モリちゃんの酒中日記 3月その1

3月某日
フリーライターの香川喜久江さんと上野駅公園口で待ち合わせ、東京都美術館で開催中の「奇想の系譜展」を観に行く。伊藤若冲、曽我蕭白、狩野山雪、長沢芦雪、岩佐又兵衛、鈴木其一、白隠慧鶴、歌川国芳の絵を展示している。パンフレットには「江戸のアバンギャルド一挙集結!」「江戸時代の奇想画家8名の傑作が勢揃い!」とあるように伝統的な日本画の枠を踏み越えた画家たちという括りなのだろう。私が思うに本人が意識的に枠を超えようとしたというよりも美を追求する過程でそうなったということであろう。岩佐又兵衛は戦国武将の荒木村重の子供で、村重が信長に反逆を企てたため一族は滅ぼされた。又兵衛は母方の姓を名乗り京都で日本画の修業をする。「山中常盤物語絵巻」という絵巻では荒くれ武者たちに身分の高いと思われる女性が惨殺される場面が描かれているが、一族が滅ぼされるという又兵衛の出自が影響しているかも知れない。会場で社会保険研究所OBの仙波さんに会う。会場を出て上野駅に付随している「ぶんか堂」で食事。東京文化会館の向かいにあるため「ぶんか堂」か。大谷源一さんを呼び出す。水割りを3杯ほど呑んだ後で解散。私は「音楽運動療法研究会」の「ホームヘルプ部会」があるので池袋へ。
「プレゴバケット」というイタリアンの店が会場。事務局をやっている「ひつじ企画」の宇野裕さんから「場所が分かりづらいから池袋駅で待ち合わせて行こう」という電話があったが、「西口から立教に向かう途中でしょ、分かると思うよ」と自力で行けると伝えたのが間違いのもと。会場は西池袋3丁目なのだが西池袋2丁目からなかなか抜け出すことができず、そのうち携帯の電池も切れて、連絡も取れなくなったし、携帯のマップも使えなくなくなった。なんとか西池袋3丁目にたどり着きしらみつぶしに番地を探し歩いたが、地番のプレートを掲げている建物が少なく気持ちは絶望的に。街角に掲げられている公共の地図があったのでそれを頼りにさ迷い歩く。そしてついに「プレゴバケット」を発見。約束の時間から小1時間経っていた。フーッ。宇野さん、ホームヘルパー協会の黒沢さんとリハビリ病院の副院長の川内先生が「よかったねー」と迎えてくれる。万歩計を見ると13,000歩を超えていた。黒沢さんからスマホを使った要介護高齢者への音楽配信の事例が報告されたが、80代、90代の要介護高齢者が好むのは昔の歌謡曲や童謡と思いきや、最近の歌謡曲やポップス、ジャズだったという。高齢者のイメージを変えて行かなければならないと思う。

3月某日
宇野さんからスマホにダウンロードされた曲名一覧が送られてきた。それによると三波春夫や村田英雄、美空ひばり、島倉千代子の歌う演歌や歌謡曲ももちろんあるのだが、サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」、矢沢永吉の「LAHAINA」、江利チエミ「テネシーワルツ」などがリストアップされている。中には私の知らない曲も少なからずあった。高齢者像を自分たちの持っているイメージで決めつけると「痛い思い」をすることになるのである。

3月某日
大谷源一さんと新橋駅烏森口で待ち合わせ。大谷さんは元日本航空国際線の客室乗務員で現在は高齢者や被災地支援の団体を立ち上げている神山弓子さんを同伴。社会保険研究所の谷野浩太郎編集長に用があったので神田へ。谷野編集長は会議中だったので1分ほど立ち話、神田駅北口の「鳥千」へ。ここは20年ほど前に何回か行ったことがある。もともとは屋号からして焼き鳥屋なのだろうが、お刺身がとても美味しかった。上野で2人と別れ我孫子へ帰る。まだ8時台だったので久しぶりに駅前の「愛花」へ。常連のソノちゃんがいたので一緒に呑む。

3月某日
「早大闘争を振り返る会」の打ち合わせで大谷源一さんと早稲田のリーガロイヤル東京へ。地下鉄東西線の早稲田駅で地下鉄を下車、地図を片手にリーガロイヤルへ。馬場下から本部へ行く途中に学生時代に通ったラーメン屋「メルシー」があった。リーガロイヤルでは稲門会担当の青木さんが対応してくれた。50年前の1969年4月17日、僕たちは革マル派が戒厳令を敷く早大本部に突入。本部封鎖に成功する。僕たちというのはノンセクトラジカルの「反戦連合」と反帝学評など一部党派の反革マルの連合部隊で、これが早大全共闘の母体になった。しかし僕の記憶では早大全共闘には書記局もなかったし、機関紙もなかった。当時、東大全共闘は大学院生の全闘連が指導権を握り「進撃」という活版印刷の機関紙も発行していた。まぁ早大全共闘は東大や日大に比べるとかなり脆い組織であったことは事実。リーガロイヤルで「稲門会」担当の青木さんという女性が丁寧に応対してくれた。青木さんによると、メルシーのラーメンは現在400円、週末にはOBと思しき老人たちがラーメンを食べに来るそうだ。ちなみに50年前は一杯、50円だったと思う。
リーガロイヤルを出て池袋に行くという大谷さんと別れ西早稲田へ。西早稲田から副都心線で新宿3丁目、都営新宿線に乗り換えて岩本町へ。岩本町3丁目の中華料理屋「胡椒饅頭PAOPAO」で石津幸恵さんと元国民年金協会の町田さんと食事。石津さんに「モリちゃん、ブログに書いちゃだめだよ」と言われたが書いてしまいました。「胡椒饅頭」はなかなか美味しかった。石津さんにすっかりご馳走になり歩いて神田駅へ。

3月某日
「早大闘争を振り返る会」の名簿の整理を大谷源一さんにお願いする。HCMに来てもらって私のパソコンで作業してもらう。終って有楽町の「ふるさと回帰支援センター」の高橋公理事長に面談。今のところ呼び掛ける対象は70人ほど。ハムさんは「おい、こんなものかよ、もっといるだろう」というけれど、「ハムさん、大学本部に突入したときだって40人くらいだよ。一般学生の支持はあったにせよコアな活動家はそんなにいなかったんだよ」というと「それもそうだな」とハムさん。ハムさんと別れて大谷さんと有楽町へ。明日も大谷さんと呑む予定があるので今日はまっすぐ帰ろうかと思ったが、上野の焼き鳥屋「大統領」へ向かう。「大統領」は焼き鳥屋の老舗で、16時過ぎだというのに本店はすでにいっぱい、近くの支店へ行くと15分ほど待たせれて座ることができた。お客は驚くほど女性が多い。焼き鳥屋というとオジサンのイメージだけれど「時代は変わった」のだ。焼き鳥と煮込みを頼んでホッピーで乾杯。18時前に終了。

3月某日
「作家との遭遇-全作家論」(沢木耕太郎 新潮社 2018年11月)を読む。沢木耕太郎は1947年生まれ。私より一歳上だが現役で横浜国立大学経済学部を卒業しているから社会に出たのは私より2年早いはずだから1970年。確か一部上場企業に内定したが1日だけ出社してルポライターの道を選んだ。ルポライターの沢木が現実の作家と遭遇するのは酒場。そしてもう一つが文庫本の解説を出版社から頼まれたときだ。解説を頼まれると沢木はその作家の作品をできるだけ読んで解説を書く。以前読んだときと違う印象を感じることが書かれていてそれはそれで面白いのだが、非常に丁寧な作家論が展開されている。日本人作家では井上ひさし、山本周五郎、田辺聖子ら19人の作家論が展開されているが、私が驚愕したのは巻末に収録されている「アルベール・カミュの世界」だ。実はこれは沢木の大学の卒論である。沢木は「資本論」「日本経済分析」「社会主義と超国家主義」などテーマにした卒論を書こうとするが「こんなものが、21歳の自分にとって6カ月も7カ月もかけて取り組むべきテーマなのだろうか」と思い、「当時、唯一、胸の奥に届いていたのがカミュの著作、とりわけ初期のエッセイ群だった」ことからカミュを卒論のテーマとする。これがまぁ21歳の経済学部の学生が書いたとは思われない立派な作家論なのだ。沢木はルポライターとして出発するが、それから50年を経過して今や小説も手掛ける大作家と言ってよい。その「芽」が卒論にあったとは!

モリちゃんの酒中日記 2月その5

2月某日
「啓順純情旅」(佐藤雅美 講談社 2004年9月)を読む。幕末、医師養成機関の医学館で学ぶ啓順は、浅草の火消しの親方で破落戸(ごろつき)の親分でもある聖天松の息子殺しの疑いで、司直と聖天松の手下の双方から追われることとなる。江戸から甲府、伊豆から大島、大島から海路、石巻へ。陸路あり、海運、水運ありの逃亡劇で、逃亡の合間に患者を診察するというストーリー。「啓順純情旅」は「兇状旅」「地獄旅」に続く3作目にして最終作である。聖天松の追手のひとり勘助と手を組んだ啓順は、最終作では聖天松を逆に引退に追い込む。浅草を中心とする聖天松の縄張りは勘助に引き継がれ、啓順は勘助の縄張りから遠く離れた芝神明前で開業し、やがて「神明前のお助け医者」と呼ばれるようになる。最終作は「御一新を迎えたのはその後間もなくだが、江戸はたいしたどさくさで、御一新後、啓順の一家がどうなったのかを知る者はいない。」と終わる。私は「啓順シリーズ」は同じ芝神明前で開業する「町医北村宗哲シリーズ」に引き継がれ、宗哲は啓順の後身と思っているのだが。

2月某日
虎ノ門の弁護士事務所で打ち合わせの後、新橋烏森口近くの「おんじき」へ。HCM社の大橋社長とネオユニットの土方さんがすでに呑んでいた。「おんじき」は青森料理のお店、大橋社長が贔屓にしている。土方さんはデザイナーだけれど、ビジネス感覚にも鋭いものがあり今回もデザインとは離れた新しいビジネスについて熱く語っていた。そのほか沖縄の県民投票や統計偽装問題、北朝鮮問題など3人の話題はあっちこちへ飛ぶ。もちろん3人の考え方は違うのだが、たぶん基本的な価値観は違わないはず。そこが面白いし付き合いが長く続く理由と思う。

2月某日
「アナキズム-一丸となってバラバラに生きろ」(栗原康 岩波新書 2018年11月)を読む。栗原康は前に「村に火をつけ、白痴になれ-伊藤野枝伝」「死してなお踊れ-一遍上人伝」を読んで面白かった記憶がある。栗原は早稲田大学の政治経済学部で確か白井聡と同じゼミ。栗原の独特の文体がまず魅力だ。例えば第2章ファック・ザ・ワールドの冒頭は「オス、オース、オースッ、オース! ファック・ザ・ポリス! ファック・ザ・ソサイエティ!ファック・ザ・ワールド! みんな警察がきらい、社会はクソだ、こんな世界はいらねえんだよ。イヨーシッ、気合がはいったぜ。そんじゃ、はじめよう。」と始まる。本書はアナキズムの概説書ではなく私たちに人間としての生き方を問うていると思った。サブタイトルの「一丸となってバラバラに生きろ」を考えてみよう。「一丸となって」というのは左翼の使う「団結」の大切さを語っているように見える。だが、左翼の団結は突き詰めていくとレーニン主義的な前衛党に行き着く。栗原の「一丸となって」はもっとソフトとであり、自由だ。レーニン主義的な組織論とは対極にあると行ってよい。
私はこの本を読んで1960年代後半から1970年代前半に全国の大学を巻き込んだ全共闘運動のことを思い浮かべた。多くの大学には学生自治会があり、学生の要望を汲んで大学当局と交渉を行い、ときには日米安保などそのときどきの政治課題に応じて、学生を動員して街頭デモを行った。しかし60年代の後半の一時期、学生自治会が学生のニーズに対してうまく機能しなくなる。私の在籍した早大の場合、私が入学した1968年には文学部を中心とした革マル派、法学部の日本共産党(民青)、政経学部の社青同解放派の三派が勢力を均衡させていた。私の感覚では民青は学生の日常的な要求には応えるものの政治課題については日本共産党の政策そのものであり、革マルは「壮大な理論体系」を感じさせるもののやっていることは他党派解体路線であった。その革マル路線によって解放派は大衆的な動員力を失わせていった。そこに登場したのが全共闘である。その組織原理というかイメージがまさに栗原のいう「一丸となってバラバラに生きろ」なのだ。東大闘争で安田講堂に残された落書きに「連帯を求めて孤立を恐れず」というのがあったが「一丸となってバラバラに生きよ」と同じことを言っているように私には思える。
栗原の本は私にいろいろなことを考えさせた。人間は本来、自由な存在なのではないか、何ものにも束縛されることなく自由に生きること。そう言えば栗原の伊藤野枝の生涯を描いた「村に火をつけ、白痴になれ」も伊藤の生涯を描くことによって、自由に生きることの大切さを訴えていたのではなかったか。栗原の考え方は夢物語だろうか。私はそうは思わない。日本も世界も大きな壁に突き当たっているように思う。日本で言えば少子化、労働力の減少が経済の先行きに暗い影を投げかけ、社会的には児童虐待やいじめによる自殺が後を絶たない。どうも社会が劣化しているように思えてならない。政治的には安倍一強政治のもと、国会議員や厚生労働省の不祥事が相次ぐ。そういうとき栗原の考え方は一つの処方箋とは言えないだろうか。

2月某日
基金連合会に足利聖治さんを訪問、17時に終了。浜松町駅から山手線で田端へ。大谷源一さんへあらかじめ「17時に終わるので17時半頃に西日暮里でどうですか?」とメールを送ると「田端の初恋屋に行かないか」と返ってきたので「了解です」と返す。初恋屋は大谷さんが「刺身がうまい」と絶賛する店。予約がなければ入れないとのことなので大谷さんが予約しておいてくれた。次の予約が入っているため19時までとのこと。刺身は盥に盛り付けて出される。盛り付けも美しいし味も絶品。値段もとてもリーズナブル。

2月某日
原稿料が入ったのでセルフケアネットワーク代表の高本眞佐子さんにランチをご馳走すると連絡。HCM社近くの初めて行く「喰吞をかし」へ。「新虎通り」に面した洒落た外観が前から気になっていた。内装も若い女性に好まれそうな洒落た空間で、お客も若い女性が多くおまけにカウンターの内側も若い女性が2人。ランチはそこそこ美味しかったがオジサンにはいささか敷居が高い。17時に虎ノ門で打合せ終了。18時から室蘭東高スキー部の懇親会があるのでどうしようかと思っていると阿曽沼慎司さんから電話。そういえばこの日、東京に来るというメールがあったっけ。新橋駅の銀座口で待ち合わせ。外は強い雨が降っていた。懇親会は銀座8丁目なのでそのあたりの居酒屋を物色、雨が強いこともあって近くの「お多幸」にする。毎月勤労統計の不正問題などが話題に。役所のガバナンスについてなかなか良いことを話し合った記憶があるが中身は忘れる。このブログのことも話題になって、「俺の個人情報を勝手に漏らすんじゃねーよ」と言われるが、これも忘れたことにしよう。30分ほど遅れてスキー部の懇親会場、「江南春」へ。スキー部の創始者の一人で今は札幌でコンピュータのソフト会社の社長をやっている佐藤正輝が元NECの大郷をともなって上京するというので今回の会合となったようだ。私は生来の運動音痴に加え、スキー部は合宿などでいろいろとカネがかかることもあって1年で脱落した。懇親会に参加したメンバーでは同学年の佐藤と大郷、それと女性で1人だけ参加した中田志賀子さん以外はあまり知らない顔だ。それでも温かく迎えてくれるので感謝。

モリちゃんの酒中日記 2月その4

2月某日
 「熱球」(重松清 徳間文庫 2004年12月)を読む。児童虐待の疑いで父親に続いて母親が逮捕されたり、こどもの自殺が「いじめ」が原因かどうか裁判で争われたり、最近こどもを巡る暗い話題にこと欠かない気がする。こういうときは重松清でしょ。重松清には教師経験はないけれど、教師を登場人物とする小説が多い。教師が出てくるということは当然、子どもが出てくる。で、私の読んだ限りという限定付きだが重松の作品の読後感は「爽やか」である。難しい言葉も漢字も出てこない。最近私が読む作家のうちでは「安心して読める作家」ナンバーワンである。「熱球」は東京の出版社に勤めていた主人公ヨージが出版社を辞めて、一人娘の美奈子を連れて故郷の山口県周防市の実家に帰ってくることから物語は始まる。周防市は架空の町だが県都も大内市と架空。山口県の県庁所在地は山口市だから周防市は下関市か周南市のイメージ。ヨージは高校時代、野球部に所属、2年のとき県大会の決勝戦にまで進出するが直前に部員の不祥事から決勝戦を辞退する。それが20年前の話。ヨージの妻は大学でアメリカの移民史を研究、1年の期限付きでアメリカ留学中である。ヨージは失業中でもあり母校の野球部のコーチに就任、併せて美奈子と同学年の小学生、甲太のキャッチボールの相手を買って出る。甲太の母親はヨージの野球部のマネジャーだった恭子である。20年という時間は高校野球のイメージも変えそのギャップにヨージはとまどう。さらにヨージは周防市に落ち着いて父と暮らすのか、東京で先輩の新雑誌を手伝うのか、さらにアメリカから帰った妻は?という具合に周防市の日常の中でヨージはとまどい悩むのである。日常の中のとまどいや悩みを描くのが重松は巧み。やはり「安心して読める作家」ナンバーワンである。

2月某日
中村秀一さんの叙勲祝賀パーティに出席。赤坂見附のホテルニューオータニで19時スタート。社保険ティラーレの吉高さんを訪問の後、社会保険研究所の鈴木俊一社長を訪ねてもまだ17時30分。大谷源一さんも祝賀パーティに行くと言っていたので大谷さんに電話、出世不動という小さな神社(この神社に因んで「出世不動通り」という名前がついた)の向かいにある酒屋は17時を過ぎると「角打ち」(酒屋の店先でお酒を呑ませること。多くは立ち飲み)をやっているので、そこで待ち合わせ。生ビールと日本酒、それと焼酎を一杯いただく。お店の人の話ではこの酒屋は昭和初期からやっているそうだ。
大谷さんが来たので大手町から赤坂見附のホテルニューオータニへ。中村さんときれいな奥さんに挨拶。中村さんの著作を編集した年友企画の酒井さんも来ていて料理やお酒をとってきてくれた。こういうパーティはいろんな人に会えるのがうれしい。国保中央会の原理事長や慶応大学の権丈先生、埼玉医科大学の亀井美登利先生に挨拶。元厚労省の大原純子さんや元社会保険庁の安田秀臣さんも来ていた。久しぶりに会った藤原禎一さんからは厚生労働省の地方厚生局特別プロジェクト推進室統括調整官の名刺をもらった。パーティが終了後、中村夫妻と記念写真を撮っている人がいたので、石川はるえさんとそれに便乗、石川さんのスマホで酒井さんに撮影してもらった。石川さんと元全社協の渋谷さんと四谷の新道通りの「四谷魚一商店」で二次会。今回も石川さんにご馳走になる。

2月某日
神田司町の中華料理店「上海台所」へ行く。HCM社の大橋社長と年友企画の石津さん、酒井さんと会食。「上海台所」は先月、室蘭東高のスキー部同窓会のとき行った店。安くて料理もおいしい。青菜炒めや叉焼、スペアリブなどを頼む。締めは炒飯。ビール、ハイボールが呑み放題。私はビールで乾杯の後ハイボール。二次会は近くの居酒屋。店員は中国の浙江省出身と言っていたが日本語にほとんど違和感を感じなかった。

2月某日
近所の石戸歯科で「歯石除去」。若くて美人(マスクをしているのでよくわからないが多分)の歯科衛生士がやってくれる。治療を終わると石戸先生がやってきて、「これ息子が書きました」とNEWSWEEKの最新号を見せてくれる。石戸先生の息子さんは石戸諭といってフリーのルポライター。1984年生まれ、2006年に立命館大学卒業、毎日新聞社に入社しその後、フリーに。著書に「リスクと生きる、死者と生きる」(亜紀書房)があり、この本も石戸歯科の待合室に置いてある。私はネットでdマガジンを契約しているので早速、NEWSWEEKを閲覧。石戸諭の記事は「SPECIAL REPORT 沖縄ラプソディ」として掲載されていた。「沖縄ラプソディ」というタイトルはクイーンの名曲「ボヘミアンラプソディに由来する。「これは現実か、それともただの幻想か?」という問いかけから始まるこの歌は「今の沖縄にこそ当てはまるように思える」と石戸は書く。石戸は県民投票を2月24日に控える沖縄を訪れ、辺野古移設の賛成と反対に揺れる人々を取材する。私は辺野古移設反対を貫いた翁長前知事やその後継者の玉城現知事を支持するが、石戸は賛成反対の二分法ではなく、その立ち位置からは見えにくくなっている沖縄の現実に対峙しようとしていると私には感じられた。

2月某日
「悪だくみ-『加計学園』の悲願を叶えた総理の欺瞞」(森功 講談社 2017年12月)を読む。読んでいて興味をそそられないというか楽しくない本だった。これは著者の森に原因があるというより題材、テーマの問題だと思う。安倍首相の旧友が理事長を務める加計学園が愛媛県の今治市に獣医学部を新設する。その認可の過程で官僚や関係者の忖度があったのではないか、というのがこのルポのテーマだ。内閣人事局が官僚の人事権を握って以来、官僚が首相官邸の意向に左右されるようになったとはよく言われる。真偽のほどは分からないがこの本を読む限りでは官邸の意向や、それをバックにした総理補佐官の発言に官僚が右往左往していることがうかがわれる。公務員は国民全体に奉仕するのが役割であって、一部の奉仕者であってはならないとは確か憲法にも謳われていると思う。安倍首相の本意がどうであれ「李下に冠を正さず」という言葉もある。やはり加計学院に獣医学部の新設は認可されるべきではなかったのではないか。

2月某日
16時30分に鶯谷駅の南口で大谷源一さんと待ち合わせ。階段を降りると呑み屋が密集している。目指す「ささのや」の店先にはもう人だかりがしていた。焼き鳥を焼いている店先で立ち飲みするのはキャッシュ&デリバリー。私たちは店内で座って焼き鳥とビールを頼む。2杯目はサントリーの山崎?の炭酸割をダブルで。3杯目は日本酒をお燗で。「ささのや」はお勧め。

モリちゃんの酒中日記 2月その3

2月某日
図書館で借りた「アンボス・ムンドス」(桐野夏生 文藝春秋 2005年10月)を読む。図書館の桐野夏生のコーナーで手に取って「読んでないな」と思って借りたのだが、読みだしたら記憶が蘇ってきた。大まかなストーリーは思い出すが、初回に読んだときには気が付かなかったことや「あーそういうことなんだ」と思うことがあり、同じ本を繰り返して読むのも悪くない。桐野の作品を「平成のプロレタリア文学」と評したのは政治学者の白井聡である(「奴隷小説」(文春文庫)の解説)。白井は「現代作家のうち、桐野氏こそ『階級』に、『搾取』に、より一般的な言い方をすれば『構造的な支配』に、最も強くこだわっている書き手ではないだろうか」と提起する。「アンポス・ムンドス」には表題作含めて7つの短編が収められているが、冒頭の「植林」を白井理論によって読み解いてみよう。
宮本真希は医薬品や化粧品の安売り量販店のアルバイトである。時給850円で実働7時間、週に5日出勤しても月収は12万円程度、コンタクトレンズの片一方を無くしても貯金が無いから買うこともできない。「失うべきものがない」真希は平成のプロレタリアートである。真希はその上チビで小太り、「セックスはおろかキスもしたことがない」。異性からも疎外されているし、職場の高校を出たての同僚からも馬鹿にされている。両親と暮らしていた実家には兄夫婦と姪が転がり込んできて真希は居場所さえも脅かされる。ふと見たテレビのワイドショーが真希の記憶を揺り動かす。未解決事件の特集で「1984年グリコ・森永事件」が取り上げられている。当時、真希は小学校3年生で寝屋川市のマンションに住んでいたが父親の転勤で東京へ引っ越すことが決まっていた。
グリコ森永事件では子供の声が身代金の置き場所を指定する。テレビで流されたその音声は真希の小学校3年生のものだった。同じマンションに住む一人暮らしの女の人、鈴木さんの部屋。真希は右手に大きな金の指輪をした男に言われて地図の地名を読み上げた。男はそれをテープにとり鈴木さんはアイスクリームをくれた。近いうちに東京へ引っ越し、もともと東京者だから、あまり大阪訛りがないないこと、それが真希が選ばれた理由だ。日本中が騒いだ事件に自分が加担していたことを知る真希。真希は冴えなかった自分が急に誇らしくなる。それによってアルバイトの同僚との関係も逆転する。これはプロレタリアート真希によるいわば「蜂起」である。決して永続することのない単独の。

2月某日
有楽町の交通会館にある「ふるさと回帰支援センター」に高橋公(ヒロシと読むが仲間はハムさんと呼ぶ)さんを訪問。田舎暮らしのニーズが高まっているのか、フロアには相談に訪れている思われる中高年が何人も。ハムさんと私は早稲田大学の全共闘仲間。当時の早稲田は革マル派が全学を支配しており、革マルに同調しない学生は学内に入れなかった。50年前の1969年の4月17日、反戦連合など反革マル派の学生がヘルメットとゲバ棒で武装し本部に突入した。「50周年だからあつまろうよ。オレ忙しいから森田君、事務局やってくれ」ということで呼び出されたわけ。こうしたイベントの事務方は私の知る限り大谷源一さんが最適。大谷さんは早稲田ではないが「全共闘崩れ」ということでは一緒。ハムさんが大谷さんに電話して交通会館に来てもらう。打ち合わせ後、神田の焼き鳥屋で大谷さんと呑む。

2月某日
「維新と敗戦-学びなおし近代日本思想史」(先崎彰容 晶文社 2018年8月)を読む。先崎彰容は、白井聡とともに私が最近最も注目する思想家。2人の立場はずいぶんと違う。白井はレーニンの政治思想の研究から出発して(「未完のレーニン」など)、「永続敗戦論」「国体論」などで戦後体制を鋭く評論、昨年は確か「赤旗」で日本共産党への期待を表明していた。一方の先崎は「維新と敗戦」のもとになったのが「産経新聞」の連載や「正論」に掲載された論文ということから、どちらかというと「保守派」と見られがちかもしれない。先崎が1975年生まれ、白井が1977年生まれで私からすればどちらも息子の世代、「がんばれよ」とエールを送りたくなるのである。「維新と敗戦」は福沢諭吉、頭山満、吉本隆明ら23人の思想家を論じた産経新聞連載のエッセーをまとめたⅠと雑誌「正論」などに発表された論文をまとめたⅡによって構成されている。Ⅰでは高山樗牛、葦津珍彦など私が読んだこともない思想家が取り上げられて興味深かったし、Ⅱでは今ではあまり取り上げられることもない橋川文三に触れた論文などに魅かれるものがあった。しかし私が最も感銘を受けたのが「死者を慰霊する季節に-あとがきに代えて」であった。そこで先崎は亡くなった祖母との盆の思い出を綴る。西武多摩湖線の終点駅から近い平屋の都営住宅が祖母の家だった。幼い頃祖母の傍らで茄子の牛を造り、胡瓜に足をつける手伝いをした先崎は、四半世紀以上たった現在、祖母の住んだ都営住宅の跡地を訪れる。「私は人目をはばからず膝をつき、雑草にむかい手を合わせていた。確かに祖母はここにいて私を見ている。真夏の日差しが、私と祖母をつつんでゆく-」。そして先崎は「ここからしか『国家』というものを、日本というものを考えることができない」と述べる。うーん、先崎の日本浪漫派への想いの原点があるような気がする。

2月某日
日韓関係波高しである。慰安婦像問題、元徴用工への賠償問題に加えて韓国国会の議長が「日本の天皇が元徴用工や元慰安婦に謝罪すれば済む問題」と発言したことが日本の世論をいたく刺激した。天皇は憲法上、政治的な発言はできないのだから韓国の国会議長の発言は筋違いではあるのだろう。だが日本の世論や政府与党の反発には私は少なからず違和感を抱いた。日本が日清戦争に勝ってからだと思うが、日本は朝鮮半島や中国大陸の民衆を蔑視し、挙句の果てに朝鮮半島を併合し植民地化し、中国大陸の東北部には傀儡政権の満洲国を建国、国土を蹂躙したのは紛れもない事実。昭和天皇も現在の天皇もこうした歴史的な事実を踏まえて「周辺の国々に迷惑をかけた」と遺憾の意を表明している。喧嘩でも殴ったほうは忘れても殴られたほうは忘れない。外交でも同じことが言えるのじゃないか。
たまたまではあるけれど現代韓国小説を読む。図書館で借りた「ホール」(ピョン・ヘョン 書肆侃侃房 2018年10月)を読む。著者は1972年ソウル生まれ、写真が略歴に添えられていたけれどなかなかの美人。小説はとても現代的で「生きることの不条理や不安」を著者は描きたかったのではと思う。文芸も映画もポップスも韓国勢の勢いは止まらないように思う。もしもですよ、韓国と北朝鮮が統合するようなことになれば単純に統合した以上の効果が表れると思わざるを得ない。軍事的、経済的、文化的に見ても相当な大国が日本の隣国となる。東西ドイツの統合を見れば分かるでしょう。「ホール」の出版社、書肆侃侃房は福岡市に本社があって、「韓国女性文学シリーズ」を出版している。

2月某日
「啓順兇状旅」(佐藤雅美 幻冬舎 2000年10月)を読む。佐藤雅美は昭和16(1941)年生まれだから50代後半の作品、作家として最も脂の乗り切った時期なのだろうか、期待にたがわず面白かった。啓順シリーズは「兇状旅」「地獄旅」「純情旅」の3作品だと思うが、読んでいないのは「純情旅」だけ。ふとしたことから凶状持ちとなった医者の啓順、司法の網と浅草の火消しの親方、聖天松の手先から逃亡の旅を続ける。逃亡先でやむを得ず医術を施し、それがために聖天松の手先に居所が知れてしまう。私がこの小説を面白いと思うのは、佐藤雅美のほかの小説にも言えることなのだが、その時代考証の緻密さにある。啓順シリーズの場合、江戸時代の医療、医学の考証に加えて、逃亡劇なのでその時代の交通手段、交通路の考証がすごい。今回は八王子、甲府、伊豆、大島、石巻などが舞台に設定されている。したがって甲州街道はもちろん、下田や大島の波浮湊を拠点とする当時の海運に対する考証も。海運については波浮湊から石巻までの千石船も紹介され、さらに鬼怒川や江戸川の水運も啓順は利用する。この時代考証は半端ではない。

2月某日
昨日、本郷さんから「北大の元叛旗派と吞むので一緒にどう?」という誘いの電話があったので新宿まで出かける。紀伊国屋書店の前で待ち合わせて「三平食堂」へ。ほどなく「水田」と名乗る元叛旗派が来る。北大の理系の学部を卒業した後、一部上場企業に就職したがほどなく退職、ずっと塾の講師を勤めていたそうだ。叛旗派と言っても今の若い人には通じないだろうね。1969年くらいだったと思うがブント(ドイツ語で同盟のこと。私が若かりし頃は共産主義者同盟=社会主義学生同盟のことをブントと呼んでいた)から赤軍派が分裂、次いで情況派と叛旗派が誕生した。情況とか叛旗というのはセクトの機関誌名だったような記憶があるけれど、定かではない。しばらく3人で吞んでいると、もう一人「元叛旗派」が登場。この人は「日本語講師」という肩書の名刺をくれた。聞くと中国で日本語講師をしているという。4人でいろいろ話しているうちに私はすっかり酩酊。我孫子に帰って駅前の「愛花」に寄る。ママが心配して「モリちゃん、タクシーで帰った方がいいよ」と言ってタクシーを呼んでくれる。

モリちゃんの酒中日記 2月その2

2月某日
HCM社の大橋社長とHCM近くの小料理屋「金ふじ」へ。ビールで乾杯の後、カウンターの甕に入っている泡盛を呑む。古酒とのことでアルコール度数は42度。泡盛は一杯づつにして後は日本酒。ナマコとあん肝、刺身の盛り合わせを頼む。盛り合わせには高級魚クエが入っていたし、つまみはどれもおいしかった。呑み屋のレベルは神田より新橋が高い?ということではなくて新橋のほうが幅があるということなんだろうね。地域的にも山手線新橋駅の外側はすぐに銀座、山手線の内側を少し歩くと虎ノ門、溜池、赤坂と奥行きがある。

2月某日
「〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち」(イルメラ・日地谷=キルシュネライト 岩波書店 2018年12月)を読む。我孫子市民図書館のホームページの新刊紹介で目に付いたのでリクエストしたのだが読むと大変に面白かった。掲載されたインタビューは、佐多稲子、円地文子、河野多恵子、石牟礼道子、田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子、津島祐子、金井美恵子、中山千夏、瀬戸内寂聴の12人。瀬戸内以外の11人のインタビュー時期は1982年春。今から30余年も前である。瀬戸内は当時海外旅行中であったためインタビューを受けられず2018年3月に京都の寂庵で行われている。当時は携帯電話もインターネットもなく、日本に短期滞在中だったイルメラは公衆電話から女性作家とのアポイントを取ったことが記されている。インタビューの日から30数年の歳月が経過していることが、この本をより興味深くさせているように思う。私の個人的な嗜好は女性作家の作品に向かうことが少なくない。それも比較的若い作家が好みである。現在ならば川上弘美、井上荒野、小川洋子、江國香織、三浦しをん、そして桐野夏生などである。インタビューされた12人の女性作家の中では田辺聖子はだいぶ読んだ。
私は「〈女流〉放談」を読んでなぜ、私が女性作家に魅かれるのか考えてみた。この対談集で繰り返し発せられる問いは「女流作家と呼ばれることをどう思うか」「女流作家は差別されているか」というものである。答え方はさまざまであるが女性作家の多くが、作家として作品を書き世に問うているに過ぎないと答えている。女性作家の多くは「普遍的な作家」と少なくとも自己規定している。しかし実態はどうなのか? 戦前から終戦を経て女性の地位は憲法上は男女同権となったし、官庁や企業での女性登用も進んでいる。進んではいるが国会議員に占める女性議員の数はまだ少ないし「女性重視」の現安倍内閣で女性閣僚は片山さつき一人に過ぎない。文学の世界で言えば芥川賞直木賞作家はまだまだ男性が多いし、審査員も女性作家が増えたとは言えまだ少数。つまり日本の文学の世界において「普遍」を代表しているのはあくまで男性作家で、女性作家は「異端」の地位にあると言えないだろうか。この傾向は30数年前では、今よりももっと強かったはずである。私もどうも子供のころから「正系」ではなく「異端」を好んでいた。真ん中より端っこが好きなのである。それは今も変わらない。「〈女流〉放談」についてのこうした感想もかなり異端と思うけれど。

2月某日
野田市の児童虐待事件で父親に次いで母親が逮捕された。被害女児のあどけない写真がテレビ画面にアップされるたびに胸が痛むとともに、その役割を十分に果たさずに結果的に女児を死に至らしめた児童相談所や教育委員会には腹が立つ。とここまで書いて、「待てよ地域社会や広く社会にだって責任はあるのじゃないか? 俺だって社会の一員だよな」と思い至る。父親や母親、児相、教委を責めて済む問題ではないのだ。
ケアセンターやわらぎの石川はるえ代表理事が応援しているのが「いのちさわやかプロジェクト」。児童虐待防止のためのプロジェクトなのだが、もっと広く若いお母さんやお父さんの子育てを応援していこうというプロジェクトだ。南阿佐ヶ谷のケアセンターやわらぎのデイサービスで、「子どもたちを集めて『何かをやる』から来ない?」と石川さんに誘われたので行くことに。もちろん『何か』については石川さんは明示したのだけれど、私は例によって記憶していない。しかし石川さんの誘いに乗ってつまらなかったことは一度もないので参加する。
我孫子から地下鉄千代田線に乗り国会議事堂前で丸ノ内線に乗り換え、南阿佐ヶ谷の駅で降りると元厚労省で川村女子学園大学の吉武民樹さんが歩いている。吉武さんも石川さんに誘われた口なので一緒に行く。会場に着くと就学前の子供たちやお母さんお父さんが一緒になって何かやっている。子供たちをリードしているのは「あそぼ」という絵本の作者の生川さん。写真を撮影しているのは横溝君だ。マスクにお絵描きしているようだ。就学前の子供を間近に見るのはほぼ40年ぶり。掛け値なしで可愛いと思う。お昼になって生川さんと子供たちはサンドイッチをラップでくるんで「パンキャンディー」を作っている。大人はサンドイッチをご馳走になる。取材に来ていた読売新聞の小泉朋子記者を紹介される。生川さんも理事をやっている愛知県のNPO法人ひだまりの丘の堀井カズコ理事長が生川さんが描いた絵葉書を売っていたので数枚買い求める。帰りに南阿佐ヶ谷駅前のうどん屋で私と吉武さんは石川さんにご馳走になる。

2月某日
「啓順地獄旅」(佐藤雅美 講談社 2003年12月)を読む。啓順シリーズは「町医 北村宗哲シリーズ」の前身。医学館で医学を学んだ啓順はふとした行き違いから浅草の火消しの顔役、聖天松に追われることに。このシリーズの面白さは一つは医者が主人公、しかも江戸時代の医療の主流であった漢方を収めた医者が主人公であること。そして医師でありながら「追われる身」となって追ってから逃げ舞わざるを得ない。昔のTVドラマで言えば「逃亡者」、ヴィクトル・ユーゴの名作「レ・ミゼラブル」の主人公ジャンバルジャンの如くである。映画のジャンルで言えば「ロードムービー」である。作家は佐藤雅美であるから時代考証とくに日本の医療、医学の歴史考証は十二分になされている。いつも感心するのはお金、通貨に関する考証もしっかりしていること。さすが「大君の通貨-幕末『円ドル』戦争」(文春文庫)の著者である。

2月某日
「維新再考-『官軍』の虚と『賊軍』の義」(半藤一利、福島民友新聞社編集局他 福島民友新聞社 2018年9月)を読む。歴史は勝者の目から見た歴史になりやすい。特に革命によって社会体制そのものが大きく変更した場合はそうなる。ロシア革命にしろ中国革命にしろ革命に勝利した政権の正統性がことさら述べられる。ロシア革命で言えばボルシェビキ、ロシア共産党の正当性が前面に打ち出され、帝政側はもちろんのことメンシェヴィキやクローンシュタットの反乱、トロッキーなどもちろんは否定的に扱われる。明治維新、戊辰戦争においては官軍側の正当性が明治以降の学校教育で前面に押し出されたのはむしろ当然のことであった。しかしそうは言っても「賊軍」側の子孫にも想いがある。本書は戊辰戦争でも最大の戦いになった会津戦争はじめ二本松城の攻防などを「賊軍」の側から描いたものである。私としては歴史に余り取り上げられたことのない福島県の浜通り、太平洋側の「賊軍」側の戦いが興味深かった。磐城平や相馬藩は当初は奥羽越列藩同盟の一員として果敢に戦うのだが、最新兵器を揃えた官軍に個別に撃破されていく。慶応4年の1月が鳥羽伏見の戦い、5月が彰義隊の上野戦争と長岡藩の北越戦争、6月が磐城平の攻防戦、7月が二本松の戦い、8月に若松城の籠城戦が始まり、9月には会津藩が降伏している。翌年の5月に五稜郭が陥落し戊辰戦争は終わる。敗北がすでに決していても戦わざるを得ないことがあることを戊辰戦争は教えてくれる。それはそれでいいのだが、あくまでも当時の支配者=武士階級の論理ではという前提がある。庶民、百姓にとっては迷惑だったろう。

モリちゃんの酒中日記 2月その1

2月某日
「機関車先生」(伊集院静 文春文庫 2008年5月)を読む。この作品は1994年に講談社より刊行され、柴田錬三郎賞も受賞している。伊集院は1950年生まれだから40代前半の作品ということになる。小説の舞台は瀬戸内海の小さな島、葉名島。ある春の朝、島の桟橋についたばかりの連絡船からひとり男が降りてくる。島の小学校に赴任する青年教師、吉岡誠吾である。誠吾は幼児の頃の病気で口が利けない障がい者である。子供たちは口が利けないこととその大柄な体型から、誠吾に親しみを込めて「機関車先生」と綽名をつける。美しい瀬戸内を背景にした教師と子供たちの物語と括ってしまうと「24の瞳」(壷井栄原作、木下恵介監督、高峰秀子主演で松竹が映画化)を思い浮かべるが、私のこの小説への想いは「差別」。障がい者への差別、本土の離島に対する差別、網元の漁民に対する差別である。そして戦前、ドイツ人男性と島の女性の間に生まれた一人の少年ヤコブは島民に差別され続けながらも、米軍機の爆撃から島を守るために死ぬ。伊集院は在日韓国人2世。美男子で腕っぷしも強そうだから表立っての差別は受けなかったと思うが、その分陰湿な差別は受けたのではないか。この小説は少年少女向けに書かれたが、「差別」について考える良いきっかけになると思う。

2月某日
フェルメール展を観に行くため15時に上野駅公園口で香川喜久恵さんと待ち合わせ。上野の森美術館の前に行くと長い列が。2月3日までだから無理もない。諦めて「西洋美術館にでも行こうか」「国立博物館で顔真卿展をやっているので、そこ行きましょう」ということで国立博物館へ。顔真卿は「昔の中国の書家」程度の認識しかないけれど。書家だから展示物はほとんどが拓本。金曜日ということもあってかなり混雑していた。中国語らしき異国の言葉が飛び交っていることからすると中国人もかなり多い。台湾台北の故宮博物館、日本の書道博物館からの協力と出品があるから、中国本土からの観光客かもしれない。私は前半だけで疲れてしまい2階のミュージアムショップのソファーで休む。1階のビデオを映写しているところを覘くと、顔真卿の解説ビデオが放映されていた。それによると、顔真卿は唐代の政治家、官僚でもあった。安禄山の反乱(安史の乱)では、皇帝に忠誠を誓って安禄山軍と戦う。一族三十数人が殺されているという。大谷源一さんから「今、上野に向かっています」のメールが来る。京成上野駅で待ち合わせて「番屋余市」へ。私は日本酒のお燗、大谷さんはハイボール、香川さんはウーロン茶で乾杯。私は我孫子で久しぶりに「愛花」に寄る。

2月某日
「町医 北村宗哲」(佐藤雅美 角川文庫 平成20年12月 単行本は2006年8月)を読む。佐藤雅美の時代小説と言えば、町奉行所の内勤の記録係を主人公にした「物書同心居眠り紋蔵」、勘定奉行に所属し江戸市中以外の関東の犯罪を取り締まる「八州廻り桑山十兵衛」、江戸市中の交番であり、留置所であり、簡単な裁判所も兼ねた大番屋の元締を主人公にした「縮尻鏡三郎」などがシリーズとなっている。これらは現代で言う犯罪小説、警察小説と言えるが、「町医 北村宗哲」はタイトルにもあるように医者、北村宗哲が主人公である。主人公の宗哲は医者の子供に生まれたが妾腹だ。宗哲が11歳のとき母が死に宗哲は父の屋敷に引き取られたが何かにつけて差別された。見かねた実父は15歳から医師の養成施設である医学館に通わせる。宗哲は必死に医学を学んだが、実父の死亡によって学資を絶たれ居場所を失う。宗哲はひょんなことから浅草雷門前を本拠とする青龍松こと松五郎の身内になるのだが、青龍松の惣領息子を刺殺したことから長い逃亡の旅に出る。巻末の縄田一男の解説によると、この設定はデヴィット・ジャンセン主演のTVドラマ「逃亡者」に着想を得たということだ。しかしこの辺の話が主題となっているのは「啓順兇状旅」「啓順地獄旅」の「啓順シリーズ」である。啓順が宗哲に名を替え芝神明で内科医を開業してからが「宗哲シリーズ」となる。それぞれが独立してそれぞれが面白いのだけれど、一度「啓順」と「宗哲」を通して読まなければ。

2月某日
「くちぶえ番長」(重松清 新潮文庫 平成19年7月)を読む。宮沢賢治の「風の又三郎」以来、児童文学の世界では「転校生もの」というジャンルが確立したかどうかは知らないけれど、本作もまぎれもなく「転校生もの」。小学校4年生に進級したツヨシのクラスにマコトという名前の女の子が転校してくる。女の子だけれど一輪車を乗りこなし木登りも得意、6年生のいじめっ子グループ「ガムガム団」もマコトの前では形無しだ。ツヨシ「はオトナになったら、マコトとケッコンしてあげてもいいかな」とふと思う。でも次の年の3月、マコトはまた転校してツヨシの前からいなくなる。転校生がまた転校していくというのも「転校生もの」の定番。定番だけれど泣けてしまう。年をとって涙腺がゆるくなったのか? いや、作家の力量というものでしょう。巻末に「この作品は、2005年4月から2006年3月にわたって雑誌『小学4年生』に連載されたものに、書き下ろしを加えた、文庫オリジナル作品」とあった。4年生対象の作品に泣いてしまったわけだ。幼稚なのか? ここは感性が小学生並みにみずみずしいとしておこう。

2月某日
上野駅の不忍口で根津のスナック「ふらここ」のママ、半谷陽子さんと待ち合わせ。晩御飯を一緒に食べる約束。アメ横へ出て小料理屋に入る。「さんとも」という店で古くからある店のようだ。70代後半か80代と思われる女将さんが店を仕切っている。ふぐの刺身、白子を久しぶりに食べる。何年か前、出張で下関に行って食べて以来か。ぬる燗で日本酒を3、4本(ただし2合徳利)。最近はもっぱら「千ベロ」(千円でベロベロ)を目指しているが、たまには小料理屋でふぐも悪くない。

モリちゃんの酒中日記 1月その5

1月某日
「あれは誰を呼ぶ声」(小嵐九八郎 アーツアンドクラフツ 2018年10月)を読む。去年読んだ小嵐の「彼方への忘れ物」(アーツアンドクラフツ)の続編というか姉妹編。「彼方への忘れ物」は1960年代後半の早稲田大学の学生運動と恋に揺れる大瀬良騏一が主人公だが、「あれは誰を呼ぶ声」では大瀬良の早稲田の学友、帯田仁が主人公。帯田の母の弟と結婚したのがもう一人の主人公、帯田奈美の母親。帯田奈美の一家は北海道の日高地方に暮らしている。父親はホテルマンの傍ら兼業農家も営む。仁が早稲田の1年生のとき日高の奈美の家へ遊びに来て、そのときから奈美は仁に密かな恋心を抱く。奈美は一浪の後、東京目白の保育専門学校に入学する。仁は1969年1月の東大の安田講堂攻防戦で逮捕起訴され、拘置所代わりの中野刑務所に収監されているため、奈美は東京の予備校へは川崎の仁の家から通い、仁の部屋へ寝泊まりさせてもらう。中野刑務所で仁の隣の独房にいたのが共産同赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練で逮捕起訴された平与武彦。与武彦の父はキリスト教の牧師だから「ヨブ記」から与武彦と名付けられた。70年代の学生運動、新左翼の運動は連合赤軍事件や連続企業爆破事件、それに中核派と革マル派、社青同解放派と革マル派との内ゲバの激化によって大衆の支持をどんどん失っていく。時代は高度経済成長期で日本は空前の繁栄を続ける。仁や与武彦は日本の労働者それも臨時工や下請けを排除した本工主体の労働運動に疑問を抱く。とこうまとめるとえらく真面目なストーリーと感じられるが、学生運動や学生運動家のドジな側面も強調して描かれ、小説全体の雰囲気としては明るい。私の70年代以降の人生をつい振り返ってしまった。ラストで仁と奈美の結婚が暗示されているが、小嵐の実際の奥さんも保母さんの筈で、全面的ではないにせよ仁の一部のモデルは作家本人であろう。

1月某日
「竹下さんを偲ぶ会」を霞が関ビルの東海大学校友会館で開く。50人以上が集まってくれて盛会だった。インフルエンザが猛威を奮っていて発起人の阿曽沼さんはじめ何人かがドタキャンとなった。献杯の音頭をとってくれた江利川毅さんはじめカメラマンを引き受けてくれた浜尾あやさん、遺影廻りの設えやメッセージカードを用意してくれた高本真佐子さん、受付を引き受けてくれた香川喜久恵さん、佐藤聖子さんに感謝。それと裏方のいろいろをお願いした大谷源一さんもね。結核予防会で竹下さんの部下だった羽生部長、年住協で部下だった倉沢、阿部両君は涙ながらに竹下さんへの想いを語ってくれた。私も通夜当日、私が遅刻して読むことができなかった「弔辞」を竹下さんの遺影を前に読むことができて大満足。読み終わった後で厚労省OBの末次彬が「弔辞に拍手はないだろうけれど、つい拍手をしてしまったよ」と言ってくれた。竹下さんのお気に入りだった新宿のクラブ「宴」のママ、渡辺真知子さんにもスピーチをお願いしたが堂々たるものだった。

1月某日
「貧乏の神様 芥川賞作家困窮生活記」(柳美里 双葉社 2015年4月)を読む。柳美里は副題にもあるように芥川賞作家でもあり、ベストセラー作家とは言えないかもしれないが、単行本もそこそこ出している。「とても貧乏とは思えないが」と読み始めると……。実際、柳美里は貧乏であった。水道や電気などの公共料金が払えなくなったこともあるし、食費をひねり出すためにイヤリング、ネックレスなどを売り払ったことも。柳美里のような作家にとって書下ろしはつらいということも初めて知った。雑誌の連載をまとめて単行本にする場合は連載中に原稿料が入るが、書下ろしの場合は取材しストーリーを考えて執筆し、本が印刷・製本されて出版されるまでお金(印税)は入らないのである。柳美里は金がかかるのである。愛犬家、愛猫家であり、犬猫だって病気になるしペットには保険がきかない。同居人と息子と山や温泉に行って自然と触れ合うのが好きなのだ。その上、原発事故に見舞われた福島県の南相馬への被災地支援を続けている。「故あっての」貧乏なのだ。だからなのだろうか貧乏を綴る柳美里の筆はちっとも湿っぽくない。この本は図書館で借りたのだが、柳美里の本は書店で購入するようにしたいと思う。

1月某日
「竹下さんを偲ぶ会」で写真撮影をしてくれた浜尾さんから写真のデータが送られてきた。参加者に送ろうと思うが送り方が分からない。大谷源一さんにHCMに来てもらってメールアドレスの分かっている人には何とか転送する。16時にケアセンターやわらぎの石川はるえ代表と荻窪駅で待ち合わせ。当初は南阿佐ヶ谷にある「やわらぎ」のデイサービスで会うつもりだったが、風が冷たいので荻窪駅での待ち合わせとなった。南口へ出て呑み屋を探すが16時過ぎとなるとさすがに空いている店は少ない。青梅街道から横道へ入った「焼き鳥屋」へ入る。私は日本酒をお燗で、石川さんは芋焼酎のお湯割り。焼き鳥の盛り合わせ、小芋の煮っころがしなどを頼む。刺身の盛り合わせは「ほっけ」「八角」「北海ダコ」の3点、いずれも北海道産。とくに「八角」はこちらではなかなかお目にかかれない。刺身の盛り合わせが来たところで石川さんが日本酒に替える。「やっぱり刺身は日本酒でなければね」。石川さんは私より一歳うえだから今年72歳だが、とてもそうは見えない。外見も考え方も若々しい。見習わなければね。いつもながら石川さんにご馳走になる。

1月某日
図書館で借りた「怒りていう、逃亡には非ずー日本赤軍コマンド泉水博の流転」(松下竜一 河出書房新社 1993年12月)を読む。この本を読むまで泉水博の私の記憶は、日本赤軍の起こした日航機ハイジャック事件で人質と交換に超法規的措置で釈放されて日本赤軍に合流した刑事犯というものでしかなかった。この本を読んで泉水の過酷な前半生を知った。泉水は1937年生まれ、泉水が5歳のときに両親は別居、泉水は千葉県の木更津で母の手一つで育てられる。貧しかったので泉水は小学生のときから母と海岸で貝を拾い、小学校高学年になると納豆売りや新聞配達で家計を助け、6年生になってからは八百屋で働き、リヤカーを引いて住宅街を売り歩いた。中卒後いくつかの職業を転々としたが、上野のキャバレー「市松」のボーイ長として落ち着く。この時期に知り合った男との出会いが泉水の人生を暗転させる。この男の誘いで泉水は強盗殺人事件に手を貸すことになり、無期懲役の判決を受け、千葉刑務所に服役する。泉水を事件に引き込んだ主犯格の男が公判中に自殺したため、殺人には手を貸していないという泉水の主張は顧みられなかったのである。
千葉刑務所で模範囚として仮釈放を目前にしていた泉水の運命が暗転する。泉水は病気を患っていた同囚が十分な医療を受けていないことから、刑務所内の医療の改善を求めて千葉刑務所の管理部長を人質にとり、要求を通そうとした。泉水は取り押さえられ、懲役2年6カ月の判決を受ける。無期懲役に加算され北海道の旭川刑務所に移された。1977年9月、日本赤軍のハイジャックで泉水の釈放要求が出されたのは旭川刑務所在監中である。釈放要求に泉水は戸惑う。「赤軍」の名前程度は知っていても、その主張するところ全く知らないのである。結局泉水は乗客の生命と引き換えに釈放要求に従いダッカ行きを了承する。ここで「怒りていう、逃亡には非ず」というタイトルの意味が分かることになる。「逃亡する」という気持ちは全くないのである。泉水にしてみれば日本政府の要請によって、人質と引き換えにダッカに行っただけである。ダッカに渡った泉水は日本赤軍とともにパレスチナゲリラとして戦う。日本赤軍の指令に従ってフィリピンに行った泉水はその地で1988年6月に逮捕され、日本に移送される。泉水が超法規的措置で釈放されてから40年、再逮捕されてから30年の歳月が経っている。

モリちゃんの酒中日記 1月その4

1月某日
「せんせい。」(重松清 新潮文庫 平成23年7月)を読む。巻末の「文庫版のためのあとがき」で重松は「僕の描くお話に登場するおとなの職業は、おそらく九割以上が教師」と書いている。そういえば12月に読んだ「どんまい」にも教師志望の男が出てくるし、朝日新聞連載中の「ひこばえ」では主人公の息子が新米教師だ。重松は同じ「あとがき」で「僕は教師という職業が大好き」と述べる一方で、「僕は同時に、教師とうまくやっていけない生徒のことも大好き」と書いている。考えてみると教師という職業は生徒がいるから成り立つのであって、逆に言うと生徒という存在は、教師がいなければ存在しないともいえる。そうであるが故に教師と生徒の関係を題材にした小説は、両者の関係のバランスの微妙な揺れを描くことが肝となる。「せんせい。」に収められた6編の短編は、とても上手にこの「揺れ」を描いているように感じた。「ドロップスは神様の涙」は優等生だった女の子がクラスの女子から虐めに会い、保健室に逃避しているうちに保健室の先生「ヒデおば」によって自己を再生させていく話。「泣くな赤鬼」は野球の強豪校の「赤鬼」と渾名された監督が、レギュラーを期待されながらも野球部を辞め高校も中退した男と病院の待合室で再会、男は結婚して子供もいるのだが実は末期のがんを病院で告げられる。監督は高校中退とはどういうことか、野球部を辞めるとはどういうことか、考える。人生は考えようによっては挫折の連続である。監督は挫折して野球部を辞めていった多くの生徒のことを考える。末期がんの男の病室を訪ねた監督は「俺の生徒になってくれて、俺と出会ってくれて…ありがとう」と伝える。泣けますね。高校中退のこの男は「教師とうまくやっていけない生徒」の代表である。

1月某日
居候をしているHCM社の大橋社長とデザイナーの土方さん、映像プランナーの横溝君と新橋の「おんじき」へ。「おんじき」は青森料理のお店で青森出身の大橋社長に何度か連れて行ってもらったことがある。土方さんが今月52歳になったと言っていたが、私が70歳、大橋社長が60代、横溝君が恐らく40代、年代も職業も所属する会社も違うが、この4人で呑むと私にとってはなぜか居心地がよい。日本酒のぬる燗をついつい呑み過ぎる。大橋さんにすっかりご馳走になる。

1月某日
「自白 刑事・土門功太朗」(乃南アサ 文春文庫 2013年2月 単行本は2010年3月)を読む。乃南アサは1960年生まれ。私よりひと廻り(12歳)下である。この小説はシリーズ化されなかったようだし、ネットで読後感を検索しても評判もいまひとつだ。だが私は気に入ってしまった。この小説は4つの短編で構成されている。最初の「アメリカ淵」は入院中の土門が警視庁捜査一課への係長職への辞令を受け取るのが「プロ野球のペナントレースで藤田監督率いる読売ジャイアンツが四年ぶりに優勝した翌日」とされているから、1981(昭和56)年の秋である。第2話の「渋うちわ」は土門が長女の美咲と次女の菜摘に開園したばかりのディズニーランドに連れて行くようにせがまれるシーンが描かれているから1983(昭和58)年の春だ。第3話「また逢う日まで」では三島由紀夫が自衛隊の市谷駐屯地で「自らが結成した「盾の会」の会員と共に割腹自殺をする事件が起きた」と書かれているから昭和45(1970)年の晩秋である。最後の「どんぶり捜査」では「今年は正月が明けて間もなく」ホテルニュージャパンが火災に見舞われ「33名が死亡、重軽傷者も149名にも及ぶという大惨事になった」と記されているから1982(昭和57)年である。私が22歳から34歳までの昭和の晩年、私の青春時代と重なるのである。刑事が主人公だから犯罪小説、警察小説のジャンルではあるが、次女の誕生や姉妹の受験のエピソードも盛り込まれて家庭小説、ホームドラマの趣もあるのだ。私の青春時代の昭和の晩年が舞台で、ホームドラマの趣もある警察小説、私が気に入った理由である。

1月某日
家の本棚にあった「彰義隊遺聞」(森あゆみ 新潮文庫 平成20年1月)を読む。本を買った記憶があるが中身は全然覚えていない。買っただけで読まない「積ん読」だったのかもしれない。森まゆみは1954年生まれ、地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集人として知られるが同誌の終刊後もノンフィクション作家、エッセイストとして活躍している。日本人は「判官贔屓」というか歴史の敗者を好む傾向がある。義経、大坂の陣の豊臣方、そして戊辰戦争では賊軍とされた彰義隊や長岡藩、会津藩など。明治以降では西南戦争の西郷隆盛、2.26事件の青年将校か。彰義隊は1968(明治元)年、鳥羽伏見の戦いに敗れ上野の寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の警護を名目に旧幕臣や一橋家の家臣を中心に結成されている。一時は江戸の市中警護を幕府から正式に依頼された。巻末の年表(年月日は旧暦)によると慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いがあり、大阪城に退いた慶喜は6日に側近とともに海路江戸へ逃れる。翌7日には慶喜の追悼例が下り、10日には慶喜以下17人の官位剥奪、領地没収が決められている。ここら辺の手際の良さは王政復古が薩長連合プラス岩倉具視、三条実美ら一部公家のクーデターであったことを疑わせるに十分である。
2月に入って回状が回され、12日に彰義隊の初会合が雑司ヶ谷鬼子母神の門前茶店茗荷屋で開かれる。23日には浅草本願寺に130人が集まり、彰義隊が結成される。26日には幕府から市中取締りを命ぜられているから、ここから彰義隊は公権力の一翼を担ったと言ってよい。しかしこの時点では京都には明治政権が成立し、東征の軍を進めることが決している。
つまり日本全体が二重権力的な状態にあったのだ。3月13日、芝高輪の薩摩屋敷で西郷と勝海舟が会談、江戸城の総攻撃は中止となる。3月中旬に彰義隊はそれまで本営としていた本願寺から上野寛永寺へ移る。4月11日に江戸城は無血開城され、慶喜は謹慎していた寛永寺を出て水戸へ向かう。旧暦のためこの年は4月が2回あり閏4月29日、田安亀之助の徳川家の相続が決まる。5月1日、大村益次郎が江戸に入り、彰義隊の市中取締の役を解くように要請している。慶喜が江戸を去り、徳川家の存続が決まり、その上市中取締の役が解かれるとなると、彰義隊の公権力としての正当性は大きく揺らぐ。彰義隊による官軍への斬殺事件が発生するが、これは公権力の発動とは言えずもはやテロであろう。14日、官軍・大総督府は彰義隊に宣戦布告、15日払暁より戦闘は開始される。彰義隊は善戦するも日没前に大勢は決する。森は一連の彰義隊を巡る動きを地域の古老や当時の文書、明治期以降に明らかにされた関係者の手記などで明らかにしていく。言い伝えや手記などには食い違いもあるが、森はそれをそのまま綴っていく。日本人の持つ彰義隊的なメンタリティ、それを森は見事に表現していると思う。

モリちゃんの酒中日記 1月その3

1月某日
「蕪村-己が身の闇より吼えて」(小嵐九八郎 講談社 2018年9月)を読む。小嵐の小説は方言を饒舌と言えるほどに使うのが一つの特徴と言えるのではないか。今回は俳人にして文人画の大家として後世知られる蕪村が主人公なので京都、江戸、北関東の結城などが小説の舞台となる。よって方言も京都弁、江戸弁に加えて北関東の方言なども駆使されている。私にとって「読みやすい」小説ではなかったが、非常に面白かった。3連休の2日を使って350ページを読み通したが、読み進むにつれて面白さは募った。芭蕉、一茶とならんで蕪村は江戸時代の三大俳人と言われているが芭蕉、一茶ほどには小説等で取り上げられていないと思う。蕪村が俳句に加え書画においても才能を発揮したことに加え、前半生の詳しいことが分かっていないことも理由のひとつか。そこがまた小嵐の作家的な想像力を刺激したのであろう。小説では蕪村は幼い頃父を亡くし、母は小作人の若い男と通じている。蕪村母子を庇護してくれている叔父(父の弟)もいずれ父の後釜に座ろうと思っている。母と小作人の密通を知った叔父は小作人と母を殺し、殺害の現場にいた15歳の蕪村は叔父を殺害する。京に逃れた蕪村は乞食の群れに身を落とし浄土宗の僧侶に拾われ法然の教えを知る。法然の教えは親殺し、僧侶殺しなどの大罪を犯した以外の罪びとは救われるというものだった。親同然だった叔父を殺害した己は救われないのか。蕪村の句の「己が身の闇より吼えて夜半の月」が小説の副題に使われているが、「己が身の闇」がこの小説のテーマである。蕪村は童女の頃知りあい、飯盛り女として春を売っていた女をめとるが、この女を通して親鸞の悪人でも往生できるという教えにたどり着く。小嵐は新左翼の活動家出身で入獄も経験している。1970年代~80年代は恐らく内ゲバの渦中にいたと思われる。「己が身の闇」は小嵐にもあり、濃淡はあれど誰にでもあるのではないか。「親殺し」というギリシャ悲劇以来の普遍的なテーマに親鸞の悪人正機説を組み合わせた壮大な小説として私は読んだのだけれど。

1月某日
元厚労省の堤修三さん、岩野正史さんと鎌倉橋の「跳人」で呑む。社会保険研究所の手塚女史、セルフケア・ネットワークの高本さんも誘ったが、手塚さんはインフルエンザ、高本さんはスケジュールが合わず欠席、男ばかり3人の呑み会となった。堤さんは昨年、酒席で転倒したことがあるそうで酒を控えめにしているとか。それでも3人で呑むのは久しぶりなこともあり楽しかった。

1月某日
2日続いて鎌倉橋の「跳人」へ。高齢者住宅財団の落合さん、フィスメックの小出社長と「竹下さんを偲ぶ会」の打ち合わせ。高齢者住宅財団が神田橋なので、鎌倉橋までは歩いて来れるのだ。大谷源一さんがHCMを訪ねてくれたので誘う。「跳人」の目の前の社保険ティラーレで吉高さんと佐藤社長と打ち合わせ後「跳人」へ。小出社長と大谷さんはすでに来ていた。昨日引き続き私は熱燗。落合さんが来たので4人で乾杯。「玉ねぎの丸上げ」というのを初めて頼んだが美味しかった。私以外の3人は京浜東北線の川口と浦和近辺に住んでいるので沿線の話で盛り上がっていた。小出社長にすっかりご馳走になる。我孫子に帰って「しちりん」に寄る。

1月某日
「金融失策 20年の真実」(太田康夫 日本経済出版社 2018年9月)を読む。著者は日本経済新聞の編集委員。1989年東大卒、同年日経新聞に入社、金融部、経済部、スイス支局などを経て現職。この20年間、日本政府が進めてきた「貯蓄から投資へ」という流れが全くというほど進まなかった現実を明らかにしている。金融監督庁は、旧来の銀行融資(間接融資)に頼る金融システムから、株式や社債の発行を通じて資金を調達する(直接融資)市場に頼る金融システムへの移行を目指した。「貯蓄から投資へ」の一連の政策が、日本経済を成長軌道に戻すはずだった。ところが現実はそうではなかった。著者はその原因を金融専門の新聞記者らしく丹念に事実を掘り起こす。著者はもっぱら銀行の経営責任と行政、大蔵省(現財務省)や金融監督庁の責任を追及する。金融専門の記者ならばそれは妥当なところだ。しかし、本当の責任はアベノミクスを進めた安倍首相と黒田日銀総裁にあるように思う。そして一番責任があるのは安倍自民党に政権を委ね続けた私たち国民だ。

1月某日
生来の運動音痴から脱落してしまったけれど、高校時代1シーズンだけスキー部に所属していたことがある。昨年、同じスキー部で札幌のコンピュータソフト会社の社長をしている佐藤正輝が上京したのを機会に開かれた室蘭東高スキー部の首都圏同窓会に誘われた。今年も新年会が神田・司町の「上海台所」であるというので参加する。北海道・千歳市在住の丸田君も上京中で参加、私が知っているのは他に同学年だった阿部君と紅一点の中田(旧姓)志賀子さんくらいだ。隣に座った人と話しているうちに家が近所だった一年下の内藤君だったことが分かる。50年以上前のそれも1シーズンだけの縁だったが、これも青春の1ページということか。

1月某日
「娘と嫁と孫とわたし」(藤堂志津子 集英社文庫 2016年4月)を読む。ウイキペディアによると藤堂志津子は1949年3月、札幌生まれだから私と同学年、同郷である。札幌の藤女子短大を卒業、1988年に直木賞を受賞している。物語は嫁の里子と孫の春子と同居する「わたし」(玉子)の日常が描かれる。息子は35歳で交通事故死したという設定。玉子の夫は息子の交通事故死のショックに耐えがたいという理由で家を出ている。娘の葉絵は離婚後、ドラッグストアチェーン店の御曹司と再婚。葉絵が狂言回し的な役割を負っている。ホームドラマは通常、夫婦と親子が揃っているものだが、この物語は息子の事故死、夫の家出(実は不倫だったことが後に明らかにされる)など家族の欠損がテーマの一つになっている。玉子は午前中、パート勤めしているが、実は生活費は夫から送られてきているし、それとは別に夫の家出の際、夫から3000万円せしめている。つまり生活に不自由はないのであって、そこがこの物語の基礎を支えているのである。

1月某日
50年前の1月18日つまり1969年の1月18日に全学封鎖されていた東大に機動隊が導入された。安田講堂をはじめ工学部列品館などに立て籠っていた学生たちは投石や火炎瓶などで激しく抵抗したが、機動隊によって次々と排除されていった。安田講堂は翌日の午後、屋上に追い詰められた学生たちの逮捕によって機動隊に完全に制圧された。前の年の暮れ、早稲田大学政経学部の一年生で社青同解放派の未熟な活動家だった私は、闘争の合間に政経学部地下の自治会室でくつろいでいた。三里塚の現地闘争への動員も終わり、10.8、11.12の羽田闘争一周年、10.21国際反戦デー、11.22の「東大・日大闘争勝利全国学生決起集会」も終わって、それこそ一息ついて文字通りくつろいでいたと思う。そのとき革マル派の学生が自治会室に乱入、自治会室にいた解放派の指導者を殴り始めた。革マル派の学生に「チンピラは消えろ」と言われた私ともう一人の一年生は理工学部のキャンパスまで走って逃げた。確か理工学部のサークルのひとつが解放派の拠点だったからだろう。我々の話を聞いた理工学部の解放派とタクシーに分乗、ヘルメットを数個赤旗にくるんで東大駒場へ向かう。東大駒場も全学封鎖中で私たちは解放派の拠点だった教育会館へ逃れる。その夜、革マルの拠点だった駒場寮に夜襲を仕掛けるが、あっさりと撃退されてしまった。何日か教育会館に寝泊まりすることになるのだが、内ゲバの緊張感に耐え兼ねた私は、「着替えをとりに行く」という口実でバリケードを離れ、その後教育会館に戻ることはなかった。そうはいっても安田講堂攻防戦は気にかかって政経学部のクラスメートの小林君と本郷あたりをうろついた記憶がある。一浪して早稲田に入った私はすでに20歳になっていたが、小林君は現役でしかも3月生まれだったからまだ18歳のはずである。小林君はその後、ブント戦旗派の活動家になった筈。神奈川の小学校の事務職員をしながら活動をしているという噂をだいぶ前に聞いたことがある。小林君をブントにオルグした理工学部ブントの森君は大阪に帰った。森君と結婚したのが尾崎絹江さん。尾崎さんは私が3年のとき、法学部に入学、ロシア語研究会に入部、麻雀を教えた覚えがある。尾崎さんはその後、ブントから離れフリーライターになる。朝日新聞の「アエラ」にも執筆したことがあるが数年前、乳がんで死んだ。

モリちゃんの酒中日記 1月その2

1月某日
南阿佐ヶ谷のケアセンターやわらぎに石川はるえ代表訪問。「竹下さんを偲ぶ会」の出欠状況を報告、児童虐待防止の「子はたからプロジェクト」の話を聞く。HCM社に戻って大橋進社長とHCMの卓球プロジェクトの協力者、小田切さんと新年会。小田切さんは弘前実業の出身で大橋社長の一歳下ということだが、髪は黒々として若々しい。小田切さんの話を聞いていると太宰治の「津軽」など弘前周辺の人々を描いた小説の登場人物を思い出す。x

1月某日
「偲ぶ会」の打合せでフィスメックの小出社長を訪問。セルフケアネットワークの高本眞佐子代表も同道。打合せ後、高本代表と神田の「葡萄舎」へ。遅れて小出社長と社会保険出版社の社長で高本代表の夫でもある高本さんが参加。ボトルキープしていた小出社長の焼酎を空け、髙本さん新たにボトルキープした焼酎も空けたのではないだろうか?覚えてないのだけれど、70歳を超えたのだから少しは考えないとね。

1月某日
「コンビニ人間」(村田沙耶香 文春文庫 2018年9月)を読む。村田沙耶香は昨年確か「消滅世界」を読んで以来。彼女は文学仲間から「クレージー沙耶香」と呼ばれているらしいが、それも「なるほどね」と思わせる「コンビニ人間」であった。主人公はコンビニバイト歴18年、独身彼氏なしの36歳、古倉恵子。この作品は芥川賞受賞作だが、村田は当時、コンビニでバイトしていたからコンビニの描写は彼女の体験に基づくものなのだろう。コンビニの同僚だが勤務態度が悪く馘首された男性、白羽と古倉のアパートの一室で同居することになる。コンビニの同僚や古倉の妹は、結婚を前提とした同棲と勘違いして祝福する。誤解を受け入れて古倉はコンビニを寿退社するのだが。コンビニはある意味で現代を象徴するビジネスだと思う。女性の社会進出が進み、男女ともに単身者が増える。イートインが増え食事もコンビニで済ます。コンビニとスマホが現代社会の必須アイテムとなっている。その文学的な反映が「コンビニ人間」なのである。

1月某日
銀座で打ち合わせの後、新橋の「焼き鳥センター」へ。大谷源一さんと待ち合わせである。一般社団法人La Lienの神山弓子代表理事を紹介される。神山さんによると前に一度、大谷さんと3人で呑んだことがあるということだが、記憶にない。しかし話してるうちに神山さんが以前、客室乗務員だったことなどを思い出した。神山さんは宮城県石巻市の出身、大震災の当日は仙台と石巻を結ぶ仙石線に母親と一緒に乗車していたという。家は日和山で無事だったというが、立派に「被災者」である。代表理事をしている社団法人は健康長寿をプロデュースするとともに被災地の復興支援にもあたりたいと言っていた。

1月某日
「天皇制の基層」(吉本隆明 赤坂憲雄 講談社学術文庫 2003年10月)を読む。吉本と赤坂の天皇制を巡る対談集。底本となったのは1990年9月の作品社刊行の「天皇制の基層」である。昭和天皇が亡くなったのが1989年1月、対談は1989年の10月、11月、12月の3回にわたって行われている。つまり昭和天皇の崩御を受けて改めて天皇制を根底から問い直してみるという企画であったのだろう。折しも現在の天皇の譲位が決まり平成という年号も今年4月までらしい。さて30年前の対談だが、1924年生まれの吉本が65歳、1953年生まれの赤坂が36歳のときである。吉本は当時、思想界の巨人として誰もが仰ぎ見るような大家だった。対して赤坂は天皇制へ柳田国男や折口信夫など介してアプローチを試みる新進気鋭の研究者であった。「天皇制の基層」を読んで私がもっとも気になったのは昭和天皇と平成天皇の違いである。昭和天皇は昭和20年の敗戦まで現人神であり、明治憲法では万世一系の天皇が日本を統治すると定められている。敗戦後、人間天皇になったにしろ一般の国民にとっては「畏れ多い」存在だったのではないか。平成天皇は小学生の時に敗戦を経験し、米国人女性の家庭教師の影響もあってか考え方がきわめてリベラルであり、象徴天皇像を国民とともに作り上げてきたと言える。80歳を超えてもなお被災地や太平洋戦争の戦績を訪問する旅を続けている。赤坂は「象徴天皇制というのは、これまでのシステムとしての天皇制を中核に置いた天皇制の歴史が幕を閉じ、形骸化の段階に入って現れた最後のイデオロギー」とする。吉本も「僕は農業社会が少数化していき形骸化していくにつれて、天皇制も形骸化していくだろう」と語っている。これから1000年という長いタームで考えればそれはそうかも知れないと私も思う。国家や国境も消滅するかも知れないという長い射程で考えればである。当分はそうとう長きにわたって天皇制は存続するというのが、私も含めた国民の総意ではなかろうか。

1月某日
大学時代の同級生、内海純君が長期滞在しているイタリアから帰ってきているというので弁護士の雨宮英明先生、伊勢丹OBの岡超一君と集まることにする。クラスは違うが同じ政経学部の数少ない女子学生で、のちに新宿や赤坂でクラブのママをやる関さんも参加。場所は前に高橋ハムさんにご馳走になった有楽町の高知物産館の2階にある「おかず」。17時少し過ぎに店に行くと「17時30分の開店ですのでそれまで下の物産店を覗いていてください」と言われる。下の物産店の前にいると岡君が現れる。岡君は物産店で買い物。ついで関さんが来て「私も時間があったから物産店で買い物してたのよ」と言う。内海君も来たので4人で「おかず」へ。カツオのたたきや刺身の盛り合わせを頼む。内海君は日本に5月までいるというのでそれまでにもう一度呑み会を企画しようと思う。**