長し円熟し、鮮やかに開花したもの」としている。私の理解では民族宗教のユダヤ教を源とするキリスト教はイエスの死後、ローマ帝国などの幾度かの禁教、弾圧を経ながら世界宗教への道をたどる。遠藤は文字通り「イエスの生涯」をたどりながらローマ帝国の属州だったユダヤに生まれた原始キリスト教団の本質に迫ろうとする。銀30枚でイエスを裏切ったユダだけでなく、イエスの逮捕とともに弟子たちは四散する。しかしイエスの刑死、復活を経て弟子たちは再び集い、イエスの生前の言行をたどりながら現在のキリスト教の教義の原型を形成させていく。
イエスはその生年も没年も明らかではない。母マリヤが処女懐胎してイエスは生まれたとされ、大工の養父ヨゼフのもとで自らも大工の仕事に就く。イエスが仕事と家庭から離れてナザレの預言者ヨハネのもとに身を投じたのは、「30歳から40歳の間ではなかったか」と遠藤は記している。ヨハネ教団で洗礼を受けた後、イエスは独自の活動をするようになり次第にユダヤ教の改革者としてのイメージを民衆に抱かれるようになる。民衆たちは改革者のイメージにユダヤのローマ帝国からの独立という革命者のイメージを重ね合わせたかもしれない。イエスの逮捕から刑死までを遠藤は聖書の「受難物語」として描く。受難物語の最大の特色は無力なイエス、無能なイエスを「前面に大胆にもおし出している点にある」と遠藤は書く。磔刑されたイエスは「主よ、主よ、なんぞ我を見棄てたまうや」(エロイ、エロイ、ラマサバクタニ)と叫んだとされる。これは詩編22編の悲しみの訴えだが、遠藤は次のようにイエスの心境を追う。詩編22編に現在のイエスの心を追いながら「我 わが魂をみ手に委ねたてまつる/主よ まことの神よ/汝は我をあがなわれたり」の詩編31編の句に転調していったとする。遠藤は受難物語の無能、無力なイエスにこそ「イエスの教えの本質的なものを感ずるのである」とするが、これは遠藤の代表作「沈黙」とも通ずる考えである。

3月某日
熊野純彦の「マルクス 資本論の哲学」(岩波新書 2018年1月)の「まえがき」で「世界革命はこれまで二度おこっている、一度目は1848年であり、二回目は1968年のことだった」とI・ウォーラーステインの言葉が紹介されている。1968年と言えば私が早稲田大学に入学した年である。確かに68年の5月にフランスで5月革命があり、「革命」の炎は当時の西ドイツ、アメリカ、イタリアなどへ広がった。日本でも前年の1967年10月8日の佐藤栄作首相の訪米阻止闘争が三派全学連を主体に羽田で闘われた。日本の学生反乱の本格的な幕開けであった。同じ10月8日、地球の裏側の南米ボリビアではキューバ革命を指導したチェ・ゲバラが捕らわれ、正式な裁判を受けることもなく翌日、銃殺されている。図書館で借りた「1968年の世界史」(藤原書店編集部編 2009年10月)は「日本国内のみならず世界各地で同時的に発生したこの『68年』の出来事を世界史の中で照射することを企画した書物」(はじめに)ということになる。現在、2020年の新型コロナウイルス騒ぎは、その世界性において1848年と1968年の二度の世界革命にも比すべきものと私は考えるのだが。

3月某日
早稲田大学時代に同級生だった清眞人氏は政経学部を卒業後、文学部の大学院に進んだ。清君は当時、民青系の指導者で私たちのクラスの全共闘系グループとは対立関係にあった。なんだけど私たちのグループで文学部へ学士入学した近藤百合子さんと結婚し、大学院の博士課程を修了した後、近畿大学で哲学を教えていた。確かドイツへも留学した。その清君から「今度、藤原書店から『高橋和巳論-宗教と文学の格闘的な契り 』 という本を上梓した」という手紙をもらった。高橋和巳は私たちの世代に非常に人気のあった作家だった。京都大学で中国文学を専攻、大学院を経て京都大学で中国文学の教鞭をとる傍ら作家活動に入る。京大の前に明大でも教えていたかも知れない。私も高橋和巳は夢中になって読んだ経験があるので、早速、購入することにして送料込み6000円を指定口座に振り込んだ。定価は6200円+税なんだけれど、著者割引ということね。送られてきた本は上製本600ページの大著。私はベッドに寝ころびながら読書をするのが常なのだが、これはちょいときつい。ちなみにキッチンの秤で測ったら809グラムあった。それはそれとして新型コロナウイルスで不要不急の外出は自粛ということなので、早速、読み始めることにした。

3月某日
「高橋和巳論-宗教と文学の格闘的契り」(清眞人 藤原書店 2020年4月)を読む。600ページという厚さは私が今まで読んだ本の中では一巻本としては最大ではなかろうか。分量はさておきこの「高橋和巳論」は内容的にも私には十分満足できるものであった。私は読み終えて「吉本隆明の 『 マチウ書試論」に匹敵するな」と思ったほどである。全体は四つに分かれている。高橋文学の特徴を「宗教と文学の格闘的契り」「文学的人間と政治的人間の対話劇」などをキーワードにして明らかにする「総序」、そして第Ⅰ部「悲の器」としての人間、第Ⅱ部救済と革命、第Ⅲ部女たちの星座、だ。私が最も興味を魅かれたのは第Ⅱ部救済と革命である。第Ⅱ部には「憂鬱なる党派」「わが心は石にあらず」「邪宗門」「堕落」「散華」「日本の悪霊」そして「わが解体以降」、というサブタイトルが付されており、これらの作品について論を展開しているのはもちろんなのだが、私はそこに著者の戦後左翼革命思想の批判的な検討を読み取り、大いに共感するところがあった。私の考えるところレーニンに始まるマルクスの後継者は、特殊ロシアで成功したに過ぎないボルシェビキ・レーニン主義を全世界に適用させようとした誤りを犯した。レーニン主義に抗したのはドイツのローザ・ルクセンブルグ、イタリアのグラムシ、トリアッチ、ユーゴのチトーなどの一部に過ぎない。日本の新左翼各派にしてもレーニン主義(組織運営上はスターリン主義と変わらない)の軛から完全に逃れえた党派があったのだろうか。社青同解放派が綱領的文書(?)の「共産主義の旗を奪還するために」(滝口弘人著)でローザを高く評価したのは覚えているが、しかしその解放派も革共同革マル派との内ゲバを繰り返す過程でレーニン主義的に純化していった。グラムシの日本における後継者たる構造改革派にしても70年代には著しく「軍団化」していたように思う。
「高橋和巳論」に戻ろう。といっても私はここで本文よりも「批判的参照軸集」で著者が取り上げた小嵐九八郎、植垣康博、永田洋子にこだわりたい。小嵐九八郎は作家で、著者は小嵐の「蜂起には至らず―新左翼死人列伝」から小嵐の高橋和巳観や歴史観に批判的な検討を加えていく。激しさを増してきた内ゲバに対して、高橋はそれを克服するための提案を行うが、小嵐は高橋に対する敬愛の念は披瀝しつつ、その提案の非現実性を強調する。これに対して著者は、新左翼諸党派の「旧左翼性」に対する「真摯な苦悩の表明といったものはない」とする。私は「蜂起には至らず」は未読なので何とも言えないが、小嵐の小説(「水漬く魂」「彼方へのわすれもの」「あれは誰を呼ぶ声」など)には十分とは言えないまでも「苦悩」が表明されていると思うのだが。植垣康博の「兵士たちの連合赤軍」「連合赤軍27年目の証言」を踏まえながら著者は、日本の新左翼や全共闘の反乱を分析する。私は当時の学生運動の主体が当たり前ではあるが「学生」だったことに着目する著者の視点に賛成したい。学生は「生活のリアリズム・人間の抱える自己矛盾と弱さについてのリアルな認識・容認」ができない、であるが故に急進的、観念的革命運動に「主体的」に参加していくということだ。「批判的参照軸3」は永田洋子の四著作「16の墓標」「続16の墓標」「私 生きています」「獄中からの手紙」から永田の連合赤軍時代と捕らわれて以降の心理と思想を分析する。著者は永田をある面では評価しつつ批判しているのだが、私が最も共感したのは彼女の(それはもしかしたら50年前の私だったかもしれない)「意識の妄想化」である。1969年段階では火炎瓶とゲバ棒では最早、機動隊に勝利できないことは自明のことであった。そこから当時の赤軍派と京浜安保共闘は武装闘争路線を歩み、ついには連合赤軍事件に至る。武装化路線は今にして思えば「妄想」そのものとか言えない。言えないのだけれどねぇー…。私はこの本を読んで初めて知ったのだが、彼女は新しい革命運動を保証する全体的な組織体制を展望していた。一党独裁からの決別、個性的人格に対する深い配慮とか、まぁブルジョア民主主義では当たり前なのだが、それが日本の左翼にはできてなかったんだよね。